新◻️80『岡山の今昔』江戸時代の三国(参勤交代、朝鮮通信使、義倉、富くじ、種痘)

2021-12-18 14:27:59 | Weblog
80『岡山の今昔』江戸時代の三国(参勤交代、朝鮮通信使、義倉、富くじ、種痘)

 
 まずは、参勤交代だが、諸藩の大勢の侍とその伴い人が街道を往来する訳であるから、地方の宿場町からすると、大変な中にも、その町が経済的に潤うことにもつながっていく。
 「この時代において、武士は経済的に困窮し、町人は裕福で奢(おご)っていたといわれる。確かに江戸なとではその通りであった。しかし、このような地方の宿場町では、やはり武士の権威はそれなりのもので、大名と本陣の亭主には大きな身分の開きがあった。
 それはさながら主従関係のようなもので、大名が本陣に入ると、本陣亭主から大名に献上を行い、大名からは下賜があった。(中略)
 しかし、この時期の諸大名は倹約倹約と号していたので、それまでの慣行であった献上を断ることがあった。これは、献上を断ることによって、下賜を節約できるからである。
 ただし、矢掛宿の場合、献上を断わられても、拝領を受けている。浜田松平家の場合、通常の拝領は銀二枚であったが、倹約のため献上お断りを宣言されると、拝領は金五百疋(ひき)になっている。ちなみに銀二枚は金二両ほどで、金五百疋は金一両一分である。大差はないようで、気持ちの問題なのかもしれない。
 矢掛本陣には、裏二階に川が望める場所があった。萩藩主も、他の多くの大名同様にここでくつろいでいた。萩藩への献上は表向きお断りとされていたが、本陣亭主は、毎年裏の川でとれた鯉だから是非にと、茶道方のものにとりなしてもらって献上を受けてもらっていた。」(山本博文「参勤交代」講談社現代新書、2013)」

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 その一端、「延享(えんきょう)の朝鮮通信使」でいうと、彼らはどのような日程で江戸へとやってきたのだろうか。
 当時の李朝の都・漢城(ハニャン)を出発したのは1747年11月28日のことだった。そこから慶州(キョンジュ)を経由してやって来た釜山(プサン)にて12月18日~1748年2月11日まで滞在する。
 それからは船で行かねばならぬ。対馬を通って府中に来て、2月24日~3月16日滞在する。それから九州に間近な藍島に着き、そこで4月1~2日を過ごす。
 さらにそれから西へ進んで赤間関へ、そこで4月4~5日を過ごし、再び出発。以降、上関には4月7~8日、蒲刈島(かまがりじま)では4月10~12日を過ごす。
 さらに牛窓(うしまど)へ、そこでは4月16~17日にかけて滞在する。牛窓でどの位のもてなしがあったのかは、後に触れよう。なにしろ数十人もの来訪なので、当該の藩(ここでは岡山藩)それまでの朝鮮使一行の行程において、歓迎やら、日本流のもてなしやら。とここまでは、概ね順調な旅ではなかったか。
 それからは、5月2日に京都に着いている。それが大坂となると、4月20~29日にかけてかなりの時を過ごしている。
 旅は続いて、東へ向かい、岡崎には5月8~9日、名古屋には5月7日と来る。その後は、掛川(かけがわ)に5月12~14日滞在し、そこから小田原に5月18日、品川に5月20日、ここはもう江戸の南の境といって差し支えあるまい。そしていよいよ、目指す江戸に到着したのが1748年5月21日だという。

 その道中については、幕府が招いた一行であるからして、それなりの格式をこしらえてもてなすよう、岡山藩においても万事にぬかりがあってはなるまい。そのために、船を出して

