348『岡山の今昔』岡山人(19世紀、横山廉造)
横山廉造(よこやまれんぞう、1828~1884)は、医師だ。真島郡美甘(みかも)村(現在の真庭市美甘)の生まれ。庄屋横山平右衛門篤興の末子だという。
備中松山(現在の高梁市)の儒者にして経世家・山田方谷(やまだほうこく)の門に入り、漢学、詩歌などを学んだ模様だ。やがて医学に興味を持ったようで、邑久郡(おくぐん)牛文村(現在の瀬戸内市長船町)の医家、久山楽山の塾に入って、医学を学び始める。
1849年(嘉永2年)には、京都に出て小石玄瑞光の下で学ぶ。1851年(嘉永4年)には、今度は大坂の華岡家に入門して、いよいよ医学へとのめり込んでいったようだ。華岡家に学ぶ医者は引きも切らず、相当な大所帯であったようで、その学風としては初代・華岡清州(はなおかせいしゅう)以来漢・蘭の両方に立脚していた、中でも日本初の本格的な外科手術は有名だ。
さらに翌年になると、江戸へ遊学しようと目論(もくろ)む。だが、兄に諭されて諦めた模様にして、美甘に帰郷して医業を始める。1866年(慶応2年)には薬の調合場を兼ねての建物を設け、門人らと、近隣の患者に医術を施し、「香杏館(こうきょうかん)」という、現在も残っている建物で診療所を営む話にて、もって地域発展のために働く。新しい時代の幕開けとともに、また蘭法医だという近隣の口コミなどを聞いて通院してくる患者も多かったのではないか。
それのみならず、「地域の産業振興や郷土子弟の教育に心血を注ぎ人々から深く敬慕されていました」(美作の歴史を知る会編「出雲街道むかし旅」、みまさかの歴史絵物語(7))などとされる。また、香杏館には彼が愛読していたという千冊あまりの蔵書が保存されていると伝わる。そうであるなら、これらをまた一つの史料として加え、同じ美作から出て医学を志した他の人々、その中でも「有名な塾に名を残す者だけでも50人をこえています」(前掲書)と回顧されている、そんな彼らとともに、彼らの偉業を記念する事業(モニュメント)を起こしたらよいのではないだろうか。
横山廉造(よこやまれんぞう、1828~1884)は、医師だ。真島郡美甘(みかも)村(現在の真庭市美甘)の生まれ。庄屋横山平右衛門篤興の末子だという。
備中松山(現在の高梁市)の儒者にして経世家・山田方谷(やまだほうこく)の門に入り、漢学、詩歌などを学んだ模様だ。やがて医学に興味を持ったようで、邑久郡(おくぐん)牛文村(現在の瀬戸内市長船町)の医家、久山楽山の塾に入って、医学を学び始める。
1849年(嘉永2年)には、京都に出て小石玄瑞光の下で学ぶ。1851年(嘉永4年)には、今度は大坂の華岡家に入門して、いよいよ医学へとのめり込んでいったようだ。華岡家に学ぶ医者は引きも切らず、相当な大所帯であったようで、その学風としては初代・華岡清州(はなおかせいしゅう)以来漢・蘭の両方に立脚していた、中でも日本初の本格的な外科手術は有名だ。
さらに翌年になると、江戸へ遊学しようと目論(もくろ)む。だが、兄に諭されて諦めた模様にして、美甘に帰郷して医業を始める。1866年(慶応2年)には薬の調合場を兼ねての建物を設け、門人らと、近隣の患者に医術を施し、「香杏館(こうきょうかん)」という、現在も残っている建物で診療所を営む話にて、もって地域発展のために働く。新しい時代の幕開けとともに、また蘭法医だという近隣の口コミなどを聞いて通院してくる患者も多かったのではないか。
それのみならず、「地域の産業振興や郷土子弟の教育に心血を注ぎ人々から深く敬慕されていました」(美作の歴史を知る会編「出雲街道むかし旅」、みまさかの歴史絵物語(7))などとされる。また、香杏館には彼が愛読していたという千冊あまりの蔵書が保存されていると伝わる。そうであるなら、これらをまた一つの史料として加え、同じ美作から出て医学を志した他の人々、その中でも「有名な塾に名を残す者だけでも50人をこえています」(前掲書)と回顧されている、そんな彼らとともに、彼らの偉業を記念する事業(モニュメント)を起こしたらよいのではないだろうか。
やや晩年に近い話であったろうか、肖像画も伝わっていて、その風貌は謹厳実直な人柄をそのままに、持ち前の温かさがこちらの心に伝搬してくるようだ。京都を旅行中に喀血(かっけつ)し、それからは病床にあったようであるが、いま少し自由な時間があったなら、まとまった書物などを遺してくれたのではないか、郷土が産んだ偉大な人生だといえよう。
(続く)
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(続く)
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