新◻️236『岡山の今昔』瀬戸内市(牛窓町、~戦前)

2021-12-19 18:44:44 | Weblog
236『岡山の今昔』瀬戸内市(牛窓町、~戦前)
 
 現在の瀬戸内市の牛窓町、邑久町そして長船町の三つの町のうち一番南に位置する牛窓については、古来多くの逸話や伝統が伝わってきている。古代の姿はどうであったのか。
 この地における遺跡発掘を辿ると、概ね次のように伝えられている。いわゆる「縄文海進」で海面が上昇し、私たちが今日観る瀬戸内海の海岸線が形成されると、人々はこれに沿って集落を形成し、生活を営んでいたらしい。黄島貝塚、黒島貝塚などの遺跡も残されていることから、食生活は海産物が中心であったのではないかと推測されているところだ。
 弥生時代になると、牛窓のあたりからは稲作を営んでいたことを証する遺跡がなかなか見つからなくなっていく。これはおそらくこのあたりの平地が狭小で、傾斜地が多く、地味が痩せていたことが影響したものと考えられている。
 やがて倭(わ、やまと)の古墳時代に入ると、このあたりには前方後円墳などの古墳が数多く造営されていった。牛窓天神山古墳は4世紀半ば~後半にかけて、黒島1号墳は5世紀前半、鹿歩山古墳(かぶやまこふん)は5世紀後半、そして波歌山古墳(はかやまこふん)は5世紀末~6世紀前半、さらに二塚山古墳は6世紀後半の造立だと考えられている。
 これらの古墳の多くは、当時の牛窓湾を一望できる丘陵の上に存在していたのではないか、とみられている。これに付随するにものに、古墳時代を中心に備讃瀬戸地域から出土する土器がある。こちらは製塩のために使用された土器ということであるが、とくに現在の牛窓町牛窓師楽から大量に出土していることから、「師楽式土器」と呼ぶ慣わされているとのこと。
 ところで、鎌倉時代から室町時代にかけてまでの備前南部の軍事・交通・経済の中心は福岡(ふくおか)にあった。そして牛窓は、その福岡からそう遠くない場所にある。牛窓が、その位置、その地形などから見て、上代から良港の名をほしいままにしていた。ちなみに、『続日本記』巻第15の「聖武天皇天平15年(743年)5月28日条」には、次のように記されている。
 「備前国(きびのみちのくち)言(まう)さく、「邑久郡新羅邑久浦(おほくぐんしらきおほくのうら)に大魚(おほうお)五十二隻漂着す。長さ二丈三尺己下一丈二尺己上なり。皮薄きこと紙の如く、眼(まなこ)は米粒(いひぼ)に似たり。声鹿の鳴くが如(ごと)し。故老皆云はく、「嘗(かつ)て聞かず]といふ」とまうす。」(「新日本古典文学大系}二、岩波書店、1990)
 この書に「邑久郡新羅邑久浦」とあるのは、現在の錦海湾の南岸にある師楽湾(しらきわん)をいい、いかにも自然の境涯そのままの土地柄であったことが窺える。なお、一丈は十尺で、約3.3メートルのこと。
 やがて安土桃山時代に入ると、備前紺浦の牛窓は、内海航路、果ては外国貿易の港としても栄えていた。またその北隣の長浜湾の尻海も、天然の良港として栄えた(なお、こちらは1961年の埋め立てで、港の機能を失う)。宇喜多氏(うきたし)から関ヶ原の戦い後は小早川氏の支配を経て、江戸時代になり岡山に池田氏が入って岡山藩となる。岡山に城下町が作られ、福岡の商人は岡山城下に移って行った。牛窓港も、鎖国による日明・日朝貿易はあったものの、内海航路の潮待ち、風待ちの港としては維持されていく。
 1672年にいたると、それまでの北前船(きたまえぶね)の南下ルートに加えるに、日本海から瀬戸内海経由で大坂そして江戸に至る「西回り航路」が、河村瑞賢(かわむらずいけん、1617~1699)によって開拓される。ここに北前船とは、江戸時代から明治時代中期にかけて、主に北陸以北の日本海沿岸の諸港から沿岸を伝って下関に至り、さらに瀬戸内海を通過して大坂や江戸などにあれこれの物資を運んでいた。荷物の内容としては、行き年貢米や、蝦夷地を含む北の国の各地からの特産物、肥料としての干鰯(ほしか、鰊(にしん)のかす)、昆布、鮭(生魚や干物)などを、そして帰りは「買積」(かいづみ)といって船頭の裁量も含め各寄港地で産物を買い入れ、帰路の船荷にして運んでいた。後者は、元来た航路を伝って帰る途中、相場を見て売りさばくもので、しばしば大きな利益を生んでいたようである。
 それからは、瀬戸内の西から南からそして東から多くの船が備前にやってくるようになった、もしくは通過する船が多くなっていく。ちなみに、この牛窓のほか、当時の備前から備中の瀬戸内海沿いの良港として、日比(ひび、現在の玉野市)、下津井(しもつい、現在は倉敷市)、玉島(現在は倉敷市)などもあって、いずれも連携を保ちつつ、かなり広範囲な種類の物産の集散地となっていたことを忘れてはならない。

