体育の文化の中で育てば:
24日は恒例の嘗てのW社の日本最大の得意先だった大手メーカーの幹部だった方々との昼食会で、約2時間半も楽しく語り合った。なお、目下マスコミの話題となっている日本大学では「保健体育審議会」となっていて、フェニックスの監督である内田正人氏がトップである、念の為。
その2時間半の中で最初の話題となったのが日大フェニックスだった。お客様は関東のフットボールリーグでは歴史ある名門の慶応大学のご出身だが、フットボールそのものと今回の騒動は何故起きたのか、またその背景には何があったかについてはマスコミ報道では明らかにならず釈然としないとの感想を持っておられた。そこで、当方からはこれまでに蓄えてきた知識と今回の問題について知る限りの解説をして差し上げた次第。
聞けば、矢張りと言うべきか何と言うべきか、22日の宮川泰介君の記者会見での切々たる語りの方が真実味を帯びていたと受け止めたが、23日の内田前監督と井上コーチの記者会見における説明には宮川君の陳述との間に矛盾もあれば乖離もあって、責任逃れをしている感が拭えなかったと言われたのだった。私にも尤もだと思えるご意見だと承ったが、私はどちらが真実かまでは言えないが、もしも意見を言わねばならなければ宮川君に同情票を投ずるだろうと申し上げるに止めた。
私も旧制中学から新制高校と大学まで運動部の一員だったので(お断りしておくが、中学・高校では体育会もなかったし、部活などという言葉もなかった)体育会の独特の文化とは如何なるものかくらいは心得ている。その文化は相撲界におけるそれほどには偏っておらず、一般社会の常識とはかけ離れたことはないと思う。
簡単な例を挙げてみれば、野球界では未だに坊主頭が一般的なようだし、甲子園に出てきた高校生の野球帽のかぶり方を見れば、皆同じようにひさしを丸めているし、負けた方の学校は皆予め用意してきた袋に近くから取ってきた海岸の砂を詰めて帰るという具合だ。昭和24年に我が湘南高校の野球部が初めて出た夏の甲子園で優勝してしまった時に「湘南の野球部員たちの中には長髪がいる」と話題になったものだった。戦後になって野球部ができたのでは「文化」を無視したらしい。
関東大学の1部リーグに属する大学の運動部には当然のように独特の文化もあれば仕来りもある。その言わば俗世界とは離れたところで4年間はその文化の中で純粋培養されていく。そこには厳格な年功序列もあり監督やコーチの指示・命令は絶対服従の世界である。そこは実力の世界である以上、1年生でもレギュラーメンバーの地位を得てしまうこともある。勿論、厳しい独特の礼儀作法も仕込まれる。その厳格な規律の中で育った来た者たちは企業社会でも歓迎された時代もあった。
企業社会に受け入れられたも者たちは企業独自の新人教育を受けて、今まで隔絶してきた社会でも通用する社員となって活躍の場を得ていく。ところが、体育会の世界で育てられた有名選手やコーチその他の才能を買われて者たちは卒業後も育てられた運動部に残るのだ。そういう者たちは一般社会と途絶された世界にそのまま残った形となって指導者として視聴していく。即ち、体育会の文化からは離れないのだ。
誇張した表現をお許し願えば、純粋培養されたままでいる以上、ややもすると一般社会の常識とは異なる価値の基準と道徳観で世の中に接していくことになりかねないのだ。しかも、コーチは常に部員たちよりも上に位する指導者の地位を占めているのだ。極言すれば「無理が通れば道理引っ込む」に近いこともあると言えると思う。
今回の内田前監督問いの上コーチの記者会見での説明と質問への答えを聞いていると、「自分たちの言うことは絶対で反論などあり得ない」が通用してきた世界から抜け切れておらず、宮川君の主張と矛盾があっても「そうは言っていない」と言えば通用すると信じ切って語り且つ答えていたように聞こえた。テレビに登場する所謂専門家や記者たちは当然のようにそ矛盾点をついた。私には「彼らは体育会で過ごしたことがないから、偉そうに言えるのだ」と聞いた。
私はあの両名を擁護するのではなく、体育会の文化をご存じないからこそ、あのような聞いた風なことが言えるのだと思っているだけだ。この辺りは例として不本意だが、嘗て昭和30年代初期に後にNHKの運動部長になられた高校の2期上だったKK氏が「相撲界の習慣がおかしいなどと世間が批判するのは間違い。彼ら相撲界は長い間に築き上げた彼ら独自の文化(言語・風俗・習慣・礼儀作法・思考体系を言う)があって、一般社会の常識は通用しない世界だから」と喝破されたことを採り上げたい。
あのお二方の弁明にはKK氏が相撲界と一般社会と相違点を論じたのにも似た違いがあると、私は見ている。記者たちはその点を理解していなかったので、やたらに矛盾点ばかり論ったのだから、司会者が打ち切ろうとしたのだろうと聞こえた。日本大学側では内田常務理事に「貴殿の常識は一般社会のそれとは遊離しています」と勇気をふるってご忠告申し上げるべきだと思う。そうでもしない限り、この問題は「百年河清を待つ」に等しくなりはしないかと危惧する。
