◻️348『岡山の今昔』岡山人(19世紀、横山廉造)

2021-12-21 09:04:11 | Weblog
348『岡山の今昔』岡山人(19世紀、横山廉造)

 横山廉造(よこやまれんぞう、1828~1884)は、医師だ。真島郡美甘(みかも)村(現在の真庭市美甘)の生まれ。庄屋横山平右衛門篤興の末子だという。
 備中松山(現在の高梁市)の儒者にして経世家・山田方谷(やまだほうこく)の門に入り、漢学、詩歌などを学んだ模様だ。やがて医学に興味を持ったようで、邑久郡(おくぐん)牛文村(現在の瀬戸内市長船町)の医家、久山楽山の塾に入って、医学を学び始める。
 1849年(嘉永2年)には、京都に出て小石玄瑞光の下で学ぶ。1851年(嘉永4年)には、今度は大坂の華岡家に入門して、いよいよ医学へとのめり込んでいったようだ。華岡家に学ぶ医者は引きも切らず、相当な大所帯であったようで、その学風としては初代・華岡清州(はなおかせいしゅう)以来漢・蘭の両方に立脚していた、中でも日本初の本格的な外科手術は有名だ。
 さらに翌年になると、江戸へ遊学しようと目論(もくろ)む。だが、兄に諭されて諦めた模様にして、美甘に帰郷して医業を始める。1866年(慶応2年)には薬の調合場を兼ねての建物を設け、門人らと、近隣の患者に医術を施し、「香杏館(こうきょうかん)」という、現在も残っている建物で診療所を営む話にて、もって地域発展のために働く。新しい時代の幕開けとともに、また蘭法医だという近隣の口コミなどを聞いて通院してくる患者も多かったのではないか。 
 それのみならず、「地域の産業振興や郷土子弟の教育に心血を注ぎ人々から深く敬慕されていました」(美作の歴史を知る会編「出雲街道むかし旅」、みまさかの歴史絵物語(7))などとされる。また、香杏館には彼が愛読していたという千冊あまりの蔵書が保存されていると伝わる。そうであるなら、これらをまた一つの史料として加え、同じ美作から出て医学を志した他の人々、その中でも「有名な塾に名を残す者だけでも50人をこえています」(前掲書)と回顧されている、そんな彼らとともに、彼らの偉業を記念する事業(モニュメント)を起こしたらよいのではないだろうか。
 やや晩年に近い話であったろうか、肖像画も伝わっていて、その風貌は謹厳実直な人柄をそのままに、持ち前の温かさがこちらの心に伝搬してくるようだ。京都を旅行中に喀血(かっけつ)し、それからは病床にあったようであるが、いま少し自由な時間があったなら、まとまった書物などを遺してくれたのではないか、郷土が産んだ偉大な人生だといえよう。

(続く)

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新◻️236『岡山の今昔』瀬戸内市(牛窓町、~戦前)

2021-12-19 18:44:44 | Weblog
236『岡山の今昔』瀬戸内市(牛窓町、~戦前)
 
 現在の瀬戸内市の牛窓町、邑久町そして長船町の三つの町のうち一番南に位置する牛窓については、古来多くの逸話や伝統が伝わってきている。古代の姿はどうであったのか。
 この地における遺跡発掘を辿ると、概ね次のように伝えられている。いわゆる「縄文海進」で海面が上昇し、私たちが今日観る瀬戸内海の海岸線が形成されると、人々はこれに沿って集落を形成し、生活を営んでいたらしい。黄島貝塚、黒島貝塚などの遺跡も残されていることから、食生活は海産物が中心であったのではないかと推測されているところだ。
 弥生時代になると、牛窓のあたりからは稲作を営んでいたことを証する遺跡がなかなか見つからなくなっていく。これはおそらくこのあたりの平地が狭小で、傾斜地が多く、地味が痩せていたことが影響したものと考えられている。
 やがて倭(わ、やまと)の古墳時代に入ると、このあたりには前方後円墳などの古墳が数多く造営されていった。牛窓天神山古墳は4世紀半ば~後半にかけて、黒島1号墳は5世紀前半、鹿歩山古墳(かぶやまこふん)は5世紀後半、そして波歌山古墳(はかやまこふん)は5世紀末~6世紀前半、さらに二塚山古墳は6世紀後半の造立だと考えられている。
 これらの古墳の多くは、当時の牛窓湾を一望できる丘陵の上に存在していたのではないか、とみられている。これに付随するにものに、古墳時代を中心に備讃瀬戸地域から出土する土器がある。こちらは製塩のために使用された土器ということであるが、とくに現在の牛窓町牛窓師楽から大量に出土していることから、「師楽式土器」と呼ぶ慣わされているとのこと。
 ところで、鎌倉時代から室町時代にかけてまでの備前南部の軍事・交通・経済の中心は福岡(ふくおか)にあった。そして牛窓は、その福岡からそう遠くない場所にある。牛窓が、その位置、その地形などから見て、上代から良港の名をほしいままにしていた。ちなみに、『続日本記』巻第15の「聖武天皇天平15年(743年)5月28日条」には、次のように記されている。
 「備前国(きびのみちのくち)言(まう)さく、「邑久郡新羅邑久浦(おほくぐんしらきおほくのうら)に大魚(おほうお)五十二隻漂着す。長さ二丈三尺己下一丈二尺己上なり。皮薄きこと紙の如く、眼(まなこ)は米粒(いひぼ)に似たり。声鹿の鳴くが如(ごと)し。故老皆云はく、「嘗(かつ)て聞かず]といふ」とまうす。」(「新日本古典文学大系}二、岩波書店、1990)
 この書に「邑久郡新羅邑久浦」とあるのは、現在の錦海湾の南岸にある師楽湾(しらきわん)をいい、いかにも自然の境涯そのままの土地柄であったことが窺える。なお、一丈は十尺で、約3.3メートルのこと。
 やがて安土桃山時代に入ると、備前紺浦の牛窓は、内海航路、果ては外国貿易の港としても栄えていた。またその北隣の長浜湾の尻海も、天然の良港として栄えた(なお、こちらは1961年の埋め立てで、港の機能を失う)。宇喜多氏(うきたし)から関ヶ原の戦い後は小早川氏の支配を経て、江戸時代になり岡山に池田氏が入って岡山藩となる。岡山に城下町が作られ、福岡の商人は岡山城下に移って行った。牛窓港も、鎖国による日明・日朝貿易はあったものの、内海航路の潮待ち、風待ちの港としては維持されていく。
 1672年にいたると、それまでの北前船(きたまえぶね)の南下ルートに加えるに、日本海から瀬戸内海経由で大坂そして江戸に至る「西回り航路」が、河村瑞賢(かわむらずいけん、1617~1699)によって開拓される。ここに北前船とは、江戸時代から明治時代中期にかけて、主に北陸以北の日本海沿岸の諸港から沿岸を伝って下関に至り、さらに瀬戸内海を通過して大坂や江戸などにあれこれの物資を運んでいた。荷物の内容としては、行き年貢米や、蝦夷地を含む北の国の各地からの特産物、肥料としての干鰯(ほしか、鰊(にしん)のかす)、昆布、鮭(生魚や干物)などを、そして帰りは「買積」(かいづみ)といって船頭の裁量も含め各寄港地で産物を買い入れ、帰路の船荷にして運んでいた。後者は、元来た航路を伝って帰る途中、相場を見て売りさばくもので、しばしば大きな利益を生んでいたようである。
 それからは、瀬戸内の西から南からそして東から多くの船が備前にやってくるようになった、もしくは通過する船が多くなっていく。ちなみに、この牛窓のほか、当時の備前から備中の瀬戸内海沿いの良港として、日比(ひび、現在の玉野市)、下津井(しもつい、現在は倉敷市)、玉島(現在は倉敷市)などもあって、いずれも連携を保ちつつ、かなり広範囲な種類の物産の集散地となっていたことを忘れてはならない。

 ついでながら、江戸時代になると、岡山藩を中心に木材需要が高まったことなどを背景に、牛窓は木材流通の拠点としてあった。当時のこの地においては、造船業が盛んに行われていた。船づくりの職人は、中には九州や四国との往来もあったりで、全体として「邑久大工」とも呼ばれる職人集団を形成していたのであろうか、そんな彼らの活動と相まって、牛窓の海商(船持商人)の中には九州や四国などで請山(うけやま)をしていた向きも相当にあったという。彼らとしては、現地の一山ごとの木材の伐採権を買い取ることで、自分たちを通じての供給の安定化をはかる狙いを持っていたのがうかがえよう。

 さらに埋め立てにつながることでの地域起こしについても、かなりの動きがあったようだ。こちらについては、岡山藩3代目の藩主・池田光政の時、新田開発に取り組んだ。東側の入江の大浦湾を埋め立てて新田にしていく、それとともにこの地域に塩田をつくっていく計画であった。最初の工事は1649年(慶安2年)に行われ、新町ができた。続いて1661年(寛文元年)には、奥之町、土手、出来島の各地区ができ、少し遅れて生田ができる。さらに1695年(元禄8年)、同藩は、牛窓港の前面に波止めの施設を造ることにし、藩主の池田綱政は津田永忠に命じた。津田は、さっそく工事の陣頭指揮に立ち、工事に取りかかってから約10か月でこれを完成させる。牛窓の西港の前海に、長さ678メートル(記録としては「373間」とある)、高さ2.7メートル(記録としては「1間半」とある)の波止めが出来上がった。そこでの築石はすべて犬島(いぬしま)の石を使ったとあるから、前々から頭の中に工事の仕置きを入れていたのであろうか。これにより、東南の風にも強くなり、牛窓の港には西国大名の御座船が相次いで旗印を翻して寄港するようになる。また、1698年(元禄11年)になると、これまた岡山藩の命をうけた津田の活躍により、日生(ひなせ)の沖合にある大多府の港も「風待ち港」として整備されていく。

 他にも牛窓は、物資の集散ばかりでなく、幕府の役人や参勤交代の大名の寄港地となった。わけても朝鮮からの使節(通信使)では宿営地を担った。当時の鎖国中にあっても、朝鮮(李王朝)とは友好関係にあった。将軍の代がわりごとに、その祝賀を兼ねて朝鮮通信使が日本にやって来ていた。江戸時代、一行の牛窓港への寄港は12回にも及び、人数は通常500人近い数であったことが伝わる。
 
(続く)
 
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新♦️360『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(放射性物質の研究、19世紀)

2021-12-19 10:11:17 | Weblog
360『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(放射性物質の研究、19世紀)

 ウィリアム・クルックス(1832~1919)は、イギリスの物理学者・化学者だ。タリウムを発見し原子量を測定したことで有名になる。ドイツでガラス細工のうまい理化学機器の製造販売をしていたダイムラーが、1855年に性能のよい真空ポンプ(ガイスラー管)を発明すると、そのことに触発されてか、クルックスが研究を進めて次のような管を発明して、陰極線が電気的な微粒子であることを証明するにいたる。  
 「クルックス管」と呼ばれることになる、この管の仕組みだが、以下に米山正信氏による説明を引用させていただく。 「・・・細長いガラス管の両端に電極を封入し、又管の一部にえたをつけて、そこに真空ポンプをつなぎます。そして電極を高圧の電源につなぎます。ふつうの1気圧の空気中では、電流は通りません。そこでポンプを動かして中の空気を抜いて行きます。中の空気が10分の1くらいになると、電気が通り始めて、管の中をヘビがうねるような光の帯が見られます。さらに空気をぬいて行くと、中に明暗のシマ模様が現れ、さらに進むと、そのシマ模様がだんだん+極の方へ引きよせられるようになって、-極側に黒い部分がふえて行きます。さらに真空度が高まると管全体が暗くなり、その代わりガラス管の壁が、うすみどり色に光り出します。このようになった、つまり気圧が1000分の1ミリくらいになった真空管を、研究した人の名をとって「クルックス管」といいます。」(「子どもと一緒に楽しむ、科学者たちのエピソード20」黎明書房、1996) 
 このように、後にいう放射線が当たって、別の波長の光の出る現象は、蛍光と呼ばれる。
 ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(1845~1923)は、ドイツの物理学者だ。オランダで初等教育を受ける。チューリヒの大学に入って機械工学を学んだものの、やがて物理学に転じ、1879年にはギーセン大学教授となる。
 1895年11月の彼は、内部の空気を抜いて真空状態にしたガラス管に数千ボルトの電圧をかけて放電させるという実験を行う。陰極線(電子線)を発生している真空放電管を紙で包んで行っていたという。
 すると、その放電管から少し離れたところに置いてあった蛍光物質・白金シアン化バリウムを塗った紙(スクリーン)が光るのを見つける。つまり、その管を厚い紙で覆っているにもかかわらず近くに置いてあった蛍光物質が発光しているのを偶然に発見する。その管からは「目に見えない物を突(つ)き抜ける光が出ている」と解釈し、その光線をエックス(X)線と名づける。