 「朝鮮通信使が通行するときには、一行の案内や連絡などの諸用に多数の藩船が動員された。天和(てんな)2年(1682年)に動員された藩船は、表5に示したように計107艘(そう)。内訳は明確ではないが、正徳元年(1711)度には140艘、享保4年度には104艘が動員されている(牛窓町史2001)。通信使御用には藩が保有していたほとんどの船が動員されたと思われ、その数からすると藩の船は最大で140艘ぼどであったと思われる。」(「江戸時代の瀬戸内海交通」吉川弘文館、2021) 「なお、朝鮮通信使の通行にあたっては、藩の船のほかに多数の民間の浦船と浦加子が動員された。例えば、天和2年の場合、藩の船に乗り込むための浦加子が2525人、五挺立から三挺立までの浦船が905艘とこれに乗り込む加子が3284人、それぞれ動員されている(牛窓町史2001)。これだけの船と加子は加子浦だけではまかないきれない。加子浦以外の海辺の村々からも動員されたことは間違いない。」(同) 
 その通信使一行がおそらく醸し出していたであろう威厳というか、国際色豊かな派手な出で立ちというか、そうしたものがかくも盛大な道中の出迎え・護衛を引き寄せていたのだろうか、藩としては相当な出費であったに違いなかろう。



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 義倉(ぎそう)というのは、大別して、施政者の側から行うものと、民間人が発起人となって行うものとが運営されていた。藩主導の義倉としては岡山藩が、すでに江戸時代の初期、津田永忠が活躍した時代において、彼の建議が行われ、実施に付されている。
 一方、後者に、ついては、「倉敷義倉」は、「江戸時代の倉敷村において民間主導で設立された相互扶助組織」だとされる。1769年(明和6年)、義衆と呼ばれる倉敷村の有力者74人が発起人となって、つくられた。
 様々な史料が残っていることでは、加盟者は毎年自発的に麦を拠出し、それを貸し付ける。それで生まれる貸付利息を、災害や飢饉による難民や生活困窮者の救済に充てるというもの。
 その一つに、「義倉銀勘定書上扣帳」があって、こちらは、1788年(天明8年)に倉敷代官、菅谷弥五郎の尋ねに対し倉敷義倉の経緯について答えたものであり、当初の計画では麦ではなく銀を集めた理由として虫やネズミの害で減石するのを避けていた旨、利息には変動があること、凶年には生活に困った人を助ける役割を担うことになっているとしている。

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 富くじ(富突き、突富など)というのは、我が国では現在の宝くじの元祖とでも言うべきものでおろうか。江戸時代の元禄期(1688~1714)にの江戸などに現れ、幕府も始めは禁止令を出すも、やがて「御免富」として幕府の認可を得た寺社などが主催し、小遣い稼ぎから一躍千金にいたるまで当て込んだ庶民が集うようになる。
 江戸における「富くじ万人講話」の先駆けとしては谷中の感応寺(1699(元禄12))が、追っては目黒不動と湯島天神(いずれの開始も1812年(文化9年))が「江戸の三富」と呼ばれる。
 そのやり方は、番号入りの富札を前もって販売し、別に用意した同じ番号(二枚目へ続く紐付き文句をしたためることも)の木札を箱に入れるなりして、一定数の参加で締め切り、封を施す。
 やがて抽選の期日を迎える。なにしろ、偶然により当選者が出るように行うのが鉄則であり、当日は境内に高台を設けるなどして、興業主が公明正大を宣言、かかる箱の小穴から錐 (きり)で木札を突いて当たりを決め、賞金を支払う仕組み。
 これを岡山の地でみると、例えば、岡山藩は禁止していたのたが、津山城下ではいつの頃からか認められていた。大年寄や年寄が札元(講元)になって、予め利益をどのように分配するかを決めていた。

 津山では、こうした富くじが年に1~2回行われていた。その多くは、寺の修繕、改善を目的にしていたとされ、札の総売上げから幾らか差し引いてそれらの費用などに当てていたようである。
 かくて、中央(江戸)でも、地方でも、大騒ぎのな中にも悲喜交々の錯綜するうちに、庶民の夢が爆裂していたのであったが、やがての天保の改革で、幕府は禁止令を打ち出す。これに呼応して、地方でも、かねてからの「建設的でない」などの声が高まる。津山藩でも、幕末にさしかかった文久年間(1861~1864)に禁止扱いとなる。


