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もがり または 恩師 ⑰

2019-06-02 10:49:20 | 物語
ものがたりにモデルはありますが、事実通りではありません


 定期的に通っていた福岡の植生調査もそろそろ終わりとなった。折角の機会だからと、対象地のお屋敷の

庭で山桜の花見をしておこうと、典子先生や友人に声をかけてみた。いつものように先生は体調により当日

までわからないというお返事だった。

 茶碗やお茶はこちらで用意し、お湯は友人に頼んだ。お菓子はデパートの地下で買うつもりにしていた

ら、京都や東京のように名店が季節の生菓子を出している売り場がみつけられず、結局山口の棹物菓子を買

うことになった。

 西鉄高宮駅に先生は約束の時間に来て下さった。お屋敷までは歩いて五分。先生は桜色のカーディガンを

羽織っておいでになった。屋敷の庭に敷き物を広げていると小学校時代の友人も家族連れで来てくれた。野

点が始まった。

 京都ではお茶をたてて下さるのは先生だったけれど「今日は手が痛いからあなたがたててね」そうおっ

しゃって、分量だけ指示を下さって六人分のお茶を私がたてた。

 敷物の上からの低い目線で先生が庭の端の桜の下に群生する白い花のことを尋ねられた。

「あれはなあに」

「クサイチゴという野苺で連休のころ赤い実がなります。甘くて食べられますよ」

先生はそれを目に焼き付けるかのように黙って花の方をみつめておいでになった。

 帰りは友人が車で送ってくれることになり、天神で私が最初に降りた。

先生は「ああっ」といって今生の別れであるかのように私の手を握って引き止められた。

先生からは“クサイチゴが赤い実を付ける頃ですね。私はすっかり引きこもりの老婆になりました”

というお葉書をいただき、翌年の年賀状に“思い出に生きる日々です”というお便りをいただいた後は無音と

なった。


 お葬式はご自宅のマンションの居間で少人数で行われた。義妹の文子さんが私に話しかけに来られた。

「あんなに何度も京都に連れて行っていただいて、義姉がどんなに喜んでいましたか。福岡では素晴らしい

お庭でお茶を頂いたこと話してくれました。あなたからジャムが届くと勿体をつけながら一個あげるわねと

言っていたのですよ」

「でも、もう二年もお会いしていませんでした」

「それは、あなたとお別れするのが辛いのだと申しておりました。この頃あまり食事をしていないようだっ

たので、私が電話でちゃんと食べてるって聞くとウン卵とかと言って。七月の初めが兄の命日でしたから、

その法事が終わったとき、ああまた今年もお迎えが来なかったと言って」

もう生きようとなさらなかった先生は自然に衰弱なさったのだった。

 先生のお便りが途絶えたとき、先生は即身仏の上人のように自ら棺の中に入られたと思った。そして長い

読経がある日聞こえなくなった。外の者はその長い時間に上人の死を受け入れ心の中に消化した。

 先生の訃報で私は衝撃や痛みは感じなかった。そうなるように先生は時間を下さった。ただ思い出を刻ん

だクラウドがなくなったとだけ思った。

 帰り際に姪御さんが

「これを貰っていただきましょう」

と出されたのは、四冊のアルバムで、そこには京都旅行の写真が収められていた。そしてそれぞれの旅には

薄い和紙の一筆箋に旅程が細かく記されていた。

 “ホテルフジタ、早くに目覚めてカーテンを開けると目の前に東山。枕草子の世界…”

 “花脊摘草料理美山荘献立 徳力冨実吉郎絵の塗丸盆
 1、朴葉味噌と大粒銀杏炭火焼
 2、胡桃入り胡麻豆腐
 3、蕪の酢の物
 4、あまごのお造り
 5、南瓜の擂り団子白味噌汁
 6、朱塗碗にお赤飯(私の誕生祝)
 7、吹寄せ八寸(川海老、蒟蒻、麦、粟、枝豆など)
 8、お浸し(水菜、茗荷の花、芋茎、夏大根)
 9、松茸炭火焼、かぼす、岩塩
 10、土瓶蒸し(松茸、銀杏、鰻、青菜)
 11、鮎幽庵焼き
 12、炊き合わせ
 13、蕎麦掻、揚げたきのこにあんかけ
 14、栗御飯 香の物(柴漬、胡瓜、大根、人参)
 15、洋梨コンポート
 16、紫紺の木通 あけびの蔓籠”