 こうしてつくられることのわかったX線が威力を発揮するのは、工学などのほか、医学で用いられていく。1896年1月にレントゲンが撮ったX線の写真には、手がすきとおって骨が見えている。レントゲンは、また弾性、毛管現象、熱伝導、電磁現象などに関する研究も行う。

 そんなレントゲンの人柄を伝える記事としては、やはり、初のノーベル物理学賞を受けたのに偉ぶる風は全くなかったという。自分の発見を特許にすることは頭になかった。また、政府から贈られたフォン(貴族)の称号も断わり、いうなれば金銭上の利益や地位、そして名誉などに関心を示さなかったというから、偉大だ。

 フランスの物理学者ベクレル(1852~1908)は、パリのエコール・ポリテクニクを卒業後、土木学校で学んとで土木技師となった。その後物理学の研究に携わるようになる。そして迎えた1896年、研究でウラン化合物(ウランを含む岩塩)を置いて暗いところにしまっていた写真乾板を現像していた。すると、太陽の光を受けていないのに感光しているではないかと。ベクレルは、ウラン化合物にX線に似た何らかの放射線を出す力があると考える。

 ワルシャワ(現在のポーランド)生まれのマリー・キュリー(1867~1934)は、物理学者だ。研究者となった後に故国を追われ、フランスに亡命する。物理学者ベクレルの影響を受け、放射性物質の研究を行う。やがて、夫ピエール・キュリーたちが発明した計測器を使って、ウラン化合物から放射線を出しているのを研究し、それがウラン原子であることを見つけ出し、その放射線を出す性質から「放射能」と名づけられる。
 その学問的評価の全体としては、ウラン鉱石の精製からラジウム、ポロニウムを発見し、原子核の自然崩壊および放射性同位元素の存在を実証したのが大きいといわれる。
 1898年には、イギリスの物理学者アーネスト・ラザフォード(1871~1937)たちが、ウランから2種類の放射線が出ているのを発見する。それらをアルファ(α)線、ベータ(β)線と名づける。
 アルファ(α)線は、プラスの電気を帯びた重い粒子の流れ、それも「ヘリウムの原子核」であることを突き止める。またベータ(β)線は、「マイナスの電気を持った軽い粒子(電子)の流れ」であることを発見する。さらに、透過性が高く電荷を持たない放射線を見つけ、ガンマ(γ)線と名づける。エックス(X)線はガンマ(γ)線の仲間だとされる。
 そして迎えた1911年には、ラザフォードたちは実験で原子の中に原子核があることを発見する。これの意議について、ニールス・ボーアは、こう語る。
 「古典物理学の理論が量子的現象を説明できないということは、原子の構造についての私たちの理解が深まるにつれと、よりいっそう明白なものとなっていった。とりわけラザフォードによる原子核の発見(1911)は、古典力学と古典電気力学の諸概念が原子に固有の安定性を説明するにはおよそ無力であることを、ただちに明らかにした。ここでもまた量子論は、事態の解明への鍵を提供したのである。」(「アインシュタインとの討論」:「ニールス・ボーア論文集1」岩波文庫、)

 続いての1832年、ラザフォードの弟子のチャドウィックは、ベリリウムにα線をあてて出てくる放射線を発見し、ガンマ(γ)線では説明できない大きな質量を持ったものであるとし、中性子と名づける。

(続く)

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新◻️80『岡山の今昔』江戸時代の三国(参勤交代、朝鮮通信使、義倉、富くじ、種痘)

2021-12-18 14:27:59 | Weblog
80『岡山の今昔』江戸時代の三国(参勤交代、朝鮮通信使、義倉、富くじ、種痘)

 
 まずは、参勤交代だが、諸藩の大勢の侍とその伴い人が街道を往来する訳であるから、地方の宿場町からすると、大変な中にも、その町が経済的に潤うことにもつながっていく。
 「この時代において、武士は経済的に困窮し、町人は裕福で奢(おご)っていたといわれる。確かに江戸なとではその通りであった。しかし、このような地方の宿場町では、やはり武士の権威はそれなりのもので、大名と本陣の亭主には大きな身分の開きがあった。
 それはさながら主従関係のようなもので、大名が本陣に入ると、本陣亭主から大名に献上を行い、大名からは下賜があった。(中略)
 しかし、この時期の諸大名は倹約倹約と号していたので、それまでの慣行であった献上を断ることがあった。これは、献上を断ることによって、下賜を節約できるからである。
 ただし、矢掛宿の場合、献上を断わられても、拝領を受けている。浜田松平家の場合、通常の拝領は銀二枚であったが、倹約のため献上お断りを宣言されると、拝領は金五百疋(ひき)になっている。ちなみに銀二枚は金二両ほどで、金五百疋は金一両一分である。大差はないようで、気持ちの問題なのかもしれない。
 矢掛本陣には、裏二階に川が望める場所があった。萩藩主も、他の多くの大名同様にここでくつろいでいた。萩藩への献上は表向きお断りとされていたが、本陣亭主は、毎年裏の川でとれた鯉だから是非にと、茶道方のものにとりなしてもらって献上を受けてもらっていた。」(山本博文「参勤交代」講談社現代新書、2013)」

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 その一端、「延享(えんきょう)の朝鮮通信使」でいうと、彼らはどのような日程で江戸へとやってきたのだろうか。
 当時の李朝の都・漢城(ハニャン)を出発したのは1747年11月28日のことだった。そこから慶州(キョンジュ)を経由してやって来た釜山(プサン)にて12月18日~1748年2月11日まで滞在する。
 それからは船で行かねばならぬ。対馬を通って府中に来て、2月24日~3月16日滞在する。それから九州に間近な藍島に着き、そこで4月1~2日を過ごす。
 さらにそれから西へ進んで赤間関へ、そこで4月4~5日を過ごし、再び出発。以降、上関には4月7~8日、蒲刈島(かまがりじま)では4月10~12日を過ごす。
 さらに牛窓(うしまど)へ、そこでは4月16~17日にかけて滞在する。牛窓でどの位のもてなしがあったのかは、後に触れよう。なにしろ数十人もの来訪なので、当該の藩(ここでは岡山藩)それまでの朝鮮使一行の行程において、歓迎やら、日本流のもてなしやら。とここまでは、概ね順調な旅ではなかったか。
 それからは、5月2日に京都に着いている。それが大坂となると、4月20~29日にかけてかなりの時を過ごしている。
 旅は続いて、東へ向かい、岡崎には5月8~9日、名古屋には5月7日と来る。その後は、掛川(かけがわ)に5月12~14日滞在し、そこから小田原に5月18日、品川に5月20日、ここはもう江戸の南の境といって差し支えあるまい。そしていよいよ、目指す江戸に到着したのが1748年5月21日だという。

 その道中については、幕府が招いた一行であるからして、それなりの格式をこしらえてもてなすよう、岡山藩においても万事にぬかりがあってはなるまい。そのために、船を出して

 「朝鮮通信使が通行するときには、一行の案内や連絡などの諸用に多数の藩船が動員された。天和(てんな)2年(1682年)に動員された藩船は、表5に示したように計107艘(そう)。内訳は明確ではないが、正徳元年(1711)度には140艘、享保4年度には104艘が動員されている(牛窓町史2001)。通信使御用には藩が保有していたほとんどの船が動員されたと思われ、その数からすると藩の船は最大で140艘ぼどであったと思われる。」(「江戸時代の瀬戸内海交通」吉川弘文館、2021) 「なお、朝鮮通信使の通行にあたっては、藩の船のほかに多数の民間の浦船と浦加子が動員された。例えば、天和2年の場合、藩の船に乗り込むための浦加子が2525人、五挺立から三挺立までの浦船が905艘とこれに乗り込む加子が3284人、それぞれ動員されている(牛窓町史2001)。これだけの船と加子は加子浦だけではまかないきれない。加子浦以外の海辺の村々からも動員されたことは間違いない。」(同) 
 その通信使一行がおそらく醸し出していたであろう威厳というか、国際色豊かな派手な出で立ちというか、そうしたものがかくも盛大な道中の出迎え・護衛を引き寄せていたのだろうか、藩としては相当な出費であったに違いなかろう。



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 義倉(ぎそう)というのは、大別して、施政者の側から行うものと、民間人が発起人となって行うものとが運営されていた。藩主導の義倉としては岡山藩が、すでに江戸時代の初期、津田永忠が活躍した時代において、彼の建議が行われ、実施に付されている。
 一方、後者に、ついては、「倉敷義倉」は、「江戸時代の倉敷村において民間主導で設立された相互扶助組織」だとされる。1769年(明和6年)、義衆と呼ばれる倉敷村の有力者74人が発起人となって、つくられた。
 様々な史料が残っていることでは、加盟者は毎年自発的に麦を拠出し、それを貸し付ける。それで生まれる貸付利息を、災害や飢饉による難民や生活困窮者の救済に充てるというもの。
 その一つに、「義倉銀勘定書上扣帳」があって、こちらは、1788年(天明8年)に倉敷代官、菅谷弥五郎の尋ねに対し倉敷義倉の経緯について答えたものであり、当初の計画では麦ではなく銀を集めた理由として虫やネズミの害で減石するのを避けていた旨、利息には変動があること、凶年には生活に困った人を助ける役割を担うことになっているとしている。

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 富くじ(富突き、突富など)というのは、我が国では現在の宝くじの元祖とでも言うべきものでおろうか。江戸時代の元禄期(1688~1714)にの江戸などに現れ、幕府も始めは禁止令を出すも、やがて「御免富」として幕府の認可を得た寺社などが主催し、小遣い稼ぎから一躍千金にいたるまで当て込んだ庶民が集うようになる。
 江戸における「富くじ万人講話」の先駆けとしては谷中の感応寺(1699(元禄12))が、追っては目黒不動と湯島天神(いずれの開始も1812年(文化9年))が「江戸の三富」と呼ばれる。
 そのやり方は、番号入りの富札を前もって販売し、別に用意した同じ番号(二枚目へ続く紐付き文句をしたためることも)の木札を箱に入れるなりして、一定数の参加で締め切り、封を施す。
 やがて抽選の期日を迎える。なにしろ、偶然により当選者が出るように行うのが鉄則であり、当日は境内に高台を設けるなどして、興業主が公明正大を宣言、かかる箱の小穴から錐 (きり)で木札を突いて当たりを決め、賞金を支払う仕組み。
 これを岡山の地でみると、例えば、岡山藩は禁止していたのたが、津山城下ではいつの頃からか認められていた。大年寄や年寄が札元(講元)になって、予め利益をどのように分配するかを決めていた。

 津山では、こうした富くじが年に1~2回行われていた。その多くは、寺の修繕、改善を目的にしていたとされ、札の総売上げから幾らか差し引いてそれらの費用などに当てていたようである。
 かくて、中央(江戸)でも、地方でも、大騒ぎのな中にも悲喜交々の錯綜するうちに、庶民の夢が爆裂していたのであったが、やがての天保の改革で、幕府は禁止令を打ち出す。これに呼応して、地方でも、かねてからの「建設的でない」などの声が高まる。津山藩でも、幕末にさしかかった文久年間(1861~1864)に禁止扱いとなる。


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 種痘(しゅとう)とは、何だろうか。1820年(文政3年)には、中川五郎治が持ち帰ったロシア語牛痘書を馬場佐十郎が訳す。「遁花秘訣」は、わが国最初の牛痘書だ。

