80『岡山の今昔』江戸時代の三国(参勤交代、朝鮮通信使、義倉、富くじ、種痘)
まずは、参勤交代だが、諸藩の大勢の侍とその伴い人が街道を往来する訳であるから、地方の宿場町からすると、大変な中にも、その町が経済的に潤うことにもつながっていく。
「この時代において、武士は経済的に困窮し、町人は裕福で奢(おご)っていたといわれる。確かに江戸なとではその通りであった。しかし、このような地方の宿場町では、やはり武士の権威はそれなりのもので、大名と本陣の亭主には大きな身分の開きがあった。
それはさながら主従関係のようなもので、大名が本陣に入ると、本陣亭主から大名に献上を行い、大名からは下賜があった。(中略)
しかし、この時期の諸大名は倹約倹約と号していたので、それまでの慣行であった献上を断ることがあった。これは、献上を断ることによって、下賜を節約できるからである。
ただし、矢掛宿の場合、献上を断わられても、拝領を受けている。浜田松平家の場合、通常の拝領は銀二枚であったが、倹約のため献上お断りを宣言されると、拝領は金五百疋(ひき)になっている。ちなみに銀二枚は金二両ほどで、金五百疋は金一両一分である。大差はないようで、気持ちの問題なのかもしれない。
矢掛本陣には、裏二階に川が望める場所があった。萩藩主も、他の多くの大名同様にここでくつろいでいた。萩藩への献上は表向きお断りとされていたが、本陣亭主は、毎年裏の川でとれた鯉だから是非にと、茶道方のものにとりなしてもらって献上を受けてもらっていた。」(山本博文「参勤交代」講談社現代新書、2013)」
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その一端、「延享(えんきょう)の朝鮮通信使」でいうと、彼らはどのような日程で江戸へとやってきたのだろうか。
当時の李朝の都・漢城(ハニャン)を出発したのは1747年11月28日のことだった。そこから慶州(キョンジュ)を経由してやって来た釜山(プサン)にて12月18日~1748年2月11日まで滞在する。
それからは船で行かねばならぬ。対馬を通って府中に来て、2月24日~3月16日滞在する。それから九州に間近な藍島に着き、そこで4月1~2日を過ごす。
さらにそれから西へ進んで赤間関へ、そこで4月4~5日を過ごし、再び出発。以降、上関には4月7~8日、蒲刈島(かまがりじま)では4月10~12日を過ごす。
さらに牛窓(うしまど)へ、そこでは4月16~17日にかけて滞在する。牛窓でどの位のもてなしがあったのかは、後に触れよう。なにしろ数十人もの来訪なので、当該の藩(ここでは岡山藩)それまでの朝鮮使一行の行程において、歓迎やら、日本流のもてなしやら。とここまでは、概ね順調な旅ではなかったか。
それからは、5月2日に京都に着いている。それが大坂となると、4月20~29日にかけてかなりの時を過ごしている。
旅は続いて、東へ向かい、岡崎には5月8~9日、名古屋には5月7日と来る。その後は、掛川(かけがわ)に5月12~14日滞在し、そこから小田原に5月18日、品川に5月20日、ここはもう江戸の南の境といって差し支えあるまい。そしていよいよ、目指す江戸に到着したのが1748年5月21日だという。
その道中については、幕府が招いた一行であるからして、それなりの格式をこしらえてもてなすよう、岡山藩においても万事にぬかりがあってはなるまい。そのために、船を出して
「朝鮮通信使が通行するときには、一行の案内や連絡などの諸用に多数の藩船が動員された。天和(てんな)2年(1682年)に動員された藩船は、表5に示したように計107艘(そう)。内訳は明確ではないが、正徳元年(1711)度には140艘、享保4年度には104艘が動員されている(牛窓町史2001)。通信使御用には藩が保有していたほとんどの船が動員されたと思われ、その数からすると藩の船は最大で140艘ぼどであったと思われる。」(「江戸時代の瀬戸内海交通」吉川弘文館、2021) 「なお、朝鮮通信使の通行にあたっては、藩の船のほかに多数の民間の浦船と浦加子が動員された。例えば、天和2年の場合、藩の船に乗り込むための浦加子が2525人、五挺立から三挺立までの浦船が905艘とこれに乗り込む加子が3284人、それぞれ動員されている(牛窓町史2001)。これだけの船と加子は加子浦だけではまかないきれない。加子浦以外の海辺の村々からも動員されたことは間違いない。」(同)
