462『自然と人間の歴史・世界篇』ナミビア
ナミビア(1990年3月21日に独立、旧宗主国はドイツ、南アフリカ)は、アフリカ南西部に位置する。国名だが、同地域のナミブ砂漠に由来するという。地理的領域としては、北にアンゴラ、北東にザンビア、東にボツワナ、南に南アフリカ共和国と国境を接し、西は大西洋に面する。首都は、ウィントフック。
このあたりでの太古の話としては、首都のウィントフックから北上、この国のナミブ砂漠、そこは太平洋に面した西側の海岸沿いに広がる。ここに「ナミブ」とは、現地の言葉で「何もない土地」との意味をもつ。およそ8万平方メートル及ぶ広大さだ。酸化鉄を含む砂山が夕陽に映えてか、「この写真のような赤黒い色をした幻想的な景色」(「世界の絶景・ナミブ砂漠」:雑誌「ニュートン」2015年12月号)が見られる砂漠なのだが。
これを通り越したところに、岩石群のある地帯が広がる。このあたりのプラントバーグの岩絵、その北隣のトワイフェルフォンテンに岩石彫刻画、岩絵に出会うことができるという(写真と文は鈴木卓、写真解説文は池谷和信「岩の作品が残されたナミビアの荒野」:雑誌「ニュートン」2015年4月号)。ごつごつしたり、切り立ったりする岩場のあちらこちらに、狩猟時代の人類の画いた絵が散在する。その一つには、「首のない人」がせ弓を持つかたわらで、座ってくつろいだり、ダンスに興じているらしい人もいる。古代の人も、時には楽しいことがあったものと見える。
さて、時代は大きく下っての16~17世紀、北方よりヘレロ族、ダマラ族、オカバンゴ族などが南下して来て、このあたりに定住していく。19世紀までには、このあたりの原住民のブッシュマンとナマ族にも、変化が訪れる。ナマ族がボーア人と混血して「レホボス・バスターズ」と呼ばれる混血集団も形成されてくる。
その植民地から独立への歩みとしては、現地人民はなかなかにたどり着けない。1884~85年年のベルリン会議においては、この地が「南西アフリカ」としてドイツの保護領となったのに始まる。ただし、この地域の港であるウォルビス・ベイとその周辺だけは、かねてからイギリスのケープ植民地に属していたことから、除外される。
そして迎えた20世紀初頭には、このドイツの植民地において、ドイツによる大規模な虐殺事件が起きる。続いての1914年、南アフリカ軍が南西アフリカに侵攻し、この地域を占領する。1920年、南アフリカが国際連盟の委任統治制度の下で南西アフリカ統治を開始する。第一次世界大戦中にこの地を併合したのが、南アフリカ連邦であった。
1945年、南アフリカが南西アフリカを国連の信託統治制度の下に移行させることを拒否し、統治を開始する。どうあろうとも、あくまで自国の領土だとの主張を繰り返す。そのため、「ナミビア問題」が起こる。1958年、最大の人口をもつオバンボ族を主体に南西アフリカ人民機構(SWAPO)が結成される。1966年以降は、この組織は武力闘争も行う。1971年の鉱山ストライキに対して、南アフリカ政府は武力で鎮圧する。
1966年に国連総会において、南アフリカによる委任統治終了と国連直接統治への移行を決める。南アフリカはこれを認めたくない。そのため、この決議を無視し、しばらく占領支配を続ける。1968年、国連総会が、南西アフリカをナミビアと改称する。
1974年のポルトガルの軍事革命と翌年の南部アフリカ植民地アンゴラとモザンビークの独立が達成されると、頑なにナミビアの独立を拒む南アフリカは孤立を強める。1978年には、国連が独立支援に動く。安全保障理事会として、国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)の設置を決定する。1988年、南アフリカ、アンゴラ、キューバ間の和平協定が成立し、南アフリカはナミビアの独立に合意する。
1989年4月、安全保障理事会決議の実施を目指してUNTAGが活動を開始する。1989年11月、憲法制定議会選挙が実施される。1990年2月、ナミビア共和国憲法を採択する。1990年3月21日、ナミビア共和国が独立する。1990年4月には、国連に加盟に漕ぎ着ける。1994年3月、南アフリカはウォルビス・ベイをナミビアに返還する。1994年12月、独立後初の大統領・国民議会選挙を実施する。1995年3月、独立5周年式典においてヌヨマ大統領(第2期)が就任する。1999年12月、大統領・国民議会選挙においてヌヨマ大統領が再選される。
2000年3月、独立10周年式典においてヌヨマ大統領が第3期に就任する。2004年11月、大統領・国民議会選挙においてポハンバが大統領に選出される。2005年3月、ポハンバが大統領に就任する。2009年11月、ポハンバ大統領再選(第2期)。2010年3月には、ポハンバ大統領(第2期)が就任する。2014年11月、大統領・国民議会選挙においてガインゴブが大統領に選出され、2015年3月彼が大統領に就任する。
そして迎えた2021年5月には、ドイツ政府が、旧植民地としていたこの地において、20世紀初頭に起きた住民虐殺について、「ナミビアと犠牲者に許しを請いたい」(ドイツのハイコ・マース外相)と謝罪を行った。それと、「法的な賠償請求権はない」としながらも、11億ユーロの支援金を提供すると発表した。
(続く)