 ここに「牛痘」のそもそもとは、イギリスの医者ジェンナーが、乳搾りの主婦達の間に自然流行の天然痘が少ないことに着目し、開発する。乳牛の乳房の「おでき」・「かさぶた」の膿汁(うみじる)、すなわち、牛痘液を「痘苗」として利用するものだ。これを人に植え付けることで、免疫を獲得させる治療法のことであり、「牛痘法」という。
 これを載せての彼の論文の発表は、1796年であった。果たして、この手法は、ドイツでも試みられ、やがて、画期的な療法として認められていく、それからは、世界各地へ伝えられていく。ちなみに、英語の「vaccine(「ワクチン」)は、「牛痘液」に由来する「痘苗」を言い、ラテン語の「vacca」(牝牛)がその語源なのだという。
 アジアでは、1805年には、中国まで牛痘法の材料となる「痘苗」も到達しており、ルソン(フィリピン・ルソン島)経由でマカオ(中国南部・澳門)にまで届けられたという。

 およそこのような背景の下、1823年(文政6年)には、オランダ人シーボルトが来日する。彼は、牛痘苗を持参し、日本人に接種するも、成功しない。1830年(天保元年)には、大村藩が古田山を種痘山とし、そこに隔離して人痘種痘を行う。


 1848年(嘉永元年)、オランダ商館医モーニケは、その長崎赴任の際、痘苗としての牛痘を持参するも、種痘は失敗する。同年には、佐賀藩主の鍋島直正が、同藩医師の楢林宗建に対し牛痘を持ち帰るよう命じる。

 1849年(嘉永2年)には、その楢林が、良好な痘痂(とうか、牛痘を宿したかさぶた)がモーニケのもとにバタヴィアからの輸入で届いたという情報を受ける。なお、船の長崎への到着日は、1849年8月11日(嘉永2年6月23日)が有力視される(アン・ジャネッタ著、廣川和花、木曽明子訳「種痘伝来」岩波書店、2013、英文は2007」)。
 さっそく、自分の息子を伴って長崎の商館に赴く。そして、モーニケに彼への接種をしてもらう(こちらの日付けは、3日後の8月14日が有力視される、同著)。この接種が「善感」といって、その息子のみに発疹が現れ、接種に成功したことで持ち帰られ、佐賀藩内での普及に繋がっていく。
 それからは、京都・大坂などを中心にして、短期間のうちに各地に広まる。これには、蘭学医のネットワークがものをいう。同年には、緒方洪庵らが、大阪に除痘館を開設する。同年11月には、かかる牛痘が、佐賀藩より江戸にいる、藩医の伊東玄朴らのところにも到着する。


 これらのうち、大阪で牛痘種痘法(ぎゅうとうしゅとうほう)を実施したのが、緒方洪庵とその弟子・仲間たちであった。洪庵は、さっそくその牛痘苗を手を尽くして取り寄せ、蘭方医の日野葛民、薬種商の大和屋喜兵衛に協力を仰ぐなどして、「大坂除痘館」を開設する。大坂除痘館のための借家は喜兵衛が提供した他、大坂町奉行天満与力の荻野七左衛門とその父・勘左衛門らも、資金面を融通した。
 その翌年には出身地の岡山・足守藩(あしもりはん)からの要請で岡山へ向かう。独り出向いたのではなくて、二人の痘児と門弟の守屋庸庵、西有慶らを伴って、牛痘接種の用意を整えていたという。
足守に着くと、まずは故郷の人々に甥の羊五郎(5歳)に接種して、おそれるものではないことを知らしめた上で、当地において除痘館を開き、種痘を開始する。その噂が広まるにつれ、その年の正月下旬から3月まででいうと、約1500人に接種したというから、驚くべき迅速さであった。


 なお、日本における種痘の歴史について、継続して話題を提供している資料として、緒方洪庵記念財団、除痘館記念資料室「除痘館記念資料室だより」が刊行されていて、その第14号(2021.6.10)には、下山純正「岡山の牛痘種痘と緒方洪庵」をはじめ、6人による関連の論説が掲載されていて、その現代にいたる流れをひもとくのに便利だ。


(続く)


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新◻️214『岡山の今昔』岡山をめぐる運輸(北前船などの船運)

2021-12-18 10:12:49 | Weblog
214『岡山の今昔』岡山をめぐる運輸(北前船などの船運)

 はじめに、江戸時代から明治初期にかけての、全国的な物資の集散及び仕向けに、船運がどのように関わっていたかを、極大雑把に紹介しておこう。あまたのルートから検討の対象としたいのは、諸国から京都、大坂へのルートと、大坂から江戸へのルートが代表格であったのではないか。しかして、歴史学の分野では、例えば、こんな風に喧伝されてきた。

 「正徳4年(1714)に大坂へ積み込まれた各地の産物は、140万5792石に達する米を筆頭に、菜種・材木・ニシン粕・干鰯(ほしか)・白木綿・紙・鉄・銅・煙草・砂糖など119種、大坂から積出されたものは銀高1万貫目を越える菜種油や70万反にもおよぶ縞木綿をはじめとした、長崎下り銅・白木綿・古手・繰り綿・醤油・鉄道具・油粕・小間物資など91種。
 これらのおびただしい物資はいずれも水路、とくに安治・木津両川口に出入する諸国の廻船によって搬送された。日本海沿岸から下関を回り、瀬戸内海を経て大坂にくる北前船から、瀬戸内・四国・九州など西国方面の船、さらに尾張船(おわりふね)など毎日のように入津(にゅうしん)するこれらの船のため、川口はつねに、「出船千艘・入船千艘」の賑わいを呈していた。
 大坂から江戸への廻船には、江戸の十組問屋(とくみとんや)の積荷を主とする菱垣(ひがき)廻船と、伊丹・西宮・灘その他の酒荷を主とする樽廻船とがあった。菱垣の名は積荷の転落を防ぐため、舷側に竹で垣をとりつけていたからで、樽の名は積荷が酒樽を主としていたからである。
 両廻船はたがいに激しい競争をくりかえしていたのであるが、菱垣廻船が6、700石積以上の大船であったのに対し、樽廻船は200~400石積ので小型で運賃が安く、船足も早かったので小早(こばや)といって喜ばれ、しだいに菱垣廻船を圧倒する勢いを示した。」(岡本良一編「江戸時代図誌、第3巻、大坂」筑摩書房、1976)

 「瀬戸内を船で多くのヒトが移動するのは、参勤交代であった。ただし、参勤交代でも船を使うのは国許(くにもと)と兵庫・大坂との往復で、大坂と江戸とをヒトが船で移動することはほとんどなかった。武士に比べて商人や一般の民間人の船の利用は散発的で、まとまった乗り人は寺社参詣(じしゃさんけい)のヒトであった。備讃瀬戸(びさんせと)では金比羅(こんぴら)参詣のための往来が盛んであった。
 瀬戸内のモノの輸送では、何と言っても大坂への廻米が中心だ。幕府の城米や金沢藩を初めとした日本海側諸藩の廻米が瀬戸内の廻船によって大坂に運ばれた。米に次ぐのは塩、生魚、干鰯、木材、石材、炭など。菜種(なたね)、綿実(わたざね)、鉄など加工品の材料や、紙、たばこなども大坂に運ばれている。他方、加工された製品が大坂から移出されることはこの時期にはあまりなく、ときに油の輸送が目につく程度であった。その油も瀬戸内地域内での生産・流通と平行しており、のちのような畿内・大坂の独占的状況にはなかった。
 
 なお、北前船が北海道から運んでくる干鰯といった肥料関係の荷物については、大坂方面だけでなく、農産物の中でも綿花などの栽培が盛んに行われていた備中地方を後背地とした玉島湊にそのかなりの量が陸上げされていたという。

 瀬戸内から江戸への直接の輸送は米と塩が中心で、他のモノはほとんど目立たない。江戸からの戻り船も家中荷物の積み合いくらいで、明け荷の船も少なくなかった。
 陶器・鍬(くわ)・畳表・苫(とま)・紙・木地物などの特産品は、大坂だけでなく紀伊・中四国・九州へと輸送されており、木材や薪(まき)などもこのルートを行き来した。農産物・魚類を初めとした生活用品は、備前・讃岐・播磨の地域内を日常的に行き交っている。モノの流れは大坂への一方向ではなく、こうした物流を含めて重層的に展開しており、この物流を20端帆の大型船から2端帆の小型船までがそれぞれに担っていた。日本海や太平洋を航行する大型船は米や塩などを大量に運んだ。大型船の船主には、複数の廻船を持つ者も少なくなかった。」(倉地克直(くらちかつなお)「江戸時代の瀬戸内海交通」吉川弘文館、2021)

 それというのも、寛文年間(1661~1673)には、西廻りでの航路が確立した。これにより、大きな変化がもたらされた。すなわち、東北・北陸地方の産物が海運にて大消費地に直接運べるようになった。一方では、船の大型化、航路図の作成を含めた航海術の向上もあり、これらにともない、瀬戸内海の交通は、一段と盛んになっていく。
 ちなみに、2005年度展示会で公開された池田家文庫絵図名品の中には、瀬戸内海の航路図が含まれており、その解説にはこうある。

 「岡山藩でも、藩主の江戸への参勤交代や蔵米の輸送などのために海路を利用することが多かった。船手(ふなて)という藩の役所があり、藩主の
御座船をはじめ多数の御船も抱えていた。池田家文庫の航路図には、浦々の名所や海上の路程を細かく記したものが多く、海上を移動する際様々に利用されたと思われる。」

 ついでながら、津山藩などの私領、幕府領からの年貢米などは、吉井川下りの高瀬舟を利用して運ばれていたという。細かくいうと、米のほか麦、木材、まきや炭などの他、人も運んでいた。その瀬戸内海への出口、金岡湊には瀬戸内海を行き来する多くの船が待ちかまえるなりしていて、荷物を積み替え、それらの多くは大坂や江戸方面へ運んでいたという。


 その他、瀬戸内海のこの辺りを通って、中国や朝鮮、琉球から対馬を経由して大坂へと運ばれてくる荷物についても、これを積んだ貿易船が、風待ちなどで立ち寄っていたであろうことは、想像するに難くない。ちなみに、こうある。

 「棚に見えるのは西洋のガラス器、手前には中国の陶磁器。鎖国時代というのに、こんな舶来品専門店が流行った背景には、貿易の窓口だった長崎と大坂をつなぐ太いパイプがあった。
 長崎貿易での買い入れは、はじめ金銀で行われていたが、寛文8年(1668)に銀の輸出が禁じられると、銅が重要な決済手段になった。日本で唯一の精錬所があったのは大坂である。
 元禄14年(1701)には銅座が大坂の石町に設けられ、長崎会所と協力体制を組んで銅貿易がすすめられた。また日本の主要な輸出品だった俵物(干あわび、ふかのひれ、キンコ(なまこの干したもの)の三品)は、いちばんの産地の北海道から大坂の俵物会所にまず集まり、長崎へとはこばれた。かわりに長崎から入ってくる外国の品々の多くは大坂に送られ、そこから各地に流通していった。
 木綿、白糸、薬種など朝鮮からの輸入品は対馬が窓口で、大坂にあった対馬屋敷から問屋に流れた。琉球の砂糖なども大坂の薩摩屋敷から問屋を経て、各地に売りさばかれた。大坂港と張り合っていた堺港が、大和川の付け替えでできた新大和川がはこぶ土砂で衰退したことも、舶来品の大坂への集中をうながした。」(本渡章(ほんどあきら)「大坂名所むかし案内」創元社、2006)

(続く)

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新◻️280『岡山の今昔』赤磐市

2021-12-18 09:03:08 | Weblog
280『岡山の今昔』赤磐市

 瀬戸内海に沿って備前を西に行くと、そこは和気(わけ、現在の和気郡和気町)、赤磐市(あかいわし)がある。山陽本線の上郡から西へは、兵庫県との県境を越えて岡山県の吉永、和気とたどっていく。それからは赤磐市(あかいわし)に入って、熊山、万富とやって来る。熊山からほどなくして吉井川を渡る。この鉄路と寄り添うように西へと延びてきた山陽自動車道も吉井川を渡っていく。
 この川は、郷土の詩人永瀬清子の詩に、こう歌われている。
 「吉井川よ/おまえはゆたかな髪をもった大きな姉のようだ。/おまえは落ちついて/長い長いみちのりを/曲がりくねりながら悠々とすすむ。」(『少年少女風土記 ふるさとを訪ねて[Ⅱ]岡山』(1959年2月、泰光堂)
 いかがだろうか、21世紀に入った現在においても、彼女の名前にちなんだ文学賞が受け継がれていろとのことで、素晴らしい。

