気ままに

大船での気ままな生活日誌

長谷川路可/よみがえる若き日の姿

2020-08-20 14:12:29 | Weblog

こんにちわ。

藤沢アートスペースで表記の展覧会が開かれている。はじめての画家の展覧会は面白い。ぼくは伝記物が好きということもあり、画家の生い立ちに興味がある。この展示場は、藤沢ゆかりの画家を紹介する場であるので、長谷川ももちろんそうである。

路可が10歳のとき両親が離婚して、母、長谷川たかと共に、都内から藤沢に移り住む。母の妹、長谷川ゑいが鵠沼で、文人宿として知られる東屋を経営していたので、そこで手伝いをすることになったのだ。少年時代からここで過ごした。中庭には小舟を浮かべるほどの池があり、鵠沼海岸も望める素晴らしい宿屋だった。谷崎、龍之介や実篤ら白樺派らがここで逗留し、文人サロンになっていたが、白樺派と縁のある岸田劉生も逗留している。劉生が写生に出掛けるときには、ついていって、仕事ぶりを見ていたそうだ。

16歳で暁星中学に進学、夕方からは清輝の主宰する白馬会洋画研究所に通う。17歳で洗礼を受け、洗礼名はルカ。これがペンネームの元になったようだ。19歳(大正5年、1916年)で、東京美校に進学、日本画科で松岡映丘に師事。本当は洋画をやりたかったが、母親に反対され、日本画なら許すということだったそうだ。

卒業後、1921年から1927年にかけてヨーロッパに留学。1920年代のパリといえば、エコールドパリ。モディリアーニ、パスキン、シャガールら錚々たる画家がパリに居た。そして、寝室の裸婦キキを描いて有名人になっている藤田嗣治も居た。藤田を頼って、留学中の小林古径、前田青邨、青山義雄も集まっていた。路可もグループに入る。そのときの集合写真も展示されている。写真撮影は禁止だが、無料でりっぱな冊子を頂ける。


丸印、左から青邨、藤田、路可、古径

さて、路可はこのパリ画壇でサロン・ドートンヌで入選するなど活躍した。1923年、従弟の長谷川欣一ともにブルターニュに移り、静かな環境の中、”或る朝”など3作品を制作、いずれも入選作品となった。

或る朝

路可は1924年から松本亦太郎らの敦煌莫高窟などの西域絵画の模写事業に参加し、3年にわたりベルリン民俗博物館からはじまり、大英博物館、ルーブル美術館などに保管されている古画を、125点も模写し、日本に送った。現在、これらは、東大、芸大、東博などに分蔵されている。

婆羅門像(模写)

西域壁画の模写を通じて壁画への関心が高まり、フレスコの画法も学ぶ。その後、生涯をかけてフレスコ画、モザイク壁画を追及していく。日本に本格的にフレスコやモザイクを伝えたパイオニアとして評価されているそうだ。

フレスコ画

イタリアの思い出(1958)

神輿ぶり(1966)

そして、ぼくは知らなっかったが、1964年、東京五輪の開催された旧国立競技場のメインスタンドの上の一対のモザイク壁画を路可が制作した。左側に相撲の神様、野見宿禰像(勝利)を、右にギリシャの女神像(栄光)。この下図が展示されている。

勝利

栄光

この壁画は、現在、新国立競技場の東ゲート両脇に移設されているとのこと。是非、見に行かねば。

藤沢市は、傷んでいた路可の作品、自画像など6点を修復した。今回の展覧会はそれらのお披露目を兼ねている。

夫人像

裸婦

自画像

とても素晴らしい展覧会でした。

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