新462『自然と人間の歴史・世界篇』ナミビア

2021-12-13 21:14:16 | Weblog
462『自然と人間の歴史・世界篇』ナミビア

 ナミビア(1990年3月21日に独立、旧宗主国はドイツ、南アフリカ)は、アフリカ南西部に位置する。国名だが、同地域のナミブ砂漠に由来するという。地理的領域としては、北にアンゴラ、北東にザンビア、東にボツワナ、南に南アフリカ共和国と国境を接し、西は大西洋に面する。首都は、ウィントフック。
 このあたりでの太古の話としては、首都のウィントフックから北上、この国のナミブ砂漠、そこは太平洋に面した西側の海岸沿いに広がる。ここに「ナミブ」とは、現地の言葉で「何もない土地」との意味をもつ。およそ8万平方メートル及ぶ広大さだ。酸化鉄を含む砂山が夕陽に映えてか、「この写真のような赤黒い色をした幻想的な景色」(「世界の絶景・ナミブ砂漠」:雑誌「ニュートン」2015年12月号)が見られる砂漠なのだが。
 これを通り越したところに、岩石群のある地帯が広がる。このあたりのプラントバーグの岩絵、その北隣のトワイフェルフォンテンに岩石彫刻画、岩絵に出会うことができるという(写真と文は鈴木卓、写真解説文は池谷和信「岩の作品が残されたナミビアの荒野」:雑誌「ニュートン」2015年4月号)。ごつごつしたり、切り立ったりする岩場のあちらこちらに、狩猟時代の人類の画いた絵が散在する。その一つには、「首のない人」がせ弓を持つかたわらで、座ってくつろいだり、ダンスに興じているらしい人もいる。古代の人も、時には楽しいことがあったものと見える。
 さて、時代は大きく下っての16~17世紀、北方よりヘレロ族、ダマラ族、オカバンゴ族などが南下して来て、このあたりに定住していく。19世紀までには、このあたりの原住民のブッシュマンとナマ族にも、変化が訪れる。ナマ族がボーア人と混血して「レホボス・バスターズ」と呼ばれる混血集団も形成されてくる。 
 その植民地から独立への歩みとしては、現地人民はなかなかにたどり着けない。1884~85年年のベルリン会議においては、この地が「南西アフリカ」としてドイツの保護領となったのに始まる。ただし、この地域の港であるウォルビス・ベイとその周辺だけは、かねてからイギリスのケープ植民地に属していたことから、除外される。
 
 そして迎えた20世紀初頭には、このドイツの植民地において、ドイツによる大規模な虐殺事件が起きる。続いての1914年、南アフリカ軍が南西アフリカに侵攻し、この地域を占領する。1920年、南アフリカが国際連盟の委任統治制度の下で南西アフリカ統治を開始する。第一次世界大戦中にこの地を併合したのが、南アフリカ連邦であった。
 1945年、南アフリカが南西アフリカを国連の信託統治制度の下に移行させることを拒否し、統治を開始する。どうあろうとも、あくまで自国の領土だとの主張を繰り返す。そのため、「ナミビア問題」が起こる。1958年、最大の人口をもつオバンボ族を主体に南西アフリカ人民機構(SWAPO)が結成される。1966年以降は、この組織は武力闘争も行う。1971年の鉱山ストライキに対して、南アフリカ政府は武力で鎮圧する。
 1966年に国連総会において、南アフリカによる委任統治終了と国連直接統治への移行を決める。南アフリカはこれを認めたくない。そのため、この決議を無視し、しばらく占領支配を続ける。1968年、国連総会が、南西アフリカをナミビアと改称する。
 1974年のポルトガルの軍事革命と翌年の南部アフリカ植民地アンゴラとモザンビークの独立が達成されると、頑なにナミビアの独立を拒む南アフリカは孤立を強める。1978年には、国連が独立支援に動く。安全保障理事会として、国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)の設置を決定する。1988年、南アフリカ、アンゴラ、キューバ間の和平協定が成立し、南アフリカはナミビアの独立に合意する。
 1989年4月、安全保障理事会決議の実施を目指してUNTAGが活動を開始する。1989年11月、憲法制定議会選挙が実施される。1990年2月、ナミビア共和国憲法を採択する。1990年3月21日、ナミビア共和国が独立する。1990年4月には、国連に加盟に漕ぎ着ける。1994年3月、南アフリカはウォルビス・ベイをナミビアに返還する。1994年12月、独立後初の大統領・国民議会選挙を実施する。1995年3月、独立5周年式典においてヌヨマ大統領(第2期)が就任する。1999年12月、大統領・国民議会選挙においてヌヨマ大統領が再選される。
 2000年3月、独立10周年式典においてヌヨマ大統領が第3期に就任する。2004年11月、大統領・国民議会選挙においてポハンバが大統領に選出される。2005年3月、ポハンバが大統領に就任する。2009年11月、ポハンバ大統領再選(第2期)。2010年3月には、ポハンバ大統領(第2期)が就任する。2014年11月、大統領・国民議会選挙においてガインゴブが大統領に選出され、2015年3月彼が大統領に就任する。