 この赤磐市は、2005年3月7日の合併後の総人口は4万5646人(2020年3月7日現在)、総面積209.36平方キロメートル。吉井川中流県立自然公園には、北東部のかなりが属する。そのほか、自然にまつわる公園が沢山あって、実に豊かな自然に恵まれている。その一方で、交通網の発達が急であり、国道 484号線やJR山陽本線が通り、山陽自動車道のインターチェンジがある。


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 産業としては、何があるたろうか。一つには、農業が盛んだ。丘陵地でモモ、ブドウが生産されるほか、米やナス、キュウリなどの野菜もつくられる。北東部の稲蒔は全国屈指の筆軸の生産地。江戸時代から酒醸造業も盛んであり、例えば、1688年金(元禄元年)に創業の室町酒造に寄せて、ある雑誌には、次の酒米の紹介が載っている。
 「室町酒造がこだわるのは、水と米。「雄町(おまち)の冷泉」を使用している。原料米には、地元産の雄町米を使う。雄町米とは、山田錦など多くの酒造好適米のルーツとなる品種だ。160年以上前に備前国上道郡高島村雄町(現在の岡山市中区雄町)で栽培が始まり、酒米の良品種として一目置かれる。粒が大きく、稲の丈(たけ)が高いため倒伏(とうふく)しやすく、栽培が難しいことから、「幻(まぼろし)の酒米」ともいわれる。これを丁寧に精米して使っている。
「山田錦なとの「優等生」と比べると、雄町米はやんちゃなお米です。栽培の難しさに加え、精米時にも割れやすい。しかし、心白(しんぱく)という、お米の中のでんぷん質を含む柔らかい部分が大きいので、良い麹(こうじ)がてき、さらに寝かせることでおいしくなっていきます。どんな料理にも不思議と合う酒になる」(文中、一部の文字飾りを一部省略させて頂いた・引用者)」 (企画・発行は中国電力株式会社地域共創本部「碧い風」2021.7.1号による、記事「室町時代、オコゼと清水白桃の酢の物」)


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 二つ目には、ここ赤磐市北部の吉井川河川敷では、冬から春にかけての風物詩、竹製の細い筆軸の天日干しが行われる。筆軸とは、毛筆の柄の部分で、竹を使った筆軸生産は今では全国でも3軒(岡山県内には1軒)しかなくなったという。
 作業の模様を伝えるテレビ番組によると、まずは秋の竹の切り出しに始まる。竹は、岡山県はもとより、遠くは熊本県からも調達する。直径3~15ミリのものを揃え、カッターで22.5センチの長さに整える。そうしてからの竹は、釜ゆでして油や汚れを落としてから河川敷に並べられる。そして、1週間に1度、熊手で熊手で寄せては広げるの作業繰り返し、まんべんなく裏返すという。
 この天日干しで2カ月半ほど冷たい外気にさらすと、緑からあめ色になり、ぐっと引き締まる。この後、熊野筆で名高い広島など県外の加工メーカーへ送られ、製品に仕上がる。中国産のプラスチック製筆軸にシェアを奪われるようになって久しい。そんな業界においても、伝統の技を続けているという。

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 三つ目には、史跡や自然などへの観光客を迎えいれている。そこで史跡から紹介しよう。このエリアのうち旧山陽町においては、古墳時代に入って穂崎(ほさき)地区に両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)が見つかっている。5世紀後半の築造ではないかと推測されている。古墳の形式は、前方後円墳で、丘の周囲には水をたたえた内濠が二重にめぐらしてある。この種のものではめずらしく優美さを湛えつつも、それでいてやはり当時の首長権力の象徴といおうか、堅固な守りを感じさせる。
 全長192メートルの墳丘をもつこの古墳は、吉備地方では造山古墳(つくりやまこふん)、作山古墳に次ぐ巨大古墳である。これまでの発掘では、大した発見はなかったもののようだが、いつの頃か盗掘もあったのかもしれない。適切な保存とならなかったのは、あるいは、大和朝廷にとっては邪魔で、目障りな遺跡であったからなのかもしれない。そこでもし適切に保存され、現在に明らかになっていれば、古代日本史に吉備国(はびのくに)ありと知らしめることになっているのではないだろうか。
 なにしろ、備前地域においては、もちろん最大の前方後円墳で、国指定史跡となっているとのこと。付近には廻山(まわりやま)、森山、茶臼山(ちゃうすやま)の各古墳が点在していて、さながら吉備国の古代を臨むものとなっている。この国が律令時代に入ってからは、この地(現在の赤磐市馬屋あたりか)に備前国分寺(びぜんこくぶんじ)が建立される。国分寺の南側には、東西に延びる古代山陽道を挟んで備前国分尼寺も建立されたのではないか。

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 吉井川自然公園を始め、この地域の豊かな自然を利用しての公園や、レクレーションを意識した観光地として、県内でも有数の行楽地となっており、地元産業としての期待も高い。
 ちなみに、当地を舞台にしての温かみのある話としては、こんな記事がみえる。

 「岡山農業公園ドイツの森(赤磐市仁堀中)は、アルパカの赤ちゃん(雌)の名前を「エミリー」に決めた。すくすく育つかわいらしい姿が人気を集めており、同園は「新たなマスコット的存在として、大切に育てたい」としている。
 赤ちゃんは園内で9月28日に誕生した。名前は同園スタッフが6候補を考案。10月19~31日に入園者による投票を行い、955票のうち「エミリー」が最多の192票を集めた。次点は3票差で「ハナ」だった。
 エミリーは、母親のルーシーと同じ小屋で暮らしており、最近は母乳を飲むだけでなく牧草も食べるようになった。体重は10.2キロと誕生時の約2倍に、首を持ち上げたときの身長は10センチ以上伸びて93センチにまで成長した。好奇心旺盛な性格で、入園者に人懐こく近寄っているという。」(2019年11月19日付け山陽新聞デジタル)
 アルタカは性格がおとなしく、人が触れてもいいらしい。山羊(やぎ)のような気性の激しいことでないなら、多くの観客を招き入れる一助になるのではなかろうか。


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 住宅環境についても、少し触れておきたい。赤磐市では、1970年代に2つの大型住宅団地(桜ヶ丘団地(民間企業の大和ハウスが丘陵地に造成したもの)、山陽団地)が造成され、市の人口増加に寄与してきたという。しかし、21世紀に入っては、空き家の増加や商業施設・公共交通の存続問題などが取り沙汰されるにいたっているとのことだ。特に県営住宅の山陽団地では、「オールドニュータウン問題が顕在化している」とされ、どうするかが検討されてきた。そして、この問題を解決のため「山陽団地等活性化対策基本構想」を策定したという。
 この構想に基づき、用途廃止のうえ岡山県より譲受した県営住宅跡地について、山陽団地の世代循環を促す土地利用を図るため、さしあたり官民連携による当該土地の利活用策を進めるとのこと。市内の他の住宅団地も将来的に同様の状態になる可能性があるため、市としてはこれを先駆けにして地域振興の柱としたい意向だと伝わる。

(続く)

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新◻️216『岡山の今昔』岡山市(北区)

2021-12-17 18:37:07 | Weblog
216『岡山の今昔』岡山市(北区)

 まずは、区域と人口から、およその経緯を述べよう。岡山市は、1889年(明治22年)の市制施行以来、つごう13回にわたる、周辺市町村の合併などをしてきた。 1969年(昭和44年)には、吉井川を隔てて東隣の西大寺市と合併する。1971年(昭和46年)の9町村(一宮町、津高町、高松町、吉備町、妹尾町、福田村、上道町、興除村、足守町)との合併を経て、1975年(昭和50年)5月には藤田村との合併が実現する。そうした中、1953年(昭和28年)4月には、金川町を中心に7ヶ町村が合併して、御津町となる。その後、岡山市に一部を分離、赤磐市(旧赤磐郡)から一部を編入する。
 さらに、北へ東へ向かっての拡大が進む。すなわち、これらの地域については、北隣の金川との連絡の観点もあろう。明治以降、金川(かながわ)は、だんだんに県南の発展に取り残されていく感があった。 それからも、県な南地域との発展は乖離する一方であったところ、21世紀に入ると、岡山市との合併話が進められていく。御津郡御津町・児島郡灘崎町が2005年(平成17年)3月22日をもって岡山市へ、次いで、御津郡建部町、赤磐郡瀬戸町が2007年(平成19年)1月22日をもって岡山市に組み入れられる。
 かくて、2021年3月現在の市域面積は789.95平方キロメートル、かつての備前国、備中国、美作国にまたがる広大な市域となっている。人口の方も70万人余りとなっており、2009年4月には政令指定都市となっている。
 そもそも北区は、岡山市の中で広さ、人口ともに最大にして、かつ岡山県庁など行政の中心、それに数々の人文・歴史施設が集積している。町並みも旺盛であり、旭川の西岸、岡山城からかつての岡山城下町へとつないで、やがて岡山駅へといたる。
 表舞台だらけと思いきや、庶民派の雰囲気がかんじられるエリアも。同駅の北側には、奉還町商店街など、戦前からの古い町並みも広がる。

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 歴史的な歩みとしては、倭(わ、日本が生まれる前の名前)の時代にさかのぼることができよう。古代において、東からやって来ての当地は、古くは、岡山・石山・天神山の3つの丘といつか低い山というか、それらを目印なり中心としたデルタである大島(大洲原、原大島などとも)の一部であったとみられている。
 そのとっかかりの地域というのは、「和名類聚抄」に備前国御野郡の出石郷、中世になると備前国内の有力荘園鹿田荘の支配下であったとも。
 とにもかくにも、吉井川と旭川なとを大小それぞれの河川が、昔から下流域を形成しつつ、周囲に肥沃な大地、そのことに伴っての工業などのの発達が加わる。
 そこへ持ってきて近世にいたっては、宇喜多秀家が岡山城築城後、岡山城下町をつくる。その際には、当時の山陽道を城下町を南北に縦貫するように変更する。かつ山陽道を始めとする街道筋がこの地を貫き、人馬それに舟などの行き来が盛んな土地柄であった。
 そこへ持ってきて近世にいたると、宇喜多秀家が岡山城築城後、岡山城下町をつくる。その際には、当時の山陽道を城下町を南北に縦貫するように変更するのをもって嚆矢とする。
 とともに、その変更された沿線を中心に、新たな町割りがつくられていく。そのおりには、宇喜多氏が、既述の東方面からの伝統福岡(現在の瀬戸内市長船町福岡)、片上(現在の備前市西片上・東片上)、西大寺(現在の岡山市東区西大寺地区中心部)など備前あるいはその近郊に住んでいた商人・職人などを集めた。
 それでもって町人町が生まれ、それが江戸時代の岡山藩による町づくりに従ううちに、岡山城下を代表する地域の顔となる町むた町が育っていく。
 それらの代表格といえば、やはり、現在でいうところの表町(おもてちょう)なのだろう。そこでいま江戸期の地図(さしあたって、岡山大学付属図書館編「絵図で歩く岡山城下町」吉備出版、2009を道しるべに)と現在のものとを照らし合わせて、東から京橋を西へと渡ってからいうと、山陽道(西国街道)は橋本町から西大寺町へ、その端のところ、現在の同「商店街の終わり、時計台(サーカスドーム)のあたりで西国街道は、北上し、紙屋町に入る」(前掲書)、しかしてそれが「現在の表町商店街がほぼ西国街道に一致している」(同)とされる。
 ちなみに、西大寺町の南にある下之町と紙屋町には本陣といって、参勤交代の行き帰りに大名が宿泊していた。当時の地図でいうと、紙屋町の北側には栄町があり、こちらは本陣のほか、西国街道沿いに町会所があり、城下町(いわゆる町方)の政治経済から司法までをとりまとめ、また藩へ、藩からの窓口、いわば町方の中心であったこ。それに、岡山と各地を結ぶ主要な街道のほぼ全てがこの栄町の千阿弥橋(栄町と紙屋町をとり結ぶところに架けられた)を起点なり重要地点なりに定めていたという。