 ついでながら、江戸時代になると、岡山藩を中心に木材需要が高まったことなどを背景に、牛窓は木材流通の拠点としてあった。当時のこの地においては、造船業が盛んに行われていた。船づくりの職人は、中には九州や四国との往来もあったりで、全体として「邑久大工」とも呼ばれる職人集団を形成していたのであろうか、そんな彼らの活動と相まって、牛窓の海商(船持商人)の中には九州や四国などで請山(うけやま)をしていた向きも相当にあったという。彼らとしては、現地の一山ごとの木材の伐採権を買い取ることで、自分たちを通じての供給の安定化をはかる狙いを持っていたのがうかがえよう。

 さらに埋め立てにつながることでの地域起こしについても、かなりの動きがあったようだ。こちらについては、岡山藩3代目の藩主・池田光政の時、新田開発に取り組んだ。東側の入江の大浦湾を埋め立てて新田にしていく、それとともにこの地域に塩田をつくっていく計画であった。最初の工事は1649年(慶安2年)に行われ、新町ができた。続いて1661年(寛文元年)には、奥之町、土手、出来島の各地区ができ、少し遅れて生田ができる。さらに1695年(元禄8年)、同藩は、牛窓港の前面に波止めの施設を造ることにし、藩主の池田綱政は津田永忠に命じた。津田は、さっそく工事の陣頭指揮に立ち、工事に取りかかってから約10か月でこれを完成させる。牛窓の西港の前海に、長さ678メートル(記録としては「373間」とある)、高さ2.7メートル(記録としては「1間半」とある)の波止めが出来上がった。そこでの築石はすべて犬島(いぬしま)の石を使ったとあるから、前々から頭の中に工事の仕置きを入れていたのであろうか。これにより、東南の風にも強くなり、牛窓の港には西国大名の御座船が相次いで旗印を翻して寄港するようになる。また、1698年(元禄11年)になると、これまた岡山藩の命をうけた津田の活躍により、日生(ひなせ)の沖合にある大多府の港も「風待ち港」として整備されていく。

 他にも牛窓は、物資の集散ばかりでなく、幕府の役人や参勤交代の大名の寄港地となった。わけても朝鮮からの使節(通信使)では宿営地を担った。当時の鎖国中にあっても、朝鮮(李王朝)とは友好関係にあった。将軍の代がわりごとに、その祝賀を兼ねて朝鮮通信使が日本にやって来ていた。江戸時代、一行の牛窓港への寄港は12回にも及び、人数は通常500人近い数であったことが伝わる。
 
(続く)
 
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新♦️360『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(放射性物質の研究、19世紀)

2021-12-19 10:11:17 | Weblog
360『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(放射性物質の研究、19世紀)

