新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

観相学

2015-09-03 16:02:48 | コラム
佐野研二郎に思う:

10年ほど前だったかに大谷英彦さんがこういうことを持ち出されて、人の顔を見てその人となりを判断すると言われたのを聞いた覚えがあります。如何にも大谷さんらしい鋭い観察だと思ったものでした。あるいは別の漢字で別の言葉だったかも知れませんが、この際「観相学」で話を進めます。

この度、あのオリンピックのエンブレム問題が発生し、佐野研二郎なるグラフィック・デザイナーが負の意味で脚光を浴びたところで、この大谷さんの「観相学」を思い出しました。私は佐野なるデザイナーに何も含むところなどなく、ただ「大変な立場に追い込まれたな」と思っただけでした。

だが、彼のあのもう何年前になるかも記憶もないサッカーの貴公子と言われたDavid Beckhamがしていた「ソフトモヒカン」に見える髪型を見て、苔むしたような流行を先ず思い出さされて、何かが異様だと思いました。ふと、時代感覚がおかしいのではないかと感じました。

次ぎに変わっているなと感じたことが彼の顔付きと服装でした。私はこれまでの人生でグラフィック・デザイナーという職業の方には2人しかお目にかかっていません。他にはテレビ等で見かけるだけで、その業界に共通の服装と髪型とは如何なるものかとの知識の如きものはあります。だが、佐野研二郎の出で立ちはその何れにも当てはまらないのです。意外なデザイナーだなと思わずにはいられませんでした。

私は人の顔にはその業界、具体的には実業界、政界、マスコミ、美術界、芸能界等々多くの人には何か共通する顔付き乃至は骨相があると思っています。また、長年プレーし親しみ続けて来たスポーツによって、例えば野球選手、バスケットボール選手、ヴァレーボール、フットボール、サッカー等々では「如何にもバスケットボールの選手だな」等という顔付きがありますし、何処かが共通する髪型もあると言えるとさえ考えています。

かく申す私は、高校の頃に夏季に教育実習で来られた先生の候補?に「君はサッカー部でしょう。如何にもサッカー面だ」と言われて「意外だ」と驚いた記憶すらあります。要するに、言いたいことは「人は一定以上の年月を過ごした環境に合わせた顔付きになってくるものだ」なのです。屡々、「長年連れ添った夫婦は似てくるではないか」という言い方にも似ています。

と言う次第で、私は佐野研二郎に相当な違和感を覚えたのです。即ち、グラフィック・デザイナーという職種ではもっと繊細さを感じさせる風貌の人が多く、今時時代遅れと私は決めつけたい「ソフトモヒカン」などをするのは「時代遅れの感覚しか持ち合わせていないのでは」と疑わせてくれました。

申し上げておきますが、私には彼が剽窃を行ったのか、あるいは事務所の部下(スタッフなんて変なカタカナ語は使いません)が意図的に他人様のブログの写真を許可無く使ったかなどはまった解りません。ただ、組織委員会が何故彼の作品を二回も修正させて使ったかは疑問に思いますが。

ここから先は暴論とでも自分から言いたい決めつけた表現です。誤りだったらお詫びします。私があのエンブレムのデザインを決める委員だったならば(初めは無記名で審査したと報じられていますが)あの顔付きと髪型を見た時点で「胡散臭い」と判断して外していたでしょう。次は安倍総理が五輪担当大臣に任命された遠藤利明氏を評してみます。

この方の顔を見た瞬間に「柔和ではあるが、この方は優柔不断でテキパキと白黒を素早くつけて行かねばならぬオリンピック関連の実務には適任ではないのでは」と閃き「何卒私のカンが外れるように」と思わす祈ってしまいました。以上はそれこそ妄言多謝ですが、私にはそういう直感で人を見ることが時々あります。

佐野某の場合は偶々あのような困った結果になって、マスコミは責任論を言い出しましたが、私は究極的には某元総理が身を引かれることだと思わずにはいられません、出来れば自発的にでも。そういう理由は観相学に基づくのかとお尋ねですか。「いいえ、それだけではありません。発注や検査のような実務経験がおありでは無いし、時代感覚的にも不適格になってしまわれたのでは」という意味です。

(文中一部敬称略)