気ままに

大船での気ままな生活日誌

日本を助けたおくりもの/ララ物資にみる海外日系人との絆

2014-09-14 09:29:28 | Weblog

JICA横浜海外移住資料館で、終戦69年 特別展示、「ララってなあに? 日本を助けたおくりもの/ララ物資にみる海外日系人との絆」が開催されている。

常設展をぐるっと回って、海外に移民された方々の様々なご苦労を知り、最後の部屋でこの展示。彼らも大戦中、ひどい扱いを受け、戦後の生活もままならなかったにもかかわらず、祖国日本のために、支援物資を送り続けていたという事実を知り、おもわず、ほろりときてしまう。

ララってなあに?Licensed Agencies for Relief in Asia(アジア救済公認団体)の頭文字をとったもの。1946年にアメリカ人の宗教団体、社会事業団体など13団体で組織され、米国だけではなく、ブラジル、アルゼンチン、メキシコなど中南米などから寄せられた救援物資をとりまとめ、日本へ贈った。

このララ物資を積んだ船が、はじめて横浜に到着したのが、1946年11月30日のことだった。その後1952年まで16000トン以上の物資が届いた。当時の日本では、ララ物資は米国からの贈り物というイメージだったが、贈られた物資のうち、約2割、現在の価格にして約1200億円相当が日系人からのものだったという。

・・・・・

戦後すぐに、食糧不足に苦しむ故国への救援のための組織を立ち上げたのは、戦前サンフランシスコ日本語新聞の編集長を務めていた浅野七之助だった。しかし、米国の銀行が受け取らず、また敵国だった国に援助する必要はないという世論もあり、計画は進まない。しかし、東京フレンド女学校の先生をしていたことのあるローズ女史がこの活動に救いの手を差し伸べた。彼女のおかげで、浅野はララの受け入側の委員を務めるようになり、支援活動が可能になったのだ。

支援体制が出来、米国だけではなく、中南米の日系人からも支援の手が。リオの日本語新聞から。”故国の難民を救え/開けた母国送金の道”

そして、ララ物資が、初めて横浜に届く。戦災者と学童給食に。ぼくらの小学校の給食はララ物資だったのか、ありがとうございます。

食用油や缶詰も贈られた。

資料の数々

ぼくらは、つい海外の同胞の方々を忘れがちであるが、彼らは戦後もそして現在も、故国に目を向けておられる。先の大震災でも多大な援助を頂いている。

ありがとうございます。250万人の日系人の方々。

(1891年山口県からハワイへ移住した夫婦の子孫たち。三世から六世に及ぶビッグファミリー)手前は写真機。

 JICAの近くの、ララ物資を積んだ船が着いた埠頭の前に建つ、ララ記念碑。ぼくは、はじめて見た。

香淳皇后御歌
ララの品つまれたる見て/とつ国のあつき心に涙こほしつ
あたたかきとつ国人の心つくし/ゆめなわすれそ時はへぬとも

 

 

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