新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

安倍総理の女性の活用論に思う

2014-09-14 15:49:16 | コラム
総理の女性活用政策には80%の賛成:

私は安倍総理の年来の主張であり、この度の内閣改造で実行された人事には敢えて異は唱えない。だが、女性の活用の具体策にはは80%の賛成である。20%を残した理由は「女性の中には指導者としてはやや時期尚早かというのではなく、今回の改造のように閣僚や党三役に任命することだけが活用法かと考えているから」なのだ。

私がW社でリタイヤーするまで12年間も遣えた?秘書の女性には素晴らしい能力があった。それが何処にあったかと言えば、秘書として仕事の裁き方以外に、ボスとして私の性格の至らなさを完全に(私の性格、趣味嗜好、余り他人様に気付かれていない人嫌いというか人見知りする傾向がある等々の欠陥に至るまで)把握し、私には出来ないことを補完してくれていたことだ。

本筋を外れる議論ではあるが、特に英語の能力の進歩などは本部でも目を見張るものがあり、技術サービス・マネージャーを呼んで話し合った重大の品質問題の発生時に私が風邪で喉を痛め声が出なくなった際には、私に代わって込み入った技術問題の通訳を見事にここなして得意先までを驚かせたものだった。

私は毎日彼女が練り上げてくれた予定表に基づいて動いていれば良かっただけで、秘書が育ってくれればどれだけ有り難いかを痛感している日々だった。引退する時などには、多くの秘書から「これから先に彼女なくして生活していけますか」と皮肉られたほど依存していたものだった。

正直に言えば、何も女性に限ったことではなく男性にも日本の会社式の管理職に不向きな人はいるものだ。私などはその一人だっただろうと自認しているつもりだ。彼女は私の営業しか出来ない能力を見抜いて、私をその支配下におき、どのように仕事を進めさせれば二人で最高の成果が上がるかの舞台を設定してくれていた。私はその彼女の掌の上で踊っていれば良かったと言えるかも知れない。

彼女の事業部の仕事に対する理解と認識の度合いは高く、取引先の担当者の人物評と評価の適切さには男性にはない鋭さがあって、私はそこに依存することで無事に好関係を樹立出来た得意先の担当者もいたほどだった。

即ち、男性のマネージャーと女性の秘書の間で相互にその特徴を活かして補い合えるのが、職場と家庭またはそれ以外を含めての、男と女の存在というか間柄だと思っている。換言すれば、必ずしも指導者や管理職の地位に据えることが最善の女性の能力の活用法ではないのではないかと考えているのだ。

私は総理に「そういう男性の至らざるを補って最大の効果を挙げる高い能力を持つ女性を、如何に活かしていくかもお考え願いたい」と思っている。そして、その女性を適材適所で活用し、地位を与えられない場合は、その高い補完と補助の力を活かし、地位(=rank)の代わりに所謂『禄を以て報いよ』で対応して行かれたら如何か」と考えている。

私は22年半のアメリカ会社暮らしで「女性たちの素晴らしさと凄さを十分に味わい、そのお陰でW社の我が事業部を対日輸出の#1サプライヤーの地位に押し上げることに成功した。私は女性の能力を男性と同等ないしはそこにない点があると高く評価して起用していくことは必要か」と思っている。だが、活かす場所を誤ってはならないのだ。そして、「絶対に女性と見て侮ってはならない高い能力を持つこと」をイヤと言うほど見せつけられた。

大臣や党の要職に任じることや企業社会で管理職にすることも良いことだろう。だが、女性を単なる象徴的な地位に据えることではなく、実務面で最大限にその能力を活用することが、政治のみならず我が国全体にとっても今後の課題かと思う。実は、W社でも私の在職中に本社機構の実務担当の事業部に女性の副社長兼事業部長はいなかったし、管理職に準ずる地位に何名いたかも記憶がないほど少数だった。

しかし、実務の担当者でマネージャーの称号(=title)を持ってバリバリやっていた女性は数多くいた。念のため申し上げておけば、”title” は日本式のように手当が付く訳ではなく、単なる称号に過ぎないのだ。

英会話の能力 #3

2014-09-14 11:10:42 | コラム
ここでは学校教育の英語を考えていくことにしたい:

前回、私は「我が国の科学としての英語」を学んだ場合に、何故かこのような文法無視と言うべきか、日本語にはない時制の変化や単数と複数の違いを習得出来ていない例が多い」と指摘した。しかも、従来から「"you know" の多発は好ましくない」とも述べている。これまではこのように批判的なことを言うだけで、何が問題かを具体的に指摘した来なかったとの反省もある。そこで今回は少し掘り下げてみる。

