🍁父・登(のぼる)の平和への思いを胸に(2021.12.16)

2021-12-16 20:56:31 | Weblog
父・登(のぼる)の平和への思いを胸に(2021.12.16)
 私の父は、第二次世界大戦中の中国において、旧日本陸軍の一員として中国人兵士と戦争をしていた。その間の話を、もうかなり前のある日のこと、私の問いかけに対して応えてくれたことがあった。傍らでは、祖母が座って聴いていた。あれから数十年、いまから考えると、本人はそんな話はしたくなかった筈だ。
 それは、告白といおうか、懺悔といおうか、かといって沈痛な調子ではなく、たんたんと、口数は多くなかったのだが。それでも、今日改めて持ち出すのは、その村に中国軍がいないことで安心したのか、部隊が一息ついた後のことであったろうか、日本人兵士たちの中には「女を探しにいく」ということで出かけた者が少なからずいたというから、大層驚いた。その時の父は、「お父ちゃんは行かなかった」と。念のため断っておきたいのは、父は決して嘘が言えるような器用な人ではなかった。
 そんな70年以上前の話をいまなぜ繰り返し紹介するのかというと、私たち日本人の少なくない人たちの頭の中に、かつてのアジア侵略の歴史を、憲法第9条の平和条項とともに消し去ろうとする動きが激しくなりつつあるのを感じるからである。(2021.12.16)


新◻️172『岡山の今昔』里庄町(浅口郡)

2021-12-16 18:59:24 | Weblog
172『岡山の今昔』里庄町(浅口郡)

 里庄町(さとしょうちょう)は、岡山県南西部にある、浅口郡に属す。1905年(明治38年)には、里見村と新庄村が合併して里庄村となる。1950年(昭和25年)には、町制に移行する。

 町の面積は12.23平方キロメートル、人口1万929人(2015)だという。その地質・地形としては、岡山平野西方の鴨方(かもがた)地溝帯にあり、南部と北部は「丘陵性山塊」と呼ばれる。

 この地だが、古代律令制の下では拝師郷(はやしのごう)(林郷)、中世での口林(くちばやし)庄があった。

 交通の便利は、県南のためもあって、大方よいのではないか。平野部に、国道2号とJR山陽本線が走る。これらが効いて、岡山、倉敷両市のベッドタウン化が進んでいるとのこと。とはいえ、北部との交通連絡が課題ではないだろうか。 
 
 伝統的産業としては、一つに大原焼、二つ目に酒造業だという。大原焼の歴史は奈良時代に遡るともいわれ、庶民の日用品を好んで製作とのこと。

 まずは大原焼というと、こちらの焼き物は、備前焼と同じように釉薬を用いることはないという、そして高温で焼き締めた焼き物にして、評判では「使い込むにつれて光沢が銀色から金色に変わるという」(文はみわ明、写真はトラベルネットワーク「全国焼き物体験」昭文社、1997)から、驚きだ。

 一方、酒造業は江戸後期。以来240年の技と伝統が今に生きる。仕込み水には山からの湧き水を使用。米は地元のものを岡山のアケボノ、朝日、吟醸酒には山田錦の原料米を使い分けているらしい。その口当たりは柔らかいとのこと。
 モモやカキ、まこもたけ栽培がある。近年は、機械器具や食品などが盛んで、かつ、海外展開では、こんな事例が報道されている。

 「半導体製造装置のジェイ・イー・ティ(JET、岡山県里庄町)は太陽光発電パネルの製造装置事業を拡大する。特殊な薬剤を使い歩留まりを向上させることで、従来よりも2割程度安価にパネルを製造できるようにする。主に中国企業への輸出を目指す。売上高のほとんどを半導体製造装置が占めており、事業を多角化し経営を安定させる。
 同社がパネルメーカーに導入を提案するのは原材料のシリコンの表面を加工する装置。(以下、略)」(2015年4月9日付け日本経済新聞電子版)


(続く)

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新300「岡山の今昔」 17世紀の岡山・兵庫人(宮本武蔵)

2021-12-16 10:12:48 | Weblog
300「岡山の今昔」 17世紀の岡山・兵庫人(宮本武蔵)

  宮本武蔵(?~1645、生年は一説には1584)といえば、剣豪のみならず、墨で描いた絵画をはじめ、書・彫刻・工芸・連歌、果ては晩年の都市計画や庭園設計までもが現代に伝わるという。

 その生家の出目については、よくわかっているとは言い難い。一説には、故郷を美作国吉野郡宮本村(現在の美作市大原町宮本)と目して、こう説明されている。
 「新免家は当時、播磨・備前・美作三か国に君臨し巨大な勢力を誇っていた赤松円心ともつながりをもっていた。新免家家系図をみても、上月(こうづき)城主、平福利神(ひらふくりかん)城主と縁故があり、新免伊賀守宗貞(むねさだ)の妻は竹中半兵衛(たけなかはんべえ)の姉であるなど、東作(とうさく)地方における名家であった。」(研秀出版による「日本の民話」第12巻・中国2の中の船曳芳夫(ふなひきよしお)「宮本武蔵伝説」1977より引用)

 では、その剣の修行をどのような経緯で始めたのだろうか。それについては、かなりの憶測が入る話にならざるを得ないものの、一説には、次のように語られている。
 「このとき、新免家は関ヶ原戦に敗れて、「落城没落九州黒田筑州公仕(つかえ)、宗貫卒(そつ)す」と系譜にうるが、武蔵が関ヶ原戦に出たという記録はない。
 播州平福利神城の麓(ふもと)に庵(いおり)村(現・佐用庵)がある。そこに宮本村の平田家より分かれた平田四郎右衛門が大庄屋を、していた。武蔵(幼名・弁の助)は、その二代目四郎左衛門の家に寄遇(きぐう)して、その家の二男道林坊について付近にある正蓮庵(しょうれんあん)という庵において修練したという。もちろん父武仁からも剣術を教わっていたであろう。」(同、前掲書)

 それと、本人は後年こう述懐している。
 「16歳にして但馬(たじま)の国秋山という強力の兵法者に打ち勝ち、21歳にして都へ上り、天下の兵法者にあい、数度の勝負を決すといえども、勝利を得ざるこということなし。その後国々所々に至り、諸流の兵法者に行逢い、六十余度まで勝負するといえども、一度もその利を失わず。その程年十三より二十九までの事也。」(「五輪書」)

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 加えるに、彼は武芸に秀でていたという、独特の人物であったことが知れている。そして、その謎を解く手掛かりとしては、彼自身による次の言葉が挙げられよう。
 「兵法の理をもってすれば、諸芸諸能もみな一道にして通さざるなし。」(「五輪書」)と。
 とはいえ、これが慢心から出たものでないことは、はっきりしている。それというのは、また、こうあるからだ。
 「千日の稽古(けいこ)を鍛(たん)とし、万日の稽古を練(れん)とす。」(同)
 その絵からいうと、重要文化財の「枯木鳴鵙図」(こぼくめいげきず)をはじめ、「鵜図」(うず)、「布袋観闘鶏図」(ほていとうけいをみるのず)などがある。「枯木鳴鵙図」からは、ピンと張りつめた緊張感が伝わる。木の枝の上の方に一羽の鵙(もず)がいて、その枝を下にたどっていくうちに、へばりついた芋虫が見つかる。木の両側には、大いなる空間があって、遠くからでも眺めることができたのではないか。
 
(続く)

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