その通信使一行がおそらく醸し出していたであろう威厳というか、国際色豊かな派手な出で立ちというか、そうしたものがかくも盛大な道中の出迎え・護衛を引き寄せていたのだろうか、藩としては相当な出費であったに違いなかろう。
🔺🔺🔺
義倉(ぎそう)というのは、大別して、施政者の側から行うものと、民間人が発起人となって行うものとが運営されていた。藩主導の義倉としては岡山藩が、すでに江戸時代の初期、津田永忠が活躍した時代において、彼の建議が行われ、実施に付されている。
一方、後者に、ついては、「倉敷義倉」は、「江戸時代の倉敷村において民間主導で設立された相互扶助組織」だとされる。1769年(明和6年)、義衆と呼ばれる倉敷村の有力者74人が発起人となって、つくられた。
様々な史料が残っていることでは、加盟者は毎年自発的に麦を拠出し、それを貸し付ける。それで生まれる貸付利息を、災害や飢饉による難民や生活困窮者の救済に充てるというもの。
その一つに、「義倉銀勘定書上扣帳」があって、こちらは、1788年(天明8年)に倉敷代官、菅谷弥五郎の尋ねに対し倉敷義倉の経緯について答えたものであり、当初の計画では麦ではなく銀を集めた理由として虫やネズミの害で減石するのを避けていた旨、利息には変動があること、凶年には生活に困った人を助ける役割を担うことになっているとしている。
🔺🔺🔺
富くじ(富突き、突富など)というのは、我が国では現在の宝くじの元祖とでも言うべきものでおろうか。江戸時代の元禄期(1688~1714)にの江戸などに現れ、幕府も始めは禁止令を出すも、やがて「御免富」として幕府の認可を得た寺社などが主催し、小遣い稼ぎから一躍千金にいたるまで当て込んだ庶民が集うようになる。
江戸における「富くじ万人講話」の先駆けとしては谷中の感応寺(1699(元禄12))が、追っては目黒不動と湯島天神(いずれの開始も1812年(文化9年))が「江戸の三富」と呼ばれる。
そのやり方は、番号入りの富札を前もって販売し、別に用意した同じ番号(二枚目へ続く紐付き文句をしたためることも)の木札を箱に入れるなりして、一定数の参加で締め切り、封を施す。
やがて抽選の期日を迎える。なにしろ、偶然により当選者が出るように行うのが鉄則であり、当日は境内に高台を設けるなどして、興業主が公明正大を宣言、かかる箱の小穴から錐 (きり)で木札を突いて当たりを決め、賞金を支払う仕組み。
これを岡山の地でみると、例えば、岡山藩は禁止していたのたが、津山城下ではいつの頃からか認められていた。大年寄や年寄が札元(講元)になって、予め利益をどのように分配するかを決めていた。
津山では、こうした富くじが年に1~2回行われていた。その多くは、寺の修繕、改善を目的にしていたとされ、札の総売上げから幾らか差し引いてそれらの費用などに当てていたようである。
かくて、中央(江戸)でも、地方でも、大騒ぎのな中にも悲喜交々の錯綜するうちに、庶民の夢が爆裂していたのであったが、やがての天保の改革で、幕府は禁止令を打ち出す。これに呼応して、地方でも、かねてからの「建設的でない」などの声が高まる。津山藩でも、幕末にさしかかった文久年間(1861~1864)に禁止扱いとなる。
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種痘(しゅとう)とは、何だろうか。1820年(文政3年)には、中川五郎治が持ち帰ったロシア語牛痘書を馬場佐十郎が訳す。「遁花秘訣」は、わが国最初の牛痘書だ。
