新261『岡山の今昔』真庭市

2021-12-24 20:44:46 | Weblog
261『岡山の今昔』真庭市

 真庭市は、中国山地のほぼ中央にある。この市ができたのは、2005年3月31日に、当時の真庭郡勝山町、落合町、湯原町、久世町、美甘村、川上村、八束村、中和村及び上房郡北房町の9町村が合併したことによる(この時には、新庄村を除く真庭郡の町村と合併し及び北房町を加えて真庭市となる)。
 もう少し前までをたどると、1889年(明治22年)には、湯本村近隣の田羽根村、下湯原村、釘貫小川村、都喜足村、久見村三世七原村、社村が合併して神湯村(かんとうそん)となる。1904年(明治37年)には、温泉街旭川西対岸の八幡村と合併し湯原村(ゆばらそん)となる。1940年(昭和15年)には、町政を施行し湯原町となる。1956年(昭和31年)には、二川村と合併する。

 この一帯は、北は鳥取県に接し、東西に約30キロメートル、南北に約50キロメートルもある。総面積は約828平方キロメートルで、岡山県全体の面積の約11.6%を占める、県下で最も大きな自治体である。地勢ということでは、まずは蒜山(ひるぜん)三座があり、岡山県の真庭市北部と鳥取県の倉吉市南部に跨っての火山にほかならない。
 「気候は年間を通じて比較的穏やかで、台風や地震などによる災害も総じて少ない」ともいわれるのだが、そこはなかなかどうして、北部の冬はかなり厳しい寒さになるのではなかろうか。
 新しい市の中心としては、やはり落合町、久世町、勝山町の連なる形での既成市街地なのであって、これらでの交通の流れに沿った街づくりが大切にされているようだ。珍しいところでは、全国的に名高い建築がある。遷喬尋常小学校(真庭市鍋屋)は、1874年8月に開校した学校にして、現在は真庭市立遷喬小学校となっている。その校舎は1907年に竣工し、1990年には116年の歴史を終えて新校舎へ移転したのだか、旧校舎については現在も旧住所鍋屋に建っており、国の重要文化財(指定日は1999年5月13日)となっている。その対象の正式名称としては、「木造、建築面積601.2m2、二階建、スレート及び桟瓦葺き、背面出入口二所附属」というもの。
 この校舎は、1905年(明治38年)7月に着工した。そして、1907年(同40年)7月に竣工している。ルネッサンス様式(注)の木造校舎として建てられた、中央棟の東西に両翼棟が取り付いている、それでいて完全なシンメトリー(左右対称)の平面をもつデザインの新規性と白亜の外観が印象的だ。また、講堂の二重折り上げの洋風格(ごう)天井も、堂々たるものだとの評判だ。

(注)例えば、ローマに建つイタリア式庭園のヴィッラ・メディチのファザード(建築物を正面から見た外観)にそれを目にすることができるのではないか、佐藤幸三「ROMA、ローマの休日ひとり歩き」平凡社、1999にも紹介されている。

 設計については、当時の岡山県工師・江川三郎が関わったと伝えられる。工事監督の方は中村錠太郎、施工は津山町の高橋岩吉によるとのこと。
 この校舎だが、格別の美しさのほかにも、我が国において学校建築の設計基準が確立した後にあたる明治後期の代表的学校建築のひとつで,中国地方における小学校建築の先駆けとしての価値が高いという。1990年に小学校としての役目を終え、現在は一般に公開されているとのことで、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」「火垂るの墓」などの映画のロケがこの施設を使って行われた。

 産業としては、何があるのだろうか。かねてからの農業、林業の蓄積に、ものを言わせるような新たな展開を目指しているのであろうか、全国的にも知られるようになっている、廃材を使ってのバイオマス発電には多くの期待がかかる。しかして、この発電施設の開始は2015年4月にして、地元の集成材大手銘建工業と市、森林組合など計10社・団体が出資した「真庭バイオマス発電」が事業を担う。その場所は、真庭産業団地の中にある。未利用材を主な燃料とする木質バイオマス発電所としては国内最大級。稼働から1年間で売電した売り上げは約21億円。はじめは、新電力に販売してきたが、2016年度からは一部を見直し、真庭市役所本庁舎と市の第3セクター会社が運営する文化流施設に供給しているらしい。
 また、大手とのコラボレーションということでは、市内の蒜山(ひるぜん)高原(吉備中央町)に新たな観光名所を作ろうという話が進行中だ。報道(2019年12月10日付け日本経済新聞など)によると、東京五輪に絡んで、三菱地所がCLT(直交集成板)の魅力を発信する施設「CLT PARK HARUMI」が東京都内に14日開設するという。そこでだが、この施設が2020年の五輪後に不要となるのを見越す形にて、木材の供給元の真庭市が譲り受け、市内に移設するとの話で、2021年春の開設を目指す。
 それと、湯原温泉が世の中に知られるようになったのは、いつ頃のことなのだろうか。一説には、平安時代中期頃には、「播磨の名刹、書写山円教寺の名僧、性空上人(書写上人とも呼ばれる)が重病で倒れ、その時夢枕に天童が現れて、この湯を暗示したという。性空はその地に赴き、平癒」と伝承されるほどに、薬湯として日本国内に広く知られるようになったという。927年(延長5年)に編纂された延喜式神名帳においては、その社地域において8社の官社が存在していたといいい、朝廷から「式内社」として呼ばれていたという。というのも、この地域は、古墳時代より「たたら製鉄」の盛んで金山(ぼた山のような不要物の山)が多くある。当時のたたら場は1000名以上の集団で作業を行っていた。鉄を作るには良質の砂鉄と大量の燃料が必要で、過酷な労働条件で身体を壊し、また怪我をする者が後を絶たないありさまで、その彼らの治療、養生にはもってこいの場であったろう。
 その頃、「作陽誌」(1691)においては、次のように紹介されている。
 「湯原温泉、湯本村ニアリ、何人ガ鑿闢(さくへき)ヲハジメシヤヲ知ラズ、カツテ備作太守宇喜多中納言秀家ノ母ハ痼疾(こしつ)アリ、医薬験ナシ、湯原は黄門(秀家)ノ臣牧籐左衛門家信ノ奉邑(給地)ナリ、家信宴ニ侍シ、日語シテ温泉ニオヨビ、極メテソノ奇功ノ尽述(語り尽くせない)スベカラザルヲ言ウ、母公ハ旧作州高田三浦貞広(貞広でなく貞勝)ノ室ナリ、色倫ヲ絶シ、高田亡ブルニオヨンデ直家強イテコレヲ納レ、寵嬖コトニ厚シ、イクバクモナクシテ男秀家ヲ生ム。コレニヨリ、モトヨリソノ温泉ノ効ヲ耳ニセリ、ココニ於いて行装ヲ企ツ、秀家ハ吏ニ命ジテ湯屋及ビ寄十余宇ヲ造リ、ヨク営ソワナル、母公湯治スルコト三七日ニシテ、久患トミニ除(さ)ル、コレヨリ遐迩(遠近)ニ伝承シ、来ル者踵(きびす)ヲツラネタリ。」 (「美作地侍戦国史考」文中の「作陽誌」大庭郡古跡部の項)

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