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 種痘(しゅとう)とは、何だろうか。1820年(文政3年)には、中川五郎治が持ち帰ったロシア語牛痘書を馬場佐十郎が訳す。「遁花秘訣」は、わが国最初の牛痘書だ。

 ここに「牛痘」のそもそもとは、イギリスの医者ジェンナーが、乳搾りの主婦達の間に自然流行の天然痘が少ないことに着目し、開発する。乳牛の乳房の「おでき」・「かさぶた」の膿汁(うみじる)、すなわち、牛痘液を「痘苗」として利用するものだ。これを人に植え付けることで、免疫を獲得させる治療法のことであり、「牛痘法」という。
 これを載せての彼の論文の発表は、1796年であった。果たして、この手法は、ドイツでも試みられ、やがて、画期的な療法として認められていく、それからは、世界各地へ伝えられていく。ちなみに、英語の「vaccine(「ワクチン」)は、「牛痘液」に由来する「痘苗」を言い、ラテン語の「vacca」(牝牛)がその語源なのだという。
 アジアでは、1805年には、中国まで牛痘法の材料となる「痘苗」も到達しており、ルソン(フィリピン・ルソン島)経由でマカオ(中国南部・澳門)にまで届けられたという。

 およそこのような背景の下、1823年(文政6年)には、オランダ人シーボルトが来日する。彼は、牛痘苗を持参し、日本人に接種するも、成功しない。1830年(天保元年)には、大村藩が古田山を種痘山とし、そこに隔離して人痘種痘を行う。


 1848年(嘉永元年)、オランダ商館医モーニケは、その長崎赴任の際、痘苗としての牛痘を持参するも、種痘は失敗する。同年には、佐賀藩主の鍋島直正が、同藩医師の楢林宗建に対し牛痘を持ち帰るよう命じる。

 1849年(嘉永2年)には、その楢林が、良好な痘痂(とうか、牛痘を宿したかさぶた)がモーニケのもとにバタヴィアからの輸入で届いたという情報を受ける。なお、船の長崎への到着日は、1849年8月11日(嘉永2年6月23日)が有力視される(アン・ジャネッタ著、廣川和花、木曽明子訳「種痘伝来」岩波書店、2013、英文は2007」)。
 さっそく、自分の息子を伴って長崎の商館に赴く。そして、モーニケに彼への接種をしてもらう(こちらの日付けは、3日後の8月14日が有力視される、同著)。この接種が「善感」といって、その息子のみに発疹が現れ、接種に成功したことで持ち帰られ、佐賀藩内での普及に繋がっていく。
 それからは、京都・大坂などを中心にして、短期間のうちに各地に広まる。これには、蘭学医のネットワークがものをいう。同年には、緒方洪庵らが、大阪に除痘館を開設する。同年11月には、かかる牛痘が、佐賀藩より江戸にいる、藩医の伊東玄朴らのところにも到着する。


 これらのうち、大阪で牛痘種痘法(ぎゅうとうしゅとうほう)を実施したのが、緒方洪庵とその弟子・仲間たちであった。洪庵は、さっそくその牛痘苗を手を尽くして取り寄せ、蘭方医の日野葛民、薬種商の大和屋喜兵衛に協力を仰ぐなどして、「大坂除痘館」を開設する。大坂除痘館のための借家は喜兵衛が提供した他、大坂町奉行天満与力の荻野七左衛門とその父・勘左衛門らも、資金面を融通した。
 その翌年には出身地の岡山・足守藩(あしもりはん)からの要請で岡山へ向かう。独り出向いたのではなくて、二人の痘児と門弟の守屋庸庵、西有慶らを伴って、牛痘接種の用意を整えていたという。
足守に着くと、まずは故郷の人々に甥の羊五郎(5歳)に接種して、おそれるものではないことを知らしめた上で、当地において除痘館を開き、種痘を開始する。その噂が広まるにつれ、その年の正月下旬から3月まででいうと、約1500人に接種したというから、驚くべき迅速さであった。