ここに「牛痘」のそもそもとは、イギリスの医者ジェンナーが、乳搾りの主婦達の間に自然流行の天然痘が少ないことに着目し、開発する。乳牛の乳房の「おでき」・「かさぶた」の膿汁(うみじる)、すなわち、牛痘液を「痘苗」として利用するものだ。これを人に植え付けることで、免疫を獲得させる治療法のことであり、「牛痘法」という。
これを載せての彼の論文の発表は、1796年であった。果たして、この手法は、ドイツでも試みられ、やがて、画期的な療法として認められていく、それからは、世界各地へ伝えられていく。ちなみに、英語の「vaccine(「ワクチン」)は、「牛痘液」に由来する「痘苗」を言い、ラテン語の「vacca」(牝牛)がその語源なのだという。
アジアでは、1805年には、中国まで牛痘法の材料となる「痘苗」も到達しており、ルソン(フィリピン・ルソン島)経由でマカオ(中国南部・澳門)にまで届けられたという。
およそこのような背景の下、1823年(文政6年)には、オランダ人シーボルトが来日する。彼は、牛痘苗を持参し、日本人に接種するも、成功しない。1830年(天保元年)には、大村藩が古田山を種痘山とし、そこに隔離して人痘種痘を行う。
1848年(嘉永元年)、オランダ商館医モーニケは、その長崎赴任の際、痘苗としての牛痘を持参するも、種痘は失敗する。同年には、佐賀藩主の鍋島直正が、同藩医師の楢林宗建に対し牛痘を持ち帰るよう命じる。
1849年(嘉永2年)には、その楢林が、良好な痘痂(とうか、牛痘を宿したかさぶた)がモーニケのもとにバタヴィアからの輸入で届いたという情報を受ける。なお、船の長崎への到着日は、1849年8月11日(嘉永2年6月23日)が有力視される(アン・ジャネッタ著、廣川和花、木曽明子訳「種痘伝来」岩波書店、2013、英文は2007」)。
さっそく、自分の息子を伴って長崎の商館に赴く。そして、モーニケに彼への接種をしてもらう(こちらの日付けは、3日後の8月14日が有力視される、同著)。この接種が「善感」といって、その息子のみに発疹が現れ、接種に成功したことで持ち帰られ、佐賀藩内での普及に繋がっていく。
それからは、京都・大坂などを中心にして、短期間のうちに各地に広まる。これには、蘭学医のネットワークがものをいう。同年には、緒方洪庵らが、大阪に除痘館を開設する。同年11月には、かかる牛痘が、佐賀藩より江戸にいる、藩医の伊東玄朴らのところにも到着する。
これらのうち、大阪で牛痘種痘法(ぎゅうとうしゅとうほう)を実施したのが、緒方洪庵とその弟子・仲間たちであった。洪庵は、さっそくその牛痘苗を手を尽くして取り寄せ、蘭方医の日野葛民、薬種商の大和屋喜兵衛に協力を仰ぐなどして、「大坂除痘館」を開設する。大坂除痘館のための借家は喜兵衛が提供した他、大坂町奉行天満与力の荻野七左衛門とその父・勘左衛門らも、資金面を融通した。
その翌年には出身地の岡山・足守藩(あしもりはん)からの要請で岡山へ向かう。独り出向いたのではなくて、二人の痘児と門弟の守屋庸庵、西有慶らを伴って、牛痘接種の用意を整えていたという。
足守に着くと、まずは故郷の人々に甥の羊五郎(5歳)に接種して、おそれるものではないことを知らしめた上で、当地において除痘館を開き、種痘を開始する。その噂が広まるにつれ、その年の正月下旬から3月まででいうと、約1500人に接種したというから、驚くべき迅速さであった。
なお、日本における種痘の歴史について、継続して話題を提供している資料として、緒方洪庵記念財団、除痘館記念資料室「除痘館記念資料室だより」が刊行されていて、その第14号(2021.6.10)には、下山純正「岡山の牛痘種痘と緒方洪庵」をはじめ、6人による関連の論説が掲載されていて、その現代にいたる流れをひもとくのに便利だ。
(続く)
