281『岡山の今昔』~13世紀の岡山人(吉備真備、和気清麻呂)
734年、第九次の遣唐使が入唐した。この年は、唐の開元22年に相当し、玄宗皇帝がまだ顕在で、「開元の治」を行っていた。その頃の唐に渡った人物の中に、今で言えば官僚の吉備真備(きびのまきび、695~775)がいた。彼の出身は、吉備の豪族の下道氏(しもつみちし)である。高梁川(現在の岡山県西部を流れる)の支流である小田川流域が、彼の故郷、下道(しもつみち)のあったところだ。
古代の山陽道は、この辺りでは小田川に沿って都と北九州の太宰府とを結んでいた。684年(天武13年)に朝臣姓を賜ったというから、大和朝廷の寵臣として既に頭角を現しつつあったのだろう。朝廷に出仕し、「大学寮」を優秀な成績で出た真備は、717年(霊亀3年)、第8次遣唐使留学生に選ばれ、4隻船団の一つに乗って唐に向かう。時に、真備23歳のときのことである。この時の留学生として唐に渡ったのは、他に阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、留学僧には玄昉(げんぼう)らがいた。18年もの間唐に留まり、その間、多方面の学問に精出したことが伝わる。735年(天平7年)、日本に戻る。さっそく、「唐礼130巻、暦書、音階調律器・武器各種」を献上した。
真備は、藤原4子の病死後政権を握っていた橘諸兄(たちばなのもろえ、大納言)に見出されるとともに、位も上がって「正6位下」に昇叙され大学助となる。以後、同じく唐の留学から帰朝していた玄昉と共に聖武天皇・光明皇后の寵愛を得、急速に昇進を重ねていくことになる。740年(天平12年)、藤原広嗣が大宰府で挙兵した。この乱が鎮圧されると、諸兄を追い落として権力の座についた藤原仲麻呂(恵美押勝)によって真備は疎んじられていく。
そんな政治に嫌気がさしたのか、翌751年(天平勝宝3年)、遣唐副使として再度入唐した。それから又彼の地で勉強に励んで754年(天平勝宝6年)、唐より鑑真(がんじん)を伴って帰国を果たす。遣唐使の帰り船で、日本にやってきた戒律の高僧であった。中国の唐の時代の人で、上海の北、長江河口の揚州(ようしゅう)出身だといわれる。701年、13歳にして大雲寺に入り、出家したらしい。律宗や天台宗をよく学び、揚州・大明寺の住職となった。
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ここまでは、2回目の唐での生活から帰国するまでの大まかな足取りであったが、今度は政治との関わりの中でも自分というものを失わなかった、その生きざまに着目して、青年時代から晩年まで(一部で重複)を振り返ってみよう。
真備は、藤原4子の病死後政権を握っていた橘諸兄(たちばなのもろえ、大納言)に見出されるとともに、位も上がって「正6位下」に昇叙され大学助となる。以後、同じく唐の留学から帰朝していた玄昉と共に聖武天皇・光明皇后の寵愛を得、急速に昇進を重ねていくことになる。740年(天平12年)、藤原広嗣が大宰府で挙兵した。この乱が鎮圧されると、諸兄を追い落として権力の座についた藤原仲麻呂(恵美押勝)によって真備は疎んじられていく。
そんな政治に嫌気がさしたのか、翌751年(天平勝宝3年)、遣唐副使として再度入唐した。それから又彼の地で勉強に励んで754年(天平勝宝6年)、唐より鑑真(がんじん)を伴って帰国を果たす。遣唐使の帰り船で、日本にやってきた戒律の高僧であった。中国の唐の時代の人で、上海の北、長江河口の揚州(ようしゅう)出身だといわれる。701年、13歳にして大雲寺に入り、出家したらしい。律宗や天台宗をよく学び、揚州・大明寺の住職となった。
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ここまでは、2回目の唐での生活から帰国するまでの大まかな足取りであったが、今度は政治との関わりの中でも自分というものを失わなかった、その生きざまに着目して、青年時代から晩年まで(一部で重複)を振り返ってみよう。
顧みると、朝廷の官僚として働くうちに、ある人物と相当に連携して事を行うようになっていたのではないだろうか。その相手方、僧侶の玄昉(げんぼう)は、737年僧正(そうじょう)に任ぜられ、皇太夫人(すなわち聖武天皇の生母)藤原宮子(ふじわらのみやこ)の看病をして功あり。「続日本記」によると、同夫人は長く精神病を患っていた、それを救ったとされている。それを契機に、唐の制度にならい寺院、僧侶の地位を向上させようと、政治に参与し、真備とともに藤原氏にかわって政治に関与していく。これに不満な大宰少弐(だざいのしょうに)の藤原広嗣(ひろつぐ)は玄昉と吉備真備を除くよう要求して740年九州で乱を起こし、敗死したが、玄昉も745年筑紫(つくし)に左遷され、翌746年同地で没した。