 胸がしめつけられるように苦しくなった。先生は一人宿の部屋で日々の思い出を丁寧に大事に畳んでおい

でになったのだ。クラウドは消えていなかった。(終)

もがり または 恩師 ⑯

2019-05-25 18:09:29 | 物語
ものがたりにモデルはありますが、事実通りではありません。


 “さくらと、おいしい食事の夢のような10日間 ありがとうございました

  帰り着いて絵葉書やパンフレットやさくらの本をながめていましたら

  知らぬ間に1週間もすぎていました

  ずっと私のお守をして下さってさぞお疲れのことでしょう

  私の方は今日受診してきました

  今日はコレステロール値や動脈硬化の検査でしたが3月よりずっと減っていて、

  京都であんなに色々おいしいものを食べて下がったのですから

  かえって制限しないほうがいいのかもしれないと思っています

  今回の旅で痛みを気にせず出歩き、何でも食べたこと 

  そして声に出して読んだこと

  これからも一人でつづけてみようかと思います

  手始めに伊勢あたりか何かをと

  少し痛みに強くなって次回に備えてみますから

  また誘ってくださいね

  しばらくはお花見と京の町筋を夢に見ることでしょう

  本当に楽しい10日間でした 帰りの新幹線のお弁当の豪華だったこと!!”

 典子先生がもうたくさんではなく、また誘ってくださいと言われたことにほっとしていた。

 けれども、“また”はもうなかった。

 これまでにない痛みに襲われ、近所に出るのもままならないご様子で手紙の返信もなかなか来なくなっ

た。先生も私もこれで京都旅行の続きはないのだと暗黙のうちに悟っていた。それは先生のお体のためでも

あり、もうここで続きをつなげない方がこれまでの楽しさが輝きを保つという悟りでもあった。京都の十日

間は最後の京の旅にふさわしかった。

 丁度その頃から私は造園学の調査のために福岡に通い出した。行く前に先生に日程を知らせ、当日にお電

話をして先生のお加減がいい時だけ街まで出てきていただいてお昼ご飯をご一緒した。少し遠くまでお出に

なれそうなときは同級生が営むお茶漬けの店まで出向いたり、バスで四十七士の墓のある穴観音にご案内し

たりした。

 出てきてくださるのは三回に一回ぐらいだった。それでも謙三先生の月命日のお参りは欠かさず久留米ま

でおいでになっていたので、

「私もお墓参りにお供させてください」

と申し出てみた。福岡で知り合った女性のタクシードライバーに迎えに来てもらって先生と久留米から筑後

川を渡って謙三先生のお墓のある寺に向かった。そこは昔からの菩提寺ではなく、謙三先生の知り合いのお

寺にお墓をひきうけてもらったのだとおっしゃった。

 小高い土地には低い楓が植えられて古さびた墓石たちにを薄暗い陰をつくっていた。謙三先生のお墓には

芭蕉の句が刻まれていた。

“旅に病んで夢は枯野をかけめぐる”

 京都で典子先生と芭蕉の句碑を訪ねたことを思い出した。鳴滝の川沿いの細い道を上っていくと鳴滝の地

名のもとになった小さな滝がある。たしかにそこに着く前からもうすぐ滝の場所だとわかる水のとどろく音

がしていた。

“梅白し昨日や鶴をぬすまれし”

豪商三井秋風の鳴滝の別荘に招かれた芭蕉が、梅とくれば鶴となる宋の詩人を踏まえて、梅をたたえた句が

小川の草むらにうもれた石にかすかに読めた。

 正月には寺町通りにある阿弥陀寺も訪ねた。大抵は信長の墓のある寺として知られるため、ドライバーの

伊野はそちらへ案内しそうになったのだが、われわわれは芭蕉の句碑の前で写真をとってもらった。

“春立や新年古き米五升”

