ものがたりにモデルはありますが、事実どおりではありません
⑧
典子先生が福岡に落ち着かれ、私が東京に戻ってからその後二十年間、先生にはほとんどお目にかかってい
ない。それでも距離が遠くなっていたという感覚はない。
今は先生をクローズアップして書いているから特別に近い存在のように思われるかもしれないが、カトリッ
クの女子校に居た時も典子先生を先生方の一人としかとらえていなかったし、卒業後もよく便りを書く相手は
典子先生のほかに何人もいた。
一つには典子先生が春霞のような人で、近づいても近づいても、会っても会っても、遊んでも遊んでも、
いつも同じ淡い濃度のままだったからといえる。
この時期の先生からの手紙には、福岡がつまらないこと、体調がはっきりしないこと、老いを実感すること
ばかりが綴られている。その間に先生は四十から五十に、五十から六十になられた。
一度福岡のビストロ゛ご馳走になったとき先生は
「そう、あなたが四十にねえ」と哀しそうにため息をつかれた。
その二十年の間に謙三先生と典子先生連名の年賀状には芭蕉の同じ句が二回引用された。
“戌と申 世の中よかれ 酉の歳”
謙三先生は酉、典子先生は戌年だった。
典子先生は自身の不調に加えて身内に病人を抱えることになり、私の出番はますますなくなった。時々貸本
と称して面白そうだと思える本をお送りしたり、疑問に思うことを教えていたくお尋ねの便りを出したりした。
“かれいひほとびにけりというのは何に出てくる文だったでしょうか”
“伊勢物語の九段、東下りのところでかきつばたを句の頭にすえた<唐衣きつつなれにしつましあればはるば
るきぬる旅をしぞ思ふ>のすぐあと、<…とよめりければ、みな人かれいひの上に涙おとしてほとびにけり>とあ
ります”
“雑誌記者が<彷彿させる>と書いてきましたが、彷彿は形容動詞彷彿たりの語幹だから<彷彿とさせる>が正
しいのではありませんか”
“私も主人も、彷彿とさせる派です”
先生が六十代に入られてからご家族が次々に亡くなられた。
謙三先生も肝臓を悪くされて長い入院生活のあとに亡くなられた。
私は東京で十五年過ごした後、京都の生活を始めてカフェを開いていた。
“十一月の末に実家の母がみまかりました。九十五歳でした。
もう三年ほど入院しておりました。秋口からは殆ど食が入らなくなっていましたので心の準備はしておりまし
た。主人が亡くなってから一年余りはそれでも見舞ってやれたのだからと思っています。
この一年、あたたかいお心遣いありがとうございました。
どうぞくれぐれもお体お大切に。私もこれで何か身軽になったような、ふっきれた思いです。
少し落ち着いたら、あなたのカフェでお目にかかりましょう”
次の年の春、私は先生を遅めの花見と大文字登山で京都にお誘いした。体を動かして心を沈めないようにと
の思いからだった。メンバーには東京の友人二人と大阪のマリに加わってもらった。
集合は私のカフェにしてみんなで鹿ケ谷山荘の昼食に向かった。のれそれ、菜の花、筍など春の味覚が華
やいだ趣向で出された。東山の斜面に建つ料亭からは京の町が望めたので、下りは坂を歩き霊鑑寺の前で待っ
ていた車に乗り予約していた松屋常盤のきんとんを引き取って、西賀茂のしょうざんの庭で椅子とテーブルを
借りて茶席とした。帰りに太田神社裏で山桜と竹のトンネルを抜けて花見をし、夜は寺町の上海料理の店で夕
食にした。
翌日はメンバーには丸太町橋東の八起庵で昼食をとってもらい、私は仕事をギャルソンにまかせてから合流
することにした。銀閣寺のそばに住んでいたマリは大文字に登ったことがあるというので道案内をしてもらっ
た。銀閣寺道から左に入り、朝鮮学校の脇を進んだ登山道入り口には杖が用意してあった。先生にそれを進め
るためにも私も杖を使うことにした。上り30分足らず、さしたる難所もなくネコノメソウなど春の山草の咲
く道を進むと、送り火を燃やす火台の組まれた斜面に出た。テレビドラマ「京ふたり」で見たあの場所だ。
謙三先生は大学の山岳部で部長をなさっていたので、典子先生も低山には何度か登っていらした。杖は不
要だったかもしれない。
鹿ケ谷山荘で見たよりもさらに高所からの京の町の遠望が開けていた。
「先生、あそこが昨日の太田神社の桜です」
「あの桜が続いているところね」
大文字の斜面は急で、われわれは大の字の横棒のところを左右に行き来しただけだった。
帰りは先生と私は来たのと同じコースを下ったが、ほかの三人は森の中の近道を滑るように駆けて後で合流した。
最後はみながお土産を買えるように鞍馬口の生風庵に寄った。
“いろいろとお世話になりました何年ぶりかでまわりのことを何も考えずにその時の愉しみを味わうことができ
ました。お店が大変な時にお心遣いをさせてごめんなさい
一番の心残りは朝食をあなたのカフェでとらなかったこと、この次の楽しみにしましょう
大文字にのぼり詰めて京都を見晴るかしたときの解き放たれたような思い、太田神社の桜樹の林
たくさんのいいものをありがとうございました
もう日々旅にして旅を栖とするような生活をしてもいいのだと帰りの新幹線に揺られていました
いつかふらっとでかけて あなたのカフェの朝食を摂りにあらわれたいなどと思っています”