 ウィリアム・クルックス(1832~1919)は、イギリスの物理学者・化学者だ。タリウムを発見し原子量を測定したことで有名になる。ドイツでガラス細工のうまい理化学機器の製造販売をしていたダイムラーが、1855年に性能のよい真空ポンプ(ガイスラー管)を発明すると、そのことに触発されてか、クルックスが研究を進めて次のような管を発明して、陰極線が電気的な微粒子であることを証明するにいたる。  
 「クルックス管」と呼ばれることになる、この管の仕組みだが、以下に米山正信氏による説明を引用させていただく。 「・・・細長いガラス管の両端に電極を封入し、又管の一部にえたをつけて、そこに真空ポンプをつなぎます。そして電極を高圧の電源につなぎます。ふつうの1気圧の空気中では、電流は通りません。そこでポンプを動かして中の空気を抜いて行きます。中の空気が10分の1くらいになると、電気が通り始めて、管の中をヘビがうねるような光の帯が見られます。さらに空気をぬいて行くと、中に明暗のシマ模様が現れ、さらに進むと、そのシマ模様がだんだん+極の方へ引きよせられるようになって、-極側に黒い部分がふえて行きます。さらに真空度が高まると管全体が暗くなり、その代わりガラス管の壁が、うすみどり色に光り出します。このようになった、つまり気圧が1000分の1ミリくらいになった真空管を、研究した人の名をとって「クルックス管」といいます。」(「子どもと一緒に楽しむ、科学者たちのエピソード20」黎明書房、1996) 
 このように、後にいう放射線が当たって、別の波長の光の出る現象は、蛍光と呼ばれる。
 ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(1845~1923)は、ドイツの物理学者だ。オランダで初等教育を受ける。チューリヒの大学に入って機械工学を学んだものの、やがて物理学に転じ、1879年にはギーセン大学教授となる。
 1895年11月の彼は、内部の空気を抜いて真空状態にしたガラス管に数千ボルトの電圧をかけて放電させるという実験を行う。陰極線(電子線)を発生している真空放電管を紙で包んで行っていたという。
 すると、その放電管から少し離れたところに置いてあった蛍光物質・白金シアン化バリウムを塗った紙(スクリーン)が光るのを見つける。つまり、その管を厚い紙で覆っているにもかかわらず近くに置いてあった蛍光物質が発光しているのを偶然に発見する。その管からは「目に見えない物を突(つ)き抜ける光が出ている」と解釈し、その光線をエックス(X)線と名づける。

 こうしてつくられることのわかったX線が威力を発揮するのは、工学などのほか、医学で用いられていく。1896年1月にレントゲンが撮ったX線の写真には、手がすきとおって骨が見えている。レントゲンは、また弾性、毛管現象、熱伝導、電磁現象などに関する研究も行う。

 そんなレントゲンの人柄を伝える記事としては、やはり、初のノーベル物理学賞を受けたのに偉ぶる風は全くなかったという。自分の発見を特許にすることは頭になかった。また、政府から贈られたフォン(貴族)の称号も断わり、いうなれば金銭上の利益や地位、そして名誉などに関心を示さなかったというから、偉大だ。

 フランスの物理学者ベクレル(1852~1908)は、パリのエコール・ポリテクニクを卒業後、土木学校で学んとで土木技師となった。その後物理学の研究に携わるようになる。そして迎えた1896年、研究でウラン化合物(ウランを含む岩塩)を置いて暗いところにしまっていた写真乾板を現像していた。すると、太陽の光を受けていないのに感光しているではないかと。ベクレルは、ウラン化合物にX線に似た何らかの放射線を出す力があると考える。

 ワルシャワ(現在のポーランド)生まれのマリー・キュリー(1867~1934)は、物理学者だ。研究者となった後に故国を追われ、フランスに亡命する。物理学者ベクレルの影響を受け、放射性物質の研究を行う。やがて、夫ピエール・キュリーたちが発明した計測器を使って、ウラン化合物から放射線を出しているのを研究し、それがウラン原子であることを見つけ出し、その放射線を出す性質から「放射能」と名づけられる。
 その学問的評価の全体としては、ウラン鉱石の精製からラジウム、ポロニウムを発見し、原子核の自然崩壊および放射性同位元素の存在を実証したのが大きいといわれる。
 1898年には、イギリスの物理学者アーネスト・ラザフォード(1871~1937)たちが、ウランから2種類の放射線が出ているのを発見する。それらをアルファ(α)線、ベータ(β)線と名づける。
 アルファ(α)線は、プラスの電気を帯びた重い粒子の流れ、それも「ヘリウムの原子核」であることを突き止める。またベータ(β)線は、「マイナスの電気を持った軽い粒子(電子)の流れ」であることを発見する。さらに、透過性が高く電荷を持たない放射線を見つけ、ガンマ(γ)線と名づける。エックス(X)線はガンマ(γ)線の仲間だとされる。
 そして迎えた1911年には、ラザフォードたちは実験で原子の中に原子核があることを発見する。これの意議について、ニールス・ボーアは、こう語る。
 「古典物理学の理論が量子的現象を説明できないということは、原子の構造についての私たちの理解が深まるにつれと、よりいっそう明白なものとなっていった。とりわけラザフォードによる原子核の発見(1911)は、古典力学と古典電気力学の諸概念が原子に固有の安定性を説明するにはおよそ無力であることを、ただちに明らかにした。ここでもまた量子論は、事態の解明への鍵を提供したのである。」(「アインシュタインとの討論」:「ニールス・ボーア論文集1」岩波文庫、)

 続いての1832年、ラザフォードの弟子のチャドウィックは、ベリリウムにα線をあてて出てくる放射線を発見し、ガンマ(γ)線では説明できない大きな質量を持ったものであるとし、中性子と名づける。

(続く)

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