77『岡山の今昔』長尾の農民一揆(1752)
さて、現在では、高梁川の西岸、新倉敷駅や山陽道自動車道玉島IC(インターチェンジ)なども配置される、倉敷市玉島エリアの中枢となりつつあるのが、長尾(ながお)地区(倉敷市玉島長尾)だ。ここは、今では倉敷市の西部、新幹線の新倉敷駅の北東側に位置していて、交通の便利も相当よい。
さて、現在では、高梁川の西岸、新倉敷駅や山陽道自動車道玉島IC(インターチェンジ)なども配置される、倉敷市玉島エリアの中枢となりつつあるのが、長尾(ながお)地区(倉敷市玉島長尾)だ。ここは、今では倉敷市の西部、新幹線の新倉敷駅の北東側に位置していて、交通の便利も相当よい。
それに、この地の近くは、中世は深い入江で内海が広がっていたのではないだろうか。その頃は、港町としての阿賀崎、乙島地区が南に控えていたとのことであり、また、町の北側は丘陵地帯をなしている。昔からの、旧山陽道の通る小田川流域とを分けていた形だ。
それに、いつの頃からか、玉島往来(たましまおうらい)が南北に貫き、商人たちもが行き来していたようである。古くは平安期の「新拾遺集」にも地名が登場しているという。江戸時代に入ると、事情がさらに変化を遂げる。初期に備中松山藩領、一部幕府領を経たが、幕末まで多くの期間、丹波亀山藩(たんばかめやまはん)領の飛地であった。
かくて江戸期に入っての岡山藩と備中松山藩による新田開発があって、玉島港辺りと陸続きになる。陸地化して以後は、玉島港への中継点としての役割が増したのかもしれない。これに加えるに、地場産業も古くから興っていたようで、文政年間(1820年頃)から足袋や線香の生産が盛んになり、線香製造は現在も続けられている。小麦の栽培が盛んでうどんの生産が行われ、麦藁帽子の原料である「麦稈真田編」の一大産地でもあった。
そこで、江戸時代の中期における支配・被支配の話に戻してみよう。前述のようにこの地は、丹波亀山藩(現在の京都府)5万石のうち、1万2000石分の飛び地として、玉島村、上成村、長尾村、東勇崎村などで構成されていた。
当藩の領国支配は、奉行所(同藩の陣屋)を中心に行われ、奉行など、上方の役人は、丹波亀山より派遣され、その他の役人は、現地玉島の者、中でも庄屋に多くの業務を請け負わせていた。ここ長尾村については、二人の地主がほぼ全域の農地を所有していたから、村民のほとんどは小作農であったらしい。
しかして、この地を舞台に、1752年(宝歴2年)に勃発したのが、ここに紹介する「長尾の農民一揆」である。この事件の発端は、その年の前からうち続く飢饉(ききん)により、長尾村の農民たちは、集団をなして、大地主の二家に対し小作料の減免を願い出ていた。ところが、両家は頑張として応ぜず、強硬姿勢を貫く。
これに怒った農民たちは、その地主の家を壊すなど、「狼藉を働いた」ということで、後日、彼らの主だった者たちは亀山藩の現地出先の奉行所に引き立てられ、そこで厳しい取り調べが行われていく。
ここで腑に落ちないのは、同藩の対処であって、かかる農民たちの行為に対し、なんらの解決策を講じようともせずに、ひたすらに農民たちを罪に問うのであった。どうやら、役所の中には、識者はいなかったようだ。そのうちに、どういう次第なのであろうか、事態が新展開を見せる。なんと、青年、信四郎と利兵衛か主謀者として名乗りを上げたというのだ。なぜそうなったのかについては、ほとんどわかっていないようなのだが、腑に落ちないとはこのことであろう。
それはともかく、同藩としては、大いに調べがはかどる話であったろう。自白があれば、物証などは要らずに処断できるのが、当時の力関係であったのだろう。そして二人の青年は、皆に成り代わり「罪」を背負い、雄々しく死んでいったと伝わる。なんとも息が詰まりそうで、悲しい話ではないか。
(続く)
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かくて江戸期に入っての岡山藩と備中松山藩による新田開発があって、玉島港辺りと陸続きになる。陸地化して以後は、玉島港への中継点としての役割が増したのかもしれない。これに加えるに、地場産業も古くから興っていたようで、文政年間(1820年頃)から足袋や線香の生産が盛んになり、線香製造は現在も続けられている。小麦の栽培が盛んでうどんの生産が行われ、麦藁帽子の原料である「麦稈真田編」の一大産地でもあった。
そこで、江戸時代の中期における支配・被支配の話に戻してみよう。前述のようにこの地は、丹波亀山藩(現在の京都府)5万石のうち、1万2000石分の飛び地として、玉島村、上成村、長尾村、東勇崎村などで構成されていた。
当藩の領国支配は、奉行所(同藩の陣屋)を中心に行われ、奉行など、上方の役人は、丹波亀山より派遣され、その他の役人は、現地玉島の者、中でも庄屋に多くの業務を請け負わせていた。ここ長尾村については、二人の地主がほぼ全域の農地を所有していたから、村民のほとんどは小作農であったらしい。
しかして、この地を舞台に、1752年(宝歴2年)に勃発したのが、ここに紹介する「長尾の農民一揆」である。この事件の発端は、その年の前からうち続く飢饉(ききん)により、長尾村の農民たちは、集団をなして、大地主の二家に対し小作料の減免を願い出ていた。ところが、両家は頑張として応ぜず、強硬姿勢を貫く。
これに怒った農民たちは、その地主の家を壊すなど、「狼藉を働いた」ということで、後日、彼らの主だった者たちは亀山藩の現地出先の奉行所に引き立てられ、そこで厳しい取り調べが行われていく。
ここで腑に落ちないのは、同藩の対処であって、かかる農民たちの行為に対し、なんらの解決策を講じようともせずに、ひたすらに農民たちを罪に問うのであった。どうやら、役所の中には、識者はいなかったようだ。そのうちに、どういう次第なのであろうか、事態が新展開を見せる。なんと、青年、信四郎と利兵衛か主謀者として名乗りを上げたというのだ。なぜそうなったのかについては、ほとんどわかっていないようなのだが、腑に落ちないとはこのことであろう。
それはともかく、同藩としては、大いに調べがはかどる話であったろう。自白があれば、物証などは要らずに処断できるのが、当時の力関係であったのだろう。そして二人の青年は、皆に成り代わり「罪」を背負い、雄々しく死んでいったと伝わる。なんとも息が詰まりそうで、悲しい話ではないか。
(続く)
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