丸仏手柑

2011-01-31 00:18:31 | 植物
あみさんがアパートから
ゴロンと大きなみかんを持ってきた。

「なんでしょう」
「なんなんでしょう」

切ってみてにおいでわかった。
仏手柑と同じにおいだから丸仏手柑。

ブッシュカンは正月の飾りにもされる、
奇妙なかたちの柑橘。
掌をすぼめたような垂れた指の集まりで
果肉がなくて果皮ばかり。

丸仏手柑も殆ど果皮だが、真ん中に少し果肉がある。
みかけでは仏手柑と丸仏手柑は似ても似つかぬものだ。

両者の生物学的関係は
わかりやすく説明しようとすればするほど
面倒な用語を必要とするのでやめた

本当のところ丸仏手柑を見るのは二度目。

三十年前にイタリアから拾ってきた人が自慢して見せてくれた。
もしかして、その種から育った?

フランスでは丸仏手柑をcedratセドラと言い、
英語ではcitronシトロンという。
しかしフランスでcitronシトロンはレモンのこと。

これ以上深入りはやめた

もらった丸仏手柑の木を見に行くと、
すでに数個しか実がなくなっていた
みな何に使っているのだろう

私は住人じゃないから撮影のみ
はよ、名刺作らな

京都のカフェ Rive Droite 1998~2001 4.

2011-01-29 00:47:18 | 物語
4.河原町通
 スタッフが10人もいるのは多すぎるという人がいた。
 四十席のカフェで利益を上げていくのに必要な来客数と売り上げを計算すると、ギャル
ソンの数は仮定ではそのくらいが妥当だった。仮定では。

 新しく人と知り合うことに慎重な私は、従業員を募集するのにも警戒心が働いた。出来
ることなら、知り合いのつてで雇いたい。貼り紙をしたり求人紙に載せたりすると、どん
な人間が飛び込んでくるかわからない。面接では実直に見えても、いざ勤めが始まると問
題児に豹変するかもしれない。その時、解雇を言い渡す決断が私にできるだろうか。
 心配が堂々巡りして、調理者も製菓担当も給仕も全く決まらないまま、開店まで残り一
週間になってしまった。
「アルバイト求人誌に載せようよ」
という息子の言葉で決心して、自習発売のフロムエーに割り込ませてもらうことになった。
応募は十数人あった。東京のカフェで見たギャルソンほどアクはなく、頼りない感じでは
あるが、さわやかで端正な若者が多くやってきて、不安なまま殆どを採用した。
 ギャルソンの意味を知ってか知らずか、女子大生の応募もあった。カフェで働きたいと
いうので、女性も二人を採用し、製菓担当にあたってもらった。
 最後に遅れて応募してきたのは、私同様東京から京都に憧れて越してきたという三十代
の女性だった。栄養士の資格を持ち、銀座の有名店に勤務したこともあり、何より笑顔が
好印象で、賄いを主にして調理補助で来てもらうことに決めた。
 アルメニア人、中国人の応募もあったけれど、日本語が不自由で調理も出来ないのでは
採用は難しいというと、中国の女性は泣き出した。日本ではなかなか仕事にありつけなく
て困っているのだ。ジャム作りに手が足りないときは仕事が出せるかもしれないと言って
引き取ってもらうしかなかった。
 最終的に採用したのは、女子大生の千明ちゃんとレナちゃん、栄養士の資格を持つ遠藤
さん、大卒の金城と阿部、大学生の和田と江口、浪人の渡辺と木村、フランス人のボスコ、
それに大学院を出たばかりの息子のマルがマネージャーということで私と交代で店に出る
ことになった。
          
