新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

マスコミのカタカナ語濫用を批判する

2014-09-07 13:46:14 | コラム
何でおかしなカタカナ語を使いたがるのだ:

私はつい先日この件での「頂門の一針」の主宰者・渡部亮次郎氏がNHKが「コンセプト」というカタカナ語を使ったことを慨嘆しておられたことに、そのお嘆きはご尤もだと支持したばかりだった。カタカナ語排斥論者の私も今更ながら、呆れている次第だ。そして、以前にも増して注意してみる(聞く)ようになって来た。

昨日だったか、何処の局だったか記憶もないが、代々木公園の部分的開放を報じて「少しだけイベントが開催されており、イベントのスタッフが云々」とリポーターが言ったのを聞いてしまった。最早、「催し物」と「従業員」は死語と化し、元の日本語が何であったかも解らない「リポーター」が完全に戸籍を得ているのだと腹立たしかった。

理屈を言おう。"event" は「ベント」即ち "vent" にアクセントが来るので、平べったく「イベント」ではないのだ。ジーニアス英和には「アクセント注意」とある。こういうカタカナ語が我が国の英語力に良い影響を与えると固く信じている。

常々考えているのだが、「従業員」や「店員」を蔑称の如くに扱う風潮があって、それを補いたくで "staff" になったのではないかと。即ち、愚かにもカタカナ語にすれば近代化出来たとでも思っているのだろうと浅く(深読みなどではない)読んでいるのだ。

そう言えば、1970年代にアメリカの入国手続きに身分を "staff member of a business firm" と書けと、旅行社に指導された記憶がある。staffとmemberは言葉の重複だろうと、この期に及んで気が付くのろま振りだ。

テレビでのカタカナ語の氾濫は凄まじい勢いで、最早批判した程度ではとても止まらないだろうが、しないでいれば益々広まっていくのは間違いないと危惧する。これ以外では繰り返し批判してきたJRその他で車内放送に使われているクリステル・チアリの英語の酷さとともに「もうこれまで終わり」にしたいものだ。

錦織君、失礼致しました

2014-09-07 11:40:49 | コラム
お見それして大変失礼いたしました:

私は錦織圭君が US Open のテニスで決勝戦に出るところまで行ったのは誠に素晴らしく、また偉いものだと敬意を表したい。言うまでもないが「敬意」は駄洒落(="pun" )ではない。

私は彼の体格では欧米人が圧倒的な勢力を見せているテニス界では不利かなと思って見てきた。だが、松岡修造は錦織君が世界で勝てる素材だと言い続けているのは承知していたが、言わば社交辞令だとすら考えていた。今朝からは見る目がなかったと反省しきりだ。

欧米のスポーツ界でテニスではどのような素材が集まるものかの知識が皆無だが、アメリカにおけるプロの野球・フットボール・バスケットボールに集まる選手たちを見れば、テニスにはそこに入っていけなかった人材が主力かと思っていた。そして、欧州では野球もフットボールがなく、サッカーが大人気であるので、そこから外れた人たちがプロになっていると勝手に考えていた。

そのアメリカに13歳で出ていった錦織君は良い度胸をしているなと感心するとともに、個人種目では体格的に辛いものがあるだろうと考えていたし、現実に彼は常に負傷に悩まされていた。そこを乗り越えてあの場まで出ていったのは「偉い」だけではなく、「言語・風俗・習慣・思考体系が異なる世界に馴れるだけでも大仕事なのに、世界的水準にある欧米の者たちを退けていたのは尊敬に値する」と思う。

当方は個人種目は好みではない上に、手に道具を持ってするスポーツは野球以外は苦手であり、高校の頃に一度だけ軟式テニスを経験しただけだ。しかし、何となく世界で最も難しい競技がテニスで、サッカーは二番目だと聞いて、秘かに安心していたものだった。

我が国でもアメリカと似たような傾向があって甲子園の野球を見ていると、「サッカーをやらせればさぞや・・・」と思わせてくれる素材が沢山いるので嘆いている。サッカーは素材の点で言えば、未だに二番手ではないかと疑っている。その中からあそこまで行った錦織君は偉いし、素質を見抜いていた松岡修造にも遅まきながら敬意を表したい。

