新591『自然と人間の歴史・世界篇』チェコ動乱(1968)

2021-12-30 19:34:21 | Weblog
591『自然と人間の歴史・世界篇』チェコ動乱(1968)

 1960年代の東欧社会主義国の中で、大いなる「自由化」の運動が起きる。これを首都の名をとって、「プラハの春」と呼びます。筆者は、この運動をこう紹介している。
 「1966年、オタ・シク教授の唱える「新経済政策」がチェコスロバキア共産党の党大会で採択された。これを機に政治・経済・社会全般にわたる「自由化」の機運が党内と社会に強まっていった。
 1968年1月、「スターリン主義者」といわれたノボトニーが第一書記を解任され、代わってドプチェクが第一書記に就任する。これが「プラハの春」事件の出発点であった。
 1968年4月、共産党が「行動要領」を発表した。この中で、「チェコスロバキアの社会主義の道」をめざすことを宣言するとともに、集会と結社の自由、そして検閲の廃止など、それまでの「社会主義」に新風を吹き込むような改革の方向性を鮮明にした。
 1968年8月20日、労働者・市民主導の「自由化」の行き過ぎを懸念したソ連軍(ワルシャワ条約機構の軍として)が、このチェコスロバキアの動きを止めるために突如として軍事介入した。
 なぜソ連が軍事介入したのかについては、詳しいことはわかっていない。確かに、集団安全保障の観点からの、「やむを得ざる介入であった」という見方もあったろう。しかし、政治的理由ばかりを強調するのは誤りで、政治と経済が一帯となった改革がすすんでいくことが必然的であると、その流れを読み取ったソ連指導部の「これは行き過ぎだ、ソ連・東欧の社会主義勢力を守るために阻止しなければならない」との決意が醸成されていった、と考える向きが多い。
 そんな当時の「ソ連の経済事情」を伝えるものとして、こんな見方もある。
 「1962年9月、ソ連共産党機関誌「プラウダ」紙上にリーベルマン論文発表。この論文は、中央集権的計画化を緩和し、企業の自主的決定の権限を拡大し、「計画標準収益率指標」、すなわち利潤率を企業活動の評価基準とすることを勧告した。
 1964年10月に登場したブレジネフ・コスイギン政権はこの面ではフルシチョフ路線をうけついで、1965年9月のソ連共産党中央委員会総会で、いわゆる「コスイギン改革」の開始を決定した。これにならって東欧各国では1964年から1968年にかけていっせいに経済改革に着手する。
 この過程で、チェコの経済改革が上部構造のドラスティックな改革を要求する動きに発展したために、ソ連は(おそらくコスイギン首相その他の反対を押し切って)チェコに軍事介入し、経済改革をソ連なみの限度に押しとどめた。

 このソ連の軍事介入、その背後にある政治決意は、1968年以降の東欧諸国の経済改革に大きなブレーキとなった。経済改革が従来の計画理念を根本的に批判し、上部構造の民主化をともなう経済・社会改革として発展していくことは困難になったのである。」(平田重明「チェコスロバキア「再生」運動の前史的構造ー社会主義への独自の道をめぐる源流と逆流ー」:東京大学社会科学研究所編著「現代社会主義ーその多元的諸相ー」東京大学出版会、1977)
 さりとて、このように政治と経済とを結びつけようとする試みについては、これまでのところ、誰もが「ははん、そうなのか」と納得するような「確証」が残されている訳ではない。

 次には、かかる動乱を現代人はどう評価しているだろうか、そのことにつき軍事介入をした側のロシア国民がどのように思っているかを、簡単に見ておこう、次の新聞報道を紹介しよう。
 「50年前の1968年8月に当時のチェコスロバキアにソ連軍などか侵攻し、「プラハの春」と呼ばれた民主改革を圧殺した事件について、ロシアの独立系世論調査機関「レバダ・センター」は21日、ロシアの回答者の3分の1が「侵攻は正しかった」とした調査結果を発表した。当時のチェコスロバキアの民主改革を「反ソ分子による政変」「西側による策動」と否定的にとらえる回答は計44%にも及んだ。(中略)
 今回の調査で「プラハの春」へのロシア国内の否定的な見方は10年前の同じ調査より18ポイント伸びた。「ソ連支配の体制に対する反乱」や「民主改革の試み」と肯定的に見る回答は28%で、「侵攻は正しくなかった」としたのは19%、最初の質問で「プラハの春」について「何も知らない」と答えた人は10年前より9ポイント減って46%だった。」(朝日新聞、2018年8月23日付け)
 ロシア国内では、2014年にプーチン政権がクリミア半島を軍隊を派遣して併合を行ったのを契機に現政権の対外政策への支持が急上昇しているという。また、その後ウクライナなど旧ソ連国において反ロシアの動きが盛んになっている。そして今回、それらが合わさってロシア国民のかつての国際的栄光(社会主義国の盟主的存在)を振り返り、自分たちの現状に対する不満や怒りなどが色濃く現れているのではないだろうか。
その一方において、この調査とは別な生活面での調査もなされているようなのだが、こちらの調査では、ソ連時代の方が暮らしやすかったという声もかなり出てきているという結果もあるとされ、現代ロシア人の自由と民主主義に関する意識のあり方がかなりな複雑さ、のっぴきならないいびつな構造となっていることが読み取れよう。
 