          
 ボスコはスペイン国境に近いバスク地方の出身で、日本語学校に在籍していた。だが日
本語の習得より、日本で暮らすことが目的のようだった。
 パリの若者と違って、少しからかっただけでポッと頬を染めるボスコは、私が初めて見
るタイプの、遠慮深いフランス人だった。
 それでも居酒屋のポスターのモデルに使われたり、映画「プライド」に端役出てたりし
て、ガールフレンドを作ったところは、紛れもなくフランス人だと思った。
 その年、1998年は日本におけるフランス年で、日仏交流の行事が多く行われ、マスコミ
も日仏関係の記事をよく特集していた。
 サッカーのワールドカップもフランスで開催され、いつもよりフランス文化に対する日
本人の注目は大きかった。
「大型テレビを置いてワールドカップ観戦の日をつくりたいけど、レンタルのテレビは高
いわよね」
と言うと、ギャルソンの江口は
「僕のを持ってきましょうか、ちょっと古いけど大型ですから」 
 江口は免許取立ての運転でBMWにテレビを載せて持ってきた。店の外からは画面が見
えない角度で部屋の隅に配置し、表に〝ご一緒にワールドカップを応援しましょう〟と書
いて貼り出した。
 成果は上々、問い合わせの電話や席の予約の電話が入った。当日の夜、初めてカフェの
満席を見た。二階の椅子を下におろして四十席近くを作った。
 テレビならどこの家にもあるだろうに、カフェで観戦したたいと思う人たちが集まり、
ちょっとヤクザで遊蕩好きな、パリのカフェに近い雰囲気が生まれて、私は満足だった。
 だからといって必ずしも売り上げが飛躍的に上った訳ではない。客は観戦中はテレビに
見入って飲み食いがおあずけとなり、休憩時間になると一斉に追加注文をする。その時だ
けギャルソンはてんてこ舞いすることになる。
 料理を作る側の私もだ。いつもは午後三時に帰るところを、当然最後まで居残った。
 日本チームがシュートする度に歓声が上る。ゴールが決まらないと落胆の声。店の外に
は、中に入れずガラスに顔を付けている人が大勢いた。中で声が上る度にどうなったかと
いうしぐさをする。中の客は手でバツを作って状況を知らせる。フランスでのデイゲーム
が日本では夜になり、ナイターは日本では早朝になる。カフェで日本チームの観戦を出来
たのはデイゲームの二回だけだった。
 ワールドカップの後も団体客が来たり、近所の催し物があったりしてカフェが満席にな
ることはあったが、ワールドカップのときほどRive Droite がカフェの理想の姿で活気づ
いた日はなかった。
 折角借りた大型テレビをもう少し活用することにした。
 普段は使っていない二階で、土曜の午後だけお茶付きのフランス映画ビデオ上映会を企
画した。ビデオはレンタル店から借りてきた。
 イヴ・モンタンが主演してパリのカフェを描いた「ギャルソン」、それに「デリカテッ
セン」や「バベットの晩餐会」など、食またはカフェに関連のあるものを選んだ。
 Rive Droiteでは、早番と遅番の事務引継ぎのために連絡ノートを置いて、スタッフが
書いたり見たりするようにしていた。ところが、

〝お腹がいたくてたまりません
 今日はつかれた つかれた
 明日も みんな がんばりましょう 阿部〟

〝代理人募集
 そろそろ一日休みが欲しいので、代理をして下さる方を募ります。
 一日だけで結構です
 条件:朝七時に出勤できること、メニューの全品を出せること、
    電話の用件、名前、連絡先を記録できること、
    そのほかにカウンターまわりのいつもの仕事もお願いします
                            マダム〟

〝江口 何でもやります。精一杯やります。お願いします
 オムレツだってやれる。オムツだってかえられる〟

〝肉片はみつかりませんでした〟
〝ありました〟

〝夕方から黒猫が遊びに来ています。通行人も立ち止まって、頭をなでて行きます。看板
がわりにいいなあと思っているレナです〟

〝昨日お客さんに「前にこの店に可愛い猫がいたでしょ」と聞かれたので、堰を切ったよ
うに「そうなんです。バカな従業員が、うちの猫と違うと言ったので、お客さんが段ボー
ルに入れてタクシーに乗せて連れていきました。私の猫だったのに、だったのに。取り返
したい、ね、そうでしょう」と訴えてしまった。しかし時々、「あの猫でも連れて行きた
いと思う魅力があったんですか」という声も聞く〟

〝昨日お客さんに「お前この店に可愛い猫がいただろうが」と脅されたので、セキ込んで
「そうなんです。マルがマダムの猫ではないと言ったので、アバズレ女がマダムの真似し
てMKタクシーに乗せて帰りやがったんです。マダムの猫だったのに」。しかし時々「あ
んな猫のどこがいいの」と言われる 裏マダム〟