 そして迎えた2021年5月には、ドイツ政府が、旧植民地としていたこの地において、20世紀初頭に起きた住民虐殺について、「ナミビアと犠牲者に許しを請いたい」(ドイツのハイコ・マース外相)と謝罪を行った。それと、「法的な賠償請求権はない」としながらも、11億ユーロの支援金を提供すると発表した。

(続く)

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新242『岡山の今昔』倉敷(児島・下津井エリア)

2021-12-13 17:37:49 | Weblog
242『岡山の今昔』倉敷(児島・下津井エリア)


 児島・下津井(しもつい)エリアに移ろう。江戸時代の下津井港には、肥後の細川家など参勤交代の大名や、江戸参府途上のオランダ商館長、朝鮮通信史の一行が立ち寄る。

 それに、北前船の来航が加わり、備前における諸物資の一大集散地となり、海運業が発達することにもなっていく。

 おりしも、その東隣の児島地区では、米作りへの中間作物としての綿花栽培がはじまり、また、江戸時代の後半からは、その木綿を束ねて織る繊維業(小倉織、真田織姫、雲斎織など)が広まっていく。それに、北前船の運ぶにしんかすは、米作りへの中間作物としての、塩に強い綿を栽培するための肥料に使われた。

 その頃からの「児島三白」とは、一つには、繊維の原料となる綿花の花の色が白いこと。二つは、塩田の塩の色が白いとこと。三つには、瀬戸内海で捕れる魚のイカナゴの腹部の色が白いことにちなむ。
 かくて、下津井港に競合する港が現れ、その便利が相対的に低下するは、児島と下津井とはつながって、広域の経済圏をつくっていたと言っても、過言ではなかろう。

 そんな江戸時代、下津井港の繁栄を歌ったものに「下津井節」があり、次のような歌詞となっている。
 「下津井はヨ/入りよて出よてヨ/まとも巻きよて/まぎりよてヨ/(トハコイ)/(トノエー)/(ナノエー)/(ソーレソレ)/下津井港にヨ/錨(いかり)を入れりゃヨ/街の行燈(あんど)の/灯(ひ)が招くヨ/あれは肥後(ひご)さま/九曜(くよう)の星ヨ/」 
 ここにいう「九曜の星」とは紋所(もんどころ)を意味し、肥後(現在の熊本県)の細川家の船が入港する様子をうたったものだ。

 商港・下津井のその後については、1910年(明治43年)、国鉄宇野線の全線開通により四国航路の座をを宇髙連絡船に明け渡し、商港下津井の繁栄は終焉を迎える。児島にはまた、時代が明治になっての1882(明治15)年に下村紡績所(現在の倉敷市児島下の町)が開業する、日本における初期綿糸紡績工場の草分け的な存在に列する偉業であって、その後に所有者の変遷を経るも、1980年(昭和55年)に琴浦紡績が廃業するまで、同じ敷地で綿糸紡績を継続してきた。

 それにもう一つ、振り返っての下津井電鉄線の創設に触れよう。これには、児島の塩田王・野崎家や大畠の永山家をはじめとする児島・下津井の有力者、また対岸である丸亀の有力者の出資や協力があった。

 そして迎えた1914年(大正3年)、下津井と倉敷市茶屋町(宇野線茶屋町駅)を結ぶ商港下津井線が開通する。
 しかし、難点もあったという。それは、茶屋町駅で乗り換えなければならないこともあり、四国航路の利用者には不便であること。

 それでも、児島周辺の繊維業の発達による貨物輸送に利用されたり、戦後の高度成長期からは、水島など倉敷市南部へのアクセス拡大や鷲羽山への観光客を運ぶなどに使われる。

 その後は、県南おしなべての道路網が整備されるにつれて、利便性が低下していき、利用者は減っていく、1972年(昭和47年)には、児島~茶屋町間が廃線になる。
 続いての1988年(昭和63年)に、瀬戸大橋が開通すると、これによって会社のバス部門の収入も減少したため、会社は、下津井電鉄線全体を廃線にする。

(続く)

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新461『自然と人間の歴史・世界篇』ルワンダ

2021-12-13 09:02:54 | Weblog
461『自然と人間の歴史・世界篇』ルワンダ

 ルワンダ共和国(1962年7月1日に独立、旧宗主国はベルギー・国連信託統治領)は、中部アフリカに位置する内陸国であり、西にコンゴ民主共和国、北にウガンダ、東にタンザニア、南にブルンジと国境を接する。首都はキガリで、イギリス連邦加盟国でもある。