 なお、日本における種痘の歴史について、継続して話題を提供している資料として、緒方洪庵記念財団、除痘館記念資料室「除痘館記念資料室だより」が刊行されていて、その第14号(2021.6.10)には、下山純正「岡山の牛痘種痘と緒方洪庵」をはじめ、6人による関連の論説が掲載されていて、その現代にいたる流れをひもとくのに便利だ。


(続く)


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新◻️214『岡山の今昔』岡山をめぐる運輸(北前船などの船運)

2021-12-18 10:12:49 | Weblog
214『岡山の今昔』岡山をめぐる運輸(北前船などの船運)

 はじめに、江戸時代から明治初期にかけての、全国的な物資の集散及び仕向けに、船運がどのように関わっていたかを、極大雑把に紹介しておこう。あまたのルートから検討の対象としたいのは、諸国から京都、大坂へのルートと、大坂から江戸へのルートが代表格であったのではないか。しかして、歴史学の分野では、例えば、こんな風に喧伝されてきた。

 「正徳4年(1714)に大坂へ積み込まれた各地の産物は、140万5792石に達する米を筆頭に、菜種・材木・ニシン粕・干鰯(ほしか)・白木綿・紙・鉄・銅・煙草・砂糖など119種、大坂から積出されたものは銀高1万貫目を越える菜種油や70万反にもおよぶ縞木綿をはじめとした、長崎下り銅・白木綿・古手・繰り綿・醤油・鉄道具・油粕・小間物資など91種。
 これらのおびただしい物資はいずれも水路、とくに安治・木津両川口に出入する諸国の廻船によって搬送された。日本海沿岸から下関を回り、瀬戸内海を経て大坂にくる北前船から、瀬戸内・四国・九州など西国方面の船、さらに尾張船(おわりふね)など毎日のように入津(にゅうしん)するこれらの船のため、川口はつねに、「出船千艘・入船千艘」の賑わいを呈していた。
 大坂から江戸への廻船には、江戸の十組問屋(とくみとんや)の積荷を主とする菱垣(ひがき)廻船と、伊丹・西宮・灘その他の酒荷を主とする樽廻船とがあった。菱垣の名は積荷の転落を防ぐため、舷側に竹で垣をとりつけていたからで、樽の名は積荷が酒樽を主としていたからである。
 両廻船はたがいに激しい競争をくりかえしていたのであるが、菱垣廻船が6、700石積以上の大船であったのに対し、樽廻船は200~400石積ので小型で運賃が安く、船足も早かったので小早(こばや)といって喜ばれ、しだいに菱垣廻船を圧倒する勢いを示した。」(岡本良一編「江戸時代図誌、第3巻、大坂」筑摩書房、1976)

 「瀬戸内を船で多くのヒトが移動するのは、参勤交代であった。ただし、参勤交代でも船を使うのは国許(くにもと)と兵庫・大坂との往復で、大坂と江戸とをヒトが船で移動することはほとんどなかった。武士に比べて商人や一般の民間人の船の利用は散発的で、まとまった乗り人は寺社参詣(じしゃさんけい)のヒトであった。備讃瀬戸(びさんせと)では金比羅(こんぴら)参詣のための往来が盛んであった。
 瀬戸内のモノの輸送では、何と言っても大坂への廻米が中心だ。幕府の城米や金沢藩を初めとした日本海側諸藩の廻米が瀬戸内の廻船によって大坂に運ばれた。米に次ぐのは塩、生魚、干鰯、木材、石材、炭など。菜種(なたね)、綿実(わたざね)、鉄など加工品の材料や、紙、たばこなども大坂に運ばれている。他方、加工された製品が大坂から移出されることはこの時期にはあまりなく、ときに油の輸送が目につく程度であった。その油も瀬戸内地域内での生産・流通と平行しており、のちのような畿内・大坂の独占的状況にはなかった。
 
 なお、北前船が北海道から運んでくる干鰯といった肥料関係の荷物については、大坂方面だけでなく、農産物の中でも綿花などの栽培が盛んに行われていた備中地方を後背地とした玉島湊にそのかなりの量が陸上げされていたという。