〝「ち」は地産マンション、「ぢ」はヒサヤ大黒堂、「チ」は?
 江口四回チ、渡辺三回チ、阿部二回チ、二階で朝ご飯食べていても遅刻です〟

〝今度マダムのファンらしき人が、会いに来るようです。雑誌に書いた文に共鳴し、感銘
 を受けたということを、関係のないボクに何度も説明して下さいました。
 心中お察し申し上げます。 金城〟
          

と連絡ノートは文芸同人誌になってしまった。
 最年長のギャルソン金城は、岐阜のお寺の次男だった。大学卒業後に銀行に勤務してい
たが、長男が寺を継がないことになり、銀行を辞めて仏教の学校に入り直し、その後修行
先が決まるまでの間を祇園で働いたりしていた。髪はまだ祇園時代の茶髪のまま応募して
きたので、私はこわごわ接していた。
 カフェでは真鍮のテーブルの枠や来客用のコート掛けのフックを磨くのに、金属磨きを
使っていたところ、金城はネルで拭けばいいのだと教えてくれた。
「仏様の器も真鍮ですから、知っています」
 ボスコの母親がフランスからワールドカップ記念のTシャツを売るように送ってきた時、
金城はボスコの経済事情を思い遣って売れ残りを買ってやっていた。雇い主の私は、Tシ
ャツを買ってやりたいのは山々でも、必要のないものを買い上げられる状況にはなかった。
「マダム、税理士に頼む分は自分で帳簿つけたらどうですか。税務署も相談に乗ってくれ
ますし、僕もお手伝いしますよ」
 銀行出身の金城の助言だった。
 阿部は二級建築士の資格を持っていたけれど、それを生かす具体的な職場に巡り合えず、
Rive Droite に応募してきたのだった。長身なだけに食欲も一番で、まかないの食事も一
番多く食べた。また、職人でもあるせいか、カフェの料理にもまかないの料理にも興味を
持ち、私がここぞと思って手をかけたところに反応を示し、作り方も知りたがって家に帰
って再現し、それをカフェまで持参した。野菜のタルトや白インゲンのカッスーレなど、
私に批評してもらいに仕事以外の時間にやってきた。
「阿部君、建築より料理をやった方がいいんじゃない」
「いや、これは趣味ですから」
 阿部は呉服屋の三男坊だった。
 未成年の木村と渡辺は、いつの間にか外でも二人で遊ぶともたぢになっていた。渡辺が
受ける予定の美大を二人で下見に言ったり、揃って年長の和田からご馳走してもらったり
していた。二人がまだ顔合わせしていない時から、木村は江口に
「僕と同じ歳のギャルソンが居るそうですけど、どんな人ですか」
「お前と違ってかっわいい奴」
「えーっ」
木村は悔しがっていた。その木村が、四条河原町でRive Droite のショップカードを配っ
ていたと人づてに聞いた。木村も可愛い奴だった。
「この店はつぶれないと思いますよ。ちゃんとおいしい料理を作っているから。僕がアル
バイトしていたほかの店はみんなひどかったもん」
 木村はRive Droite を誇りに思っていた。前の年、父親の会社が倒産してから、保険の
外交をしているという母親をカフェに連れてきた。
「この子もフラフラしていましたが、こちらにご厄介になってから、落ち着いてくれたよ
うです」
 しかしある時から、木村はカフェに来なくなった。家に電話をしても出ない。江口に尋
ねると
「金城さんがお説教したんですよ。木村がみんなに金借りてるから」
