新170『岡山の今昔』高梁市(旧川上郡と旧阿哲郡の地域)

2021-12-22 09:18:48 | Weblog
170『岡山の今昔』高梁市(旧川上郡と旧阿哲郡の地域)

 新見から高梁にかけての南下ルートに対し、その西に位置しているのが、高梁市川上町(旧川上郡)、新見市阿西町(旧阿哲郡)であり(前者は後者の南に位置する)、両郡とも現在は高梁市に属す。交通面では、新見から南西方向に迂回して、吹屋(ふきや、高梁市に合併前の川上郡吹屋)を通って山陰と山陽とを結ぶ陸路のルートが栄えたという。
 まずもっての阿哲台(あてつだい)は、標高は約500〜600メートルの台地をなす一帯なのだが、その地質基盤としては、阿哲石灰岩層群(元の秩父古生層)と三郡変成岩類(変成された秩父古生層)の二つの地層から成るという。それぞれの厚さは1500mの内、石灰岩層は600mほどもあるという。台地の中央を南北に流れる複数の河川によって、石蟹郷台、草間台、豊永台、唐松台の四つに分かれているとのこと。
 そこから成羽(高梁市に合併前の川上郡成羽(なりわ)町)にかけて地形に目を向けてみると、このあたりは、中生代ジュラ紀(現在から約1億9960万年前~約1億4550万年前)末にまでさかのぼる。その頃に陸化したであろう日本列島は、その前の古生代の昔から、その後の新生代中新世になって日本海ができるまでは、東アジア大陸の一部を成していたであろう。


 現在の県内において、自然が織り成す景観は全国でも珍しいほどの独特のものがあろう。中でも有名なのは、井倉洞(いくらどう)、磐窟峡(いわやきょう)、豪渓(ごうけい)の3どころであろうか。井倉洞は伯備線の井倉駅から歩いて約5分と近い。
 ここで話を元の地域に戻して、磐窟峡は、成羽川の一支流、磐窟(いわや)川という小さな川をさかのぼったところにある磐窟谷と呼ばれる深い谷を擁していて、その辺りは樹木もうっそうとしているとされる。こちらも、県の中西部にある白亜の断崖が連なる阿哲台と呼ばれる石灰岩台地の一部であって、磐窟川が長い歳月を掛けて浸食してできた渓谷美は、国指定の名勝地となっている。
 そこでの地質としては、「石灰岩と角岩とからなる標高400~500メートルの台地をつくった深い峡谷となっている。川というより谷の両側に高さ100メートルにおよぶ断崖絶壁が屏風のように連なっている。(中略)
 このほか、見晴らし、天狗(てんぐ)遊び、蜂(はち)の巣(す)岩、白布(しらぬの)の滝などと名付けられた絶壁、奇岩、滝などが約1キロほどのあいだに集中している。
 絶壁の中腹には、1968年(昭和43年)に発見された鍾乳洞・ダイヤモンドケイプがある。長さ400メートルの洞で、非常に繊細な鍾乳石や石筍(せきじゅん)が多く、方解石の結晶がダイヤのように光り輝き、宝石倉のなかに入ったような錯覚さえ受ける。」(「日本の湖沼と渓谷」11、中国・四国、ぎょうせい、1987)

 そんな自然の歴史については、興味深いことが色々とわかっており、ここではその中からまず、現在の岡山県西部、川上郡の町であるところの大賀(たいが)地区を見よう。そこでは、日本列島全体でも珍しい、古代の地形が見られる。その名を「大賀デッケン」という。
 ちなみに、地質学では、地層が切れた際の衝上面と水平面との角度が40度以上である場合を押し被せ断層と呼び、それ以下の低角度をデッケン(Decken)あるいはナッペ(Nappe)と呼ぶ。なお、大賀という土地名は、地名で滝がある「大竹」と、「仁賀」とを併せた由来となっているらしい。その大賀から徒歩2~3分の距離で仁賀の家並みがある。道は、岡山県道294号線を辿って現地にさしかかる。この場所には、領家川が流れている。この川は成羽川の支流であって、領家川流域の吉備高原に位置するところだ。