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まずは、参勤交代だが、諸藩の大勢の侍とその伴い人が街道を往来する訳であるから、地方の宿場町からすると、大変な中にも、その町が経済的に潤うことにもつながっていく。
「この時代において、武士は経済的に困窮し、町人は裕福で奢(おご)っていたといわれる。確かに江戸なとではその通りであった。しかし、このような地方の宿場町では、やはり武士の権威はそれなりのもので、大名と本陣の亭主には大きな身分の開きがあった。
それはさながら主従関係のようなもので、大名が本陣に入ると、本陣亭主から大名に献上を行い、大名からは下賜があった。(中略)
しかし、この時期の諸大名は倹約倹約と号していたので、それまでの慣行であった献上を断ることがあった。これは、献上を断ることによって、下賜を節約できるからである。
ただし、矢掛宿の場合、献上を断わられても、拝領を受けている。浜田松平家の場合、通常の拝領は銀二枚であったが、倹約のため献上お断りを宣言されると、拝領は金五百疋(ひき)になっている。ちなみに銀二枚は金二両ほどで、金五百疋は金一両一分である。大差はないようで、気持ちの問題なのかもしれない。
矢掛本陣には、裏二階に川が望める場所があった。萩藩主も、他の多くの大名同様にここでくつろいでいた。萩藩への献上は表向きお断りとされていたが、本陣亭主は、毎年裏の川でとれた鯉だから是非にと、茶道方のものにとりなしてもらって献上を受けてもらっていた。」(山本博文「参勤交代」講談社現代新書、2013)」
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その一端、「延享(えんきょう)の朝鮮通信使」でいうと、彼らはどのような日程で江戸へとやってきたのだろうか。
当時の李朝の都・漢城(ハニャン)を出発したのは1747年11月28日のことだった。そこから慶州(キョンジュ)を経由してやって来た釜山(プサン)にて12月18日~1748年2月11日まで滞在する。
それからは船で行かねばならぬ。対馬を通って府中に来て、2月24日~3月16日滞在する。それから九州に間近な藍島に着き、そこで4月1~2日を過ごす。
さらにそれから西へ進んで赤間関へ、そこで4月4~5日を過ごし、再び出発。以降、上関には4月7~8日、蒲刈島(かまがりじま)では4月10~12日を過ごす。
さらに牛窓(うしまど)へ、そこでは4月16~17日にかけて滞在する。牛窓でどの位のもてなしがあったのかは、後に触れよう。なにしろ数十人もの来訪なので、当該の藩(ここでは岡山藩)それまでの朝鮮使一行の行程において、歓迎やら、日本流のもてなしやら。とここまでは、概ね順調な旅ではなかったか。
それからは、5月2日に京都に着いている。それが大坂となると、4月20~29日にかけてかなりの時を過ごしている。
旅は続いて、東へ向かい、岡崎には5月8~9日、名古屋には5月7日と来る。その後は、掛川(かけがわ)に5月12~14日滞在し、そこから小田原に5月18日、品川に5月20日、ここはもう江戸の南の境といって差し支えあるまい。そしていよいよ、目指す江戸に到着したのが1748年5月21日だという。
その道中については、幕府が招いた一行であるからして、それなりの格式をこしらえてもてなすよう、岡山藩においても万事にぬかりがあってはなるまい。そのために、船を出して
「朝鮮通信使が通行するときには、一行の案内や連絡などの諸用に多数の藩船が動員された。天和(てんな)2年(1682年)に動員された藩船は、表5に示したように計107艘(そう)。内訳は明確ではないが、正徳元年(1711)度には140艘、享保4年度には104艘が動員されている(牛窓町史2001)。通信使御用には藩が保有していたほとんどの船が動員されたと思われ、その数からすると藩の船は最大で140艘ぼどであったと思われる。」(「江戸時代の瀬戸内海交通」吉川弘文館、2021) 「なお、朝鮮通信使の通行にあたっては、藩の船のほかに多数の民間の浦船と浦加子が動員された。例えば、天和2年の場合、藩の船に乗り込むための浦加子が2525人、五挺立から三挺立までの浦船が905艘とこれに乗り込む加子が3284人、それぞれ動員されている(牛窓町史2001)。これだけの船と加子は加子浦だけではまかないきれない。加子浦以外の海辺の村々からも動員されたことは間違いない。」(同)