 その後木村宛の電話が何本もかかってきた。取立ての電話のようだった。
「今日は来てませんけど」
そう言うしかなかった。店には来なくなった木村だったが、息子とは縁がつながっている
ようだった。高校を中退した木村に、大検の資格を取れるよう息子が指導していた。翌年
木村は大検に合格した。
 渡辺は父親をカフェに連れてきた。渡辺の実家は、京都府下の綾部で仏具屋を営み、渡
辺は三男で末っ子だった。美大を目指していたけれど、次の受験に失敗したら、もう進学
はさせないと親に言われていた。雨の日、車で綾部からカフェを訪ねてくれた父親に、誰
もほかに客のいない息子の勤め先はどう映っただろう。渡辺は黙々と仕事をした。料理も
掃除も丁寧だった。朝食のスクランブルドエッグはすぐに勘どころを?み、教えた私より
上手に作るようになった。
 江口もまた、鹿児島から来た母親をカフェに案内してきた。母親は京都出身ということ
で、江口は京都の大学に入ったのだった。常にブランドもののファッションで決めている
江口が連れてきた母親は、モデルのように美しい人だった。道の向こうで信号待ちをして
いるときから、カフェのガラス越しにも目を引いた。気象庁も記録的という暑さの日、ほ
かに客のいない息子の勤め先で、江口の母親は「黄桃ソースのかき氷にも引かれるけど」
と言いながら、ラタトゥイユを選んで注文した。
 金城が岐阜の母親を連れてきた日は、日曜日でもあり、ほかにも客がいた。兄嫁とまだ
生後数ヶ月のその赤ん坊も一緒だった。サービスの途中で姪を抱いてあやす金城、慎み深
い田舎のお寺のお嫁さんとその家族、いずれはその中に戻って袈裟を着る金城にとって、
ギャルソンの制服は仮の衣裳だった。
 従業員が十人は多過ぎるのを認めざるを得ない日が来た。
 開店から二ヶ月経ち、梅雨に入るとテラス席の特徴もなくガラス戸を閉じ、ギャルソン
が手持ち無沙汰になる日が続いた。梅雨が終れば忙しくなると希望をもちたいところだっ
たが、この状況では来月の給料支払いも苦しい。
「どうですか」
と心配した静岡の峰社長が、店の様子を電話で尋ねてきた。
「スタッフは皆うまく交流が出来ていて、人数を減らすことはできなくて」
 女にしか出来ない泣き言めいた現状報告で訴えた。
「心の通う交流は、店が落ち着いてからのことだし思いますよ」
 返す言葉もない当たり前のアドバイスで諭された。
 迷っても仕方がない。打ち解けた折角のまとまりでも。ここは利益追求の場なのだから。
人は減らさなければならない。
 Rive Droite のアルバイト料がなくなっても、困る度合いの少ないギャルソン、交通費
が一番多くかかるギャルソン、和田に宣告を許してもらった。
 それを言い渡すのが私への試練だった。
 和田は外交官を目指して枚方市の自宅から通学している。朝出勤してきた和田に店の状
況を説明して、今日までで勤務は終了と告げると、和田は顔色を変えずに
「わかりました」
と言って着替えに三階に上って行った。
 ほかのギャルソンには何も知らせていなかった。早番と遅番の交代時間まで、そのこと
は誰の口にも話題に上らず、和田は三時になるといつものように
「失礼します」
と店を退出していった。
 遅番の渡辺が制服に着替えてから紙切れを持ってきた。
「和田さんが帰るときに、マダムに渡してって」
 小さく折りたたまれた紙を開いた。