(続く)

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新◻️174『岡山の今昔』井原市

2021-12-30 11:03:45 | Weblog
174『岡山の今昔』井原市

 井原(いばらし)は、2005年3月1日、井原市、それまでの後月郡芳井町及び小田郡美星町の1市2町が合併してできた。県の西南部にあり、西は広島県に接す。江戸時代までは、備後と連れだって、話に上っていた。そこの中心地の福山市とは、古くから人びとの生活、経済が通じており、共に繁栄したと伝わる。
 その面積としては、243.54平方キロメートルある。北部は、標高200~400メートルの丘陵地帯で吉備高原へと続く。南部には、小田川が、地域の南部を西から東へ貫流し、その流域の平野部に市の中心部がある。
 気候としては、年間平均気温は約13~15℃、年間降水量は1,200ミリメートル前後だという。
 この辺りの交通の便利は、「ほどほど」というところだろうか。倉敷市真備町からは国道486を西へ、広島県福山市神辺(かんなべ)町からは国道313号を東へと向かううちに、町並みが見えてくる。また、旧山陽道に沿うように走るのが井原鉄道であって、総社を出発して高梁川を渡り川辺宿(かわなべ)に近づく辺りからは、高梁川の支流の小田川にも沿っての旅路となり、概ね田舎の田園地帯を進むうち、やがて列車は井原市内の早雲の里荏原から井原の市街地へと入っていく。

 これらの自然を含めての環境下、産業としては、かねてからの繊維をはじめ、自動車部品や電子部品、それに食器製造、鉱業なとが盛んだという。これらのうち、「デニムの聖地」とまていわれる背景には、高級ジーンズ生地を使っての井原オリジナルのジーンズやデニムシャツが生産されており、その一部は欧米にも輸出されるほどの品質と聞く。
 
 次に、このうちの西部、美星地区は、国内でも大規模の天文台で広く知られる。好天なら、遠く瀬戸大橋まで望むことができるという。公開されており、口径101センチメートルの天体望遠鏡で、360度パノラマの星空を眺めることができるというから、一度覗いてみたい。
 合併前の美星町の時代に、1989年に光害防止条例を全国に先駆けて制定した。その前文には、「多くの人々がそれぞれに感動をもって遥かなる星空に親しむよう宇宙探索の機会と交流の場を提供することが美星町及び美星町民へ与えられた使命」とある。

 2021年11月12日には、岡山市内で「星空保護区」の証書授与式が開かれた。天体観測の好適地として知られる井原市の美星町地区で、国際認証制度「星空保護区」の認定を契機に新たなまちづくりが動き出したというのだ。しかも、単なる人集めではなく、「星空保護区」は夜空の環境保全に益するように、との目的意識がちゃんと宿っているというから、驚きだ。その社会的背景としては一体何があるのだろうか。
 新聞報道によると、今ではかなり有名なっている、国連が唱導しているSDGs(持続可能な開発目標)に照らして、行政と民間が協力、相互乗り入れ、もしくは一体となっての自然生態系を守るための行動計画の策定を進める話なのだという。

 また、旧芳井町は、井原鉄道でいうと井原を過ぎ、いずえ、子守唄の里高屋の辺りをいう。その西の先は、もう県境だ。大まかには、農村地帯なのであろうか。明治ごぼうは、この地の粘土質の赤土の中で生産される。聞けば、「普通のゴボウよりも太く育ち、食べると風味があって柔らかい」とのこと。地元では、これをラーメンなどに入れて、おいしく食べる食文化があるらしい。

(続く)

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