その通信使一行がおそらく醸し出していたであろう威厳というか、国際色豊かな派手な出で立ちというか、そうしたものがかくも盛大な道中の出迎え・護衛を引き寄せていたのだろうか、藩としては相当な出費であったに違いなかろう。
🔺🔺🔺
義倉(ぎそう)というのは、大別して、施政者の側から行うものと、民間人が発起人となって行うものとが運営されていた。藩主導の義倉としては岡山藩が、すでに江戸時代の初期、津田永忠が活躍した時代において、彼の建議が行われ、実施に付されている。
一方、後者に、ついては、「倉敷義倉」は、「江戸時代の倉敷村において民間主導で設立された相互扶助組織」だとされる。1769年(明和6年)、義衆と呼ばれる倉敷村の有力者74人が発起人となって、つくられた。
様々な史料が残っていることでは、加盟者は毎年自発的に麦を拠出し、それを貸し付ける。それで生まれる貸付利息を、災害や飢饉による難民や生活困窮者の救済に充てるというもの。
その一つに、「義倉銀勘定書上扣帳」があって、こちらは、1788年(天明8年)に倉敷代官、菅谷弥五郎の尋ねに対し倉敷義倉の経緯について答えたものであり、当初の計画では麦ではなく銀を集めた理由として虫やネズミの害で減石するのを避けていた旨、利息には変動があること、凶年には生活に困った人を助ける役割を担うことになっているとしている。
🔺🔺🔺
富くじ(富突き、突富など)というのは、我が国では現在の宝くじの元祖とでも言うべきものでおろうか。江戸時代の元禄期(1688~1714)にの江戸などに現れ、幕府も始めは禁止令を出すも、やがて「御免富」として幕府の認可を得た寺社などが主催し、小遣い稼ぎから一躍千金にいたるまで当て込んだ庶民が集うようになる。
江戸における「富くじ万人講話」の先駆けとしては谷中の感応寺(1699(元禄12))が、追っては目黒不動と湯島天神(いずれの開始も1812年(文化9年))が「江戸の三富」と呼ばれる。
そのやり方は、番号入りの富札を前もって販売し、別に用意した同じ番号(二枚目へ続く紐付き文句をしたためることも)の木札を箱に入れるなりして、一定数の参加で締め切り、封を施す。
やがて抽選の期日を迎える。なにしろ、偶然により当選者が出るように行うのが鉄則であり、当日は境内に高台を設けるなどして、興業主が公明正大を宣言、かかる箱の小穴から錐 (きり)で木札を突いて当たりを決め、賞金を支払う仕組み。
これを岡山の地でみると、例えば、岡山藩は禁止していたのたが、津山城下ではいつの頃からか認められていた。大年寄や年寄が札元(講元)になって、予め利益をどのように分配するかを決めていた。
津山では、こうした富くじが年に1~2回行われていた。その多くは、寺の修繕、改善を目的にしていたとされ、札の総売上げから幾らか差し引いてそれらの費用などに当てていたようである。
かくて、中央(江戸)でも、地方でも、大騒ぎのな中にも悲喜交々の錯綜するうちに、庶民の夢が爆裂していたのであったが、やがての天保の改革で、幕府は禁止令を打ち出す。これに呼応して、地方でも、かねてからの「建設的でない」などの声が高まる。津山藩でも、幕末にさしかかった文久年間(1861~1864)に禁止扱いとなる。
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種痘(しゅとう)とは、何だろうか。1820年(文政3年)には、中川五郎治が持ち帰ったロシア語牛痘書を馬場佐十郎が訳す。「遁花秘訣」は、わが国最初の牛痘書だ。