24日は恒例の嘗てのW社の日本最大の得意先だった大手メーカーの幹部だった方々との昼食会で、約2時間半も楽しく語り合った。なお、目下マスコミの話題となっている日本大学では「保健体育審議会」となっていて、フェニックスの監督である内田正人氏がトップである、念の為。
その2時間半の中で最初の話題となったのが日大フェニックスだった。お客様は関東のフットボールリーグでは歴史ある名門の慶応大学のご出身だが、フットボールそのものと今回の騒動は何故起きたのか、またその背景には何があったかについてはマスコミ報道では明らかにならず釈然としないとの感想を持っておられた。そこで、当方からはこれまでに蓄えてきた知識と今回の問題について知る限りの解説をして差し上げた次第。
聞けば、矢張りと言うべきか何と言うべきか、22日の宮川泰介君の記者会見での切々たる語りの方が真実味を帯びていたと受け止めたが、23日の内田前監督と井上コーチの記者会見における説明には宮川君の陳述との間に矛盾もあれば乖離もあって、責任逃れをしている感が拭えなかったと言われたのだった。私にも尤もだと思えるご意見だと承ったが、私はどちらが真実かまでは言えないが、もしも意見を言わねばならなければ宮川君に同情票を投ずるだろうと申し上げるに止めた。
私も旧制中学から新制高校と大学まで運動部の一員だったので(お断りしておくが、中学・高校では体育会もなかったし、部活などという言葉もなかった)体育会の独特の文化とは如何なるものかくらいは心得ている。その文化は相撲界におけるそれほどには偏っておらず、一般社会の常識とはかけ離れたことはないと思う。
簡単な例を挙げてみれば、野球界では未だに坊主頭が一般的なようだし、甲子園に出てきた高校生の野球帽のかぶり方を見れば、皆同じようにひさしを丸めているし、負けた方の学校は皆予め用意してきた袋に近くから取ってきた海岸の砂を詰めて帰るという具合だ。昭和24年に我が湘南高校の野球部が初めて出た夏の甲子園で優勝してしまった時に「湘南の野球部員たちの中には長髪がいる」と話題になったものだった。戦後になって野球部ができたのでは「文化」を無視したらしい。
関東大学の1部リーグに属する大学の運動部には当然のように独特の文化もあれば仕来りもある。その言わば俗世界とは離れたところで4年間はその文化の中で純粋培養されていく。そこには厳格な年功序列もあり監督やコーチの指示・命令は絶対服従の世界である。そこは実力の世界である以上、1年生でもレギュラーメンバーの地位を得てしまうこともある。勿論、厳しい独特の礼儀作法も仕込まれる。その厳格な規律の中で育った来た者たちは企業社会でも歓迎された時代もあった。
企業社会に受け入れられたも者たちは企業独自の新人教育を受けて、今まで隔絶してきた社会でも通用する社員となって活躍の場を得ていく。ところが、体育会の世界で育てられた有名選手やコーチその他の才能を買われて者たちは卒業後も育てられた運動部に残るのだ。そういう者たちは一般社会と途絶された世界にそのまま残った形となって指導者として視聴していく。即ち、体育会の文化からは離れないのだ。
誇張した表現をお許し願えば、純粋培養されたままでいる以上、ややもすると一般社会の常識とは異なる価値の基準と道徳観で世の中に接していくことになりかねないのだ。しかも、コーチは常に部員たちよりも上に位する指導者の地位を占めているのだ。極言すれば「無理が通れば道理引っ込む」に近いこともあると言えると思う。
今回の内田前監督問いの上コーチの記者会見での説明と質問への答えを聞いていると、「自分たちの言うことは絶対で反論などあり得ない」が通用してきた世界から抜け切れておらず、宮川君の主張と矛盾があっても「そうは言っていない」と言えば通用すると信じ切って語り且つ答えていたように聞こえた。テレビに登場する所謂専門家や記者たちは当然のようにそ矛盾点をついた。私には「彼らは体育会で過ごしたことがないから、偉そうに言えるのだ」と聞いた。
私はあの両名を擁護するのではなく、体育会の文化をご存じないからこそ、あのような聞いた風なことが言えるのだと思っているだけだ。この辺りは例として不本意だが、嘗て昭和30年代初期に後にNHKの運動部長になられた高校の2期上だったKK氏が「相撲界の習慣がおかしいなどと世間が批判するのは間違い。彼ら相撲界は長い間に築き上げた彼ら独自の文化(言語・風俗・習慣・礼儀作法・思考体系を言う)があって、一般社会の常識は通用しない世界だから」と喝破されたことを採り上げたい。
あのお二方の弁明にはKK氏が相撲界と一般社会と相違点を論じたのにも似た違いがあると、私は見ている。記者たちはその点を理解していなかったので、やたらに矛盾点ばかり論ったのだから、司会者が打ち切ろうとしたのだろうと聞こえた。日本大学側では内田常務理事に「貴殿の常識は一般社会のそれとは遊離しています」と勇気をふるってご忠告申し上げるべきだと思う。そうでもしない限り、この問題は「百年河清を待つ」に等しくなりはしないかと危惧する。