新281『岡山の今昔』~13世紀の岡山人(吉備真備、和気清麻呂)

2021-12-08 21:22:30 | Weblog
281『岡山の今昔』~13世紀の岡山人(吉備真備、和気清麻呂)

 734年、第九次の遣唐使が入唐した。この年は、唐の開元22年に相当し、玄宗皇帝がまだ顕在で、「開元の治」を行っていた。その頃の唐に渡った人物の中に、今で言えば官僚の吉備真備(きびのまきび、695~775)がいた。彼の出身は、吉備の豪族の下道氏(しもつみちし)である。高梁川(現在の岡山県西部を流れる)の支流である小田川流域が、彼の故郷、下道(しもつみち)のあったところだ。
 古代の山陽道は、この辺りでは小田川に沿って都と北九州の太宰府とを結んでいた。684年(天武13年)に朝臣姓を賜ったというから、大和朝廷の寵臣として既に頭角を現しつつあったのだろう。朝廷に出仕し、「大学寮」を優秀な成績で出た真備は、717年(霊亀3年)、第8次遣唐使留学生に選ばれ、4隻船団の一つに乗って唐に向かう。時に、真備23歳のときのことである。この時の留学生として唐に渡ったのは、他に阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、留学僧には玄昉(げんぼう)らがいた。18年もの間唐に留まり、その間、多方面の学問に精出したことが伝わる。735年(天平7年)、日本に戻る。さっそく、「唐礼130巻、暦書、音階調律器・武器各種」を献上した。
 真備は、藤原4子の病死後政権を握っていた橘諸兄(たちばなのもろえ、大納言)に見出されるとともに、位も上がって「正6位下」に昇叙され大学助となる。以後、同じく唐の留学から帰朝していた玄昉と共に聖武天皇・光明皇后の寵愛を得、急速に昇進を重ねていくことになる。740年(天平12年)、藤原広嗣が大宰府で挙兵した。この乱が鎮圧されると、諸兄を追い落として権力の座についた藤原仲麻呂(恵美押勝)によって真備は疎んじられていく。
 そんな政治に嫌気がさしたのか、翌751年(天平勝宝3年)、遣唐副使として再度入唐した。それから又彼の地で勉強に励んで754年(天平勝宝6年)、唐より鑑真(がんじん)を伴って帰国を果たす。遣唐使の帰り船で、日本にやってきた戒律の高僧であった。中国の唐の時代の人で、上海の北、長江河口の揚州(ようしゅう)出身だといわれる。701年、13歳にして大雲寺に入り、出家したらしい。律宗や天台宗をよく学び、揚州・大明寺の住職となった。

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 ここまでは、2回目の唐での生活から帰国するまでの大まかな足取りであったが、今度は政治との関わりの中でも自分というものを失わなかった、その生きざまに着目して、青年時代から晩年まで(一部で重複)を振り返ってみよう。
 顧みると、朝廷の官僚として働くうちに、ある人物と相当に連携して事を行うようになっていたのではないだろうか。その相手方、僧侶の玄昉(げんぼう)は、737年僧正(そうじょう)に任ぜられ、皇太夫人(すなわち聖武天皇の生母)藤原宮子(ふじわらのみやこ)の看病をして功あり。「続日本記」によると、同夫人は長く精神病を患っていた、それを救ったとされている。それを契機に、唐の制度にならい寺院、僧侶の地位を向上させようと、政治に参与し、真備とともに藤原氏にかわって政治に関与していく。これに不満な大宰少弐(だざいのしょうに)の藤原広嗣(ひろつぐ)は玄昉と吉備真備を除くよう要求して740年九州で乱を起こし、敗死したが、玄昉も745年筑紫(つくし)に左遷され、翌746年同地で没した。
 もう一方の真備だが、玄昉とは異なり自らの力を政治的に使い立身出世を図ろうとは考えていなかったようだ。そして迎えた751年には朝廷の意をくんで2回目の遣唐使で大陸にわたる。かの地では、近年発掘されたところでは墓誌を記すアルバイトもしながら、本国のためにと仕事をし、754年に書物を携え帰国する。その時の朝廷で権力をふるっていたのが藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)に疎まれ大宰府(だざいふ)に左遷されるも、そこでも地道に働く。それが認められてか、764年に朝廷に復帰し、その年勃発した藤原仲麻呂の乱(注)の平定に知恵を発揮した。その後の僧侶・道鏡による政権の下でも、そつがなく朝廷人として右大臣(うだいじん、766)まで出世していく。
 かくて、藤原仲麻呂を除いては、聖武天皇・橘諸兄・孝謙天皇(後の称徳天皇)・道鏡と多くの権力者と良好な関係を保ち続けた。これを実現可能にしたのは、唐への留学経験で培った知識と、権謀術数に巻き込まれない立場をとったこと、さらに当時の日本が唐から学ぶことが必要であったのが実に大きかったのだろう(なお、当時の朝廷の状況は、北山茂夫「萬葉集とその世紀」下、新潮社、1980に詳しい)。