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 交通でいうと、歴史的には、まずは山陽道なのだろう。古代から、これを始めとする街道筋がこの地を貫き、人馬それに舟などの行き来が盛んな土地柄である。

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 それから、新しい産業も育ってきているようで、例えば、次のように紹介されている。

 「同社は1995(平成7)年の設立当初は自動車関連の生産設備の製造販売を行っていた。エンジンやミッションを組み立てるラインの設備を、自動車メーカーからのニーズに応じた仕様で一つひとつ生産していた。しかし、自動車の製造拠点が海外に移転していったことに伴い、受注量が漸減(ぜんげん)していく。決定打となったのが2008(平成20)年のリーマンショックで、これにより受注が激減したという。

 「お客様からのニーズを聞いて受注を待つ体制はもう、やめようと思いました。これからは自分たちの技術を発信し、新たな市場を切り拓こう、『ニーズからシーズへ』と転換を図ろうと、2010(平成22)年から始めたのが耐久試験の事業でした。」(黒部麻子・文「フレキシブルディスプレイの開発を支える試験機のトップメーカー、ユアサシステム機器株式会社(岡山市)」、中国電力株式会社地域共創本部「碧い風」102、2021年7月号)

 そうはいっても、丸腰で始めたのではなかったようで、「自動車で使われるワイパーハーネス(組電線)の屈曲性を試験する機械を作っていた経験」(同)があったから。そして、苦心の末に出来上がったのがフレキシブルディスプレイ耐久試験機なのだという。以来、素材メーカのみならず、デバイスメーカー、そして、製品メーカーへと販路を広げていく。

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 それでは、明治時代に入ってからの商店街は、どのようになっていったのだろうか。予めいうならば、それは、かなりの変動をしていく。その中心となったのが、今日でいう「表町商店街」であって、城下町岡山のかなり西まで行ってから北に転じての辺り、当時の山陽道に沿ってであった。
 そして、この商店街の環境なり雰囲気をガラリと変えていくのが、この地域における近代的な百貨店の出現であったろう、例えば、こんな記事が載っている。

 「表町商店街への進出は3代・藻平の時で、中之町に呉服店を出した。百貨店としてのスタイルを整えるのは13年後の1925年(大正14年)。下之町の現在地に、十間四方(縦横約18メートル)の洋風木造3階建ての店舗を建設し、呉服、洋品雑貨、子供服など多くの品を扱った。開店日の3月10日は大混雑となり、やむなく入館制限をしたという。
苦難を乗り越え
 1936年(昭和11年)3月11日、天満屋は大火に襲われる。本館3階から出た火は全体に燃え広がり、軍隊まで出動し消火に参加。死傷者はなかったものの、大きな損害が出た。しかし、立ち上がりは早く、18日後には近くの分館で営業を再開。10月にはすでに着工していた地下1階、地上6階建て、エレベーターや冷暖房装置も備えた売り場約1万3000平方メートルの新店舗を開店させた。屋上には小動物園のある「子供の国」も設けられ、親しまれる百貨店となるのに役立ったという。」(2021年2月14日付け「読売新聞」電子版)


 北区には、また小川を利用した公園が少なくない。それらのうち代表格は、南方地内から柳町地内までに設置されているのが西川緑道公園であって、1974年度(昭和49年度)から1982年度(昭和57年度)まで9カ年かけて、岡山市がつくった。岡山市中心部を南北に流れる西川用水の両岸を「緑の回廊」として整備したもので、総延長は2.4km(キロメートル)、総面積にすると4.0ha(ヘクタール)あるという。
 なぜ緑道公園というのかについては、まずは清らかな川沿いとしていることがあろう。そこへ持ってきて、およそ100種類の樹木を約3万8千本植樹してあるほか、彫刻や水上テラスなど心休まるオブジェなどをところどころに配置してあるという。
 なにしろ街中のこととて、全範囲にわたって沿道の安全が確保しやすいことがあろう。それに、筆者が少しばかり足を運んだ限りでいうと、何というか、なんとなく気持ちが明るい方へと運ばれる感じがした。これだと、昼間のみならず夜になっても、水と緑に囲まれた散策を楽しんでもらえると。季節感も湧いてきそうで、春の芽生えから新緑へ、夏は涼しさを求めての森林浴、それからは秋の紅葉が手頃な距離のところに展開している。草木花の様子からは、四季の移り変わりが楽しめそう。それに、野殿橋ステージ周辺では、さまざまな市民主体のイベントが開催されたりもしているようなのだ。

 今につながる北区の「保健福祉・子育て」については、岡山市が2016年に作成した、次の報告があり、これに沿った現状認識を重ねることが期待されよう。 
 「・各中学校又は小学校区単位で健康市民おかやま21の推進体制があり、公民館等を拠点として地域の実情に合わせた健康づくりを行っている。・子どもの数は4区の中で最も多い。」(岡山市「区の概況、現状と課題」2016年6月の中の「区別計画策定に向けた検討シート(北区)」)

 それから、今につながる北区の「保健福祉・子育て」については、岡山市が2016年に作成した、次の報告があり、これに沿った現状認識を重ねることが期待されよう。 
 「・各中学校又は小学校区単位で健康市民おかやま21の推進体制があり、公民館等を拠点として地域の実情に合わせた健康づくりを行っている。・子どもの数は4区の中で最も多い。」(岡山市「区の概況、現状と課題」2016年6月の中の「区別計画策定に向けた検討シート(北区)」)

○2021年11月19日付けで配信されたニュースにて、子ども支援団体などの連携グループ「こどもを主体とした地域づくりネットワークおかやま」が行う生活応援事業「フード&ライフドライブ」が紹介された。昨春に始めた取り組みは5回目とのこと。この催しは、食料品・日用品の寄付を募り、新型コロナウイルス禍の影響などで困窮する子育て家庭に贈るというもの。岡山市内2会場(岡輝公民館(同市北区旭本町)と操山公民館(同市中区国富)で支援品の寄付を受け付けるとのこと。
 やみくもに無料で供出してほしいというのではなくて、米、缶詰、インスタント食品、調味料、菓子、粉ミルク、洗剤、おむつ、生理用品、マスクなどを募っているとのこと。それでいて、未開封・未使用で、食料品は期限が2022年2月以降のものとしている。 今回は当該の350世帯に無償提供する予定とのことで、新型コロナ禍の長期化で支援を求める家庭を支援しようとの熱意と努力に脱帽だ。

(続く)

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新◻️171『岡山の今昔』浅口市

2021-12-17 09:25:45 | Weblog
171『岡山の今昔』浅口市

 浅口(あさくち)市は、県の南西部に位置する。その南側は、瀬戸内海に面している。東には倉敷市、西には笠岡市。ちなみに、「浅口」という名前の由来だが、「続日本書記」に、「備中国浅口郡犬養のかり手、昔、飛鳥寺の塩焼戸(しおやきべ)に配せられて、誤って賤例に入る。是に至りてて遂に訴えて之を免ず」(森脇正之「玉島風土記」岡山文庫169、1988で紹介)とある。当時としては、賤民にされると大層生づらかったのだろう。

 それから、長い年月を経ての2006年3月21日には、金光町、鴨方町、寄島町の3つが合併して誕生した。その時、里庄町は浅口郡に只一つ残り、船穂町は倉敷市に移った。

 交通をいうと、東西をJR山陽本線が横断していて「鴨方駅」「金光駅」の二つの駅が設けられている。主要な道路としては、国道2号線が山陽本線に沿うように通っていて東西の交通の要となっている。県道64号線を筆頭に多くの県道がそこから枝分かれして市内全域へとつながる展開だ。バス路線も充実していて、市内循環してもよし、倉敷市方面・笠岡市方面・市内循環をカバーしていると教わる。それから、山陽自動車道が市の中心部から少し北部を横切り「鴨方IC」が設けられている。

 こちらの気候としては、瀬戸内海に隣接していることから、一年を通じて温かく、しのぎ易い。とはいえ、2018年7月の豪雨に遭ったことで、様子が変わったのは、他の南部の自治体と同じ。
 交通の便利は、JR、国道、山陽自動車道が市を横断しており、倉敷市など周辺都市のベッドタウンの顔を持つ。

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 産業としては、植木の栽培、手延べ麺の生産、漁業など多種多様だ。いうならば、合併前の各地域ごとに特色があった。北の方から順に少しいうと、金光地域は、「金光教本部」があることから宗教の町といったイメージもあるものの、そればかりではなくて、植木の町としても有名だ。それに類して、季節の花や木が展示販売され賑わっているとのこと。  その南西方向にある鴨方エリアというのは、なんといっても「鴨方そうめん」をあげねばなるまい。「阿部山水系」に源を発する「杉谷川」の水を利用した手延べそうめん作りは、江戸時代末期から伝統を誇る。そういえば、関東地区の店にも時折売られているのを拝見する。他にも桃やイチゴの栽培も盛んに行われているとのことであり、全体として爽やかな土地柄といってよい。
 寄島エリアについては、その名前のとおり、いまでは島は陸つづきだ。この辺りの瀬戸内海は、古くから漁場として栄えてきたところであって、寄島漁港では約80隻の底引き網漁船が停泊していて瀬戸内海で漁業に精を出しているとされる。四季折々の魚の種類も豊富、代表的なものにガザミやシャコなど。また牡蠣の養殖も盛んに行われているとのことで、頼もしい。

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 それから、市内の見所として、珍しいところでは、天文台が有名だ。この町の北部には、国内最大級の望遠鏡が二つあるという。一つは、1960年(昭和35年)に設置された183センチメートルの反射望遠鏡で、国立天文台が運営する。もう一つは、2018年に完成した3.8メートルの反射望遠鏡「せいめい」で、こちらは京都大学岡山天文台だ。後者の特徴は、24時間、各国連携での観測を可能とするものだという。

(続く)

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新◻️252『岡山の今昔』津山市(産業など)

2021-12-17 08:53:58 | Weblog
252『岡山の今昔』津山市(産業など)

 現在の津山市は、岡山県の北部、津山盆地とその周辺から成り立っている。現在の津山市は、2005年2月28日をもって、旧津山市と勝北町、久米町、加茂町、それに阿波村が合併して誕生した。総人口は約10万人だという。
 地理では、北は鏡野町、鳥取県と接す。東には美作市、南にかけては久米南町(久米郡)、西には真庭市。

 その成り立ちでは、古くから美作地域の中心である。713年(和銅6年)の4月に備前国から離れ、現在の津山市総社に美作国(みまさかのくに)の国府が置かれた。それからかなりの時が経過しての江戸時代には、津山城の城下町となる。そして、1876年(明治9年)4月には、北条県が岡山県に合併吸収された。

 思えば、713年(和銅6年)の4月に備前国からから離れて以来1163年ぶりのことであった。続いての1900年(明治33年)には、津山町と津山東町が合併して、第二次の津山町がスタートした。

 この地域における近代産業の展開ということでは、美作域内での繊維大手としては、津山市二宮を本拠地とする郡是グンゼが、1916年(大正5年)、グンゼ株式会社津山工場として設立し、生糸の生産を開始する。

 同社の場合、それが第二次世界大戦後の1954年(昭和29年)には、合成繊維の普及に圧される形で、生糸の生産に終止符を打ち、合繊加工事業への衣替えを行う。その中でも。合繊ミシン糸への転換を進める。1972年(昭和47年)以降は、ミシン糸の一環生産工場としてミシン糸に特化した模様。2003年10月にほ、津山グンゼ株式会社として独立し、蓄積した技術、設備を生かし分野を拡大中だと伝わる。

 さらに時代が変わっての市制施行は、1929年(昭和4年)のことであった。

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 第二次世界大戦後の1954年(昭和29年)には、産業の復興がなされていく。繊維に、ついていえば、前述の郡是が、合成繊維の普及に圧される形で、生糸の生産に終止符を打ち、合繊加工事業への衣替えを行う。その中でも。合繊ミシン糸への転換を進める。1972年(昭和47年)以降は、ミシン糸の一環生産工場としてミシン糸に特化した模様。2003年10月にほ、津山グンゼ株式会社として独立し、蓄積した技術、設備を生かし分野を拡大中だと伝わる。