〝僕がいなくなると、
 女のお客さんが来なくなるのでは…、
 と心配してますが。
 ひとまずは、お疲れ様でした!
 また皆さんと一緒に働ける日をお待ちします。
 他のアルバイトの人たちにヨロシク〟

 私は一人として問題児に会わなかった。

七福神

2011-01-28 00:58:21 | お宝
何年か前、京都で七福神巡りをした

京の正月というと良げに聞こえるけれど
寒いし
花は咲いてないし
店は閉じているし
お出掛けにはあまり向いていない

それでも人を誘った以上
イベントがないといけない。

それで私自身も未体験の
七福神巡りをして色紙を手に入れることにした

京都で七福神巡りというと、

京都七福神というコースと
都七福神というコースと
京の七福神というコースなど

決まった寺社のグループがある。

それでも例えば弁財天を祀るところは何社もあるわけで、
できるだけコンパクトなコースにしたいと思った私は
ブランド品で固めるのをやめて
一神一神選りすぐった独自のコーディネイトにした。

京都七福神の場合、
 恵比寿 清荒神、大黒 松ヶ崎大黒天、寿老人 革堂、福禄寿 遣迎院、
 弁天 妙音堂、布袋 大福寺、毘沙門天 蘆山寺 
都七福神の場合
 恵比寿 ゑびす神社、大黒 松ヶ崎大黒天、寿老人 革堂、福禄寿 赤山禅院、
 弁天 六波羅蜜寺、布袋 万福寺、毘沙門天 東寺
京の七福神の場合
 恵比寿 ゑびす神社、大黒 松ヶ崎大黒天、寿老人 革堂、福禄寿 清荒神、
 弁天 三千院、布袋 長楽寺、毘沙門天 毘沙門堂

こうして見ると、大黒、寿老人の二神はほかの寺社には無さそうだとわかる。
逆に清荒神では、恵比寿もあれば福禄寿もある。
実際、色紙を持って行ったときに、どれを書くのか尋ねられた。

私の七福神は
 恵比寿 ゑびす神社、大黒 松ヶ崎大黒天、寿老人 革堂、 福禄寿 清荒神、
 弁天 妙音堂、布袋 長楽寺、毘沙門天 蘆山寺
          
          (冬桜のゑびす神社)
          
          (妙音堂はどこにある)
          
          (椎茸栽培も見られる長楽寺)
          
          (かわどうと読むんじゃない革堂)

どこもまあ、何と達筆な人が待機していたことか。

色紙は気学の教えに従って、
東向きに掲げています。

鍋焼きうどん

2011-01-27 00:34:23 | ままごと
飛んで火に入る、あみさんがキターッ。

「さてこれはナニ」
「……、しいたけ!」
パチパチパチパチ(拍手)

「で、料理の名前は」
「……、鍋焼きうどん!」
パチパチパチパチパチパチパチパチ(拍手)

椎茸はツツジの冬葉
蒲鉾は冬薔薇の裏側
ホウレン草はその辺の柔らかい草
うどんは松の枯葉

たったこれだけの材料でも
この時期はあちこち回ることになる

人目を気にしながら
潜りこんだり手を伸ばしたり

いつか私はタイホされるだろう

その時のために名刺を作ろうかと思う
〝植相リサーチセンターの調査員〟とかなんとか
肩書きをでっちあげて
裏付けのために、デジカメの中に植物の写真をいっぱい入れておく

そうすれば始末書くらいで放免してくれるかな

どない、この案

服部文子

2011-01-26 00:45:34 | 日記
カモノハシ?

いえいえ、短足、短尾、巨尻のふみ子です。

また、性懲りもなく…。

だって雨のそぼ降る師走の寒い夜、
車の下から
「おばちゃーん」
と声をかけられたのです。

ふみ子のことは、数年前から気付いていましたが、
駄目駄目、うちはいつの間にか二匹になっているから、
と見て見ぬふりをしていました。

駐車場の隅に誰かが置いたごはんもあって
大丈夫、私が無視しても
と言い訳をしていたのです。

でもあの夜は状況が整っていました。

みや子がいなくなってから
灰猫グリ江の様子がおかしくなって
何とかしなくてはと思っていました。
この子ならお友だちにってくれるかもしれない。

ふみ子は抵抗もせず我が家に来ました。
昼は押入れで眠り続けます。
でも夜あかりを消すと俄然活動的になって叫び回ります。
「出たい出たいー、外に出たいー」
          
          (捕獲一日目)
          
          (捕獲一週間目)

まだうちの子になりきっていないから
服部文子と名付けました。

猫の毛は頭から尾に向けて流れているのに
ふみ子の毛は立ち気味でふわふわで
極上です。
          

ふわふわ
          

ここに
          

顔をうずめて
          

眠りたい

ふみ子
長生きしなされや

白菜と揚げ

2011-01-25 00:01:52 | 美食
白菜と揚げと人参とちりめんじゃこ。

太白胡麻油で軽く炒めて、
酒と出汁、みりんと薄口

薄味で炊くのは
私の冬の定番おかず。

夏なら白菜のかわりに
万願寺や伏見など甘長唐辛子を。

献立はほかに、
里芋の味噌汁
ブリの塩焼きと生姜の甘酢漬
出汁巻き卵
で十品目超え。

器は紅虎の際グループの店の前に
「ご自由にお持ち下さい」と置いてあったもの。

西洋椿

2011-01-24 00:28:43 | 植物
ラテン名しかない花など趣味ではない私だが、
ここのお宅の植物は、
それを超えて徹底した西洋種の珍しいものばかりなので、
花屋に騙されて無頓着に選んだものではなく、
主の趣味が生かされていて感服する。