「あの頃が一番楽しかったわあ」

先生、私もですといいたいのに声には出せなかった。何と比べて楽しかったのか、最近の中では一番という

意味なのか、人生の中で一番楽しかったならいいのにと考えていた。

 お線香をあげてお参りをしながら、いつかここに典子先生のお墓をお参りする日がくるのだと思った。

 帰りはタクシーで浮羽を回って帰ることにした。丘の上の農家を若い人たちが改装して食堂や菓舗やイン

テリア雑貨の店にしている。ガラス越しに筑後川や平野を見下ろして若者の作るエスニック料理を食べた

後、紅葉した櫨の並ぶ高速道路を通って福岡にもどった。

 次の年の秋、喜寿を迎えられる先生のお祝いをするために福岡の同級生に声をかけて十名余に集まっても

らった。先生のお若い頃しか知らない人ばかりで、白髪になられた先生に皆驚くことだろうと思った。先生

には参加者の旧姓をリストにして、この人は知らないということがないよう予習材料としてお届けした。ビ

ルの中の日本料理店に先生をご招待する形にしたら、先生からは全員に和紙に版画をデザインしたカレン

ダーが贈られた。私は食事の前の挨拶で「次は先生の傘寿のお祝いと私たちの喜寿を一緒にさせてくださ

い」と言ったのだが、先生は「いやもうそんなには生きてないわ」と取り下げられた。

 その後ますます先生は体調の悪い時の方が多くなられ、こちらから連絡をするのもはばかられる気持ちに

なった。いやそうではない、気を紛らわせて頂くためにもお便りはすべきだとも思い迷いながら。

 そんな時由美子が提案してきた。

「典子先生の日常のお世話係になったら? 私の大学の友人は大学の恩師のお世話をしに通っていたわよ」

そんなことがかなうならどんなに甲斐のあるお世話だろう。毎日先生に色々なことを教えて頂きながら私の

料理を食べていただくとしたら、これ以上に張り切って作れる相手はいない。私も福岡に落ち着いて造園の

調査をすればいいのだし。あとは自分の決心と覚悟だけだと思い、最後の判断は先生にゆだねることにし

た。

 先生からはしばらくお手紙がなく、私は次の福岡行きの日がやってきた。お電話をすると体調はわるいけ

ど短時間だけお会いしましょうと、飛行機に乗る前に先生のお宅にお邪魔をすることになった。

 お世話係のことは自分も何とか一人でやっているから大丈夫だと言われたので、それ以上は話を伸ばさな

かった。「先生も家事をなさっいる方がお体のためにいいかもしれませんね」と言うとうつむいてうなずか

れた。姪御さんや義妹さんが時々いらっしゃるのに私が間に入るのは控えた方が先生のためになるだろうと

も考えた。

“お会いしてからもう一か月になろうとしています

あの時もそうでしたが、お手紙をいただいたときも、もう少し自分の気持ちをきちんとおはなししておいた

方がよかったと思っています

修行が足りないのは言うまでもないことですが、ずっと暮れから体調が悪くなるばかりのころ、

一日一日をすごすのが大変で、あなたのお申し出を頂いた時は、

とても春先までもちそうになく、自分のためにあなたの未来の拠点を断ち切ってしまうことに

怖れを覚えました

今こうして春も暮れゆくころ、細々と続いているいのちをもてあまして

結局は甘えきれなかったのだと納得しています

今は読むのが楽しみです

あなたの書いている諸々をまとめて一冊にしてください

私が読めるあいだに”


