新117『岡山の今昔』金融の発展(明治時代)

2021-12-29 15:14:13 | Weblog
117『岡山の今昔』金融の発展(明治時代)

 1872年(明治5年)には、国立銀行条令が公布される。これにより、一般への預金と貸付から、為替、割引などの一般事務にとどまることなく、国立銀行券としての紙幣が発行できるようになる。
 そして、これを受けての国立銀行が全国的に設立されていく中、岡山においても設立の機運が高まっていく。
 1877年(明治10年)には、岡山市に第22国立銀行が、高梁に第86国立銀行が開設となる。この年には、国立銀行条令の改正によって、金の準備なしで資本金の8割までの銀行券の発行ができるようになった。そのことで、設立が容易になったことがあろう。
 とはいえ、1879年(明治12年)の京都第53国立銀行の設立をもって、国立銀行の総資本金額、銀行紙幣発行額にほぼ達する。それを受け、全国的に国立銀行の設立が以後禁止されたことから、岡山でのかかる国立銀行の立ち上げは、全国的には「後発組」ということであろうか。
 もう一つの特徴としては、第22国立銀行の資本金は5万円にして1000株構成、7人の発起人のうち5人が元士族の上層部分であった。しかも、旧藩主池田家の面々が62%という独占状況での発足であった。
 一方、津山においては、国立銀行の設立を志すも、準備が整わずに失敗してしまう。仕方なく、これに代わるべき民間銀行の設立へ動く。そしての1879年(明治12年)には、銀行設立に向けての株式募集を行う。元は国立銀行に向けて動いていたことから、順調に資金が集まり、1880年(明治13年)には、岡山県ではじめての民間銀行設立、営業を開始する。追っての1888年(明治21年)の株式の分布は、50%以上が19人の株主により所有されていた。その中の8人が商人、11人が元士族という構成であって、さらに大株主ということでは、旧津山藩主の松平康民と資産家の森本藤吉の二人が名前を連ねていた。
 さらに、倉敷においては、それがなかなか進まなかった。そのため、1888年(明治21年)に設立の倉敷紡績などは、大阪などの遠隔地との取引においては、岡山に出たりして行うしかない。そしての1891年(明治24年)には、倉敷銀行が設立にこぎつける。頭取に大原孝四郎がなり、幹部の多くは倉敷紡績サイドが占めた。1906年(明治39年)には、孝四郎に代わり孫三郎が頭取に就任する。
 
 1890年(明治23年)になると、銀行条令が出される。こちらは、民間銀行の設立、運営に行政からの監督を働かせようとするものであった。
 
(続く)

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新◻️45『岡山の今昔』南北朝統一(1392)後)、戦国時代にかけての土地所有関係 (新見荘、守護・山名氏)

2021-12-29 08:22:47 | Weblog
45『岡山の今昔』南北朝統一(1392)後)、戦国時代にかけての土地所有関係
(新見荘、守護・山名氏)

 まずは、政治状況から振り返ると、例えば、この時期の備中国は、高(南)宗継が守護となり、ついで秋庭氏、細川氏、宮氏、渋川氏などへと、守護が慌ただしく交代していく。こちらでは、1375年(永和元年)には、渋川満頼がこの地域の守護職を継承する。その在職中の1381年(永徳元年)からは、川上郡を石堂頼房が分郡支配し、その後には川上郡と英賀・下道の各郡賀細川頼元の統治下となる。
 かたや後者の細川氏の側の細川頼之は、1392年(明徳3年)には、明徳の乱鎮圧後ほどなく没し、かかる3つの郡は、備中守護の統治下に置かれるも、同年中には、哲多郡については頼之の子頼元の支配となる。1393年(明徳4年)になると、大きな変化、すなわち渋川満頼は、室町から備中守護を罷免されてしまう。その後釜の守護職には、細川頼元の弟の満之がなり、さらに頼元の子孫が世襲していくのだが、こちらも、次第にだんだんに現地での支配力が低下していく。
 かくて、備中国の細川氏支配の守護代としては、庄氏・石川氏が知られているのだが、これらが力を伸していく。やがて、守護やその被官は国内の寺社の造営や重要な行事を取り仕切るようになる。
 さらに、かれらにより、荘園・公領が押領され、被官や国人衆(こうじんしゅう)の実質的所領化していく。かくて、それらの具体像をもう少しわけいって見るには、成羽荘の三村氏、新見荘の新見氏などの振る舞いかどうであるかが、「繋ぎ目」として重要になっていく。 
 そこで、室町時代が進む中での土地の所有関係の変化を、先に取り上げた新見荘を例にその後を振り返ってみよう。1333年(元弘3年・建武元年)に鎌倉幕府が亡びると、この荘園の地頭職が、「建武新政」で新政府を再興した朝廷(後醍醐天皇)によって取り上げられ、東寺に寄進された。理由としては、この荘園の地頭が北条氏一門だったことによると考えられている。しかし、この東寺への粋なはからいは長く続かない。1336年(建武3年)、後醍醐天皇が足利尊氏らの軍により京都を追われ、吉野へと逃げ延びる。南と北に天皇家が分裂の時代となる。
 そうなると、前からの領家である小槻氏と東寺の間には激しい相論が繰り広げられる。その新見荘も、ついに足利幕府により没収されてしまうのである。こうした状況で東寺に代わって現地で新見荘を支配するようになるのが、室町幕府の管領を務めた細川氏の有力家臣である安富氏(やすとみうじ)であった。これは「請負代官(うけおいだいかん)」というシステムで、双方による契約で、現地で安富氏が徴収した年貢を、荘園領主である東寺に送るようになる。 