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 それから、現在につながる合併から10年を迎え、市では、かねてからの新生津山キラめきプラン(津山新市建設計画)や津山市第4次総合計画などでを推進してきた、それを今後の津山市の施策へ繋げてゆくため、合併10年間の成果と課題をまとめた「合併10年の総括と今後の展望」を作成したという。

 続いて、美作の若手を育てる企画から、一つ紹介しよう。
 「美作地域に活力を生み出そうと、若手の起業家や農業者、建築士らによる交流組織「みま咲く未来プロジェクト」が6日、発足した。若者たちが連携できる取り組みを通じ、若者らの定着や、より活躍できる地域づくりを目指す。
 地域の将来像を展望した「みま咲く未来シンポジウム」(11月18日・津山市)でコーディネーターやパネリストとして登壇したウェブサイト制作などのレプタイル(同市)の丸尾宜史社長(37)ら6人で構成する企画会議を同市内で開催。交流組織の立ち上げを決め、組織の在り方や活動内容を話し合った。
 名称は、若者らを支援しようと、シンポジウムや本紙作州ワイド版の連載「この地に生きる―作州の若手」を展開した美作県民局と山陽新聞津山支社による「みま咲く未来プロジェクト」と同名にし、代表に丸尾社長を選んだ。
 今後、組織を紹介するホームページを作成。企画会議に学生らより若い世代のメンバーも加え、具体的な取り組みについて検討していくことなどを申し合わせた(2019年12月6日 、山陽新聞デジタル)。
 これにあるのは、新しい頭脳の一つとしての交流部門の誕生なのだろうが、是非、吉備高原都市構想などの、県内の優れた経験にも取材してほしい、みんなの力を合わせることで頑張ってほしい。
  
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 次には、「地域に生きる企業家群像」として雑誌に見える中から、津山を拠点にしている、広い意味での産業ロボットメーカーの取り組み記事を暫し紹介したい。
 項目としては、「父の急逝が転機と、なり大好きなロボットで起業」、次いで「無理せず無借金経営で着実に成長」「自動化で危険な作業を安全かつ高品質に」ときて、後半は「人材養成のユニークな取り組み」さらに「チャンスをつかむために大切なのは目標を持つこと」で締めくくっている。
 「実はリーマンショック後から、日々の業務の傍ら新たなロボットの開発を続けてきた。それは、合鴨農法の合鴨に代わるような、水田用除草ロボットだ。合鴨のように土壌を撹拌しながら田んぼを走行することで、稲の光合成を妨げる雑草を取り除くとともに、土壌中に酸素を供給し、稲の成長を促す。
 高齢し高齢化し、後継者不足や耕作権放棄地の増加が深刻になっている昨今、米作りが盛んな津山ならではのロボットを社長の出身校である津山高専と共同で開発している。」(黒部麻子「津山に帰郷し、ゼロからのロボットっくりに挑戦。ユニークな発想と広い視野で人材を育成し、独自のロボットの開発を目標に掲げる。IKOMAロボテック株式会社、生駒代表取締役社長(岡山県津山市)、雑誌「碧い風」103、2021年11月号に掲載)
 これなどは、地に足がちゃんとついて時代の変化に即応している感じが伝わる、なんとも清々しい話で、事業の発展を祈らずにはいられない。


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 さらに眼をウインター・スポーツに転じてみると、津山市の屋外スケートリンクが2年ぶりにオープンし、多くの家族連れなどでにぎわっているというから、興味深い。その場所は津山市の志戸部(しとべ)、そこに冬の間だけ開設される「アイスランド津山」がうるのだが、広さがおよそ1800平方メートルある、西日本最大規模の屋外スケートリンクからのレポートなのだ。
 報道によれば、こちらのスケート場を運営するのは、津山陸上競技場(市営)なのだが、昨シーズンは新型コロナの影響で開設されず、2021年12月11日から営業が始まったとのこと。市民の大方には知られているが、近隣からも、スケート靴の貸し出しも行われている手軽さもあることなどから、家族連れなどが訪れ、楽しそうに滑っているという。県北では、冬の寒さにともすれば家に閉じこもりがちなのに対して、寒さを吹き飛ばそうとの気概も生まれるかもしれない。志戸部にはショッピングセンター、食事施設もあったりで、スポーツで楽しんだ後は美味しい食事をするには便ではないかだろうか。
 
(続く)

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🍁父・登(のぼる)の平和への思いを胸に(2021.12.16)

2021-12-16 20:56:31 | Weblog
父・登(のぼる)の平和への思いを胸に(2021.12.16)
 私の父は、第二次世界大戦中の中国において、旧日本陸軍の一員として中国人兵士と戦争をしていた。その間の話を、もうかなり前のある日のこと、私の問いかけに対して応えてくれたことがあった。傍らでは、祖母が座って聴いていた。あれから数十年、いまから考えると、本人はそんな話はしたくなかった筈だ。
 それは、告白といおうか、懺悔といおうか、かといって沈痛な調子ではなく、たんたんと、口数は多くなかったのだが。それでも、今日改めて持ち出すのは、その村に中国軍がいないことで安心したのか、部隊が一息ついた後のことであったろうか、日本人兵士たちの中には「女を探しにいく」ということで出かけた者が少なからずいたというから、大層驚いた。その時の父は、「お父ちゃんは行かなかった」と。念のため断っておきたいのは、父は決して嘘が言えるような器用な人ではなかった。
 そんな70年以上前の話をいまなぜ繰り返し紹介するのかというと、私たち日本人の少なくない人たちの頭の中に、かつてのアジア侵略の歴史を、憲法第9条の平和条項とともに消し去ろうとする動きが激しくなりつつあるのを感じるからである。(2021.12.16)


新◻️172『岡山の今昔』里庄町(浅口郡)

2021-12-16 18:59:24 | Weblog
172『岡山の今昔』里庄町(浅口郡)

 里庄町(さとしょうちょう)は、岡山県南西部にある、浅口郡に属す。1905年(明治38年)には、里見村と新庄村が合併して里庄村となる。1950年(昭和25年)には、町制に移行する。

 町の面積は12.23平方キロメートル、人口1万929人(2015)だという。その地質・地形としては、岡山平野西方の鴨方(かもがた)地溝帯にあり、南部と北部は「丘陵性山塊」と呼ばれる。

 この地だが、古代律令制の下では拝師郷(はやしのごう)(林郷)、中世での口林(くちばやし)庄があった。

 交通の便利は、県南のためもあって、大方よいのではないか。平野部に、国道2号とJR山陽本線が走る。これらが効いて、岡山、倉敷両市のベッドタウン化が進んでいるとのこと。とはいえ、北部との交通連絡が課題ではないだろうか。 
 
 伝統的産業としては、一つに大原焼、二つ目に酒造業だという。大原焼の歴史は奈良時代に遡るともいわれ、庶民の日用品を好んで製作とのこと。

 まずは大原焼というと、こちらの焼き物は、備前焼と同じように釉薬を用いることはないという、そして高温で焼き締めた焼き物にして、評判では「使い込むにつれて光沢が銀色から金色に変わるという」(文はみわ明、写真はトラベルネットワーク「全国焼き物体験」昭文社、1997)から、驚きだ。

 一方、酒造業は江戸後期。以来240年の技と伝統が今に生きる。仕込み水には山からの湧き水を使用。米は地元のものを岡山のアケボノ、朝日、吟醸酒には山田錦の原料米を使い分けているらしい。その口当たりは柔らかいとのこと。
 モモやカキ、まこもたけ栽培がある。近年は、機械器具や食品などが盛んで、かつ、海外展開では、こんな事例が報道されている。

 「半導体製造装置のジェイ・イー・ティ(JET、岡山県里庄町)は太陽光発電パネルの製造装置事業を拡大する。特殊な薬剤を使い歩留まりを向上させることで、従来よりも2割程度安価にパネルを製造できるようにする。主に中国企業への輸出を目指す。売上高のほとんどを半導体製造装置が占めており、事業を多角化し経営を安定させる。
 同社がパネルメーカーに導入を提案するのは原材料のシリコンの表面を加工する装置。(以下、略)」(2015年4月9日付け日本経済新聞電子版)


(続く)

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新300「岡山の今昔」 17世紀の岡山・兵庫人(宮本武蔵)

2021-12-16 10:12:48 | Weblog
300「岡山の今昔」 17世紀の岡山・兵庫人(宮本武蔵)

  宮本武蔵(?~1645、生年は一説には1584)といえば、剣豪のみならず、墨で描いた絵画をはじめ、書・彫刻・工芸・連歌、果ては晩年の都市計画や庭園設計までもが現代に伝わるという。

 その生家の出目については、よくわかっているとは言い難い。一説には、故郷を美作国吉野郡宮本村(現在の美作市大原町宮本)と目して、こう説明されている。
 「新免家は当時、播磨・備前・美作三か国に君臨し巨大な勢力を誇っていた赤松円心ともつながりをもっていた。新免家家系図をみても、上月(こうづき)城主、平福利神(ひらふくりかん)城主と縁故があり、新免伊賀守宗貞(むねさだ)の妻は竹中半兵衛(たけなかはんべえ)の姉であるなど、東作(とうさく)地方における名家であった。」(研秀出版による「日本の民話」第12巻・中国2の中の船曳芳夫(ふなひきよしお)「宮本武蔵伝説」1977より引用)

 では、その剣の修行をどのような経緯で始めたのだろうか。それについては、かなりの憶測が入る話にならざるを得ないものの、一説には、次のように語られている。
 「このとき、新免家は関ヶ原戦に敗れて、「落城没落九州黒田筑州公仕(つかえ)、宗貫卒(そつ)す」と系譜にうるが、武蔵が関ヶ原戦に出たという記録はない。
 播州平福利神城の麓(ふもと)に庵(いおり)村(現・佐用庵)がある。そこに宮本村の平田家より分かれた平田四郎右衛門が大庄屋を、していた。武蔵(幼名・弁の助)は、その二代目四郎左衛門の家に寄遇(きぐう)して、その家の二男道林坊について付近にある正蓮庵(しょうれんあん)という庵において修練したという。もちろん父武仁からも剣術を教わっていたであろう。」(同、前掲書)

 それと、本人は後年こう述懐している。
 「16歳にして但馬(たじま)の国秋山という強力の兵法者に打ち勝ち、21歳にして都へ上り、天下の兵法者にあい、数度の勝負を決すといえども、勝利を得ざるこということなし。その後国々所々に至り、諸流の兵法者に行逢い、六十余度まで勝負するといえども、一度もその利を失わず。その程年十三より二十九までの事也。」(「五輪書」)

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 加えるに、彼は武芸に秀でていたという、独特の人物であったことが知れている。そして、その謎を解く手掛かりとしては、彼自身による次の言葉が挙げられよう。
 「兵法の理をもってすれば、諸芸諸能もみな一道にして通さざるなし。」(「五輪書」)と。
 とはいえ、これが慢心から出たものでないことは、はっきりしている。それというのは、また、こうあるからだ。
 「千日の稽古(けいこ)を鍛(たん)とし、万日の稽古を練(れん)とす。」(同)
 その絵からいうと、重要文化財の「枯木鳴鵙図」(こぼくめいげきず)をはじめ、「鵜図」(うず)、「布袋観闘鶏図」(ほていとうけいをみるのず)などがある。「枯木鳴鵙図」からは、ピンと張りつめた緊張感が伝わる。木の枝の上の方に一羽の鵙(もず)がいて、その枝を下にたどっていくうちに、へばりついた芋虫が見つかる。木の両側には、大いなる空間があって、遠くからでも眺めることができたのではないか。
 
(続く)

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新420『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、宇野弘蔵)

2021-12-15 17:14:03 | Weblog
420『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、宇野弘蔵)

 宇野弘蔵(うのこうぞう、1897~1977)は、マルクス経済学者の大家だ。倉敷の生まれ。
 1921年に、東京大学経済学部を卒業する。 1922年には、ドイツへ留学をはたす。ベルリン大学では、早くもマルクス経済学の研究を行っていたようだ。
 その頃からか、社会主義の科学的な基礎づけに並々ならぬ情熱を傾けていたという。1924年に帰国すると、東北大学法文学部助教授となる。経済政策論を担当する。1936年には、「経済政策論」を手掛ける。