もがり または 恩師 ⑮

2019-05-19 08:38:30 | 物語
ものがたりにモデルはありますが、事実通りではありません。


 その後も日帰りで秋の吉田山や一泊で冬の宇治を訪ねる旅に先生をお誘いした。

 雨の中御所の休憩所の隅で持参したポットのお湯と聚洸のわらび餅でにわか仕立ての茶席を設けたり、ネ

パール民芸店で先生が誕生石のターコイズの指輪をみつけて喜ばれたり、宇治でヤドリギをとったり、縄手

のカチャトーリで大当たりの北イタリア料理に出あったり、泉涌寺道を歩いて紅葉に包まれたり、今熊野神

社でお遍路を模したお詣りをしたり、正伝寺で叡山の借景を見たり、点邑で新幹線用の弁当を買ったりと。

 これで痛みがあっても先生は京都まで来て下さると確信を得た私は、次は少し長めの京都滞在を計画し

た。

 今までもいくつもの京都の桜を見ては頂いたが、早い桜から遅い桜まで移り変わる、町全体がが桜色にな

るある時期の京都に浸っていただくには、せめて十日は京都にとどまっていただきたい。それには先生が急

にキャンセルをなさっても負担を感じられないよう、私にも意味がある滞在にするために、何人かの人に会

う予定も組み入れた。

 まず私の料理の生徒たちとの勉強旅行、京都の旧友たちとの食事会、大山崎待庵の拝観など。そして先生

と十日もご一緒できるならと宿で一つの勉強をすることを企てていた。

「先生、『徒然草』の本を持ってきましたので一緒に読んでいただけませんか」


 それは何年も前から私が座右に置く受験生用の参考書で、二百四十三段までの全段が収録されていた。

「一段ずつ二人で交互に音読して、解釈して、訂正しあうというのを毎日二十五段ずつ進めば十日で終わり

ます」

「じゃあ私も一冊買うわ」

と新幹線から下りたその足で、宿に着く前に四条のジュンク堂に向かった。私の本はまだ検印のある時代の

ものだったが、偶然同じ内容の参考書が版を重ねて新しい表紙で書店の棚に並んでいた。

“つれづれなるままに ひぐらし硯にむかひて心にうつりゆくよしなしごとを そこはかとなく書きつくれば

 あやしうこそものぐるほしけれ”