 瀬戸内から江戸への直接の輸送は米と塩が中心で、他のモノはほとんど目立たない。江戸からの戻り船も家中荷物の積み合いくらいで、明け荷の船も少なくなかった。
 陶器・鍬(くわ)・畳表・苫(とま)・紙・木地物などの特産品は、大坂だけでなく紀伊・中四国・九州へと輸送されており、木材や薪(まき)などもこのルートを行き来した。農産物・魚類を初めとした生活用品は、備前・讃岐・播磨の地域内を日常的に行き交っている。モノの流れは大坂への一方向ではなく、こうした物流を含めて重層的に展開しており、この物流を20端帆の大型船から2端帆の小型船までがそれぞれに担っていた。日本海や太平洋を航行する大型船は米や塩などを大量に運んだ。大型船の船主には、複数の廻船を持つ者も少なくなかった。」(倉地克直(くらちかつなお)「江戸時代の瀬戸内海交通」吉川弘文館、2021)

 それというのも、寛文年間(1661~1673)には、西廻りでの航路が確立した。これにより、大きな変化がもたらされた。すなわち、東北・北陸地方の産物が海運にて大消費地に直接運べるようになった。一方では、船の大型化、航路図の作成を含めた航海術の向上もあり、これらにともない、瀬戸内海の交通は、一段と盛んになっていく。
 ちなみに、2005年度展示会で公開された池田家文庫絵図名品の中には、瀬戸内海の航路図が含まれており、その解説にはこうある。

 「岡山藩でも、藩主の江戸への参勤交代や蔵米の輸送などのために海路を利用することが多かった。船手(ふなて)という藩の役所があり、藩主の
御座船をはじめ多数の御船も抱えていた。池田家文庫の航路図には、浦々の名所や海上の路程を細かく記したものが多く、海上を移動する際様々に利用されたと思われる。」

 ついでながら、津山藩などの私領、幕府領からの年貢米などは、吉井川下りの高瀬舟を利用して運ばれていたという。細かくいうと、米のほか麦、木材、まきや炭などの他、人も運んでいた。その瀬戸内海への出口、金岡湊には瀬戸内海を行き来する多くの船が待ちかまえるなりしていて、荷物を積み替え、それらの多くは大坂や江戸方面へ運んでいたという。


 その他、瀬戸内海のこの辺りを通って、中国や朝鮮、琉球から対馬を経由して大坂へと運ばれてくる荷物についても、これを積んだ貿易船が、風待ちなどで立ち寄っていたであろうことは、想像するに難くない。ちなみに、こうある。

 「棚に見えるのは西洋のガラス器、手前には中国の陶磁器。鎖国時代というのに、こんな舶来品専門店が流行った背景には、貿易の窓口だった長崎と大坂をつなぐ太いパイプがあった。
 長崎貿易での買い入れは、はじめ金銀で行われていたが、寛文8年(1668)に銀の輸出が禁じられると、銅が重要な決済手段になった。日本で唯一の精錬所があったのは大坂である。
 元禄14年(1701)には銅座が大坂の石町に設けられ、長崎会所と協力体制を組んで銅貿易がすすめられた。また日本の主要な輸出品だった俵物(干あわび、ふかのひれ、キンコ(なまこの干したもの)の三品)は、いちばんの産地の北海道から大坂の俵物会所にまず集まり、長崎へとはこばれた。かわりに長崎から入ってくる外国の品々の多くは大坂に送られ、そこから各地に流通していった。
 木綿、白糸、薬種など朝鮮からの輸入品は対馬が窓口で、大坂にあった対馬屋敷から問屋に流れた。琉球の砂糖なども大坂の薩摩屋敷から問屋を経て、各地に売りさばかれた。大坂港と張り合っていた堺港が、大和川の付け替えでできた新大和川がはこぶ土砂で衰退したことも、舶来品の大坂への集中をうながした。」(本渡章(ほんどあきら)「大坂名所むかし案内」創元社、2006)

(続く)