 1938年に起こった第2次人民戦線事件に連座して検挙される。起訴されるも、無罪。学問一途のため、罪が晴れるのは早かったのではないか。
 それでもマルクスというだけで、「赤だ」云々と差別される暗い時代であり、 1941年には同大学を辞す。
 戦後になっての1947年には、東京大学社会科学研究所教授となる。 それからは、研究に拍車がかかったようである。定年退官の後は、1968年まで法政大学社会学部教授を務める。

 この間では、著書多数。英訳されているものもあるという。まずは、マルクスの「資本論」の展開、述べ方には、異議を唱えた感があろう。印象では、自己完結型の「価値論」の説明を披露した。それらは、他のマルクス派と比べ、独創的でもある。
 一般によりわかりやすいものでは、「資本論入門」 (1949) や「経済原論」 (1952) 、それに「恐慌論」(1953)がつとに著名かつ影響も大きいのではないか。
 中でも、恐慌論は独特な言い回しにて、なかなかに込み入っている。
本題に当たる第2章でいうと、まずは「利潤率と利子率との衝突」を立て、その中では「資本の蓄積の増進に伴う利潤率の低下」から「最好況期における利子率の高騰」へ、さらに「いわゆる資本の欠乏」へと進む。

 参考までに、景気の上昇局面において、労働力供給と労働需要の不均衡の累積があるとした上で、マルクス経済学者の置塩信雄は、資本がどのようにしてその繁栄を未来へ繋ごうとするかに触れ、こう述べている。
 「このような説明に対して、労働需要が増大し、産業予備軍を吸収してゆくにつれて、労働市場の需給が緊迫し、貨幣賃金率が上昇する結果、利潤率の低下、それによる旧来の生産技術で操業する資本の破壊、また全体としての蓄積需要の減少が生じ逆転するという異論が出されるかもしれない。事実、このような考えを基礎において恐慌論を組み立てている人びとがある(宇野理論)。
 しかし、貨幣賃金率の上昇は、直ちに搾取率、利潤率の低下となるわけではない。問題は、貨幣賃金率が諸商品価格に比して上昇するかどうかである。すなわち、諸商品で測った、実質賃金率の運動が問題である。ところが、資本家の蓄積需要が加速的に増加している場合には、諸商品で測った実質賃金率の上昇率は、労働生産性の上昇率より必ず下回る。別言すれば、搾取率は必ず上昇する。それゆえ、上昇局面では、蓄積需要、搾取率、労働需要はいずれも累積的増大をみせる。」(置塩信雄「マルクス経済学2資本蓄積の理論」)


 次いで、「資本の過剰と人口の過剰」を立てる中では、「労働賃金の限界」から「商品の過剰としての資本の過剰」へと行き、さらには「豊富の中の貧困」をどこからか引用してくる。

 三番目には、「資本価値の破壊」ということにて、好況過程の締めくくりをなし、第三章の「不況」の分析に移る。

 このあたり、19世紀の20年代から60年代にかけてのイギリス資本主義を中心におく、「純粋資本主義」のカテゴリーを典型的だと見る。

 二つ目を述べておこう。こちらについては、例えば、次のように紹介されている。 「宇野は、マルクスに学びながらマルクスとは異なる経済学体系を構築した。彼によれば、経済学が原理論・段階論・現状分析からなる3層分析の体系でなければならない。現状分析は各国経済の現状の特殊性を分析する経済学の最終分野であり、段階論は資本主義の段階的発展を各段階を主導する典型国・典型資本の蓄積様式をタイプとして解明する経済学の中間分野であり、原理論は、「純粋な資本主義」の経済的仕組みを完結体系として(永遠に繰り返される円環体系として)説く経済学の基礎理論的分野である。宇野の業績はこの最後の原理論を独自に構築したことにある。(中略)だが宇野原理論の最大の泣き所は「価値法則の論証」に成功していない点にある。」(高須賀義博「鉄と小麦の資本主義」世界書院、1991)

 これにあるように、彼の経済学では、資本主義研究の範囲を、原理論、段階論、それに現状分析の3段階に分けて論じるのが特徴的だ。これは、一見用意周到にして、しかし、そのように論じる割には、現状分析は後回しにされる感じを否めない。

 これなどは、宇野個人の責任とは別の話にちがいない。総じて、いわゆる近代経済学派が現状分析の中から、あたらしい境地、さらなる課題を見いだしていったのにくらべ、マルクス派は全体として幾らか水を空けられていったのではあるまいか。


 さらに一つ、宇野自身が1969年に自らの立場を吐露したことがあり、それには、彼の率直さが見てとれる。

 「私は長い間「資本論」の研究に従事してきているので、多くの人々からマルクス主義者と考えられているかも知れないのですが、私自身は自分をマルクス主義者とはもちろんのこと、広い意味での社会主義者とも考えたことはありません。」(宇野弘蔵「資本論の世界」岩波新書、1969)
 ともあれ、宇野についての最大の課題としては、学問的にどのような批判にも耐えうるだけのマルクス学の基礎を打ち立てたかったのであろう。
 
 それと、宇野の業績にもう一つ加えるべきなのは、「宇野学派」と称せられるような学者のグループを育てたことではないだろうか。(かくいう筆者も、ゼミナール形式の「資本論研究」(全5巻)を所蔵していて、時に参考にさせてもらっている。)
 1990年代ともなれば、大学教育におけるマルクス経済学派の退調はなはだしく、「マルクスはもう古い」という世論の中でも、その伝統を守ろうとする一つの壁をなしてきたのであろう。

(続く)

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新♦️923『自然と人間の歴史・世界篇』米・中政府はどちらが「独裁的」か(問題点の若干の整理を巡って、1回目)

2021-12-14 22:47:33 | Weblog
923『自然人間の歴史・世界篇』米・中政府はどちらが「独裁的」か(問題点の若干の整理を巡って、1回目)

 さて、この項では、その話のとっかかりに、今回の新型コロナ問題にちなんての新刊本の一節から紹介しよう。
 それというのは、この本には数人の、各界の名だたる識者が登場されていて、その中での文化人類学者のダイアモンド氏による、項目名「二十一世紀は中国の時代か?」中での次の下りに目が止まった、その部分には、こうある。


 「21世紀は中国の時代だという声も聞きますが、ありえません。中国は壊滅的なディスアドバンテージを抱えています。中国は四千年に及ぶ歴史の中で、一度も民主主義国家になったことがないのです。(中略)

 中国は民主主義国家であったことがない。それが致命的な弱点なのです。中国が民主主義を取り入れない限り、二十一世紀が中国の世紀になることはないでしょう。」(ジャレド・ダイアモンド他著、大野和基編「コロナ後の世界」文春新書、2020)

 改めて文脈を確認して、「ため息」を漏らしてしまったのは、他でもない。ここでの論旨が短兵急というか、それにアメリカの民主主義に照らして合致しているかどうかを評価の目安にしているところが、気にかかる。とりわけ、唐突に、「中国は民主主義国家であったことがない」とまで言い切っているのは、少し言い過ぎなのではないだろうか。

 さりとて、中国において全面的普通選挙が実施されていないことはその通りで。明快で説得力のある他の部分も大いに感じているので、はたしてどのように消化したらよいのだろうか。しかしながら、世界のために、米中での和解を待ち望んでやまない立場からは、これでは相手方の同意なり、一定の理解の表明を得るには、かなり足りないように感じられる。

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 それでは、どうしたらよいのだろうか。やはり、一つひとつを比べていくうちに、なにかが見えてくるようにも考えるのだが。まずは、論争の中心となっている「民主主義」という用語の歴史を少し振り返ってみたい。その馴れ初めは、遠く古代ギリシャにさかのぼろう。かの時代においては、支配的に振る舞う市民(18歳以上の男子)の間にも、「貴族」と「平民」の差別と選別の社会的な構造があった、しかも、抜きがたく、時として尖鋭な形で。なお、ここで誤解なきように、被統治の側にいる奴隷などの立場におかれていた人々(細かくいうと、奴隷、メトイコス(在留外人)、女性)については、これからの話での参政権の埒外に追いやられていた。
 これをみると、おおまかには、かたや前者は、社会の目標とするところを「善」におく、その上で、その理想の実現のためには能力に秀でた者が前面に立って社会を指導して然るべきだという。ちなみに、かの有名なソクラテスの愛弟子、プラトンは、「為政者が哲学者になるか、哲学者が為政者になるべき」と主張し、彼らの代弁者であり続けた。
 一方、一般市民の方向は、かなり違っていた。それというのも、大方たるや、その逆であったという。ざっくばらんにいうと、そこでは権力による支配をできるだけ少なくし、社会の重要な決定は統治側の市民総体として担うべきだと主張し、これだと広く権力を市民一般に委ねるようにすべし、となろう。
 ところが、これで両方での調整が図られ、妥協点を見いだすべく、双方協力しての努力が進むと思いきや、そうはならなかったのが、この話での「味噌」といえるのではないだろうか。

 すなわち、後者に対しては、前者による攻撃がなされる展開になっていく。そこで貴族らは、いわく、「君たちの主張は、結局のところ、権力による支配を弱めたり、廃止することにはならず、善悪の判断において劣る市民大衆に権力をあたえることになろうと。

 そして、かかる「善悪の判断において劣る市民大衆に権力をあたえるもの」(ギリシャ語にて「デモス・クラシー」)との、後者に対して手厳しい反批判を加えたことになっている。しかしてこれが、そもそもの「民主主義」とは何かの定義にも、ある程度は関わろう。


 それから2000年近くを経ての16~17世紀の欧州では、カトリック(カソリック)とプロテスタントとの間に、神とどのように結びつくかを巡り宗教戦争が戦われた。
 その中では、前者の勢力が、後者の信仰を持つ人々を、策を弄して大量虐殺さえ行うこともあったのが、やがて双方の間で歩み寄りがあり、互いの信教の自由を認め、保障しようとの動きが始まる。異なった宗教をもつグループが同じ地域に散在あるいは同居するためには、互いに寛容の精神をもって接しなければならない、と考えるに至る。
 が、そうはいっても、両派の間には宗教生活上の問題が日常化していたのであって、それらの問題を解決するために集会し、意見を述べあって妥協点を探りあう、それでも折り合いがつかない場合は多数決原理が採用されていく、これはすなわち、「多数に理性が宿る」という価値観を形成していくのであった。
 その後、市民革命など、各地での「権利のための闘争」を重ねるうちには近代民主主義が確立への道を歩んでいく。それらでの最大の拠り所となるのが、次に紹介するような取り決めとしての宣言であった。
 「すべての主権の淵源は、本質的に国民に存する。いかなる団体も、いかなる個人も、国民に由来しない権力を行使できない。」(「人および市民の権力宣言(人権宣言)」1789.8.26、芝生瑞和(しぽうみつかず)編「図説、フランス革命」河出書房新社、1989での邦訳より引用)