 参考までに、現地に建つ案内板には、こうある。
 「天然記念物 大賀の押(お)し被(かぶ)せ(大賀デッケン)、昭和12年6月15日国指定
 海流や河川流によって運搬された土砂などは、その運搬作用が止むとき堆積し、地層を形成する。一般に地層が上下に積み重なるとき、上に重なった地層は下にある地層よりも新しい。ところがこの大賀地区では中生代の三畳紀(約2億年前)に堆積した新しい地層(成羽層群)の泥岩・砂岩の上に古生代の石炭紀・二畳紀(約三億年前)に堆積した古い時代の石灰岩層(秩父古生層)が重なり、新旧の地層が逆転した「押し被せ構造」となっている。
 このめずらしい地質構造は中生代の白亜紀(約一億年前)に起こった大規模な地殻変動によってできたものである。このとき地層は横からの大きな力で押されて、上にふくらみ、さらにふくらんだ部分が倒れこんだり(横臥褶曲)、ずれたり(衝上断層)し、そのあと上部の地層が削られ、その結果残った部分が現在の姿となっているのである。
 現在も、この石灰岩層と泥岩層との境界部は河床に明瞭に見られる。この露頭は大正12年東京大学の小澤儀明博士によって発見された。
 なお、以上の説明とは別に、秩父古生層は隆起して浸食を受けさらに沈降し、その後この地層の上に成羽層群が堆積したという考えもある。文部省 岡山県教育委員会 川上町教育委員会」

 これにもあるように、中生代三畳紀(その中のざっと約2億年前と見られる地層)の泥岩、砂岩の地層(成羽層群(なりわそうぐん)といって、現在の川上町)の上に、古生代石炭紀ペルム期(ざっと約3億年前)、二畳紀の石灰岩の地層(秩父古生層)が覆いかぶさって、地層の逆転がおこっている。
 「このとき地層は横からの大きな力で押されて、上にふくらみ、さらにふくらんだ部分が倒れこんだり(横臥褶曲)、ずれたり(衝上断層)し、そのあと上部の地層が削られ、その結果残った部分が現在の姿となっている」というのであるから、その原因となった中生代の白亜紀(約1億年前)に起こった大規模な地殻変動の、より詳しい解明が期待される。

 ついでに、この辺りでの「石探し」を少しばかり紹介したい。こちらは、備中高梁駅から備北バスに乗り、川上バスセンター((終点)までいく。それから、成羽川(なりわがわ)を渡り、川上町吉木で川原(かわら)に降りてみよう。この川というのは、広島県庄原市付近の中国山地に源を発し、南下するうちに岡山県に入る、それから高梁市まで来て高梁川に合流する、一級河川だ。すると、五色石など色んな石が見つかるという。その模様は、例えば、こう言われる。
 「特に、成羽五色石と呼ばれる約1億年前の礫岩は色とりどりの礫が入っていてきれいなため、珍重されてきた。礫の種類はチャート、石灰岩、砂岩、泥岩などで、基質は赤色の泥岩で陸成の堆積岩である。また白い石灰岩には紡すい虫やウミユリの化石が含まれているものが多い。」(柴山元彦「ひとりで探せる川原や海辺のきれいな石の図鑑2」創元社、2017)


 この辺りでの植物分布にも特筆すべきものがあろう。この地、高梁市成羽の美術館が来客にわたしてくれるのではないか、そのパンフレットには、「成羽の化石ー日本最古の森」と題し、次の説明がある。
 「中生代三畳紀後期の約2億3千万年前、成羽地域では日本で最初の森が発達しました。その証拠として多くの植物化石を産出します。
 当時の森はイチョウやソテツといった裸子植物やヤブレガサウラボシの仲間のシダ植物が中心で、110種以上が報告されています。その中でも新種は38種と非常に多く見つかっています。このように多種多様な植物化石が産出する場所は世界でも珍しく、「Nariwa Flora(成羽植物群)」として多くの人に認識されています。」(高梁市成羽美術館)

 さて、現在の高梁市の吹屋(ふきや)については、観光ではあのベンガラ屋根の家並みが保存されていて、観光で有名だ。いまでこそ甚だ淋しい集落であるが、807年(大同2年)の開削以来明治の頃までは、日本屈指の銅山の一つであったという。江戸期には、泉屋(後の住友)、福岡屋(後の大塚)、三菱などの大店(おおだな)が銅山の採掘で巨万の富を生み出していた。
 顧みると、備中吹屋の銅山すなわち吉岡銅山(旧・川上郡成羽町)は、江戸時代、大坂の商家であった住友家が開発した銅山の一つであった。住友にとっては、1691年(元禄4年)に開坑した四国の別子銅山が有名であるが、当時はそれと並んで、1681年(天和元年)から吉岡銅山が、同1684年(天和3年)に出羽最上の幸生銅山が開発されており、住友の重要な財源となっていた。これらのうち吉岡銅山は、のちに地元の大塚家の手にわたり、しだいに鉱脈が細りつつも、幕末まで採掘を操業した。当時のこの地は江戸幕府直轄の天領だった。
 1873年(明治6年)になると、その経営は三菱が買収するところとなり、同社の下で近代的な技術を導入、地下水脈を制して日本三大銅山に発展させたことになっている。地元の資料によると、この山間の地に最盛期には約1600人もの従業員が働いていたというのだから、驚きだ。
1929年(昭和6年)に休山したものの、どういう成り行きであろうか、第二次世界大戦の敗戦後に採掘を再開し、以来ほそぼそと操業を続けていた。1972年(昭和47年)、海外からの良質で安価な銅鉱石の輸入増大に推される形で閉山した。
 なお、かかる旧川上郡には、旧成羽町の西隣に旧備中町があり、さらにその南には旧の川上郡川上町が位置していた。