先ずはこの例文では動詞が全て現在形であることだ。既に指摘したように英語には日本語にはない現在に対して過去形があり、その先には現在完了と過去完了まであるという複雑さがある。それだけに止まらず、英語の文法では「主語が三人称で単数で、現在形である場合には主語の次ぎに来る動詞の後には "s" をつける」と決められて?いる。私は旧制中学校の1年ではこれを「三単現のs」として教えられた。

この"s" は国語にはないので意外に厄介な存在で、文章にするか会話の際には常に万全の注意をしていなければならなかった。念のために言っておけば、如何に戦後とは言え、その頃では中学生に「英会話」の機会が襲ってくることなどは極めて希だった。即ち、三単現の3把握までも試験で間違えてはならない重要な点だったのだ。より具体的に言えば、試験ではその点がキチンと出来ているか否かを試す問題が出るということだと、今でも信じている。それは建設的なことだ。

私は後になって悟ったことだが、これは理屈ではなく覚えてしまわねばならないことであって、その場に臨んで「えーと、ここでは彼が今そうしているのだから、この動詞には"s" をつけなければならないのだ」などと考えるのはなく、音読の繰り返しと暗記を通じて自動的にそうさせてか、そうするしかなかった。そこで、私の場合には寧ろ偶然に近い形でこれが出来るようになっただけだと思っている。当てはまる理屈がどうかは別にして「習うよりは馴れよ」ということだ。

私が1945年に「英語とそれで話すこと」を教えて下さった日系二世のGHQの秘書の方には「書こうとするか話そうとすることを先に日本語で思い浮かべて、それを訳そうとしないこと。それが正確な英語になって出てくるように努力すること」を先ず厳しくし指導された。念のために加えておくと、その他には「話すときには文章の前後に"you know" を挟んではならない」があった。この点は後に典型的な例アッパーミドルのご夫婦の、コンサルタントでありMBAを持つ奥方に「素晴らしい指導をされた」と秘書の方を賞賛された。自分では認識出来ていなかった幸運だった。

私の例文には入っていなかった学校教育の典型的な試験問題に「次ぎの単語のアクセントが来るところに印をつけよ」があると思っている。私は英語で仕事をしリタイヤーしてから、この問題を見る度に「果たして自分が正解出来るかな」と不安になったものだった。それは、何故かと言えば「単語の何処にアクセントが来るか」などをその都度考えていては、上司は言うに及ばず誰かと意見を交換するような「会話」は出来なくなってしまうからだ。

アクセントなどは流れの中で覚えておくものであり、その単語を見て(思い浮かべて?)何処に(どの母音に)アクセントがくるのかなどを考えているものではないからだ。より具体的に言えば「誰かがこう言っていたとして覚えた表現の中の流れで覚えているもの」だからだ。その次ぎの次元では、その単語を見た瞬間に「これならば、何処にアクセントを置くか」が瞬間に判断出来るようになることを目指すのだから。

私は「この辺に来れば試験対策としての英語の勉強と、日常の仕事(と意志疎通)の手段としての英語との、分かれ道がある」と見なしている。即ち、万人がその次元を目標にして英語を学ぶ必要はないが、文法とアクセントを何処に置くかや、三単現の"s" 等と単語とその使い方を覚えることのような基礎は絶対に必要であると思っている。しかし、教える方が(学校教育が)それを試すためだけの試験をすることに、英語が活きたものになり難い原因の一つがあると信じている。

しかも、ここまでに指摘した、学ぶべきことが中途半端であっても「試験対策」をこなしてきた為に、何とか「科学としての英語」を覚えてしまうので、「やったー、通じている」とでも言いそうな、例文のような正しい英語は無縁な話し方をする例が出てくるのだと思っている。しかも、聞いた相手方が「今貴方は文法を間違えていたし、汚い表現を使っていましたよ」などと指摘することもなければ、それ故に「30点減点」などと宣告もされないのだ。

ここまででは、如何にも学校教育の英語を批判しているではないかと言われればその通りだろう。だからこそ改革の必要性を言うのだ。既に例を挙げたことに、嘗てある高校の英語の先生が「会話能力をつける為に英語を教えているのでは無い」と断言されていたことと、それでは「正しい英語で外国人と立派に意思疎通が出来て、国際的な場に出ても英語を母国語する人たちと比較しても遜色ない英語を教えている訳では無いのだから、無い物ねだりに等しいことを言っているのだ」との虚しさが残るだけだ。

私はここでも「英語は小学生からであるとか、児童や生徒を評価して差をつける為の「科学としての英語」を万人に教え込むものではない」との主張を形を変えて繰り返しているのだ。