新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

9月21日 その2 新宿のKoreatownに変化の兆しが

2015-09-21 14:01:24 | コラム
中国からの爆買い集団がKoreatownにも:

21日の午前中、好天に誘われて久し振りに大久保通りと平行してKoreatownを形成する職安通りに出掛けてみた。だが、何となく以前とは雰囲気が変わったなと感じるものがあった。それは中国語が飛び交っており、韓国語はほとんど聞こえてこなかったのだ。すると、そこに「和泉」だの「豊橋」だのというナンバープレートをつけた大型の観光バスが続々と乗り付けてくるではないか。中には空車もあって歩道に待っていた中国語の人たちを乗せ始めた。

「なるほど」と納得する前に、どのようにこの辺りの事情が変化していたかを少し認識出来始めた。中国語を話す連中の多くは、嘗ては韓国産品を商っていた3階建ての大型店が代替わりしたのか何時の間にやら1階には”Jewelry”の看板が出おり、2~3階が韓国料理店になっていて、その料理店から吐き出されてきていたのだった。そして、次々からやってくるバスから「爆買い」か「爆食」集団か不明だが、多くの中国人が降りてくるのだ。

朴大統領がつい先日先頃北京で誇示された抗日勝利記念とやらの軍事バレードに出席し中国に擦り寄る姿勢を見せたばかりなのに、ここKoreatownではもう中国からの観光客受け入れの態勢が整っているのかと思わせられる光景だった。私には爆買い集団がKoreatownまで来ても買わねばならないほど魅力がある商品があるとも思えず、また本場の味とはほど遠く値段も手頃ではない韓国料理に惹きつけられたとも思えないのだが。

もしかしてドンキホーテに爆買いに来たのかと一瞬考えさせられたが、事実、近道をしようとして通り抜けた職安通りに面した大型のドンキホーテの店内には中国語と覚しき言葉で叫び合っていたアジア人は数多くいた。私は中国からの買い出し集団は銀座や秋葉原のような名の通った地区に行くのだとばかり思い込んでいたが、今やKoreatownまでを標的にしたとはと恐れ入ったし、言葉に出来ない無形の恐怖のようなものを感じずにはいられなかった。

今日一日だけの観察で変化と断じるのは早計かも知れない。だが、大久保通りを歩くか乃至はバス停に立っている時に出会うかすれ違う若者の過半数が中国語を話している有様を見れば、Koreatownにも変化が現れていたとしても不思議ではないと思うのだ。悲観論者の私にはイスラム横丁に群がるイスラム教徒よりも、中国勢の増加の方に無形の何かを感じてしまうのだ。

外国人犯罪と移民の導入を考える

2015-09-21 08:28:48 | コラム
「熊谷での殺人事件の容疑者がペルー人」から移民導入を考える:

私は政府が唱える労働人口不足を補う為の2,000万人とも聞く他国からの移民の導入には懐疑的なのである。それは何処の大陸や地域であろうと、外国に定住して生活の手段として異文化の世界(文化とは「言語・風俗・習慣・仕来りに加えるに思考体系」を言う)で企業に属して仕事をするか、プロスポーツ選手として働くことが如何に大変な精神的且つ物理的な負担であるかは、実際に経験してみなければ知り得ないことだから言うのだ。

更に敢えて加えて置くが、その「大変さ」は駐在員としてであるとか留学生として経験する厳しさや辛さとは異質であると思っている。それは、私が間違っているかも知れないが、在職中に知り合った多くの駐在員の方々に「アメリカの会社とは」を実体験に基づいて語った場合に大方の感想というか反響が「そういうものとは全く知らなかった」であり、留学では知り得ない範囲にある経験だと解ったから指摘している。彼らはある種の「お客様」なのだと思う。

誤解を怖れずに海外に出て行って失敗に終わった例を挙げれば、野球の今は阪神にいるが故障中の西岡や結局は日本に戻って引退した岩村が悪い例だろう。同じだと思って入った野球でも文化が異なるアメリカのMLBではフットボールのタックルさながらの当たり方をするので、それに馴れなかった彼らは骨折させられて帰国に追い込まれた。言葉にしても我が国からMLBに行った者で通訳無しの者はいない。そこを克服した者がいないと言うことだ。

彼等は我が国よりも遙かに高い年俸を得て、考え方にもよるが、アメリカ式の良い待遇をされ良い暮らしをしているから「異文化」にも何とか耐えていられるだろう。だが、ある程度以上の待遇をされている場合に期待されている成果を挙げない限り来年はないのだ。我が国にいたのでは解らない「板子一枚下は地獄」という精神的に非常に厳しい圧力下にあるのだ。「それならば国内にいても同じでは」と言いたいだろうが「その差は経験して初めて解ること」だ。

報道によれば、現時点で意識不明と報道されているペルー人の容疑者は、言葉が解らない悩みを抱え異国の地で多少精神的に問題があったようだ。私はここにも異文化の国で言葉を解らずに働くことから来る有形無形の圧力(「プレッシャー」というカタカナ語もあるが、言葉の誤用かも)の負担に耐えきれなかった結果もあったのではないかとも考えている。

確かに我が国で単純反復労働のような種類の仕事や体力を要する建設現場のような職種の労働人口の不足があるようだ。だからと言って安易に、文化の違いを十分に調査もせず認識も出来ずに、外国から移民を導入するのは如何かと思うのだ。MLBやNPBでは貴重な戦力として契約したのだから通訳を雇っているし、サッカーの歴代監督にも通訳が寄り添っている。それと導入する異民族の移民とは訳が違うだろう。一々通訳をつけられまい。

私は我が国が世界にも希な「良い国」であるとの認識が広まっているのは結構なことだと思う反面、その良さである性善説信奉やフェアープレーの精神に満ちあふれている辺りに付け込んでいる外国人がいることは否定出来ないと思っている。これも私が唱える「コインの裏側」の好ましくない一例である。また、異文化の外国で働き続けることの辛さに耐えられない者が犯罪に走った例は既に熊谷以前にも出ている。法律遵守の考えがない者がいるのも確かだ。

外国人による犯罪は右肩上がりである事は夙に報じられている。また我が国の犯罪全体に占める率も高くなる一方のようだ。だからと言って私は全面的に移民に頼ることに真っ向から反対はしない。犯罪率の上昇も注意すべき重大な問題だが、私は異文化の中に放り込まれた場合にどのような苦労があるのか、言葉の問題を如何に緩和するかを事前に十分に検討することなく「数合わせ」だけの名目で導入することには賛成出来ないのだ。

労働力の導入は大卒で実務の世界の経験を十分に積まれた会社員が駐在に出て行くのや、MBAを取得してそれまで以上に社会に貢献しようとして海外にで行くのとは、言うまでもなく全く別なことだ。こういう世界でも時には挫折があるのだ。その挫折が移民の世界でも容易に起きるのではないだろうか。政府にはそこを十二分に調査・認識してから慎重に導入の検討をすべきだと考えている。熊谷の事件からこのように考えた次第だ。