もう一方の真備だが、玄昉とは異なり自らの力を政治的に使い立身出世を図ろうとは考えていなかったようだ。そして迎えた751年には朝廷の意をくんで2回目の遣唐使で大陸にわたる。かの地では、近年発掘されたところでは墓誌を記すアルバイトもしながら、本国のためにと仕事をし、754年に書物を携え帰国する。その時の朝廷で権力をふるっていたのが藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)に疎まれ大宰府(だざいふ)に左遷されるも、そこでも地道に働く。それが認められてか、764年に朝廷に復帰し、その年勃発した藤原仲麻呂の乱(注)の平定に知恵を発揮した。その後の僧侶・道鏡による政権の下でも、そつがなく朝廷人として右大臣(うだいじん、766)まで出世していく。
かくて、藤原仲麻呂を除いては、聖武天皇・橘諸兄・孝謙天皇(後の称徳天皇)・道鏡と多くの権力者と良好な関係を保ち続けた。これを実現可能にしたのは、唐への留学経験で培った知識と、権謀術数に巻き込まれない立場をとったこと、さらに当時の日本が唐から学ぶことが必要であったのが実に大きかったのだろう(なお、当時の朝廷の状況は、北山茂夫「萬葉集とその世紀」下、新潮社、1980に詳しい)。
(注)この乱のきっかけは、764年9月、新羅(しらぎ)討伐を掲げて兵を集めていて、その武力をもって孝謙上皇(後の称徳天皇)を倒そうとしたのが、失敗して鎮圧された。仲麻呂としては、天皇のすげ替え(それまで傀儡として利用していた淳仁天皇(じゅんにんてんのう、在位758~764)を廃位させ、中納言の塩焼王(天武天皇の孫)を新たな天皇に擁立しようとした)を狙ったのが、有力貴族の多くがこれに反旗を翻したのだった。仲麻呂が殺害されたそのあとには、宮中奉仕の僧侶にして上皇とただならぬ関係となっていた道鏡の政権が立ち、さきに囚われの身となっていた淳仁天皇は淡路に流され、翌年10月に殺害されるという複雑さであった。
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和気清麻呂わけのきよまろ(733~799)は、奈良・平安初期の律令官人。備前国藤野郡(後の和気郡と改称、現在の岡山県和気郡和気町辺り)の出で、父は和気乎麻呂という。
天平宝字年間(757~765)の初めの頃には、孝謙天皇(女帝にして、後の称す徳天皇)に近侍(きんじ)していた姉の広虫(ひろむし)の推挙によって兵衛となった模様。その後、右少衛少尉、正六位上、従五位下などへと昇進していく。
この間、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764)に功をたて、称徳天皇の信任を得るも、769年(神護景雲3年)には、道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)が起こる。こちらは、当時称徳天皇が寵愛していた僧侶の道鏡が皇位の座につくことを勧めた神託をめぐるスキャンダルであって、納得できない清麻呂は、宇佐八幡に赴き、神託が偽りだという証拠をつかんだとして、道鏡政権に反対し、左遷される。称徳天皇が亡くなり光仁天皇が即位すると、もとの姓と位に復する。
それからは、出世コースで、平安京遷都前の788年には中宮大夫となる。桓武天皇にも覚えめでたく仕えて、典型的な高級官僚として名を馳せたようだ。
そんな清麻呂は、大から小まで庶務に練達していたとされ、また、古事に明るく「民部省例」20巻「和氏譜」の作成に関わったり、土木技術にも才があり、平安遷都にも宮大夫として力を尽くしたという。
(続く)
天平宝字年間(757~765)の初めの頃には、孝謙天皇(女帝にして、後の称す徳天皇)に近侍(きんじ)していた姉の広虫(ひろむし)の推挙によって兵衛となった模様。その後、右少衛少尉、正六位上、従五位下などへと昇進していく。
この間、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764)に功をたて、称徳天皇の信任を得るも、769年(神護景雲3年)には、道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)が起こる。こちらは、当時称徳天皇が寵愛していた僧侶の道鏡が皇位の座につくことを勧めた神託をめぐるスキャンダルであって、納得できない清麻呂は、宇佐八幡に赴き、神託が偽りだという証拠をつかんだとして、道鏡政権に反対し、左遷される。称徳天皇が亡くなり光仁天皇が即位すると、もとの姓と位に復する。
それからは、出世コースで、平安京遷都前の788年には中宮大夫となる。桓武天皇にも覚えめでたく仕えて、典型的な高級官僚として名を馳せたようだ。
そんな清麻呂は、大から小まで庶務に練達していたとされ、また、古事に明るく「民部省例」20巻「和氏譜」の作成に関わったり、土木技術にも才があり、平安遷都にも宮大夫として力を尽くしたという。
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