ものがたりにモデルはありますが、事実通りではありません
⑰
定期的に通っていた福岡の植生調査もそろそろ終わりとなった。折角の機会だからと、対象地のお屋敷の
庭で山桜の花見をしておこうと、典子先生や友人に声をかけてみた。いつものように先生は体調により当日
までわからないというお返事だった。
茶碗やお茶はこちらで用意し、お湯は友人に頼んだ。お菓子はデパートの地下で買うつもりにしていた
ら、京都や東京のように名店が季節の生菓子を出している売り場がみつけられず、結局山口の棹物菓子を買
うことになった。
西鉄高宮駅に先生は約束の時間に来て下さった。お屋敷までは歩いて五分。先生は桜色のカーディガンを
羽織っておいでになった。屋敷の庭に敷き物を広げていると小学校時代の友人も家族連れで来てくれた。野
点が始まった。
京都ではお茶をたてて下さるのは先生だったけれど「今日は手が痛いからあなたがたててね」そうおっ
しゃって、分量だけ指示を下さって六人分のお茶を私がたてた。
敷物の上からの低い目線で先生が庭の端の桜の下に群生する白い花のことを尋ねられた。
「あれはなあに」
「クサイチゴという野苺で連休のころ赤い実がなります。甘くて食べられますよ」
先生はそれを目に焼き付けるかのように黙って花の方をみつめておいでになった。
帰りは友人が車で送ってくれることになり、天神で私が最初に降りた。
先生は「ああっ」といって今生の別れであるかのように私の手を握って引き止められた。
先生からは“クサイチゴが赤い実を付ける頃ですね。私はすっかり引きこもりの老婆になりました”
というお葉書をいただき、翌年の年賀状に“思い出に生きる日々です”というお便りをいただいた後は無音と
なった。
お葬式はご自宅のマンションの居間で少人数で行われた。義妹の文子さんが私に話しかけに来られた。
「あんなに何度も京都に連れて行っていただいて、義姉がどんなに喜んでいましたか。福岡では素晴らしい
お庭でお茶を頂いたこと話してくれました。あなたからジャムが届くと勿体をつけながら一個あげるわねと
言っていたのですよ」
「でも、もう二年もお会いしていませんでした」
「それは、あなたとお別れするのが辛いのだと申しておりました。この頃あまり食事をしていないようだっ
たので、私が電話でちゃんと食べてるって聞くとウン卵とかと言って。七月の初めが兄の命日でしたから、
その法事が終わったとき、ああまた今年もお迎えが来なかったと言って」
もう生きようとなさらなかった先生は自然に衰弱なさったのだった。
先生のお便りが途絶えたとき、先生は即身仏の上人のように自ら棺の中に入られたと思った。そして長い
読経がある日聞こえなくなった。外の者はその長い時間に上人の死を受け入れ心の中に消化した。
先生の訃報で私は衝撃や痛みは感じなかった。そうなるように先生は時間を下さった。ただ思い出を刻ん
だクラウドがなくなったとだけ思った。
帰り際に姪御さんが
「これを貰っていただきましょう」
と出されたのは、四冊のアルバムで、そこには京都旅行の写真が収められていた。そしてそれぞれの旅には
薄い和紙の一筆箋に旅程が細かく記されていた。
“ホテルフジタ、早くに目覚めてカーテンを開けると目の前に東山。枕草子の世界…”
“花脊摘草料理美山荘献立 徳力冨実吉郎絵の塗丸盆
1、朴葉味噌と大粒銀杏炭火焼
2、胡桃入り胡麻豆腐
3、蕪の酢の物
4、あまごのお造り
5、南瓜の擂り団子白味噌汁
6、朱塗碗にお赤飯(私の誕生祝)
7、吹寄せ八寸(川海老、蒟蒻、麦、粟、枝豆など)
8、お浸し(水菜、茗荷の花、芋茎、夏大根)
9、松茸炭火焼、かぼす、岩塩
10、土瓶蒸し(松茸、銀杏、鰻、青菜)
11、鮎幽庵焼き
12、炊き合わせ
13、蕎麦掻、揚げたきのこにあんかけ
14、栗御飯 香の物(柴漬、胡瓜、大根、人参)
15、洋梨コンポート
16、紫紺の木通 あけびの蔓籠”
胸がしめつけられるように苦しくなった。先生は一人宿の部屋で日々の思い出を丁寧に大事に畳んでおい
でになったのだ。クラウドは消えていなかった。(終)