(注)この乱のきっかけは、764年9月、新羅(しらぎ)討伐を掲げて兵を集めていて、その武力をもって孝謙上皇(後の称徳天皇)を倒そうとしたのが、失敗して鎮圧された。仲麻呂としては、天皇のすげ替え(それまで傀儡として利用していた淳仁天皇(じゅんにんてんのう、在位758~764)を廃位させ、中納言の塩焼王(天武天皇の孫)を新たな天皇に擁立しようとした)を狙ったのが、有力貴族の多くがこれに反旗を翻したのだった。仲麻呂が殺害されたそのあとには、宮中奉仕の僧侶にして上皇とただならぬ関係となっていた道鏡の政権が立ち、さきに囚われの身となっていた淳仁天皇は淡路に流され、翌年10月に殺害されるという複雑さであった。

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 和気清麻呂わけのきよまろ(733~799)は、奈良・平安初期の律令官人。備前国藤野郡(後の和気郡と改称、現在の岡山県和気郡和気町辺り)の出で、父は和気乎麻呂という。
 天平宝字年間(757~765)の初めの頃には、孝謙天皇(女帝にして、後の称す徳天皇)に近侍(きんじ)していた姉の広虫(ひろむし)の推挙によって兵衛となった模様。その後、右少衛少尉、正六位上、従五位下などへと昇進していく。
 この間、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764)に功をたて、称徳天皇の信任を得るも、769年(神護景雲3年)には、道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)が起こる。こちらは、当時称徳天皇が寵愛していた僧侶の道鏡が皇位の座につくことを勧めた神託をめぐるスキャンダルであって、納得できない清麻呂は、宇佐八幡に赴き、神託が偽りだという証拠をつかんだとして、道鏡政権に反対し、左遷される。称徳天皇が亡くなり光仁天皇が即位すると、もとの姓と位に復する。
 それからは、出世コースで、平安京遷都前の788年には中宮大夫となる。桓武天皇にも覚えめでたく仕えて、典型的な高級官僚として名を馳せたようだ。
 そんな清麻呂は、大から小まで庶務に練達していたとされ、また、古事に明るく「民部省例」20巻「和氏譜」の作成に関わったり、土木技術にも才があり、平安遷都にも宮大夫として力を尽くしたという。

(続く)
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新1『岡山の今昔』先史年代の吉備(地殻の形成)

2021-12-08 11:41:19 | Weblog
1『岡山の今昔』先史年代の吉備(地殻の形成)