 しかし、年貢はかならずしも東寺に順調には上納されず、武家代官の支配が増していくのであった。1461年(寛正2年)には、新見荘から「備中国新見荘百姓等申状」を携えた使者が東寺にやってきた。その申状の最初には、こう記されている。
 「抑備中国新見庄領家御方此方安富殿御○○候に先年御百姓等直寺家より御代官を下候はば御所務○○○随分御百姓等引入申候処ニ無其儀御代官御下なくては一向御○○○やう歎入候事」
 その申立理由だが、現地を預かる安富氏が農民たちから東寺と契約した以上の年貢を徴収し続けたことにあるという。1459年(寛正2年)から続いた作物の不作がさらにあって、新見荘の農民たちの我慢もついに限界に達したのであろう。彼等は、蜂起したものとみえる。そしてて、荘園領主である東寺に直接支配するよう、使者をよこして来たのであるから、東寺としても事の経緯を調べ、対処しない訳にはいかない。1461年(寛正2年)には、東寺の現地の直接支配が成立した。
 そんな一連のいきさつがあったので、この決算書は監査を受けないまま東寺供僧の手もとに保存されていた。その数ある決算書類中に、「地頭方損亡検見ならびに納帳」という、前の年の年貢の収支決算書があり、歴史家網野喜彦の紹介にはこうある。
  「長さ二十三メートルにも及ぶ長大な文書で、それを読むと中世の商業や金融、その上に立った荘園の代官の経営の実態が非常によくわかるのですが、その文書の中に「市庭在家」という項があります。
 それによってみると、この荘園の地頭方市庭には三十間(軒)ほどの在家が建てられていたことがわかります。恐らくそれは金融業者や倉庫業者の家で、道に沿って間口の同じ家が短冊状に並んでいたと思われます。こうした在家に住む都市民は「在家人」と呼ばれました。そしてその傍らの空き地に商人が借家で店を出す市庭の広い空間があったことも、この文書によって知ることができます。」(網野喜彦『歴史を考えるヒント』新潮選書、2001)

 なお、当時の同荘園の経済がどのように動いていたのかというと、その一端は、割府(わりふ)というものを発行することで運営していたという。

 「発行者たちは、備中で割符と引換に現銭を受け取り、その現銭で漆(うるし)を購入して京都へ運び、京都で商品を販売したその代価で割符を決済していた。言ってみれぱ、京都での「商品販売代価を受け取る権利」と備中の現銭とを交換することにより、割符を発行していたのである。「はじめに」(略)に準じて説明すると、発行者の「京都から備中への商品代価の送金」と、新見荘三職から東寺への「備中から京都への年貢の送金」という遠隔地間の送金関係を、「新見荘三職から振出人へ」と「支払人から東寺へ」という、割符を媒介とした同地内の支払いに振り替えるという為替取引によって、現金輸送を回避しているのである。」(辰田芳雄「室町・戦国期荘園制を支えた割符ー新見荘や北陸など中間地域荘園の事例」、「岡山朝日研究紀要」第39号(2018年3月)より引用)

 やがて戦国時代になると、この新見荘もまた、他の荘園と同様、漸次東寺の支配を離れ、守護、そして戦国大名の支配に組み入れられていった。
 二つ目の例として、南北朝統一後)頃の、備後・備中の荘園地の支配を巡っては、当地の守護であった山名氏の実質支配が進んでいた。
  「高野領備後国太田庄並桑原方地頭職尾道倉敷以下の事
下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨、山名右衛門佐入道常煕仰せられおはんぬ。早く存知す可きの由仰下され候所也。仍て執達件の如し。
 応永九年七月十九日、沙弥(しゃみ)(花押)、当寺衆徒中」(『高野山文書』)
 ここに、時は、南北朝の統一がなされて2年目の1402年(応永9年)、高野山(こうやさん)の寺領とある備後国(びんごのくに)大田荘(現在の広島県世羅郡甲山町・世羅町・世羅西町)と、桑原方地頭職尾道の倉敷(現在の広島県尾道市、岡山県倉敷市のあたりか)などについて、「沙弥」の異名をもつ管領(室町幕府の重職)・畠山基国(はたけやまもとくに)が、備後守護職の山名氏(山名時煕(やまなときひろ))に対し「下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨」を内容とする請負(うけおい)を命じた。
 これは、守護請(しゅごうけ)と呼ばれる。守護は、荘園・国衙領の年貢取立て、ここでは各々へ年貢1000石を各領主に納入する業務を代行する。領主たちは、その代わりに荘園の現地支配から手を引く事になっていた。
 こうした形の仕事請負行為は、守護職からいうと地方での権限拡大につながるもので、「渡りに舟」であったのではないか。事実、これらの荘園地は応仁の乱後には事実上山名氏の所領化していった。室町時代に入ると、荘園主に決められた量の年貢が入らないこと(「未進」)や、はては逃散・荘官排斥などがあった。こうした動きの背景には、荘園領主と守護職とを含めての、現地農民に対しての搾取強化があったことは否めない。
その後、戦国大名が割拠する時代に入ってからは、全国の荘園で消えていくものも多くあり、それが残る場合においても、紆余曲折を経ながら領主権力の空洞化が進んでいった。例えば高野山の寺領は、1585年(天正13年)の豊臣秀吉による紀州攻めまで維持されたものの、その高野山が秀吉に降伏した後、その寺領はいったん没収される。のち1591~1592年(天正19~20年)に、秀吉の朱印をもって2万石余の寺領が与えられた。

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