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 自然の厳しさの中から、人々の生活にはどのような変化が生じていったのだろうか、例えば、次のように紹介されている。 

 「成羽川は備後(びんご)の道後(どうご)山を源に、備中・備後に広がる吉備高原に深い谷をけずりながら、高梁川に合流する。この川は古くから水運交通の要路として、高原上の村村から、谷底への急坂を駄馬の背で運んできた農作物や薪炭などを、舟や筏(いかだ)で運び出すのに使われていた。
 成羽川が高梁川に合流するわずか手前に成羽町がある。ここは「備中神楽」の本場で神楽の里といわれている。(中略)
 白蓋(びゃっかい)行事とよぶ神降ろしにはじまり、藁(わら)でつくった大蛇(だいじゃ)を引きずり回して神がかりになり、託宣を行う。このように、天災を荒神にみたてて信仰してきたのは、成羽川が氾濫川であり、高原上は水利が悪く、気象条件も劣悪という、厳しい自然との闘いの生活があったからだ。
 高原上の村村の生活は、自給自足の農業が主で厳しいものがあった。かつては麦とわずかの米が主食で、畑作ではタバコ、コンニャク、大豆、小豆(あずき)、粟(あわ)などを作っていた。(中略)
 また、和牛の飼育も盛んであった。この地方は石灰岩地帯で、牧草にはカルシウムが多く含まれ、骨の丈夫な牛がつくられた。
 このような備中北部の生活は、年中行事のなかにも、雨乞い、虫送り、収穫祝いの秋祭りなど、農事に関するものを多く織りまぜながら、備中神楽とともに、先祖から受け継いできた風俗習慣を、郷土色濃い姿で残している。」(研秀出版「日本の民話」12、1977)

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 そして、この地の往年の産業として忘れてならないのが、鉱山経営であろう。その代表格の吉岡銅山の跡は、2007年に「吉岡銅山関連遺産」として、経済産業省の近代化産業遺産(瀬戸内銅)に登録されている。その認定の種類としては、「吉岡銅山関連遺産資料等笹畝坑道、沈殿槽、ボタ山、精錬所、選鉱所、煙道、 三番坑口、ベンガラ館」というのであって、1972年(昭和47)に閉山となっていたのが、その鉱山跡地に今では観光がメインとなっている。
 そもそもこの辺りは、古代から鉱石が多く産出されてきた場所柄で、「吹屋よいとこ金掘るところ 掘れば掘るほど 金がでる」などと、威勢のよい話でもちきりであったとか。中でも、当地の吉岡銅山は、807年(大同2年)の開坑と伝わり、戦国時代には利権を巡って有力大名による争奪戦が展開された。それが、江戸時代中期には、大坂の泉屋(いずみや、後の住友家)が経営に参画し、国内屈指の産銅量を誇る鉱山に成長する。明治時代初期には、野心家の岩崎弥太郎が率いる三菱商会が買収し、外国の先進技術の導入したりで、鉱山経営を発展させていく。
 運搬面では、1907年(明治40年)の開通以来活況を呈していた原材料の搬入から鉱石の運搬まで活躍していたトロッコ輸送だが、1928年(昭和3年)に伯備線が全通すると、吉岡銅山は貨物を石蟹駅までトラックで運び、鉄道輸送に切り替えられる。しかし、1931年(昭和6年)には銅鉱脈の枯渇もあって、同経営での吉岡銅山は閉山にいたった。その後は、吉岡鉱山株式会社として経営に当たっていたが、1972年(昭和42年)には、最終的に閉山した。

 また、山宝鉱山(さんぽうこうざん)跡は、高梁市(旧・川上郡備中町)の鉱山にして、主に磁鉄鉱を採鉱していたという。しかし、1970年(昭和45年)頃には、海外からの鉄鉱石輸入の増大があり、閉山した。こちらでは、昭和初期頃は、7つの坑道を持つ大きな鉱山だったそうで、多くの人が働いていたようだ。坑道より磁鉄鉱を運び、トロッコで降ろ し、運んでいた。1973(昭和48年)からは生石灰が製造され、1976(昭和51年)になると、新鉱物として承認されたソーダ魚眼石が見つかったことでも知られる。なお、封鎖された坑口が残る。さらに小泉鉱山跡は、これまた高梁市(旧・川上郡成羽町)にあった鉱山にして、 銅・鉛・亜鉛が採掘されていた。 こちらでは、広大なズリ跡が残る。そのほか、近場には高取鉱山など、大規模な鉱山跡が多々存在しており、往時のこの辺りには労働者たちの活気がみなぎっていたのだろうか。

(続く)

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