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新◻️280『岡山の今昔』赤磐市

2021-12-18 09:03:08 | Weblog
280『岡山の今昔』赤磐市

 瀬戸内海に沿って備前を西に行くと、そこは和気(わけ、現在の和気郡和気町)、赤磐市(あかいわし)がある。山陽本線の上郡から西へは、兵庫県との県境を越えて岡山県の吉永、和気とたどっていく。それからは赤磐市(あかいわし)に入って、熊山、万富とやって来る。熊山からほどなくして吉井川を渡る。この鉄路と寄り添うように西へと延びてきた山陽自動車道も吉井川を渡っていく。
 この川は、郷土の詩人永瀬清子の詩に、こう歌われている。
 「吉井川よ/おまえはゆたかな髪をもった大きな姉のようだ。/おまえは落ちついて/長い長いみちのりを/曲がりくねりながら悠々とすすむ。」(『少年少女風土記 ふるさとを訪ねて[Ⅱ]岡山』(1959年2月、泰光堂)
 いかがだろうか、21世紀に入った現在においても、彼女の名前にちなんだ文学賞が受け継がれていろとのことで、素晴らしい。

 この赤磐市は、2005年3月7日の合併後の総人口は4万5646人(2020年3月7日現在)、総面積209.36平方キロメートル。吉井川中流県立自然公園には、北東部のかなりが属する。そのほか、自然にまつわる公園が沢山あって、実に豊かな自然に恵まれている。その一方で、交通網の発達が急であり、国道 484号線やJR山陽本線が通り、山陽自動車道のインターチェンジがある。


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 産業としては、何があるたろうか。一つには、農業が盛んだ。丘陵地でモモ、ブドウが生産されるほか、米やナス、キュウリなどの野菜もつくられる。北東部の稲蒔は全国屈指の筆軸の生産地。江戸時代から酒醸造業も盛んであり、例えば、1688年金(元禄元年)に創業の室町酒造に寄せて、ある雑誌には、次の酒米の紹介が載っている。
 「室町酒造がこだわるのは、水と米。「雄町(おまち)の冷泉」を使用している。原料米には、地元産の雄町米を使う。雄町米とは、山田錦など多くの酒造好適米のルーツとなる品種だ。160年以上前に備前国上道郡高島村雄町(現在の岡山市中区雄町)で栽培が始まり、酒米の良品種として一目置かれる。粒が大きく、稲の丈(たけ)が高いため倒伏(とうふく)しやすく、栽培が難しいことから、「幻(まぼろし)の酒米」ともいわれる。これを丁寧に精米して使っている。
「山田錦なとの「優等生」と比べると、雄町米はやんちゃなお米です。栽培の難しさに加え、精米時にも割れやすい。しかし、心白(しんぱく)という、お米の中のでんぷん質を含む柔らかい部分が大きいので、良い麹(こうじ)がてき、さらに寝かせることでおいしくなっていきます。どんな料理にも不思議と合う酒になる」(文中、一部の文字飾りを一部省略させて頂いた・引用者)」 (企画・発行は中国電力株式会社地域共創本部「碧い風」2021.7.1号による、記事「室町時代、オコゼと清水白桃の酢の物」)


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 二つ目には、ここ赤磐市北部の吉井川河川敷では、冬から春にかけての風物詩、竹製の細い筆軸の天日干しが行われる。筆軸とは、毛筆の柄の部分で、竹を使った筆軸生産は今では全国でも3軒(岡山県内には1軒)しかなくなったという。
 作業の模様を伝えるテレビ番組によると、まずは秋の竹の切り出しに始まる。竹は、岡山県はもとより、遠くは熊本県からも調達する。直径3~15ミリのものを揃え、カッターで22.5センチの長さに整える。そうしてからの竹は、釜ゆでして油や汚れを落としてから河川敷に並べられる。そして、1週間に1度、熊手で熊手で寄せては広げるの作業繰り返し、まんべんなく裏返すという。
 この天日干しで2カ月半ほど冷たい外気にさらすと、緑からあめ色になり、ぐっと引き締まる。この後、熊野筆で名高い広島など県外の加工メーカーへ送られ、製品に仕上がる。中国産のプラスチック製筆軸にシェアを奪われるようになって久しい。そんな業界においても、伝統の技を続けているという。

