279『自然と人間の歴史・世界篇』生物学(メンデル、モーガンなど)
グレゴール・メンデル(1822~1884)は、当時のオーストリア帝国・ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)人。長じては、修道士を務めながら、植物学に興味を抱く。仕事の合間に、畑でエンドウ豆を栽培し、新しい豆を収穫していく。用いた方法は、同一の花の雄(お)しべと雌(め)しべで花粉を受精させるもので、「自家受粉」と呼ばれる。まずは、筆をとって雄しべにある花粉を同じ花の雌しべにつける、その後は、他の花の花粉がつかないように、その花に袋をかぶせる。そうやってを繰り返していくと、やがて純粋系の品種が得られるようになる。例えば、必ず丸々とした豆が穫れるとか、黄色い豆ばかりが穫れるとかになる。
このようにして形質がはっきり異なる(対立する)複数の種類のエンドウ豆を手にしたところで、メンデルは、遺伝形質は遺伝粒子(後の遺伝子)によって受け継がれるという、粒子遺伝が実現するとの仮説の正当性を調べる作業にとりかかる。
具体的には、エンドウの「豆の形(丸/しわ)」、「豆の色(黄色/緑色)」、「さやの色(緑色/黄色)」、「さやの形(ふらんでいる/くびれている)」、「花の色(赤色/白色)」、「花のつき方(散らばっている/上に集まっている)」、そして「茎の背丈(高い/低い)」という7つの形質に着目した。そして、これらの異なった形質をもつエンドウ豆を交配して、それぞれの形質が、子孫にどう受け継がれるかを調べる。
そこで、自家栽培のエンドウ豆中、豆を丸くする遺伝子をA、豆にしわをつくら遺伝子をaとおき、必ず丸い豆が穫れるエンドウ豆はAAという遺伝子を持ち、必ずしわの寄った豆が穫れるエンドウ豆はaaという遺伝子を宿していると考えよう。その上で、彼は、AA型とaa型のエンドウ豆をかけ合わせてみる。
すると、雑種第一代の豆はすべて丸型の豆となった。この事実を前にして、彼は、豆の形を丸くする遺伝子Aと、豆にしわをつくる遺伝子aとの交配においては、Aの形質の方が優性的であることに思いいたる(これを優性の法則という。ただし、これをもって「優れた」とか「劣った」とかいう意味ではない)。
しかし、豆の外見だけでは、それがAa型のエンドウ豆だとは結論できない。そこで、今度は自家受粉によって雑種第一代のエンドウ豆同士を掛け合わせることにしていく。そして第二代のエンドウをつくってみたところ、この代では丸い豆としわのある豆がほぼ3対1の比率で穫れた。このことから、雑種第一代のエンドウ豆が遡ってaの遺伝子を宿したAa型のエンドウ豆であったことがわかったのである。
以上をまとめると、親がAA(丸)とaa(しわ)とした場合の子(雑種第一代)がAa(丸)であり、これを同じAa(丸)と交配することで、孫(雑種第二代)としては、AA(丸)、Aa(丸)、aA(丸)、そしてaa(しわ)の3対1の構成となったのだ。ここでいうAとaという、いわば対立する遺伝子が同じ割合で分かれて配偶子に入る、つまり、遺伝子が混ざり合うことなく次代へ伝わっていくことを、生物学では「分離の法則」という。
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トーマス・フント・モーガン(1866―1945)は、アメリカの遺伝学者だ。父は、南軍の勇敢な兵士だった。そこそこの家庭であったようで、14歳で地元のケンタッキー州立大学に入り、そこでクランドールという博物学の先生に出会い、これを仕事にしたいと考えたようだ。ジョンズ・ホプキンズ大学へと進み、1890年には同大学で博士号を得た。 1904年にはコロンビア大学の実験動物学教授となり、生活が安定したのは大きいのではないか。実験発生学の分野で多くの業績をあげていく。1910年頃からは、遺伝学へとのめり込んでいく。 その発端は、飼育していたキイロショウジョウバエに白眼の突然変異を発見したことだ。簡単に飼育でき、繁殖も容易で、実験生物としてはもってこいだという。 モーガンは、ショウジョウバエで数多くの交雑実験を行い、対立形質がいくつかの組合せをつくって遺伝することを突き止める。そして、その組合せが染色体の対(つい)と同数であることから、遺伝因子は染色体上に線状配列するという遺伝子説を提唱した。それらは、メンデルの法則をさらに進めたという評価から、1933年にはノーベル生理学賞を受賞した。
(続く)
