新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

Globalization て何だろう

2014-07-10 15:53:55 | コラム
我が同胞には世界に対して憧憬があるのかなと思ってしまう:

何も今になって始まったことではないが、我が国ではマスコミが何かにつけて「世界に進出」とか「世界第何位にランクされた」とか「誰々が世界に誇る何とかになった」と大きく採り上げる。かと思えば「このグローバリゼーションの時代に云々」といった論調が出てくる。決して悪い傾向ではないと思っている。何事でも誰でも「世界に認められる」のは良いことであり、優れた業績でもあるのだから。

実は、私は「グローバリゼーション」という言葉が意味することが何だか解っていなかった。いえ、もっとハッキリ言わせて貰えば「何故世界に認知されることがそれほど価値があるのか」良く解らなかったのだ。どうして目に見えない「世界」が何だか解っていて、それに認めさせられたかが認識出来るのが不思議だった。

そこでこの度、初めて広辞苑に「グローバリゼーション」がどのように説明されているかを調べてみた。「国を超えて地球規模で交流や通商が拡大すること。世界全体にわたるようになること」とあった。「何だ、世界全体の国と貿易をしたり、事務所を設けて駐在員を置くこと」とどう違うのかなと思ってしまった。

そこでOxfordは何と言っているかを当たった。"the fact that different cultures and economic systems around the world are becoming connected and similar to each other because of the influence of large multinational companies and of improved communication" となっていた。広辞苑よりも規模が大きい気がする解説だと思う。具体的な感があると思った。

他人様の言われることの受け売りではなく、自分ではどのように受け止めているかを述べてみたい。先ずは「我が国は世界にも希な優れた国であり、世界水準を超えた優れた国民が集う国だ」という誇りを持って、諸外国とその国民に接して貰うことが基本だと申し上げたい。もっと簡単に言えば「世界などという抽象的なものを有り難がらないで欲しい」のだ。

私がこれまでに接してきた国の数は精々20くらいで、中でも時間も頻度もアメリカが圧倒的に多い。この国は素直に言えば「世界の中でも田舎者の度合いが高い国であり、そういう国民(州民?)で構成されていると思う。勿論、俗に言うインテリ階層にはとても私如きが対抗出来ない優れた人たちが多く、その人たちは尊敬に値すると思っているが。

グローバリゼーションでは簡単に言えば「全世界と広く遍く交流し取引し、彼等と我々との間の文化・思考体系・宗教の違いを十分に認識した上で付き合っていくことが肝要だ」と信じている。そこで私が最も重要だと経験上も言えることは「仮令如何なる困難な状況下に追い込まれても『日本人であること』との誇りと自信と矜恃を失ってはならない」姿勢だと固く信じている。

自分の例で恐縮だが、私は多くのアメリカ人に「君の話す英語と着ているものを見れば、我々の多くは君が間違いなく我々の仲間だと思うだろう。そして間もなくそれが誤認識だと解る。君は骨の髄まで日本人だというのが実態だから」と言われた。「紛らわしい」との表現を使った者もいた。私はこれを何時までも誇りに思っていテ良いと思っている。外国人の中にいれば愛国者になっていくものだとも言えるが。

確かに現代は通信、交通、言語、貿易、政治、軍事と多方面で世界の国々の間の垣根が低くなってきた。行き交う人の数は著しく増えた。だからと言って、私は今でも外国というか世界に憧れる必要があるのかと思っている。多くの外国を回り交際か取引の範囲を広げるのは良いことだろう。外国を知って、見聞を広めて失うものなどないはずだ。しかし、私は如何なる場合でも仮に良い意味で外国に憧れても、日本人としての誇りを堅持してその場に臨むことこそ真の「グローバリゼーション」を達成することになると思っている。

換言すれば「外国を知って自国を知れば百戦これ危うからず」であり「日本人として外国に接し、彼等を必要以上に仰ぎ見ることなど不要だ」と言いたいのだ。「我が国ほど優れた国が世界に幾つあるのか」という誇りと自信を持つことだ。そうして、自分を堅持すれば、彼等はついてくると信じて行動することだ。

因みに「君は骨の髄まで日本人だ」は "You are a Japanese to the core." だった。実は、ここで Japanese の前に "a" を置くべきかどうか迷った。聞いた時には付いていたかどうか覚えていないのだ。

W拝アルゼンチン対オランダの準決勝戦を見て

2014-07-10 09:02:23 | コラム
オランダには分が悪い試合だと開始早々閃いた:

アルゼンチンもオランダも慎重にと言うか思い切った攻め方をせず、確実に守っていく形で試合を進めていったので緊張感はあったもののスリルに乏しい試合になってしまったと言いたい。両国とも守りが堅く相手を所謂「決定的な形」になることを許さなかった。この試合運びでは見る者に緊張感をしいるが、退屈させる面もあると思う。

私はこのままで進めば最悪はPK戦(英語表記は "Penalty shoot-out" と表示されていた。知らなかった)にまで持ち込まれるだろうから、8時までは解放されないと覚悟した。

慎重に試合をすると言うことは「決死の覚悟で相手を負傷させることも想定して」という激しい当たり方が比較的少なく、アナウンサーと解説者好みの「セットプレー」も少なく、途中で手洗いに行っても新聞を読んでも、決定的な場面を見逃すことがないだろうと割り切って観戦していた。

結果的に 0対0 で延長戦からPK戦になってしまい、最初のキッカーに初めての者を出したオランダの作戦の誤りで、閃き通りにアルゼンチンの勝ちとなってしまった。屡々「サッカーは点が入らないので詰まらない」と言われるが、アルゼンチンはメッシ、オランダにはロッベンとファン・ペルシーのような名手がいても得点なしでは・・・という感が残った。だが、一昨日のブラジルのように緊張感がなくなって7点も入った試合も面白くはない。

望むらくはPK戦に行く前に見事な形で決着を付けて欲しかったと思うのだが。決勝戦はドイツが出てくるが、あお理路整然としたサッカーにアルゼンチンがどう対処するかが焦点ではないか。家人は「ドイツの選手は誰も入れ墨もしていないし、髪型もそのままビジネスマンで通用しそうな常識的なもので好感が持てる」と評価。これが所謂ドイツ人かなと思うが。

その対極にあるかと思わせるアルゼンチンの選手たちとの外見辺りに私が得意とする「文化の違い」を見出す。その違いがどのように決勝戦に出るのだろうかにも秘かな関心がある。