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 それでは、このような民主主義のメニューを大方実現するためには、社会、そして国家とその政府は、どのように心がけ、どのようにしてきたのだろうか。これを語るのは、思いのほか難しい。さりとて、先人たちが遺してくれたあまたの言葉の中には含蓄のある道しるべが多数あり、ここではリンカーンのゲティスバーグでの演説にある「人民の、人民による、人民のための政府(政治)」を手がかりに、某か紐解いてみたい。ちなみに、この地は、南北戦争の転回点となった激戦地である。
 こちらで用いられている文言に、どういう風な解釈が考えられるかというと、まずは、人民に属する範囲を公益として措定し、なおかつそれらを公(おおやけ)に明らかにして然るべきだろう。
 ちなみに、公益の反対は私益であって、後者の領域での収益、処分などは別扱いとなろう。具体的に、何が公益に属するのかは、時代・環境などによって歴史的に変遷してきた。例えば、「小さな政府」とか「市場原理主義」という立場からは、できるだけ公益の範囲を狭く解釈しようとしてきた。とはいうものの、現在ではどの国、地域でもかなりの分野が政府・政治の関わるものとして社会的に認められるに至っているのではないだろうか。
 もちろん、一概に公益に属する人民の広い意味での生活部分が多ければ良いというものではなく、例えば安全保障や治安(戦前の内務省の如く)に政治が肩入れするのは、少ないに越したことはあるまい。そういえば、テレビなどに出てくる顔の中にはいつでも「国家の危機」なりを強調して止まない人が見受けられるのは、いかがなものだろうか、主権者である国民は、いつでもどこでも、しっかりとその辺の裏側も含め全体事情を見極める能力を身に付けるべきだろう。
 そこで、このような区分けを携えて米、中を眺めると、どうだろう、アメリカが資本主義の牙城を任じる余りか、繰り返し公益を軽んじる傾向があるのに対して、それを守ろうとする向きの強く見受けられるのが、「社会主義市場経済」の体制を取っているからというよりも、発展途上国としての中国にほかならない。なにより中国は、いまだに貧困の撲滅を最優先の政策課題としているのが読み取れよう(2020年1月までの「人民日報」では、その関連ニュースが幾重にも出てくる)。
 リンカーンが掲げる二つ目のキーワードにおいては、どうだろうか。思うに、民主主義を実現する主体は人民であらねばならない、このことが一時たりともないがしろにされるようであってはならない。とはいえ、人民の総体が逐一というかどうかは別にしても、その時々の公益に関する案件に人々が一年を通して直接的に関わりうることがあれば、多様な理由から、選挙などで代表を選んで、選ばれた議員や行政首長などは、主権の範囲内でそれらについての政策を公明正大に実行していくこともあろう。
 ここに「選挙民主主義」については、一説には、「普通選挙権に基づき、定期的で競争的な、かつ複数政党による選挙を通じて、立法府と行政首長が選出される、文民による憲政のシステム」(ラリー・ダイアモンド)とされるものの、真に「人民による選挙」(被選挙権を含む)となるためには、さらに法の下での平等、それに選挙の公平性と公開性が各々のレベルにおいて確保されていることも、要件に加えるべきだろう。
 これらを含めて米中のおよその状況を見ると、中国では選挙法に基づき複数政党(ただし、実態は共産党が中心)の下での各級選挙が大方平穏に実施されるも、地区(市や自治州)から上では間接選挙となっており、公開性も満たされているとは言い難い(さしあたり、本間正道他「現代中国法入門」を推奨したい)。
 例えば、香港も今は中国国内であることに変わりはなく、参考までに顧みれば、1997年の中国返還後の香港は、「一国二制度」の下で50年間は「高度な自治」を保障された。行政長官の選出について、香港基本法は、「広範な代表性を持つ委員会が民主的手続きで指名した後、普通選挙で選ぶ」ことを最終目標としている。それでも、前回の選挙は「選挙委員会」の1200人が投票できたにとどまった。
 2014年8月、基本法の解釈権を持つ中国の全国人民代表大会常務委員会は、香港政府の報告に基づき、2017年選挙で18歳以上の市民が1人1票で投票する仕組みを決定した。同時に、中国側の決定では、香港の親中派が多数を占めるとみられる指名委員会が候補者を2〜3人に絞るため、同民主派は「民主派を排除するものだ」と反発し、決定の撤回などを求めて抗議を行った経緯がある。
 一方、アメリカも、わけても大統領選挙で選挙人を選ぶ間接選挙にて、しかも州毎の最終集計に当たっては有利な側に全数を与える仕組みなので、死票が沢山出るのを免れない。
 がしかし、これらの扱いは両国とも建国以来の伝統であることに留意されたい。また、アメリカではロビー活動や選挙上での人種差別化戦略が半ばまかり通っている感があり、中国についても、候補者が立候補の前に正当とは言い難い、ある種の調整(詳しくは別項)に直面する場合も見受けられる。
 そればかりか、アメリカについては、これらに関連して、前述のダイアモンド氏による、こんな憂慮も表明されているところだ。
 「日本やイギリス、ドイツでは選挙の前になると、この日に選挙がありますよ、という通知表が郵便で届きますが、アメリカは違います。投票するにはまず自分で有権者登録をしなければなりません。登録には免許証やパスポートなどのIDが必要で、どちらも持っていない多くのアフリカ系アメリカ人は登録できません。つまり彼らは投票できないのです。
 アメリカは建前上、表面上は民主主義ですが、実際に投票できるアメリカ人はどんどん減少しています。」(前掲、「コロナ後の世界」)

 そして三つ目は、それらの行為が広く人民のため(利益)となるように実行、実践されているかどうかが、これまた透明性なり公開の原則に則って、ここの人民にまで届くように明らかにされなければならないことをいう。
 この道理を言い換えるなら、正当な理由なく、ある特定のグループに有利なように、彼らに対して正レント(特権)を生じさせるがごときは、民主主義ではない。逆に言えば、民主主義というのは、特定のグループに特権的な利益をもたらすことで、彼らの範囲での一握りでの「幸せ」を実現しようとする行動には、くみしない。
 いみじくも、経済学者のクルーグマン氏からは、こんな「ため息」とも受け止められかねない声が寄せられている。
 「毎日、衰退を示す新たな指標がもたらされているようです。やればできるはずの国家がパンデミックに対処できない国になり、自由世界のリーダーが国際機関の破壊者となり、近代デモクラシー生誕の地が独裁主義を志向する者に支配されています。なぜ、すべてがこんなにも早く、間違った方向へ行くのでしようか。」(前掲、「コロナ後の世界」)
 かたや中国については、建国以来の「人民民主主義独裁」が国是(こくぜ)である以上、「独裁」一般をもってきて、「どうだ、こうだ」と非難なりを加えるのは、正しい批評とは言えまい。かの国で人民のための政府(政治)が現実のものとなるか、どうか、これからが正念場となるに違いあるまい。その辺りの探求に当たっては、中国人民の暮らしと意識の変化、現代におけるその方向性を、中華民族の再興の精神・願望までも踏まえつつ、謎解きをしていくべきだろう。あわせて、国際社会においては、彼らがこの間苦難の道を歩んできたことへの一定の配慮があって然るべきであり、それでこそ全体としての話が一層うまく行くの話ではあるまいか。

(続く)

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1117『自然と人間の歴史・世界篇』ドキュメンタリーテレビ科学番組「地球事変」(2021)などから

2021-12-14 07:25:04 | Weblog
1117『自然と人間の歴史・世界篇』ドキュメンタリーテレビ科学番組「地球事変」(2021)などから

 まずは、2021924日に放映された「地球事変、GIGA MYSTERY 「氷河期」」(NHK、BS1)から、ナイアガラの滝を織り込んでの地球の氷河期をめぐる科学ドキュメンタリー番組ならではの、解説を暫し引用させてもらいたい。

 「猛々しい激流。それにしても、これは一体どのようにしてもたらされたのだろうか。アイスコア研究者のジェームズ・ホワイト博士らの分析によると、太古の氷を採取して調べた。
「これはおよそ2万年前の氷です。見てください。氷の中に小さな泡が見えます。2万年前に氷の中に閉じ込められた空気です。この氷を密閉された容器の中で砕いて、空気をと出せば、大気中の成分や温度がわかるのです。
 この氷から、現在の気温より10~15度℃も低かったことかわかりました。」
 20000年前といえば、地球の気温が最も低かった時代です。現在との気温の差は15度。五大湖周辺は今の北極圏周辺と同じくらい寒い環境だった、ことになるという。さらにアイスコアで年代を遡ると、極端に寒い時期と比較的暖かい時期が繰り返されてきたことがわかりました。

 「最も古いアイスコアは85万年前のものです。その間に7~8回の寒冷な時期があったことがわかりました。北米を氷が覆い尽くすほど強烈に寒い時期です。過去100万年において10万年周期でくり返されてきたのです。」
 氷期はおよそ1万年、その後1万年ほどの間氷期を経て再び氷期へ、この周期が繰り返されてきました。過去100万年の間に氷河は8回あったこともわかっています。
 やがて氷期は終わりの間氷期へ。そのとき地球は急激な温度上昇に見舞われた。
 「アイスコアを読み解くと例えば13000年前、気温が1年に1℃上昇する年が5年続き、しばらす停滞してまた5年連続して上昇、人間の一生の間に気温が10℃も上昇したのです。こんな急激な気候変動が現代に起きれば、大変なことになます。」
 ホワイト博士は最後の氷期が終わったのは1万3000年前頃(注)だと考えています。急激に温暖化し、氷は一気に溶け出しました。

(注)なお、年代については学説によって様々な推測が語られており、また、その後も日進月歩の研究が行われていることだろうから、固定的に考えるべきでないと考える。例えば、ジョン・エリックソンの著書「」(原文は1990、邦訳は、小島紀徳監訳「温室の中の地球」オーム社、1992)では、「最終氷期開始10万年前」「最終氷期の最盛期2万~1万8000年前」「氷原の融解1万5000~1万年前」「1万年前~現在」などとしている。

 「過去85万年前の氷期を調べると、原因は太陽だとわかりました。。地球の公転軌道の変化と氷河期の年代がぴたりと一致したのてす。太陽に近づいけば暖かくなり、遠ざかれば寒くなります。寒くなると地表に氷か増えます。氷は白いので太陽光を反射します。この相乗効果で地球はどんどん冷えていくのです。一方、太陽が近づくと気温が上がります。地表に、たまっていた熱が氷を溶かして温暖化が加速するのです。私が13000年前に生きていたら、非常に過酷な状況に直面したでしょう。1年に1℃という温度上昇が何年も続くと、動物や植物に劇的な変化が起きます。それらを食料としていた人々はとても。苦しんだでしょう。
 おそらく人類の多くが命をおとしたはずです。現に私たちはここにいるわけですから、もちろん人類の全てではありません。しかし急激な気候変動が起きた地域ては生きることすら困難だったでしょう。」」(ドキュメンタリーテレビ科学番組「地球事変」(2021)から引用、なお、中の「」部分はホワイト博士の言葉)

 ところが、最近の氷期が終了して現在の間氷期に入ったのが1万3000年前だから、それからはや1万年を過ぎて現在も間氷期が続いていることになるだろう。そこで、(過去の周期に照らして)そろそろやって来てもおかしくない次の氷期がいつ到来するかを、現在進行中の地球温暖化が分かりにくくしているのだという。だとすれば、人類がこちらを止めるのを急がないと将来への対応を見誤ることになるという訳なのだ。

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 温暖化はまた、海流の動きに影響を与えるという。

 「フェイガンさんが根拠にしているのは、海洋学の第一人者だロバート・ガゴシアン博士が2003年に発表した説です(「過激な気候変動」)。
 赤道付近で暖められた水を北へと運ぶ深層海流。それは、北アメリカ大陸とヨーロッパの気候を温暖に保つ役割を果たしています。ところが、温暖化によって北極圏の氷河が大量に溶けると、海洋を循環させる役割が弱まり、やがて流れが止まってしまいます。すると、北アメリカ大陸とヨーロッパが急速に寒冷化し、一気に氷期に突入すると考えられています。その現象が真っ先に現れるのがラブラドルをはじめとした極北地域だというのです。本当にそんなことが起きるのでしょうか。」(ナレーター)


 どのようになるのかというと、赤道付近の暖かい水がその冷たい方向としての北大西洋深海流となって極地へ流れていくと、それは冷やされて海中のより深くに下降していくであろう。一方、北極圏の冷たくて塩分濃度が高いことから密度が高くなっている水は沈降して、これまた北大西洋深海流となって赤道近くへ向かって運ばれていく。そこに到達したときには、海底に当たって広がり、さらに赤道方面に向かって進み、そして熱帯地方の海水と混ざりあい、そのことで熱帯地方では深海の海水が上昇し、海水表面へと到達していくだろう。この上への水の流れは、深海底から表層へ栄養塩を輸送するのに重要な役割を果たしていらるとされる。
 こうして、熱帯地方から北の極地へ移動しまた元に戻る行程を完了するのには、一説には1000年余りを要するともいわれている。


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 我々の、祖先が地球上に出現したのはおよそ20万~15年万年前のことだと考えられている。それからの人類は、互いに協力しての創意工夫により氷期に対応して生き残ってきた、そのことをもって、次の試練としての地球温暖化の進行を防ぐことができるかが厳しく問われている、というのだ。

(続く)

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