 今では周知のことながら、元のこの辺りに人はいなかった。後の日本になった地殻も、ユーラシア大陸の一部であって、いまのような形では存在していなかった時代だ。そもそも、その地殻中の「西南日本外帯」では、フィリピン海プレートの斜めからの沈み込みがあったという。
 そのことで、海洋からこのプレートにのることで移動してきた堆積物が、ユーラシア大陸側に押し付けられ、「付加体」なるものができていく。現在の西南の基礎となる岩石は、主にこのことによってできたのだという(山崎晴雄、久保純子「日本列島100万年史」講談社、2017)
 その後も沖合で海洋プレートの沈み込みが続くうち、今日の日本列島を構成する地殻の、あれやこれやの総体が大陸から分離し、やがて今日私たちが知るような形になっていったのではないかと考えられている。そのあらましについては、例えば、次のように言われる。
 「プレートテクニクス理論を組み合わせると、日本海が拡大する前には、東北日本と西南日本はそれぞれロシア沿海州と韓半島の沖合に位置していたとの結論に達した。」(乙藤洋一郎「古地磁気が語る日本列島・日本海の形成」、「地質技術」第7号(2017))
 やがて、次のような大変化が起こる。一説には、そのことを次のように推測している。
 「この古位置から、日本海が拡大の最盛期を迎えた15Maには、東北日本と西南日本の二つの扉は、観音開きのように開いた。」(同)
 なお、ここに「Ma」というのは、地球の歴史に関わる「Mega annum(ラテン語)」の略で、「今から1500万年前」を意味している。それと、地質学でいう地殻とは、地球の表層において、主にマグマが冷え固まってできたもので、地球全体をゆで卵と見立てると、「殻(から)」に相当しよう。あわせて、地殻とその下のマントル最上部の固い部分を合わせた厚さ100キロメートルほどの岩盤のことをプレート(海洋プレートと大陸プレートに分かれる)と呼んでいる。ついでながら、そこからさらに深部に向っての地球の組成は、次のように説明されている。
  「ゆで卵の白身に相当する「マントル」は、主に苦度かんらん石というオリーブ色の鉱物やそれがより高密度な構造へと変化した高圧鉱物(地球深部のような高い圧力と温度条件で安定な、高い密度と強度を有する鉱物)から構成されています。マントルは、その内部を伝わる地震波の速度が急に変化する深さを境にして「上部マントル(深さ410キロメートルまで)」、「マントル遷移層(深さ410~660キロメートル)、「下部マントル(660キロメートル以深)」の3つの領域に分けられます。
 一方、ゆで卵の黄身に相当するのが、深さ2900キロメートルから中心(約6400キロメートル)までを占めている「核」です。核はほぼ鉄とニッケルよりなり、高温のため融けて液体状態となっている。「外核」と、きわめて高い圧力のため、高温でも固体状態の「内核」に分けられます。地球が誕生した当初は、核はすべて液体の状態でしたが、長い年月をかけて徐々に地球が冷えてきた結果、中心部で固化が進んで内核ができたと考えられます。」(大藤弘明「地球深部を鉱物から探る」、国立科学博物館発行の雑誌「milsil(ミルシル)」5、2021年5月号より、一部省略の上引用)
 そこで西南日本の南北の地殻断面を一言でいうならば、地質構造を南北に大きく二分する中央構造線の存在だろう。かかる状況においては、四国のやや北部を東西に走る地層境界断層としての中央構造線(断層)なるものが、総体的には、これまでの日本列島の歴史の中でできた地層の「古傷」に属するというのだ。また、それとは区別しての、中央構造線活断層系(四国〜紀伊半島西部)とは、その一部を使って現在も影に日向に活動している断層のことだという。
 そこでは、南側の「西南日本外帯」(四国側)の山々の方が、「西南日本内帯」(大陸側)の山々よりも高い、これは九州についてもいえることなのだが、九州方面の地殻自体は中央構造線云々の埒外なのだという。
そこで現在にタイムスリッブして、中国山地の岡山県側を眺めると、東の方からごく大まかに、後山、船木山、その後ろに駒の尾山、そして西粟倉村などを挟んで那岐山と来る。さらに、滝山、広戸仙から奥津温泉峡を渡った後には津黒山へといたる。それからは、名高い「蒜山三座」、皆が山と来て、その向こうにつながるのは中国地方最高峰の大山(鳥取県だ。さらに進むと、毛無山、花見山、三国山へと、おおよそ1200メートル前後の山々が連なる(「岡山県の山」山と渓谷社、2010など)。
 再び日本列島ができてからに遡ると、それからは、中国地方の日本海側では、「この時期の火山活動は中生代のそれとは異なり、主として陥没・沈降地域の海底での噴火によるもので、その後の変質で緑色を帯びているのがある」(植田芳郎「中国地方の地質と生い立ち」)とのこと。続いては、こんな説明がなされている。
 「一方、この時代の中国地方の他の地域では、山陰のグリーンタフ地域と異なり、火山活動を伴わない比較的薄い地層が花こう岩や変成岩でできて凹地に堆積しました。これは広島県の山間部の三次盆地(みよしぼんち)や、岡山県では津山盆地に、また瀬戸内海の沿岸部に転々と小分布で残っています。」(同)

