新♦️279『自然と人間の歴史・世界篇』生物学(メンデル、モーガンなど)

2021-12-11 21:57:04 | Weblog
279『自然と人間の歴史・世界篇』生物学(メンデル、モーガンなど)

 グレゴール・メンデル(1822~1884)は、当時のオーストリア帝国・ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)人。長じては、修道士を務めながら、植物学に興味を抱く。仕事の合間に、畑でエンドウ豆を栽培し、新しい豆を収穫していく。用いた方法は、同一の花の雄(お)しべと雌(め)しべで花粉を受精させるもので、「自家受粉」と呼ばれる。まずは、筆をとって雄しべにある花粉を同じ花の雌しべにつける、その後は、他の花の花粉がつかないように、その花に袋をかぶせる。そうやってを繰り返していくと、やがて純粋系の品種が得られるようになる。例えば、必ず丸々とした豆が穫れるとか、黄色い豆ばかりが穫れるとかになる。
 このようにして形質がはっきり異なる(対立する)複数の種類のエンドウ豆を手にしたところで、メンデルは、遺伝形質は遺伝粒子(後の遺伝子)によって受け継がれるという、粒子遺伝が実現するとの仮説の正当性を調べる作業にとりかかる。
 具体的には、エンドウの「豆の形(丸/しわ)」、「豆の色(黄色/緑色)」、「さやの色(緑色/黄色)」、「さやの形(ふらんでいる/くびれている)」、「花の色(赤色/白色)」、「花のつき方(散らばっている/上に集まっている)」、そして「茎の背丈(高い/低い)」という7つの形質に着目した。そして、これらの異なった形質をもつエンドウ豆を交配して、それぞれの形質が、子孫にどう受け継がれるかを調べる。
 そこで、自家栽培のエンドウ豆中、豆を丸くする遺伝子をA、豆にしわをつくら遺伝子をaとおき、必ず丸い豆が穫れるエンドウ豆はAAという遺伝子を持ち、必ずしわの寄った豆が穫れるエンドウ豆はaaという遺伝子を宿していると考えよう。その上で、彼は、AA型とaa型のエンドウ豆をかけ合わせてみる。
 すると、雑種第一代の豆はすべて丸型の豆となった。この事実を前にして、彼は、豆の形を丸くする遺伝子Aと、豆にしわをつくる遺伝子aとの交配においては、Aの形質の方が優性的であることに思いいたる(これを優性の法則という。ただし、これをもって「優れた」とか「劣った」とかいう意味ではない)。
 しかし、豆の外見だけでは、それがAa型のエンドウ豆だとは結論できない。そこで、今度は自家受粉によって雑種第一代のエンドウ豆同士を掛け合わせることにしていく。そして第二代のエンドウをつくってみたところ、この代では丸い豆としわのある豆がほぼ3対1の比率で穫れた。このことから、雑種第一代のエンドウ豆が遡ってaの遺伝子を宿したAa型のエンドウ豆であったことがわかったのである。
 以上をまとめると、親がAA(丸)とaa(しわ)とした場合の子(雑種第一代)がAa(丸)であり、これを同じAa(丸)と交配することで、孫(雑種第二代)としては、AA(丸)、Aa(丸)、aA(丸)、そしてaa(しわ)の3対1の構成となったのだ。ここでいうAとaという、いわば対立する遺伝子が同じ割合で分かれて配偶子に入る、つまり、遺伝子が混ざり合うことなく次代へ伝わっていくことを、生物学では「分離の法則」という。

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 トーマス・フント・モーガン(1866―1945)は、アメリカの遺伝学者だ。父は、南軍の勇敢な兵士だった。そこそこの家庭であったようで、14歳で地元のケンタッキー州立大学に入り、そこでクランドールという博物学の先生に出会い、これを仕事にしたいと考えたようだ。ジョンズ・ホプキンズ大学へと進み、1890年には同大学で博士号を得た。 1904年にはコロンビア大学の実験動物学教授となり、生活が安定したのは大きいのではないか。実験発生学の分野で多くの業績をあげていく。1910年頃からは、遺伝学へとのめり込んでいく。 その発端は、飼育していたキイロショウジョウバエに白眼の突然変異を発見したことだ。簡単に飼育でき、繁殖も容易で、実験生物としてはもってこいだという。 モーガンは、ショウジョウバエで数多くの交雑実験を行い、対立形質がいくつかの組合せをつくって遺伝することを突き止める。そして、その組合せが染色体の対(つい)と同数であることから、遺伝因子は染色体上に線状配列するという遺伝子説を提唱した。それらは、メンデルの法則をさらに進めたという評価から、1933年にはノーベル生理学賞を受賞した。