近所にある、世界的に有名なある方の玄関先の花である。

ここでは京都のオータンペルデュでしか見たことのなかった
西洋ザイフリボクの花も見たことがある。

フッキソウもサルスベリも普通とは違っている。

写真の西洋椿も
ギガントカルパとか、ゴルドニアとか
品種名はある筈なのだが、
図鑑の写真を見たくらいでは判別できない。

椿の品種は、薔薇ほどではないにしろ多数あって
京都の霊鑑寺に行くと日本の椿だけでも
こんなにあるのかと思い知らされる。

霊鑑寺、通常は非公開だが、
春の一時期だけ公開。

京都のカフェ Rive Droite 1998~2001 3.

2011-01-22 00:08:48 | 物語
3. 御池通り

 有限会社を作る準備をしながら、カフェにする店舗物件も並行して探していた。
 カフェは間口が広くなければならない。しかし京都は鰻の寝床の物件ばかりで、間口の
広いところなど皆無である。その昔、間口の広さに応じて税がかけられたので、こうなっ
たという。
 場所はいいが狭すぎる、建物はいいが場所が寂しい、カフェにはお誂え向きだが所有者
が飲食業を許さないなど、帯に短したすきに長しの物件ばかりである。
 京都は日本一喫茶店の多い町と聞く。繁華街は言うに及ばず、裏道や山の中にも何年も
続いている店をみかける。競合店があるにもかかわらず、つぶれずにいるのは、店舗が賃
貸ではなく所有物件で、人も雇わず家族だけで営業しているかららしい。
 物件探しに行き詰まったとき、以前レストランを経営したことのある知人が、御池通り
に面白い物件があると言ってきた。そこは貸物件と出ているわけではなく、現役の倉庫と
して使われている。
「味のある物件ですよ」
          
