まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

季節感のない生活?!

2009年09月02日 | う゛う゛ー
 9月に入り、すっかり秋になりましたねえ
毎年この時期は、急に朝夕が涼しくなり、日が暮れてからの蝉の声が虫の声に変わって・・・秋の訪れを実感します。
 
 これは、夏の終わりの頃に、いつも私が考えることです・・・

 「セミの声がうるさくってさあ、何だか早くに目が覚めちゃって・・・
 真夏、早起きをしてしまう夫がよく言うセリフです 確かに・・・真夏の朝、外が明るくなって、眠りの浅くなった時間帯に、セミの大合唱を意識してしまうと、その大音量に二度寝をさまたげられてしまう・・・
 夫の文句がよくよく理解できます 私もしばしば蝉の声で目覚め、そんな日は、早朝から洗濯を済ませることになります。そんな日はいつも、ベランダでお洗濯を干しながら、私は考えてしまうのです・・・

 蝉時雨・・・
 蝉のこえ・・・
昔から、季語にもなるくらい、夏の風物詩として日本人には親しまれ、また尊ばれ、セミの声は「昆虫」以上の意味を持って受け入れられてきました
 時代が流れ、日本のセミが巨大化し、それによって鳴き声が大きくなり、私たちに害をもたらすようになった?! そんなわけではありませんね。
早朝の大合唱はさておき、都会のセミの声は、現代では様々な大音響にかきけされることのほうが多いかもしれません。にもかかわらず、私たちがセミの声を、時には邪魔者のように感じてしまうのは何故でしょう?

 エアコンやクーラーのない時代、私たちは窓を開け放ち、部屋の中を通り抜ける風を楽しみました 
 その風が生ぬるい夏の風であっても、窓辺に風鈴を吊し、その音色で涼しさを「感じた」ものでした
 
 昔・・・人は涼を求めて、いろいろな工夫をしたものです。打ち水もその一つ。打ち水は、ここ数年の省エネブームのおかげで、その効果がうたわれ、あちこちで奨励されています
 私が子どもの頃の昭和30年代後半、まだまだ打ち水は一般的でしたよ。
我が家は、大阪市の南側、堺市という町にありました。堺は、戦国武将の時代には頻繁に登場する自治都市で、歴史の教科書にも登場する古い町です
 豊臣秀吉や千利休のゆかりの地ですが、残念ながら太平洋戦争中、町のほとんどが空襲で消失してしまって、今では趣のある町並みはあまり残ってはいません。
 
 私の生家の3軒先にはお豆腐屋さんがあって、夕方近くになると、私は祖母と一緒に家の前の打ち水用に、そのお店の井戸水をいただきにいったものです
 水を打つ、という行為も、何とも言えず楽しいもので・・・ひしゃくですくった水を、ぱーっと円を描くように撒くと、水滴が広がってキレイなんです
 今、こうして書いているだけで、その「様」を思い出し、それだけで涼しい気分になり・・・今日のように涼しい初秋の気温の日には、その気分を思い出すだけで行く夏を惜しんでしまいます
 
 そうです 私たちは、昔、さまざまな工夫をしていたのですよね。
実際に涼しくする、室温を下げる、体温を下げるという直接的なことはできないまでも、せめて涼しく「感じられる」工夫をたくさんしてきたのでした
 
 窓を閉め切り、自分にとっての適温に設定した室内は、自分にとってのパラダイスです。
 自分の好きな音を聞くこともできますし、好きな画像をみることもできる・・・ 好きなものを食べ、好きなことをする・・・ それが、現代生活の中では、当然のこととして手に入れられるようになりました。
 となると・・・
自分のパラダイスである空間や時間を侵すものは、すべて自分にとっては心地悪いもの、になってしまった・・・ 「音」もまさにその一つでしょう

 夏、夜明けが早いのは当然のことです。
朝は、5時になれば外はとても明るい・・・動物や虫達は、そういう自然と共存しています。セミ達が、夜明けとともに鳴き始め、活動を開始します。 
 もし私がエアコンやクーラーのない時代に50代を迎えていたとしたら??
セミの合唱で毎日朝早くに目覚めたとしても、きっと「夏は早起きできて、一日を長く使える・・・9月に入れば、あっと言う間に日暮れが早くなってしまうのだから・・・」と、今はうるさく感じてしまうセミの声も、短い命の夏の虫として、何とも愛しく感じたことでしょうね・・・

 世の中、どんどんと便利になり、人にとって心地よい生活が当然のものとなっていけばいくほど、人は「ロボット化」していき、頭の働きも鈍ってくるのではないか?と、最近、とみに感じています
 知恵を絞ったり、工夫などしなくても、物事を即座に解決する方法が山ほどあるのですから・・・
 
 たとえば・・・
出かけている途中でメールがきます
 「今、Aにいるのなら、Bは近いですね。もし時間があれば、ぜひ、Bに寄って○○を済ませてきてください
 それを名案だと思った私は、Bに立ち寄ることにします。ただ、予定にない寄り道のため、現在地からBに向かう電車等の経路がわかりません
 昔なら、一旦電車を下り、路線図とにらめっこをして、経路を考えなければいけません。同時に、どれくらいの時間がかかり、どの乗り換えが一番効率が良いのか?なども頭を使って考えるでしょう。
 ところが、今はそんな必要もありません 私は、Bに立ち寄って・・・というメールを読み終えたら、すぐに携帯電話でインターネットに接続し、乗り換えの案内ソフトを起動して、Bに行く経路をチェックするだけで良いのです
 そういうソフトは、複数の経路が表示され、ご丁寧にも出発や到着の希望時刻を入力すれば、時刻表も所要時間も、運賃も表示されます。私は、そういうソフトがあることを知り、その簡単な使い方を覚えれば、何の知恵を絞ることもないのです。
 間違いなく・・・私の頭の構造は、単純化されていくでしょう

 安眠を妨げたアブラゼミの大合唱はツクツクボウシの声にかわり、今では日盛りに聞こえるだけになってしまいました。
「つるべ落とし」の日暮れともなると、すでにスズムシやコオロギの声です・・・ 

 便利さに慣らされた私の脳みそは、残念ながらどんどんと悪くなっていくでしょう。
 せめて、心や感性だけはさび付かせず、身の回りの変化に敏感に、「五感」だけは色あせることのないようにしたいものです
コメント
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