 人口はアフリカ大陸中で最高クラス。早くはピグミー系のトワ族が住み始める。7~10世紀頃、このあたりにバンドゥー系のフツ族が定住し始める。14~15世紀頃、ナイロート系のツチ族が定住してくる。15世紀頃、ツチ族による王国が建国される。17世紀に「ルワンダ王国」が建国される。この王国の性格だが、土族がより多数の仏族を支配することになっていた。

 1858年、イギリスの探検家が同地域を探検する。1871年、探検家のH・スタンリーとD・リビングストンは、このあたりを探検する。リビングストンについては、1849年から1856年にかけての第一回探検で、ヌガミ湖を発見しザンベジ川上流地方を調査する。それから西海岸のルアンダに出て、そこから東海岸のケリマネまでのアフリカ大陸横断路をひらき、ビクトリア滝を発見する。

 1889年、ドイツ保護領となる。1899年になると、ルワンダ王はドイツに服従することに傾いていく。1890年には、ドイツ保護領となる。隣のブルンジ王国とともにドイツ領ルワンダ・ウルンジを構成していく。

 1916年には、ベルギーが侵攻する。第一次世界大戦中であったことから、彼らが隣のべルギー領コンゴから侵入してきたものだ。こうして、第一次大戦の後1918年には、ベルギーの国際連盟委任統治領となる。
 第二次世界大戦後の1946年には、ルワンダとブルンジがベルギーの国連の信託統治領となる。それまで被支配の部族であったフツ族の政治意識が高まってくる。1959年10月のキゲリ5世の即位の時をとらえ、11月に農民暴動が起こる。フツ族は、1960年10月にフツ解放運動党(PARMEHUTE)を結成する。1961年9月に実施された立法議会の選挙で、フツ解放運動党が勝利をおさめる。同時に行われた王政に関する国民投票で、王制廃止と共和制樹立を承認する。あわせて、議会がカイバンダを大統領に選出する。そして迎えた1962年7月1日、ベルギーより独立する。

 1963年12月からは、ブルンジ王国に避難していたツチ族のルワンダへの回帰を契機に、フツ族によるツチ族への大量虐殺が行われる。この関、歴史的には、牧畜民で少数派のツチ族が、農耕民で多数派のフツ族の上を行く構図で、対立が絶えなかったという。
 このような中でも、1969年にカイバンダは大統領に三選される。しかし、1973年、軍事クーデターが起こり、前国防相のハビヤリマナ少将が大統領に就任する。その後のハビヤリマナ大統領は、1983年12月に再選、1988年に三選される。この間の1976年には、外交でブルンジ、ザイールとともに大湖地域諸国経済共同体(CEPGL)を、1978年にブルンジ、ウガンダ、タンザニアとともにカゲラ川流域機構(KRBO)を結成する。1983年に結成された中央アフリカ諸国経済共同体にも加盟する。

 1990年10月、ルワンダ愛国戦線(RPF)が北部に侵攻する。1993年8月、アルーシャ和平合意が成立する。1994年4月には、バヒャリマナ大統領機の撃墜事件が起こる。ハビヤリマナ大統領は暗殺され、この事件発生をきっかけにフツ族強硬派により、ツチ族住民を無差別に殺害してまわるという「ルワンダ大虐殺」が発生する。1994年6月まで続く。一説には、これにより80万人以上が犠牲になったとされる。
 7月には、ルワンダ愛国戦線(RPF)が全土を完全制圧する。ポール・カガメを首班とする新政権が樹立される。ビジムング大統領とカガメ副大統領が就任する。これにより、政府は民族の区別を否定し、国民和解への道を歩んでいく。また、前政権を支えたフランスとは関係が悪化していく。
 2000年3月には、ビジムング大統領が辞任する。4月には、カガメ副大統領が大統領に就任する。同年には、8%超の経済成長を記録する。国家主導の成長により、IT立国を掲げる。

 2003年8月には、複数候補者による初の大統領選挙でカガメが大統領に当選する。2003年9~10月、上院・下院議員選挙で与党(RPF)が勝利する。2008年9月、下院議員選挙で与党(RPF)が勝利する。同年10月には、教育言語をフランス語から英語に変更すると発表する。2009年には、英連邦に加盟する。

 2010年8月には、カガメ大統領が再選される。2013年9月、下院議員選挙で与党のRPFが勝利する。2018年には、ルワンダ外相がフランス語圏国際機関(OIF)の事務局長に選出される。2021年5月には、虐殺に関して、マクロン大統領が、当時のフランスの責任(虐殺を主導したフツ族政権を支援し、介入をためらったこと)を認め、歴史的和解に向けて一歩を踏み出した形だ。

(続く)

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