新217『岡山の今昔』岡山市(中区)

2021-12-31 10:47:23 | Weblog
217『岡山の今昔』岡山市(中区)

 中区といえば、2009年4月1日に設置された。特徴的なのは、岡山市の内で一番小さい区ながら、それとの比較相対で多くの人口を擁している訳だ。

 具体的には、市全域の数値が719,474人なのに対し、その数は146,232人。一方、市全体に対する中区の面積割合は20.32%であって、市全域の数値789.95平方キロメートルなのに対し、こちらは51.24平方キロメートルであるに過ぎない。

 その区域については、おおむね旭川以東から百間川以西とでも表現したらよいだろうか。すなわち、北には龍ノ口山、中央には操山(みさおやま、後楽園の少し東側)の丘陵地、西には旭川、東にはその洪水時の放水路としての百間川と、それからかなり下って瀬戸内海へ出会うまでの南部には、児島湾を干拓した農地などが、かなりの広範囲で広がる。

 歴史的には、この辺りには、古代より人々が居住していたようだ。百間川遺跡や操山古墳群からは、当時からかなりの先進地域であったようである。


 もう少しいうと、百間川は、江戸時代、旭川の洪水時の分流しての負担軽減を意識して開削された人工の放水路だ。現在の北区三野から中区中島にかけての付近で旭川と分流し、操山(みさおやま)の北を東流する。中区米田付近で、東にそびえる芥子山を避けるように大きく南に流れを変え、干拓地の方へと下っていく。
 そのとっかかりからの道程の途中には、旧石器時代、縄文時代から弥生時代までの遺跡、さらには操山古墳群などが見つかっており、中でも弥生時代を通じてのこの辺り、現在でいう百間川の河川敷には、原尾島遺跡、沢田遺跡、百間川兼基・今谷遺跡、米田遺跡からなる、複数の水田跡が見つかっていることから、当時にはすでにかなりの密度で人々が生活していてことが窺えよう。


 やがて奈良時代まで下ると、賞田地区に備前国の国府が置かれていたのではないかと。江戸時代まで下ると、門田地区・東山地区は城下町の一角となり変わる。

 江戸時代、京都・大坂から西国街道(山陽道)でやって来た人々は、藤井(東区)へと入っていた。その時点では岡山城が見えていたのだろう、藤井の宿を越えた辺りから本街道は西南へ下っていく。やがて、森下町(中区)にいたり、そこは城下町の東の入り口となっていた。それからも南下して小橋町のところで京橋を西へ渡り始めると、城下町の中心への道になっていくのだが、現在の東区内の町割りということでは、その方向には向かわず、ひたすらに南下していく流れとなっている。

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 交通は、岡山バイパス(国道2号線)、それに南北に走る県道45号線が動脈となり、その沿線には工場が林立している。

 明治時代には、山陽鉄道や西大寺鉄道が整備される。大正時代になると、路面電車が東山地区まで延長される。

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 人文・歴史面では、区内は、旧制第六高等学校、岡山県岡山高等女学校と創立となって、文教地区としての発展していく。
 変わったところでは、この内には、国清寺という臨済宗の禅寺がある。1609(慶長14年)に、岡山藩の事実上の領主だった池田利隆が池田家の菩提寺(ぼだいじ)として建立した法源寺が始まりだとされる。以来、時の権力との結びつきを重ねてきたよう。それでも、庶民にはこの辺りでは、あの「ゴォーン」と鳴り響く「除夜の鐘」でもって近隣の人々にゆく年くる年を知らせてくれているという。
 そこでこの寺に設置されている鐘の話なのだが、1665(寛文5年)に京都の著名な鋳物師だった藤原国次(ふじわらくにつぐ)が製作し、その銘が鐘の裏に記されている。鐘は長さ120センチメートル、口径68センチメートルで程よい、朝鮮系の要素を取り入れているというから、なんでも名品に違いあるまい。
 それが、太平洋戦争開戦前の1941年(昭和16年)8月には、災難にあいかけたという。なぜなら、政府は金属類回収令を公布、寺院に鐘の供出を求めた。軍需品製造のための鉄不足を補うためであった。これに対して、当時の住職がかたくなに拒み、かわりにというか、境内にあった青銅製の観音像は持って行かれたのだと伝わる。


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 商店街ということでは、かねてから、この地域は商業でにぎわってきた。それに住宅地は、中区の北側を東西に横断するJR山陽本線の西川原駅を中心に広がる。中でも、古くから城下町として開けていた門田・東山地区や国道250号が通る高島・東岡山地区には、1960年代の高度成長期から住宅建設が進んできた。


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 町の話題あれこれということでは、新聞、テレビなどのメディアにおいて取材があるので、幾つか紹介しよう。

○旭川によって形成された龍ノ口山から操山にかけての扇状地は、岡山市街地北東部に連なる山々を背景に形成されたもので、祇園用水、倉安川などからの大小の農業用水路が張り巡らされているという。
 その水辺には、アユモドキ(天然記念物)やホタルなど貴重な動植物が生息しており、特にアユモドキは、岡山県内の河川と、琵琶湖・淀川水系にだけ棲んでいる珍しい淡水魚で、国の天然記念物に指定されている。
 ところが、同類のドジョウに似て、増水時に水没するような草の生い茂った浅瀬に棲み、5~9月に産卵するとのことながら、河川や田んぼの改修などによって、棲むところや産卵する場所が少なくなりつつあるという。

○中区といえば、4区のうちでは最も人口が緻密であるという。地図を広げてみよう。南側斜面は市街化が進み、住宅地であるが、北側は里山のたたずまいを残した集落が点在し、果樹園や畑、竹林が広がっている。
 そんな操山公園里山センターは、平成9(1997)年11月25日に開館し、以後多くの人々に親しまれている。位置は、操山〔みさおやま〕地区は、岡山市中心部の東に位置し、標高130から170mの山々が東西方向に連なる丘陵地である。
 こちらを楽しむのは、トレッキングだという。いわゆる一つの低山登山という感じでした。操山山頂まで行くことかできよう。それでも、この山はほぼほぼ階段状の坂道、しかも分かれ道が多く、目的地を明確に描いていないと全く別の場所に行ってしまう。気軽に森林浴を楽しむにはよいのてはないか。
 それと、展望もよいという。操山からは岡山平野や市街、また、児島湾、吉備高原の山々も見える。なお、山麓一帯には、古墳や曹源寺、安住院、瓶井の塔などの寺社が点在し、歴史と文化を知る上でもみどころも多いようだ。

 今につながる中区の「保健福祉・子育て」については、岡山市が2016年に作成した、次の報告があり、これに沿った現状認識を重ねることが期待されよう。 
 「・高齢化率は市平均より低いが、「ひとり暮らし高齢者」「高齢者のみの世帯」の割合は4区の中で最も高い。・高齢化率が高い地域の中には、コミュニティのつながりを深め、高齢者を地域で支えるため、活発に取り組んでいる地域がある。・子どもの割合は南区と並び最も高く、合計特殊出生率は○○(2013)と4区の中で最も高い。・各中学校や小学校区単位で健康市民おかやま21の推進体制があり、特に学校と連携して食育などの普及啓発活動を推進している。」(岡山市「区の概況、現状と課題」2016年6月の中の「区別計画策定に向けた検討シート(中区)」)


(続く)


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