 知人の言葉通り、倉庫は関西では少ない大谷石の組まれた立派な造りだった。
 荷物の出し入れのために開放されている正面から中をのぞくと、体育館のような鉄の梁
が高く渡っている。今時なかなか見ない倉庫である。
 同じ敷地内に、これまた懐かしい、昔の医院の窓口のような、ガラスの開閉する受付の
ある木造二階建ての事務所棟と、細かいタイルを嵌め込んだ別棟の手洗いがあった。
「石井さん、所有者に貸して下さいって言ってみなくちゃ。駄目でもともとですよ」
 店を経営してことのある人の助言は説得力があった。
 倉庫は造酢会社のものだった。図書館に行き、会社年鑑で経営者の名前を引いた。次い
で紳士録で社長の経歴を調べた。
 社長は阪神地区に本社のある年商100億の造酢会社のほかに、全国でベストスリーに入る
東京の食品問屋の社長も兼任していた。私は造酢会社宛てに手紙を書いた。
 そのことも忘れた三ヵ月後、東京の食品問屋から電話があった。一度お会いしましょう
と言ってきたのを、私は自分が東京に住んでいる気分で簡単に返事をしたが、京都から東
京に行く交通費は、会社を立ち上げる前で、痛い不意の出費だった。
 日本橋の年季の入ったビルで、社長は副社長の弟にも紹介してくれた。
「弟はアメリカでコンビニのシステムを勉強してきましてね」
 二人は似ていなかった。
 長身でにこやかな社長と比べて、副社長は小柄で険しい眉をしていた。
「よろしかったら、うちが六本木でやっている寿司屋にご案内します」
 お付きの運転手がいる車に乗り、夕食は三人で出かけた。
 倉庫は私の希望の家賃で借りられることになった。もう一歩踏み込んで、出来つつある
会社への出資も検討してもらえないかと頼んでみた。
 社長が席をはずしたとき、副社長は言った。
「折角お近づきになれたのに、もし資本でも協力していると、会社が駄目になったとき、
仲違いすることになりますよ。そういう例をいくらも知っていますから。まあ決めるのは
社長ですけど」
 次の面談は現地、京都の倉庫で行われた。
 午前の会合を終えて駆けつけた社長との短い会談で出資は決まった。
「この建物はね、僕が子供の頃、父親に手を引かれて京都に来たとき、父がここを買おう
と決めたんです。祇園祭の鉾が丁度この前で止まるので、二階の広間でお客様を招待して
見物してきました」
 事務所棟は一軒の日本家屋になっており、二階は畳敷き、一回には台所も付いていた。
 しかしそれから半年、他の出資者との交渉や店舗設計に時間を取られている間に情勢は
変わった。
 造酢会社からは、土地を貸せる状況ではなくなり、他の取締役から反対が出たと言って
きた。
 ほどなく倉庫は取り壊され、コインパーキングになり、その後東京の食品問屋は他の会
社と合併して社名も変わった。
 大谷石の倉庫でカフェを開く計画は霧のように消えてしまった。しかしあの日御池通り
の事務所で、京華堂利保の濤々を前に出資を承諾してくれた社長の好意への感謝と、初め
て父親に御池通りの倉庫の場所に連れて来られた少年の像は、私の頭から消えることはな
いだろう。
 こうなったら自分の理想とする店のイメージを固め、それに合うものがあったら、貸し
てもらえないかと一軒一軒ぶつかってみる発想に切り替えた方がいい。
 市役所の近くで目にとまった自転車屋は、場所も広さも向きも、カフェにするのに理想
的だった。
 オープンカフェの場合、店が南や西を向いていると日が当たり過ぎ、野外での着席は、
まぶしかったり暑かったりで、快適とはいえない。北か東を向いているのが理想である。
 その点、この自転車屋は、北東の側に店が開き、交差点の中心を向いている。
 繁華街過ぎず、さりとて寂しい郊外ではなく、交通の便も良く、京都以外の観光客の目
にも留まりそうな場所にある。
 とはいえ貸物件の札が出ているわけではないので、所有者の意向とは関わりのないとこ
ろで、私が勝手にここをカフェにしたいと思いついただけのことである。
 まず法務局に行って権利関係を調べた。所有者は、自転車屋と同じ名前の人物だが、税
金の滞納で差し押さえ物件となっていた。
 こんな状態で貸してもらいたいと交渉ができるのか、交渉するにはどう切り出せばいい
のか、相談相手として浮かぶのは、知り合いのタクシードライバー谷さんだった。
 これまでも世知に長けた判断の必要なときはこの人の知恵を借りてきた。特に京都とい
う土地柄を考慮に入れなければならないときは。
 いや、こちらが相談を持って行く前から、困りごとの解決に、向こうから見かねて手を
貸してくれた例は枚挙に暇がない。
          