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ナミビア(1990年3月21日に独立、旧宗主国はドイツ、南アフリカ)は、アフリカ南西部に位置する。国名だが、同地域のナミブ砂漠に由来するという。地理的領域としては、北にアンゴラ、北東にザンビア、東にボツワナ、南に南アフリカ共和国と国境を接し、西は大西洋に面する。首都は、ウィントフック。
このあたりでの太古の話としては、首都のウィントフックから北上、この国のナミブ砂漠、そこは太平洋に面した西側の海岸沿いに広がる。ここに「ナミブ」とは、現地の言葉で「何もない土地」との意味をもつ。およそ8万平方メートル及ぶ広大さだ。酸化鉄を含む砂山が夕陽に映えてか、「この写真のような赤黒い色をした幻想的な景色」(「世界の絶景・ナミブ砂漠」:雑誌「ニュートン」2015年12月号)が見られる砂漠なのだが。
これを通り越したところに、岩石群のある地帯が広がる。このあたりのプラントバーグの岩絵、その北隣のトワイフェルフォンテンに岩石彫刻画、岩絵に出会うことができるという(写真と文は鈴木卓、写真解説文は池谷和信「岩の作品が残されたナミビアの荒野」:雑誌「ニュートン」2015年4月号)。ごつごつしたり、切り立ったりする岩場のあちらこちらに、狩猟時代の人類の画いた絵が散在する。その一つには、「首のない人」がせ弓を持つかたわらで、座ってくつろいだり、ダンスに興じているらしい人もいる。古代の人も、時には楽しいことがあったものと見える。
さて、時代は大きく下っての16~17世紀、北方よりヘレロ族、ダマラ族、オカバンゴ族などが南下して来て、このあたりに定住していく。19世紀までには、このあたりの原住民のブッシュマンとナマ族にも、変化が訪れる。ナマ族がボーア人と混血して「レホボス・バスターズ」と呼ばれる混血集団も形成されてくる。
その植民地から独立への歩みとしては、現地人民はなかなかにたどり着けない。1884~85年年のベルリン会議においては、この地が「南西アフリカ」としてドイツの保護領となったのに始まる。ただし、この地域の港であるウォルビス・ベイとその周辺だけは、かねてからイギリスのケープ植民地に属していたことから、除外される。
そして迎えた20世紀初頭には、このドイツの植民地において、ドイツによる大規模な虐殺事件が起きる。続いての1914年、南アフリカ軍が南西アフリカに侵攻し、この地域を占領する。1920年、南アフリカが国際連盟の委任統治制度の下で南西アフリカ統治を開始する。第一次世界大戦中にこの地を併合したのが、南アフリカ連邦であった。
1945年、南アフリカが南西アフリカを国連の信託統治制度の下に移行させることを拒否し、統治を開始する。どうあろうとも、あくまで自国の領土だとの主張を繰り返す。そのため、「ナミビア問題」が起こる。1958年、最大の人口をもつオバンボ族を主体に南西アフリカ人民機構(SWAPO)が結成される。1966年以降は、この組織は武力闘争も行う。1971年の鉱山ストライキに対して、南アフリカ政府は武力で鎮圧する。
1966年に国連総会において、南アフリカによる委任統治終了と国連直接統治への移行を決める。南アフリカはこれを認めたくない。そのため、この決議を無視し、しばらく占領支配を続ける。1968年、国連総会が、南西アフリカをナミビアと改称する。
1974年のポルトガルの軍事革命と翌年の南部アフリカ植民地アンゴラとモザンビークの独立が達成されると、頑なにナミビアの独立を拒む南アフリカは孤立を強める。1978年には、国連が独立支援に動く。安全保障理事会として、国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)の設置を決定する。1988年、南アフリカ、アンゴラ、キューバ間の和平協定が成立し、南アフリカはナミビアの独立に合意する。
1989年4月、安全保障理事会決議の実施を目指してUNTAGが活動を開始する。1989年11月、憲法制定議会選挙が実施される。1990年2月、ナミビア共和国憲法を採択する。1990年3月21日、ナミビア共和国が独立する。1990年4月には、国連に加盟に漕ぎ着ける。1994年3月、南アフリカはウォルビス・ベイをナミビアに返還する。1994年12月、独立後初の大統領・国民議会選挙を実施する。1995年3月、独立5周年式典においてヌヨマ大統領(第2期)が就任する。1999年12月、大統領・国民議会選挙においてヌヨマ大統領が再選される。
2000年3月、独立10周年式典においてヌヨマ大統領が第3期に就任する。2004年11月、大統領・国民議会選挙においてポハンバが大統領に選出される。2005年3月、ポハンバが大統領に就任する。2009年11月、ポハンバ大統領再選(第2期)。2010年3月には、ポハンバ大統領(第2期)が就任する。2014年11月、大統領・国民議会選挙においてガインゴブが大統領に選出され、2015年3月彼が大統領に就任する。
そして迎えた2021年5月には、ドイツ政府が、旧植民地としていたこの地において、20世紀初頭に起きた住民虐殺について、「ナミビアと犠牲者に許しを請いたい」(ドイツのハイコ・マース外相)と謝罪を行った。それと、「法的な賠償請求権はない」としながらも、11億ユーロの支援金を提供すると発表した。
(続く)
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