286『岡山の今昔』岡山人(14~16世紀、雪舟)
雪舟(せっしゅう、1420?~1506?)の人生がどんなであったかは、実はあまりわかっていない。彼は、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれた、というのが大方の見方だ。俗姓は小田氏といった。幼い頃、近くの宝福寺に入り、雑事をこなしていたのだろうか。
旅上手で知られる宮脇俊三氏は、その小さな寺のことを、こう触れておられる。
「総社を出ると左に近く宝積寺が見える。少年時代の雪舟が柱にしばられて涙でネズミを描いたという、あの寺である。松の大樹に囲まれた立派な堂宇が揃(そろ)っていて、総社で下車してこの寺を散歩してもよかったと思う。どうせこの列車で行っても備中高梁でつぎの新見行を1時間以上待たねばならないから、どこで時間をつぶしても同じなのである。
宝積寺を過ぎると高梁川に沿う。山間をゆったりと流れる水量の多い川で、福山や倉敷のあの慌ただしさから解放されて、のどかな気分になってきた。」(宮脇俊三「最長片道切符の旅」新潮文庫、1979)
さて、幼い頃の雪舟の有名な逸話がある。彼が絵ばかり好んで経を読もうとしないので、住職の春林周藤は彼を仏堂に縛りつけてしまった。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いた。これを見つけた住職はいたく感心し、彼が絵を描くことを許した。(この話は、江戸時代に狩野永納が編纂した「本朝画史」(1693年刊)に載っているものの、定かではない)。
それから10歳を幾らか過ぎた頃らしいが、京都の相国寺に移った。そこで、春林周藤に師事して禅の修行を積むとともに、水墨画の画技を天章周文に学んだ。後に、守護大名大内氏の庇護の下で、中国の明に渡り水墨画の技法を学んだ。
帰国後には、豊後(大分市)においてアトリエを営み、山口の雲谷庵では画作に精を出す。応仁の乱で交配した京を避けて山口に暮らす。
帰国後には、豊後(大分市)においてアトリエを営み、山口の雲谷庵では画作に精を出す。応仁の乱で交配した京を避けて山口に暮らす。
また、日本各地を旅し、80代後半で没するまでの間、画業において、精力的に制作活動を行った。生涯の作品は、あまたある。
「四季山水図」、「悪可断管図」、「山水長巻」、「天橋立図」など、傑作揃いだとされる。在来の水墨画にない、激しい筆致等により、安土桃山時代の画家に大きな影響を与えたことから、江戸時代の画家からは「画聖」とも呼ばれる。たしか2000年の国宝展で出品されていた「四季山水図」からは、何故か孤独、風雪というものを感じた。
珍しいところでは、作庭にもかなりの力をいれたようなのだ。例えば、29代の大内政弘の時代に常栄寺雪舟庭を設計したと伝わる。
それから、鳥取でも、足跡が残る。医光寺(現在の鳥取県益田市)は、1928年に国指定名勝になった。その前身である崇観寺(すうかんじ)は室町時代(1363年)に創建。伝承によると、室町中期の文明年間(1469~1487)に雪舟が医者光寺の7代目住職として招かれたという。
これに至るには、益田七尾城15代の益田兼尭(ますだかねたか)が、当時山口に逗留していた雪舟にはたらきかけたのを、益田氏は大内氏に臣従していたので、快く引き受けたのではなかろうか。
珍しいところでは、作庭にもかなりの力をいれたようなのだ。例えば、29代の大内政弘の時代に常栄寺雪舟庭を設計したと伝わる。
それから、鳥取でも、足跡が残る。医光寺(現在の鳥取県益田市)は、1928年に国指定名勝になった。その前身である崇観寺(すうかんじ)は室町時代(1363年)に創建。伝承によると、室町中期の文明年間(1469~1487)に雪舟が医者光寺の7代目住職として招かれたという。
これに至るには、益田七尾城15代の益田兼尭(ますだかねたか)が、当時山口に逗留していた雪舟にはたらきかけたのを、益田氏は大内氏に臣従していたので、快く引き受けたのではなかろうか。
雪舟としては、前述のとおり、大内氏の船で明国に渡るため28代・大内教弘の頃山口を訪れ、明国渡航歴への便宜を図ってもらった恩義があろう。
その時に作庭されたのが、雪舟の設計によるものだという。その後、崇観寺は戦国時代に荒廃したものの、室町時代後期に医光寺と合併して現在に至る。1928年に国指定名勝を受ける。
それに、医光寺から徒歩で行けるところにある萬福寺がある。その前身は、平安時代に別の地で「安福寺」として建立されたおいう。しかし、大津波で流出した。その後、室町時代初期の1374年に、益田七尾第11代城主により現在の地に萬福寺(まんぷくじ)として移築され、それからほぼ百年を経ての1479年に雪舟により石庭が造られたと伝わる。
(続く)
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