ここに「牛痘」のそもそもとは、イギリスの医者ジェンナーが、乳搾りの主婦達の間に自然流行の天然痘が少ないことに着目し、開発する。乳牛の乳房の「おでき」・「かさぶた」の膿汁(うみじる)、すなわち、牛痘液を「痘苗」として利用するものだ。これを人に植え付けることで、免疫を獲得させる治療法のことであり、「牛痘法」という。
これを載せての彼の論文の発表は、1796年であった。果たして、この手法は、ドイツでも試みられ、やがて、画期的な療法として認められていく、それからは、世界各地へ伝えられていく。ちなみに、英語の「vaccine(「ワクチン」)は、「牛痘液」に由来する「痘苗」を言い、ラテン語の「vacca」(牝牛)がその語源なのだという。
アジアでは、1805年には、中国まで牛痘法の材料となる「痘苗」も到達しており、ルソン(フィリピン・ルソン島)経由でマカオ(中国南部・澳門)にまで届けられたという。
およそこのような背景の下、1823年(文政6年)には、オランダ人シーボルトが来日する。彼は、牛痘苗を持参し、日本人に接種するも、成功しない。1830年(天保元年)には、大村藩が古田山を種痘山とし、そこに隔離して人痘種痘を行う。
1848年(嘉永元年)、オランダ商館医モーニケは、その長崎赴任の際、痘苗としての牛痘を持参するも、種痘は失敗する。同年には、佐賀藩主の鍋島直正が、同藩医師の楢林宗建に対し牛痘を持ち帰るよう命じる。
1849年(嘉永2年)には、その楢林が、良好な痘痂(とうか、牛痘を宿したかさぶた)がモーニケのもとにバタヴィアからの輸入で届いたという情報を受ける。なお、船の長崎への到着日は、1849年8月11日(嘉永2年6月23日)が有力視される(アン・ジャネッタ著、廣川和花、木曽明子訳「種痘伝来」岩波書店、2013、英文は2007」)。
さっそく、自分の息子を伴って長崎の商館に赴く。そして、モーニケに彼への接種をしてもらう(こちらの日付けは、3日後の8月14日が有力視される、同著)。この接種が「善感」といって、その息子のみに発疹が現れ、接種に成功したことで持ち帰られ、佐賀藩内での普及に繋がっていく。
それからは、京都・大坂などを中心にして、短期間のうちに各地に広まる。これには、蘭学医のネットワークがものをいう。同年には、緒方洪庵らが、大阪に除痘館を開設する。同年11月には、かかる牛痘が、佐賀藩より江戸にいる、藩医の伊東玄朴らのところにも到着する。
これらのうち、大阪で牛痘種痘法(ぎゅうとうしゅとうほう)を実施したのが、緒方洪庵とその弟子・仲間たちであった。洪庵は、さっそくその牛痘苗を手を尽くして取り寄せ、蘭方医の日野葛民、薬種商の大和屋喜兵衛に協力を仰ぐなどして、「大坂除痘館」を開設する。大坂除痘館のための借家は喜兵衛が提供した他、大坂町奉行天満与力の荻野七左衛門とその父・勘左衛門らも、資金面を融通した。
その翌年には出身地の岡山・足守藩(あしもりはん)からの要請で岡山へ向かう。独り出向いたのではなくて、二人の痘児と門弟の守屋庸庵、西有慶らを伴って、牛痘接種の用意を整えていたという。
足守に着くと、まずは故郷の人々に甥の羊五郎(5歳)に接種して、おそれるものではないことを知らしめた上で、当地において除痘館を開き、種痘を開始する。その噂が広まるにつれ、その年の正月下旬から3月まででいうと、約1500人に接種したというから、驚くべき迅速さであった。
なお、日本における種痘の歴史について、継続して話題を提供している資料として、緒方洪庵記念財団、除痘館記念資料室「除痘館記念資料室だより」が刊行されていて、その第14号(2021.6.10)には、下山純正「岡山の牛痘種痘と緒方洪庵」をはじめ、6人による関連の論説が掲載されていて、その現代にいたる流れをひもとくのに便利だ。
(続く)
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