実は、昭和24年に神奈川県から甲子園に初めて出た我が母校の野球部は、出ただけでも意外であり立派だと思っていた。だが、一回戦に勝って「良かったじゃないか」と思っている間に「良かったじゃないか」の連続で「まさか」の決勝戦まで行ってしまった。それで十分に満足だろうと、23年に国体の高校の部のサッカーで準優勝だったサッカー部員は考えていた。相手の岐阜の、後に慶應からプロに行った花井投手を打てないだろうと予測していたのだった。

ところがラジオのニュースで湘南が勝ったと知って正直驚きもあったが、野球部に抜かれたと誇らしく思ってもいた。今回の錦織君の進出も、あの時と同じような感覚で見ていたので、このまま優勝してくれると素晴らしいのだ。だが、過大な期待を抱くことなく静かに見守っていて上げると、優勝するかなと期待している。

なお、私は錦織君は我が国を代表して(ないしは代表しようと)世界のテニス界に打って出た訳ではないのではと疑っている。それ故に、マスコミの大騒ぎには多少の違和感があるのだ。

英単語で遊べば #2

2014-09-07 09:23:59 | コラム
英語の単語の面白さ:

"stroke" :
前回は "str" の中に "stroke" を採り入れていなかった。この言葉をジーニアス英和で見れば“①脳卒中、脳出血、発作とあり、②で(水泳の)ひとかき、とあって③で「一撃、ひと打ち」”が出てくる。私の知識の中には「蓼食う虫も好き好き」と同じような意味での "Different strokes for different folks" が先ず出てくる。この表現の何処が「蓼食う虫も好き好き」となるのかは考えたことはなかった。ただそう覚えただけで使っていたものだった。これと同じような言い方で "There is no accounting for tastes." がある。

私は英語の言葉というか単語の使われ方で良く解らないことの一つに、上記の①で使われている「脳卒中」が「脳梗塞」= "cerebral infarction" であるにも拘わらず、"stroke" という簡易的な表現があることだ。また、私が二度も経験した「心筋梗塞」は "myocardial infarction" という難しい医学用語?の表現がありながら、昔の同僚に「君は "heart attack" から生き延びたのだそうだな」と言われた。

私はこの熟語は「心臓発作」のことだと考えていたので、「随分と大雑把なことをいうものだな」と感じてしまった。即ち、「心臓関係の発作は何でも "heart attack" で一括りにしているのかな」と感じたのだということだ。

"stride":
これも採り上げていなかった。ジーニアスには「大また、一またぎで歩くこと」が先ず出てくる。この言葉での思い出に「ストライド走法」がある。これは「競走で、大きな歩幅で走ること、また、その歩幅。ストライド走法」と、広辞苑に出ている。その言わば反対語が「ピッチ走法」で、「泳ぐ時や走る時の腕、脚の動かし方の速さ」とある。

私はサッカーではこのピッチ走法が必要で、時と場合によって歩幅と速度を調節する、ないしは応用出来ないと上手くいかないものだと考えていた。高校になってからのことだった。陸上競技部の優秀な400メートル走者がその速さを活かしたいとサッカーに転向してきた。

確かに彼はその抜群の速さで我々を圧倒した。しかし、実際にサッカーをやらせてみると、彼の「ストライド走法」では調節が効かずにボールを追い越したり、相手を追い抜くこをを優先してしまって、折角の速さを活かしきれずに残念ながら志半ばで挫折してしまった。簡単に言えば、サッカーは瞬間的な速度が重要だし、ピッチ走法でないと具合が悪いと証明してくれたのだった。

"stroke" と "stride" はこのように意味は違うが、綴りが似ているし何となく共通する要素もあるような感じがあり、「似て非なるもの」とまではいかないまでも、うっかりすると混同するかなと思わせられている。ここで、自分の持論に些か強引に持っていくと「だから単語で覚えずに、流れの中で記憶しよう」との結論になるのだ。