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定期的に通っていた福岡の植生調査もそろそろ終わりとなった。折角の機会だからと、対象地のお屋敷の
庭で山桜の花見をしておこうと、典子先生や友人に声をかけてみた。いつものように先生は体調により当日
までわからないというお返事だった。
茶碗やお茶はこちらで用意し、お湯は友人に頼んだ。お菓子はデパートの地下で買うつもりにしていた
ら、京都や東京のように名店が季節の生菓子を出している売り場がみつけられず、結局山口の棹物菓子を買
うことになった。
西鉄高宮駅に先生は約束の時間に来て下さった。お屋敷までは歩いて五分。先生は桜色のカーディガンを
羽織っておいでになった。屋敷の庭に敷き物を広げていると小学校時代の友人も家族連れで来てくれた。野
点が始まった。
京都ではお茶をたてて下さるのは先生だったけれど「今日は手が痛いからあなたがたててね」そうおっ
しゃって、分量だけ指示を下さって六人分のお茶を私がたてた。
敷物の上からの低い目線で先生が庭の端の桜の下に群生する白い花のことを尋ねられた。
「あれはなあに」
「クサイチゴという野苺で連休のころ赤い実がなります。甘くて食べられますよ」
先生はそれを目に焼き付けるかのように黙って花の方をみつめておいでになった。
帰りは友人が車で送ってくれることになり、天神で私が最初に降りた。
先生は「ああっ」といって今生の別れであるかのように私の手を握って引き止められた。
先生からは“クサイチゴが赤い実を付ける頃ですね。私はすっかり引きこもりの老婆になりました”
というお葉書をいただき、翌年の年賀状に“思い出に生きる日々です”というお便りをいただいた後は無音と
なった。
お葬式はご自宅のマンションの居間で少人数で行われた。義妹の文子さんが私に話しかけに来られた。
「あんなに何度も京都に連れて行っていただいて、義姉がどんなに喜んでいましたか。福岡では素晴らしい
お庭でお茶を頂いたこと話してくれました。あなたからジャムが届くと勿体をつけながら一個あげるわねと
言っていたのですよ」
「でも、もう二年もお会いしていませんでした」
「それは、あなたとお別れするのが辛いのだと申しておりました。この頃あまり食事をしていないようだっ
たので、私が電話でちゃんと食べてるって聞くとウン卵とかと言って。七月の初めが兄の命日でしたから、
その法事が終わったとき、ああまた今年もお迎えが来なかったと言って」
もう生きようとなさらなかった先生は自然に衰弱なさったのだった。
先生のお便りが途絶えたとき、先生は即身仏の上人のように自ら棺の中に入られたと思った。そして長い
読経がある日聞こえなくなった。外の者はその長い時間に上人の死を受け入れ心の中に消化した。
先生の訃報で私は衝撃や痛みは感じなかった。そうなるように先生は時間を下さった。ただ思い出を刻ん
だクラウドがなくなったとだけ思った。
帰り際に姪御さんが
「これを貰っていただきましょう」
と出されたのは、四冊のアルバムで、そこには京都旅行の写真が収められていた。そしてそれぞれの旅には
薄い和紙の一筆箋に旅程が細かく記されていた。
“ホテルフジタ、早くに目覚めてカーテンを開けると目の前に東山。枕草子の世界…”
“花脊摘草料理美山荘献立 徳力冨実吉郎絵の塗丸盆
1、朴葉味噌と大粒銀杏炭火焼
2、胡桃入り胡麻豆腐
3、蕪の酢の物
4、あまごのお造り
5、南瓜の擂り団子白味噌汁
6、朱塗碗にお赤飯(私の誕生祝)
7、吹寄せ八寸(川海老、蒟蒻、麦、粟、枝豆など)
8、お浸し(水菜、茗荷の花、芋茎、夏大根)
9、松茸炭火焼、かぼす、岩塩
10、土瓶蒸し(松茸、銀杏、鰻、青菜)
11、鮎幽庵焼き
12、炊き合わせ
13、蕎麦掻、揚げたきのこにあんかけ
14、栗御飯 香の物(柴漬、胡瓜、大根、人参)
15、洋梨コンポート
16、紫紺の木通 あけびの蔓籠”
胸がしめつけられるように苦しくなった。先生は一人宿の部屋で日々の思い出を丁寧に大事に畳んでおい
でになったのだ。クラウドは消えていなかった。(終)