 十日間の旅が始まった。


 三日目に料理の生徒たちが着くまでは錦市場のお惣菜などを買って過ごし、生徒が来た日は宿のオーヴン

トースターで三色の豆腐田楽を作って夕食にした。

 生徒の一人が菜の花畑を知らないと言っていたので次の日は奥嵯峨の「鯉茶屋」に筍料理を食べに行き、

帰り道にある菜の花畑まで歩くコースにした。生徒たちには綾綺殿カフェ、俵屋吉富、式亭、本法寺のあ

と、北村美術館、知恩院、思文閣ギャラリーなどを見てもらい、料理塾のツアーは終了した。

 先生と二人になると行き当たりばったりで茶舗栁桜園まで行き、いかにも街中のおまんやはんという友栄

堂で桜餅を買い、著書の多い釜座のお茶の先生のお宅のお蔵を眺め、二条若狭屋でも菓子を買って宿に戻

り、蟹ときゅうりと胡麻のお寿司、もやしの味噌汁、おひたしで夕食にした。

 五日目は先生が祇園の売店にしかないという舞妓ちゃんボンボンと言う菓子を買いたいとおっしゃり、八

坂神社近くまで歩き、出町で穴子弁当を買って鴨川べりでお昼にした。その後叡電に乗って木野まで行き、

妙満寺の紅枝垂れを見てからフレール・ムトウのケーキで休憩し、宿でカレーうどんと牛肉もやし炒め。

 次の日は東京からバスでアキさんが早朝に到着したので一緒に朝食をとって三人で日向大神宮に向かっ

た。そこから南禅寺までの山道が面白いと知人に教えられていたので、先生に痛みを忘れていただくには良

いコースではないかと思った。ところが途中暗い森の中で細い道を間違えて行き止まりになり、戻るのも不

確かで焦った、こんな時若いアキさんがいてくれてよかったと思った。疎水の水の流れる脇に来て下から人

の声のする南禅寺近くに来たときはどんなにほっとしたことか。

 そこから野村碧雲荘前の枝垂れ桜を見て永観堂、吉田山まで歩き、吉田山荘のカフェで一服した。神楽岡

通りを歩いて今出川通りまで出てから千本玉寿軒で菓子を買った。昼食は上七軒歌舞練場の食堂で。それから

織屋街に残る民家でパンを売っている「はちはち」をのぞき、アニスのパンを買って一旦宿に戻った。

 夕食は豆ごはん、鶏レバー煮、碧雲荘横で採ったつくし、揚げとネギの味噌汁をとり、夕暮の御所御苑に

満月の夜桜を見に行った。薄暮の中で山桜の赤い葉が輝く。すっかり暮れて三人で東山を眺めて月の出を

待った。ほんのり明かりをさした場所から、気づいたあとはみるみるうちに真ん丸な月が昇った。

 翌日の午前は予約しておいた山崎の妙喜庵待庵の拝観に出かけた。お茶室を見せて頂いた後、駅の上にあ

る大山崎山荘まで上り、洋館と庭園を散策した。邸内のカフェテラスはは南に開けて、以前正月に見た石清

水八幡からの眺望とは丁度反対の方向から三川合流が見えた。

 帰りは阪急で長岡天神に詣でて境内で筍ご飯を食べた。午後は翌日の食事会の準備に材料の買い出しにい

行かねばならなかったが、先生は見たいからとどの店にも付き合って下さった。

 次の日はアキさんが風邪らしく寝ていたいというので、先生と二人で嵐山に行った。任天堂が作った今で

は文華館という時雨殿ができたばかりで、人形を相手に百人一首のゲームなどに興じた。当然のことながら

先生の方が私より成績がよかった。先生が足をとめられたのは天龍寺近くのふとんやで、売り場の半分は和

の雑貨になっているが老舗らしく、高級な布団ばかりが置いてあった。真綿のふとんは当然のように何種類

もあり、布団地の色デザインが素晴らしかった。先生は丁寧に説明をお聞きになり、できれば買って福岡に

まで送ってもらいたいご様子だった。店の人の話ではその店は家庭画報にも紹介されたということだった。

 帰りに十二段家のお茶漬けで昼食にし、烏丸丸太町にあった甘楽花子でお茶にした。宿に戻って急いで食

事会の準備をした。六人が集まるので、錦市場丸弥太の穴子寿司のほか、とようけ屋の豪華ひろうす煮、

菜の花辛し和え、あさりの味噌汁、そして松屋常盤のきんとんなどを献立にした。

 
 “八つになりし年、父に問ひていはく、「仏はいかなるものにか候ふらん」…”
 
 十日目の朝、最後の段を読み終えた。冷蔵庫の残り物などで二人分の弁当を作り、円山公園の桜の下に敷

き物を敷いて先生と開いた。

 音楽堂、西行庵、石塀小路、知恩院、青蓮院、古川町市場、白川沿いなどを歩いて仁王門前のカフェ・

オータンペルデュまで来た。帰りの新幹線用にはここの詰め合わせボックスを予約しておいた。

*ローストポークのサンドイッチ
*海老とアボカドのサンドイッチ
*レバーテリーヌのサンドイッチ
*鶏胸肉とレタスのサンドイッチ
*あさりとアスパラガスのプチシュー
*セージ風味の地鶏のテリーヌ
*パプリカのムースとプチトマト
*ホタテとクレソンの苺ビネグレット
*サフラン風味のカニのミルクレープ
*サーモンの冷製
*豚肉とプルーンの白ワイン煮冷製
*生ハムのそば粉ミルクレープ
*カレー風味の茄子のピュレと小海老
*フロマージュブランのムースのスモークサーモン包み

「オータンペルデュってどういう意味」

宿までのタクシーの中で、先生が尋ねられた。

「失われた時、という意味なので、プルーストのA la recherche du temps perdu

からとったのだと思います」

 宿で荷物をまとめて送り出し、先生は身軽にお弁当だけをお持ちになり、私は猫二匹の籠を抱えて西と東

に別れた。長いお花見が終わった。

 

もがり または 恩師 ⑭

2019-05-11 17:59:11 | 物語
ものがたりにモデルはありますが、事実通りではありません


 その旅の記憶は消えていたのに、前回の花見でチエコが夕食のホテルにポーチを忘れ、それを後日私が取

りに行ったことを思い出したことから色々とよみがえってきた。

 典子先生の帯状疱疹後神経痛は少しも快方へ向かわないのに、なぜかその年は二回も京都に花見に行って

いる。つまりチエコと早めの花見をした一週間後にまた遅めの花見のために京都へ出かけている。その旅は

先生と二人だけのツアーになった。

 ホテルに一週間前の忘れ物を受け取りに行った後、その頃はまだ建仁寺近くにあった「まとの」で昼食を

とり、四条から京阪電車に乗って伏見の墨染まで行った。墨染の桜で知られる墨染寺に行くためである。壽

碑と記された碑には寺の由来が書かれていた。貞観天皇の時代から江戸時代まで何度も変遷のあった寺だ

が、寺の名前の由来は、左大臣藤原基経が

“薨じて遺骨をこの地に殯(かりもがり)したもうや 上野峯雄 哀傷の情を和歌に托して曰く

 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け”