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グレゴール・メンデル(1822~1884)は、当時のオーストリア帝国・ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)人。長じては、修道士を務めながら、植物学に興味を抱く。仕事の合間に、畑でエンドウ豆を栽培し、新しい豆を収穫していく。用いた方法は、同一の花の雄(お)しべと雌(め)しべで花粉を受精させるもので、「自家受粉」と呼ばれる。まずは、筆をとって雄しべにある花粉を同じ花の雌しべにつける、その後は、他の花の花粉がつかないように、その花に袋をかぶせる。そうやってを繰り返していくと、やがて純粋系の品種が得られるようになる。例えば、必ず丸々とした豆が穫れるとか、黄色い豆ばかりが穫れるとかになる。
このようにして形質がはっきり異なる(対立する)複数の種類のエンドウ豆を手にしたところで、メンデルは、遺伝形質は遺伝粒子(後の遺伝子)によって受け継がれるという、粒子遺伝が実現するとの仮説の正当性を調べる作業にとりかかる。
具体的には、エンドウの「豆の形(丸/しわ)」、「豆の色(黄色/緑色)」、「さやの色(緑色/黄色)」、「さやの形(ふらんでいる/くびれている)」、「花の色(赤色/白色)」、「花のつき方(散らばっている/上に集まっている)」、そして「茎の背丈(高い/低い)」という7つの形質に着目した。そして、これらの異なった形質をもつエンドウ豆を交配して、それぞれの形質が、子孫にどう受け継がれるかを調べる。
そこで、自家栽培のエンドウ豆中、豆を丸くする遺伝子をA、豆にしわをつくら遺伝子をaとおき、必ず丸い豆が穫れるエンドウ豆はAAという遺伝子を持ち、必ずしわの寄った豆が穫れるエンドウ豆はaaという遺伝子を宿していると考えよう。その上で、彼は、AA型とaa型のエンドウ豆をかけ合わせてみる。
すると、雑種第一代の豆はすべて丸型の豆となった。この事実を前にして、彼は、豆の形を丸くする遺伝子Aと、豆にしわをつくる遺伝子aとの交配においては、Aの形質の方が優性的であることに思いいたる(これを優性の法則という。ただし、これをもって「優れた」とか「劣った」とかいう意味ではない)。
しかし、豆の外見だけでは、それがAa型のエンドウ豆だとは結論できない。そこで、今度は自家受粉によって雑種第一代のエンドウ豆同士を掛け合わせることにしていく。そして第二代のエンドウをつくってみたところ、この代では丸い豆としわのある豆がほぼ3対1の比率で穫れた。このことから、雑種第一代のエンドウ豆が遡ってaの遺伝子を宿したAa型のエンドウ豆であったことがわかったのである。
以上をまとめると、親がAA(丸)とaa(しわ)とした場合の子(雑種第一代)がAa(丸)であり、これを同じAa(丸)と交配することで、孫(雑種第二代)としては、AA(丸)、Aa(丸)、aA(丸)、そしてaa(しわ)の3対1の構成となったのだ。ここでいうAとaという、いわば対立する遺伝子が同じ割合で分かれて配偶子に入る、つまり、遺伝子が混ざり合うことなく次代へ伝わっていくことを、生物学では「分離の法則」という。
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トーマス・フント・モーガン(1866―1945)は、アメリカの遺伝学者だ。父は、南軍の勇敢な兵士だった。そこそこの家庭であったようで、14歳で地元のケンタッキー州立大学に入り、そこでクランドールという博物学の先生に出会い、これを仕事にしたいと考えたようだ。ジョンズ・ホプキンズ大学へと進み、1890年には同大学で博士号を得た。 1904年にはコロンビア大学の実験動物学教授となり、生活が安定したのは大きいのではないか。実験発生学の分野で多くの業績をあげていく。1910年頃からは、遺伝学へとのめり込んでいく。 その発端は、飼育していたキイロショウジョウバエに白眼の突然変異を発見したことだ。簡単に飼育でき、繁殖も容易で、実験生物としてはもってこいだという。 モーガンは、ショウジョウバエで数多くの交雑実験を行い、対立形質がいくつかの組合せをつくって遺伝することを突き止める。そして、その組合せが染色体の対(つい)と同数であることから、遺伝因子は染色体上に線状配列するという遺伝子説を提唱した。それらは、メンデルの法則をさらに進めたという評価から、1933年にはノーベル生理学賞を受賞した。
(続く)
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