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典子先生が福岡に落ち着かれ、私が東京に戻ってからその後二十年間、先生にはほとんどお目にかかってい
ない。それでも距離が遠くなっていたという感覚はない。
今は先生をクローズアップして書いているから特別に近い存在のように思われるかもしれないが、カトリッ
クの女子校に居た時も典子先生を先生方の一人としかとらえていなかったし、卒業後もよく便りを書く相手は
典子先生のほかに何人もいた。
一つには典子先生が春霞のような人で、近づいても近づいても、会っても会っても、遊んでも遊んでも、
いつも同じ淡い濃度のままだったからといえる。
この時期の先生からの手紙には、福岡がつまらないこと、体調がはっきりしないこと、老いを実感すること
ばかりが綴られている。その間に先生は四十から五十に、五十から六十になられた。
一度福岡のビストロ゛ご馳走になったとき先生は
「そう、あなたが四十にねえ」と哀しそうにため息をつかれた。
その二十年の間に謙三先生と典子先生連名の年賀状には芭蕉の同じ句が二回引用された。
“戌と申 世の中よかれ 酉の歳”
謙三先生は酉、典子先生は戌年だった。
典子先生は自身の不調に加えて身内に病人を抱えることになり、私の出番はますますなくなった。時々貸本
と称して面白そうだと思える本をお送りしたり、疑問に思うことを教えていたくお尋ねの便りを出したりした。
“かれいひほとびにけりというのは何に出てくる文だったでしょうか”
“伊勢物語の九段、東下りのところでかきつばたを句の頭にすえた<唐衣きつつなれにしつましあればはるば
るきぬる旅をしぞ思ふ>のすぐあと、<…とよめりければ、みな人かれいひの上に涙おとしてほとびにけり>とあ
ります”
“雑誌記者が<彷彿させる>と書いてきましたが、彷彿は形容動詞彷彿たりの語幹だから<彷彿とさせる>が正
しいのではありませんか”
“私も主人も、彷彿とさせる派です”
先生が六十代に入られてからご家族が次々に亡くなられた。
謙三先生も肝臓を悪くされて長い入院生活のあとに亡くなられた。
私は東京で十五年過ごした後、京都の生活を始めてカフェを開いていた。
“十一月の末に実家の母がみまかりました。九十五歳でした。
もう三年ほど入院しておりました。秋口からは殆ど食が入らなくなっていましたので心の準備はしておりまし
た。主人が亡くなってから一年余りはそれでも見舞ってやれたのだからと思っています。
この一年、あたたかいお心遣いありがとうございました。
どうぞくれぐれもお体お大切に。私もこれで何か身軽になったような、ふっきれた思いです。
少し落ち着いたら、あなたのカフェでお目にかかりましょう”
次の年の春、私は先生を遅めの花見と大文字登山で京都にお誘いした。体を動かして心を沈めないようにと
の思いからだった。メンバーには東京の友人二人と大阪のマリに加わってもらった。
集合は私のカフェにしてみんなで鹿ケ谷山荘の昼食に向かった。のれそれ、菜の花、筍など春の味覚が華
やいだ趣向で出された。東山の斜面に建つ料亭からは京の町が望めたので、下りは坂を歩き霊鑑寺の前で待っ
ていた車に乗り予約していた松屋常盤のきんとんを引き取って、西賀茂のしょうざんの庭で椅子とテーブルを
借りて茶席とした。帰りに太田神社裏で山桜と竹のトンネルを抜けて花見をし、夜は寺町の上海料理の店で夕
食にした。
翌日はメンバーには丸太町橋東の八起庵で昼食をとってもらい、私は仕事をギャルソンにまかせてから合流
することにした。銀閣寺のそばに住んでいたマリは大文字に登ったことがあるというので道案内をしてもらっ
た。銀閣寺道から左に入り、朝鮮学校の脇を進んだ登山道入り口には杖が用意してあった。先生にそれを進め
るためにも私も杖を使うことにした。上り30分足らず、さしたる難所もなくネコノメソウなど春の山草の咲
く道を進むと、送り火を燃やす火台の組まれた斜面に出た。テレビドラマ「京ふたり」で見たあの場所だ。
謙三先生は大学の山岳部で部長をなさっていたので、典子先生も低山には何度か登っていらした。杖は不
要だったかもしれない。
鹿ケ谷山荘で見たよりもさらに高所からの京の町の遠望が開けていた。
「先生、あそこが昨日の太田神社の桜です」
「あの桜が続いているところね」
大文字の斜面は急で、われわれは大の字の横棒のところを左右に行き来しただけだった。
帰りは先生と私は来たのと同じコースを下ったが、ほかの三人は森の中の近道を滑るように駆けて後で合流した。
最後はみながお土産を買えるように鞍馬口の生風庵に寄った。
“いろいろとお世話になりました何年ぶりかでまわりのことを何も考えずにその時の愉しみを味わうことができ
ました。お店が大変な時にお心遣いをさせてごめんなさい
一番の心残りは朝食をあなたのカフェでとらなかったこと、この次の楽しみにしましょう
大文字にのぼり詰めて京都を見晴るかしたときの解き放たれたような思い、太田神社の桜樹の林
たくさんのいいものをありがとうございました
もう日々旅にして旅を栖とするような生活をしてもいいのだと帰りの新幹線に揺られていました
いつかふらっとでかけて あなたのカフェの朝食を摂りにあらわれたいなどと思っています”