それにより桜が薄墨色に咲くようになったのだそうだ。
 
「先生、かりもがりって何ですか」

「今はもう、かりもがりともがりは同じ意味になっているけど、人が死んだ時にすぐには埋葬しないで長い

期間ある場所に安置する風習があったの。お通夜はその名残だというけど」

 それは火葬をしない時代に、死者が復活することを願ったり死体が腐敗し白骨化していくのを見て死の現

実を受け入れたりするのに必要な時間だったのだろう。


 当の墨染桜は三代目ということでまだ幼木の姿をしていた。写真を撮る広がりもないような小さな寺のソ

メイヨシノを見て寺を出た。

 いつも泊まる錦市場のゲストハウスに着くと、オーナーの八百屋さんが

「風流ですなあ」と笑っている。何かと思ったら、墨染寺の桜の花びらが私の髪に付いていたのだった。

 散歩に出る前に宿でお決まりのお茶の時間をもった。先生は以前象彦でもとめられた月と桜の金蒔絵の

銘々皿を持参なさっていた。私はお茶と茶碗と茶筅と黒文字と吉信の棹物菓子を宿に送っていた。前回の日

帰りの旅ではクーポンにお買いもの券がついていたので、帰りに京都駅で次回のために菓子を買った。羊羹

の上に透明な寒天を流し、その中に小さな桜の花が散らしてあった。

 象彦の皿は月の意匠が三日月から満月まで大きさを変えた五枚になっていた。先生は三日月を選ばれたの

で、私はそれより少し膨らんだ七日ほどの月にした。なぜか満月は選んではいけないような気がしていた。

 先生はお皿を洗った後、私に皿をもらってくれるようにと言われた。

「もともとこれはあなたの還暦のお祝いにしたいと思って買ったものなの。今日こうして使うことができた

から、あとはあなたが使ってね」

 私はとても有難いと思うだけで遠慮なく頂いた。それは嬉しいのとは違う。哀しいと言う方が近い。哀し

いけれどそうしなければいけないのだという気持ちだった。

 夕方、宿に若い友人のマキが訪ねてきたので、夕食は麩屋町三条の晦日庵河道屋の芳香炉でうどん鍋を囲

んだ。そこから木屋町髙瀬川沿いの夜桜を見たあと、鴨川べりに出て丸太町橋まで歩き、タクシーで宿に

戻った。宿には昼間買ったグルニエドールの菓子もあったので、それをデザートにしてうすめのコーヒーを

いれた。コーヒーも東京から送っておいたものだ。

 翌日の朝食も東京から送っておいたパンやジャムで支度をして出発に間に合わせた。九時に迎えに来た伊

野の車で原谷苑の桜、西明寺の槇と裏山を一面淡い紫に彩るコバノミツバツツジの群落を見に行った。途中

梅ヶ畑の平岡八幡で車を降りた時に伊野に尋ねた。「さっきすごい家が左手にあったけどあれは何?」伊野は

知らないと言った。しかし先生と私がお参りをして車に戻ると、伊野は神社の人に聞いたようで、昔は勝新

太郎の持家だったのが、今は東京の有名な占い師の所有になっていると教えてくれた。その家は立派では

あったが日本の田舎の風合いを生かした趣味のいい家に見えた。

 昼食は鳴滝音戸山の畑善に予約をしておいた。丘の上の別荘のような日本家屋からは東面の大きな一枚ガ

ラスの外に仁和寺の五重の塔を越して東山連峰が開けて見渡せ、おそらく送り火の夜は賑うだろうと推され

た。

 そのガラスの部屋は洋間になっており大理石がふんだんに使われているのに、奥の和室に違和感なくつな

がっていた。その後私はこの店が頻繁にテレビに登場するのを見ることになった。大抵は犯罪もののドラマ

で重要人物が絨毯の上に死体となって発見されるという場面で。

 午後は法金剛院の桜としきみの花を見て宝ヶ池の国際会館に行き、館長に会議場や庭や茶室を案内しても

らった。そこから西陣に向かって釘抜地蔵に寄った。前に先生の痛みがとれるようにここでお札を貰ってい