(続く)

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新495『自然と人間の歴史・世界篇』オストワルト法(硝酸、1903)とナイロンの発明(1938)

2021-12-11 20:54:48 | Weblog
495『自然と人間の歴史・世界篇』オストワルト法(硝酸、1903)とナイロンの発明(1938)

 アンモニアを原料にして硝酸をつくることができれば、ということで、ドイツの化学者オスワルト(1853~1932)が、1903年、硝酸を安価に製造する技術を発明した。これを『オスワルト法』または『アンモニア酸化法』と呼ぶ。その反応の過程は、次の三段階をたどる。

①アンモニアを酸化

 まずは、原料のアンモニアを約800℃の高温にて空気中の酸素で酸化する。そうすると、アンモニアは一酸化窒素となり、水も生じる。この反応の触媒としては、白金(Pt)が用いられる。

①式:4NH3+5O2→4NO+6H2O

 次に、一酸化窒素NOから二酸化窒素をつくる。具体的に、①で得られた一酸化窒素を空気酸化する方法としては、かかる反応後の混合気体を約140℃以下に冷却し、①の生成物の一酸化窒素が未反応の酸素と結合して二酸化窒素になり変わる。

②式:2NO+O2→2NO2

 さらに、二酸化窒素から硝酸をつくる。具体的には、②で得られた二酸化窒素を約50℃の温水に吸収させることで、硝酸(HNO3)を得る。

③式:3NO2+H2O→2HNO3+NO

ここで、③で生成されたNOは捨てずに、②のNOに使われる。そして。この操作を繰り返すことによって、原料のNH3をすべてHNO3に変化させる案配だ。
 以上を①式、②式及び③式をまとめると、①式+②式×3+③式×2より、
NH3+2O2→HNO3+H2O  
オストワルト法の原料はNH3、目的はHNO3であるので、途中の形成物質であるNOとNO2は別扱いとなろう。


 この発明により、アンモニアさえ調達できれば、硝酸を大量につくり、その硝酸から各種方法により硝酸カルシウム(Ca(NO3)2)や硝酸ナトリウム(NaNO3)などの窒素肥料を大量につくることが可能になったのだ。

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 ウォーレス・ヒューム・カローザス(1896~1937)は、アメリカの高分子化学者だ。父の教える商業学校で学んだ後、大学へ行きたいのを我慢して、簿記の学校へ入る。そこて、アルバイトとして行ったターキ大学の商学部の助手になったのが幸いした。助手として働きながら、同大学の理学部の学生となることができたのだ。
 1920年には、ターキオ大学を卒業し、イリノア大学院で化学を専攻へ進み、1924年学位を取得後、ハーバード大学で教授を務めていたところ、1928年にデュポン社の基礎研究プログラムの有機化学班長として迎えられた。
 翌1929年には、当時は、まだほとんどわかっていなかった高分子有機化学のうち、重合を付加重合と縮合重合の二つのタイプに分類するのに成功した。付加重合の研究からは、合成ゴム・ネオプレンがつくられる(1931年工業化)。

 それからの縮合重合の研究においては、天然の絹糸に似せた新しい繊維をつくろうと、あれこれと分子設計してみる。けれども、アミノ酸のように異なった種類の連結器を持った化合物はなかなか見つからなかった。それがある時、「それは、一つの分子の両端に、ちがった種類の連結器がなくたって、一つの分子の両端を1個ずつ持った、ちがった種類の分子でもよいのか」(米山正信「子どもと一緒に楽しむ、科学者たちのエピソード20」黎明書房、1996)と考えたという。

 そのような考えで、カロザースら開発チームは、様々な種類のジアミンとジカルボン酸の組み合わせによる合成実験・反応を繰り返しまた繰り返しで試みる。その中から、ジアミンの一種であるヘキサメチレンジアミンと、ジカルボン酸の一種としてのアジピン酸との2種を化学的に連結させると、最も良い糸状の繊維ができることを発明した。
 こうして、ポリアミド系合成繊維ナイロン(通称ナイロン6,6)をつくるの成功する、まさに「世紀の出来事」だった。

 その開発チームを指導したカローザス自身については、1936年に結婚するのだが、研究で疲れた身の癒しを求める彼としては社交の場は馴染まなかったようで、うつ病が高じて1937年に服毒自殺をしてしまう、その翌年、ナイロンはデュポン社から大々的に発表され、そして、父をしらない娘、ジェーンが生まれたのだという、

(続く)

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