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新256『岡山の今昔』奈義町(勝田郡)

2021-12-08 08:20:59 | Weblog
256『岡山の今昔』奈義町(勝田郡)

 奈義町は、県北東部にある、現在の人口は約6千人だという。そのエリアにおいては、東は美作市、西は津山市、南は同じ勝田郡内の勝央町に囲まれる。北には、国定公園那岐山(なぎさん、標高1255メートル)、滝山(標高1197メートル)といった山を、仰ぎ見ることも多かろう。
 その那岐山の頂上に登るとわかることだが、連山の分水嶺を境として、鳥取県智頭町と接す。全体としての山間地域にもかかわらず、日本原高原を懐に抱くあたり、それから東にかけても、空が広く感じられる開けた地形が認められよう。
 このあたりは、年間を通してさして暑くはなく、冬の厳しい寒さを除けば、なかば過ごしやすい気候ではないだろうか。そうはいっても、台風の季節には那岐山麓一帯に、日本三大局地風の一つ「広戸風」がよく吹く。筆者は、当時西隣の勝田郡勝北町(現在は津山市)にいたが、特に、台風が紀伊水道あたりを北上するコースをたどるようなあんばいだと気象台からの通報に、子供心に不安を掻き立てられた。

 そんな奈義町でも、ご多分に漏れず、人口減が続いたことだろう。それを危惧し、町は、2012年に「子育てするなら奈義町で」というキャッチフレーズを掲げ、様々な子育て支援策を打ち出していく。

 これを紹介する記事によると、その見出しには、「人口6000人のこの小さな町は、10年ほど前まで他の過疎地域同様、少子高齢化に悩んでいた。しかし、(平成24年)に「子育て応援宣言」を行い、地域ぐるみで子どもの成長を支えるまちづくりを推進」(DePOLA(デポラ)55、2021年10月号)とある。
 「奈義町の合計特殊出生率が高い理由の1つとして、子育て世代への経済的支援が充実していることが挙げられるだろう。医療費は高校生まで無料、出産支援金の給付、在宅育児支援金の支給、また高校生への就学支援など、子どもの成長に応じて、多岐にわたった手厚いバックアップがされている。(中略)
 町が子育て支援の施策を推し進める一方で、地域の人たちのしっかりとしたサポートがある。官民のバランスがうまくとれているのだと思う、と貝原さん。「地域ぐるみで子育てをサポートする」という町の施策の成功例といっていいだろう。(中略)
 そればかりではない。あわせて、生き甲斐や格差是正に繋がりうる、広い意味での社会福祉的な取り組みにも精出しているとされ、「これからの時代は、「知識・技能」より「主体性・多様性・協同性」が重視され、「身体的文化資本(センス、マナー、コミュニケーション能力、感性、味覚等)」が問われる。そうなると文化の地域間格差と家庭間の経済格差がますます影響するという。なぜなら、「身体的文化資本」は観劇体験や言語環境など「本物」「いいもの」に子どもの頃から多く触れることで育まれる能力だからだ」(同)としている。