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 三つ目には、史跡や自然などへの観光客を迎えいれている。そこで史跡から紹介しよう。このエリアのうち旧山陽町においては、古墳時代に入って穂崎(ほさき)地区に両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)が見つかっている。5世紀後半の築造ではないかと推測されている。古墳の形式は、前方後円墳で、丘の周囲には水をたたえた内濠が二重にめぐらしてある。この種のものではめずらしく優美さを湛えつつも、それでいてやはり当時の首長権力の象徴といおうか、堅固な守りを感じさせる。
 全長192メートルの墳丘をもつこの古墳は、吉備地方では造山古墳(つくりやまこふん)、作山古墳に次ぐ巨大古墳である。これまでの発掘では、大した発見はなかったもののようだが、いつの頃か盗掘もあったのかもしれない。適切な保存とならなかったのは、あるいは、大和朝廷にとっては邪魔で、目障りな遺跡であったからなのかもしれない。そこでもし適切に保存され、現在に明らかになっていれば、古代日本史に吉備国(はびのくに)ありと知らしめることになっているのではないだろうか。
 なにしろ、備前地域においては、もちろん最大の前方後円墳で、国指定史跡となっているとのこと。付近には廻山(まわりやま)、森山、茶臼山(ちゃうすやま)の各古墳が点在していて、さながら吉備国の古代を臨むものとなっている。この国が律令時代に入ってからは、この地(現在の赤磐市馬屋あたりか)に備前国分寺(びぜんこくぶんじ)が建立される。国分寺の南側には、東西に延びる古代山陽道を挟んで備前国分尼寺も建立されたのではないか。

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 吉井川自然公園を始め、この地域の豊かな自然を利用しての公園や、レクレーションを意識した観光地として、県内でも有数の行楽地となっており、地元産業としての期待も高い。
 ちなみに、当地を舞台にしての温かみのある話としては、こんな記事がみえる。

 「岡山農業公園ドイツの森(赤磐市仁堀中)は、アルパカの赤ちゃん(雌)の名前を「エミリー」に決めた。すくすく育つかわいらしい姿が人気を集めており、同園は「新たなマスコット的存在として、大切に育てたい」としている。
 赤ちゃんは園内で9月28日に誕生した。名前は同園スタッフが6候補を考案。10月19~31日に入園者による投票を行い、955票のうち「エミリー」が最多の192票を集めた。次点は3票差で「ハナ」だった。
 エミリーは、母親のルーシーと同じ小屋で暮らしており、最近は母乳を飲むだけでなく牧草も食べるようになった。体重は10.2キロと誕生時の約2倍に、首を持ち上げたときの身長は10センチ以上伸びて93センチにまで成長した。好奇心旺盛な性格で、入園者に人懐こく近寄っているという。」(2019年11月19日付け山陽新聞デジタル)
 アルタカは性格がおとなしく、人が触れてもいいらしい。山羊(やぎ)のような気性の激しいことでないなら、多くの観客を招き入れる一助になるのではなかろうか。


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 住宅環境についても、少し触れておきたい。赤磐市では、1970年代に2つの大型住宅団地(桜ヶ丘団地(民間企業の大和ハウスが丘陵地に造成したもの)、山陽団地)が造成され、市の人口増加に寄与してきたという。しかし、21世紀に入っては、空き家の増加や商業施設・公共交通の存続問題などが取り沙汰されるにいたっているとのことだ。特に県営住宅の山陽団地では、「オールドニュータウン問題が顕在化している」とされ、どうするかが検討されてきた。そして、この問題を解決のため「山陽団地等活性化対策基本構想」を策定したという。
 この構想に基づき、用途廃止のうえ岡山県より譲受した県営住宅跡地について、山陽団地の世代循環を促す土地利用を図るため、さしあたり官民連携による当該土地の利活用策を進めるとのこと。市内の他の住宅団地も将来的に同様の状態になる可能性があるため、市としてはこれを先駆けにして地域振興の柱としたい意向だと伝わる。

(続く)

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