 バブルの頃、知り合いの食品会社が伏見の酒屋を買い取りたいと言ってきたとき、彼は
売ってくれそうな酒造会社をみつけ、タクシーが非番の日にスーツを着て交渉に行ってく
れた。
 東山の眺めのいい場所で、友人たちと野点をしたいと言うと、土地を所有する寺院との
交渉は勿論のこと、頼みもしないのに緋毛氈の調達まで手配してくれた。
 乗用車を持つことになった私が、駐車場に困っていると、彼は自分が持っている駐車場
の一つを無料提供してくれた。
「あの自転車屋、カフェに貸してくれないかしら」
「センセ、ほんまに話に行ってよろしのやね」
 今回はいつになく固くなっていた。タクシーの中で待つ時間も長かった。
 谷さんが店の中に入って一時間近く経ち、ようやく戻ってきた。
「センセ、今は貸さんと言うてますけど、少し待ったら落ちまっせ」
 自転車屋の奥さんは病気で入院しているからというのが根拠だった。いつか落ちるとい
っても、いつまで待てばよいのか。
 こんなところをカフェに出来たらと思う物件はほかにもあった。
 高瀬川船泊まり奥の元お茶屋街の日本家屋と、今出川橋西詰めの銀行跡。
 しかしどちらも人の気配がなく、ひっそりと門を閉めており、交渉するにもとっかかり
がわからない。ましてや、まだ会社も立ち上げてない時期に、いくら払えるかわからない
女が、飛び込みで交渉するのでは、意気込みも足りず、見込みがない。
 これら二つの物件は、その後それぞれ今も盛業の、お座敷中華料理店とカフェになった。
 場所か広さか家賃か、どれかに無理をしないと、京都にカフェの開ける物件はないよう
に思えたとき、バスの中からみつけた木造三階建ての物件が、少し高い家賃だが、間口も
なんとか妥協できた。
 これなら峰社長の言う四十席以上という条件もクリアできる。市役所に近く、二つのバ
ス停の中間ではあるが、河原町通りに面してもいる。以前政治家の選挙事務所になってい
た記憶がある。
 物件は不動産会社の社長の所有のため、仲介手数料は取られないとのことだった。不動
産屋には、有限会社を作ろうとしていることを説明して、手付金無しでしばらく保留にし
てもらった。
 開店資金は会社の資本金だけではたりない。公庫なり女性支援金なりからの融資の交渉
も始めなければならない。だが銀行も公庫も起業支援機関も、保証人なしでは資金は貸し
てくれない。これは一番高いハードルだった。
 目当ての店舗物件の不動産屋は、若い青年が担当していた。保留にしてもらってから半
年、有限会社は作ったが融資は見通しがなく、カフェ計画は行き詰まった。
「一歩一歩石井さんの希望の方向に進んでいるじゃありませんか」
 青年は五十の私を励ますことのできる言葉を持っていた。
 そんなとき四十年ぶりに会った小学校の同級生、ゆみこさんが私のカフェの話を聞いて
ほかに誰もいないなら、自分が公庫の保証人になってやろうと自分から申し出てくれた。
こちらが頼みもしないのに。
 ふつうは頼まれても、たとえ親兄弟でも保証人にだけはなるなという。私が逆の立場で
も、引き受けることは考えられなかった。
「だってちゃんとした案があるのに、そのことだけで夢が叶わないのは残念じゃない」
 ゆみこさんは一時期飲食店を経営していた。その大変さも面白さも知っての上で保証人
になってくれた。
 公庫から一千万円の融資がおりた。会社の資本金と合わせて一千六百二十万円の資金は
四十席の店には心細い額ではあった。
 全てが揃った三ヵ月後に開店にこぎつけた。
 開業日は、桜の花がもう少しで開くという1998年弥生晦日の大安にした。

みや子のひげ

2011-01-21 00:23:09 | お宝
最初の一本は
カフェの階段で拾った。

猫の髭の硬さは知っていても
それを根元の方から確認できるなんて。

なんだか勿体なくて
しまっておいた。

それから何度も拾うことになり、
数えたら118本になっていた。

みや子は顔は小さいのに
髭はとても立派だった。

体は軽いのに、手足も尻尾も長くて
掌にみや子の胴をのせて
「みや子、伸んび伸んびー」
と言うと
前後に手と足をピーンと伸ばしてみせて
「わあ長いねえ」
とお客様に言われるのが好きだった。

みや子はほかにも私の言葉がわかって
「みや子、シッポッポ」
と言うと
不機嫌そうにスパッスパッと
尻尾を左右に振ってみせた。

また、
「みや子、ゴローン」
と言うと走ってきて
蒲団の上にゴローンと
身を投げ出した。

言葉だけじゃなくて
目の合図でも気持ちを汲み取ってくれた。
棚の上で休むみや子に目を細めて微笑みかけると
みや子も必ず目を細めて返してくれた。

旅行が好きで
人間の言葉がわかって
芸をするなんて
猫じゃないと言われそうだが、
本当だもの。

みや子の中には人が入っていて
深い深いところで心が通じ合っていた。

10年で118本、
ほぼ毎月一本拾っていたことになる。
でも最後の一本はバッグにしまっているので
写真に写っているのは117本(最後の年は牙も拾いました)。

ホームベーカリー

2011-01-20 00:38:31 | ままごと
沈丁花はまだ咲かないし
蕗のとうは一個しかみつからないし

市場には何も出ていない。

こんな時期はおうちに籠もって
パンでも作りましょうか

九州の小麦粉が
手に入らないので
とうとう陶芸用の土で

食パン、ジャムパン、クロワッサン
メロンパンなど昭和のパンを。

いつの間にか見なくなったピーナツパンが
食べたいのに

これはままごとじゃなくて粘土細工なんて
言わない言わない