 およそこのような取り組みの甲斐あってか、2014年には、女性1人が生涯に産むと見込まれる子どもの数「合計特殊出生率」が全国トップレベルの2.81、さらに2019年には2.95を記録したという。
 そして迎えた、2017年5月19日のことだった、この日、奈義町と特定非営利法人「きずなメール・プロジェクト」は、「地域全体で子育てを支えるまち」を目指す連携・協働の取り組みの実施について協定を締結する。これまでの「なぎチャイルドホーム」や対話教育の推進などが、大いなる力となっているようだ。まるで、「油断は禁物」と心得ているかのよう。皆々でつくったものをこれからも皆々の手で維持、発展させていく、ぜひ頑張ってほしいものだ。
 その他にも、町内には、20世紀の90年代から21世紀にかけては、文化面で注目すべき施設が幾つもできているという。まずは、現代風のテーマを掲げる、町営の美術館(通称はNAGI MOCA)が1994年より活動中だ。建物からして円柱の形をしており、奇抜というほかあるまい、磯崎新が空間そのものが作品となるように設計したという。 3つの展示室は「大地」「月」「太陽」と名づけられ、それぞれに「奈義の自然」への思いが込められる。ゆえに、観賞するには、それなりの心当たりを想像力でもり立てながらであろうか。さらに、そこでの展示作品としては、荒川修作とマドリン・ギンズ、岡崎和郎、宮脇愛子の3組のアーティストが現地にて制作した作品が常設展示され、それに四季折々のテーマで企画作品が加わるらしい。
 概して、建物と合わせて「五感で体験する」のが推奨される、今時珍しい美術館にして、全国的にもほとんど唯一、ゆえに、「世界が認める」ものとして大いに名をはせてもらいたい。
 二つ目には、「奈義ビカリアミュージアム」を紹介しよう。かの時代と、は新生代第三紀中新世、これは新生代に属する新第三紀の最初の世、約 2303万年前から約 500万年前の期間にあたる。この時代の地層は日本では分布が広く、各種の化石に富む。石油や石炭の主要産出層準としても知られる)の中での約1200万年前、日本列島は、再び海の時代を迎えていた。
 はたして、当時の岡山県中国山地のあたり、その南には、海が広がり、島もかなりあり、さながら多島海の景観となっていた。特に、津山盆地から久世、落合、新見、哲西にかけて勝田層群と呼ばれるおもに干潟や浅海で堆積した地層が広く分布していた。
 はたして、この地層からは、多くの化石が産出されている。西方の旧勝北町(現在の津山市東部、)からかかる地層が及んできての奈義町の柿地区は、ビカリヤの模式地でもある「植月」の近くにある。奈義町では、その鶏舎跡を、採集体験もできる「奈義ビカリアミュージアム」として整備している。
 そんなはるか昔の地質時代に生息していたであろう、代表格のピカリヤ化石は、新生代(以下、同じ)古第三紀始新世に出現し、新第三紀中新世まで生息したが、日本では中新世の1600万~1500万年前頃に堆積した地層だけに見られると考えられている。その頃の日本列島は、東日本には「秩父海」、そしてこの辺りには「津山海」などが存在し、今よりもずっと暖かく、一説には、熱帯もしくは亜熱帯の気候であったという。
 このミュージアムの屋内展示ホールの中央には、約1600万年前の「海だった頃の奈義町」がジオラマで再現されている。展示コーナーには、約30種・約300点の貝類などの化石がい並ぶ。いずれも、当地で産出した化石であり、採集者の名が記されているものもあるという。
 展示されているのは、ヤマトビカリア・ビカリエラ・キイキリガイダマシ・トクナリヘタナリなどの巻貝、サクラガイなどの二枚貝、サンドパイプ(カニの巣穴跡)、クジラの脊椎骨など、実に多彩で、それぞれの命を宿していたのであり、興味深い。わけても、脊椎骨の発見されたクジラは、骨の大きさや形から、現生のアカボウクジラではないかと考えられているという。

(続く)

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