たので、先生をお連れ出来た今回は、ろうそくをお供えした。

 午後のお茶は堀川今出川の吉信の菓寮で先生は寒天みつまめ、私は実演の和菓子とお抹茶。最後のお花見

は吉信からすぐの白峰神社で、カラタネオガタマの花と欝金桜を見た。



 痛みがあっても一泊の旅をおつきあいくださったことに自信を得て、まだお見せしていない正月の京都に

もお誘いしてみた。駄目なら駄目で私が楽しめばいいと計画し、直前にキャンセルなさっても実行できる範

囲にしておいて、ほかの人も誘い、また、京都で万一何かあったら、宿の八百屋さんに頼ろうと思ってい

た。先生の痛みは福岡でも京都でも変わりはないはずだ。

 先生は参加の返事をくださった。今回は三泊四日の旅程を組んだ。今までの一泊の京都では東京に置いて

くる猫たちの世話は息子に頼んでいたが、今回は息子も婚約者を連れてくるので猫も一緒に連れてくること

を考えた。

 ゲストハウスのオーナーは私のとんでもない願いを

「うちも猫二匹いてますよって。ときどき自分でエレベーターまで載って下に降りて来よりますわ」

と私が恐縮しないよう何でもない風に受け入れてくれた。

 宿の部屋には二階式の猫用ケージが用意され、猫トイレ、猫砂、猫エサまで支給して下さった。

「お出かけになるときだけケージに入れておいてもろたら」

 ということで先生には前もって告げずに猫同伴を敢行した。衣類や食べ物は宅急便で送れるが、猫だけは

二匹とも細身とはいえ合計六キロ、よたよたしながらも楽しみのためならばと師走三十日に新幹線に乗せて

どうにか宿にたどりついた。

 猫はすぐにケージに入れて、それから京都駅に一時半に着く典子先生をお迎えに行った。宿に戻る前に若

王子のとまやで予約しておいた菓子と菱葩を引き取り、寺町の末広寿司で明日用の蒸し寿司の材料を買っ

た。

 先生は猫の出迎えに驚かれたが、それはいやだというより自分が猫に何かしてあげられるだろうか気に入

られるだろうかという戸惑いのような遠慮だった。自分から猫に話しかけられる姿はまるで赤ん坊か幼児に

接するかのようで、すぐに先生も猫も双方馴れてそれぞれ部屋の居場所に落ち着いた。

 友人の弘子と息子たちが来るのは元日の昼なので、夜は先生と二人で四条川端の一平茶屋に蕪蒸しを食べ

に行った。

 大晦日は朝から錦市場で買うものをリストアップして買い物の嫌いな私が溜息をついていると、先生が

「私が行ってくるわよ」とおっしゃるのでメモ用紙を渡してお言葉に甘えた。大晦日の錦市場が満員電車の

ような混雑なのは承知しているのによくそんなことができたと後々まで後悔とともに思い出す。そして「春

菊っていったら店の人が京都では菊菜というのだと言ってこれをくれたの」

と東京では茎にまとわるように葉の出ている春菊が、京都では葉が根本から株立ちしているものだと初めて

見せられた。それ以来春菊を見る度にその時のことを思い出すようになった。

 買い物のあと午前中に大徳寺高桐院まで行き、先生が今回来られなかった由美子におみやげを買いたいと

いうことで品揃えのいい全日空ホテルの売店に寄った。由美子には美山荘の大女将推薦の絹のタオルを、そ

してご自分用にぜんやのシルバーの草履を購入なさった。ぜんやは銀座の店だか、祇園芸妓さんたちも愛用

する名店で毎年京都高島屋で特別販売が行われ、ホテルにも出店している。

 昼は一旦宿に戻って錦の「八百屋の二階」でランチをとり、明治屋と三嶋亭に食材の買い出しに出た。そ

の足で祇園「松むろ」に予約のおせち料理を引き取りに行くと、

「お雑煮も宿で作らはりますか」と言ってふつうには入手の難しい山利の白味噌をたっぷりと分けて下さっ

た。

 松むろの後には清水寺まで歩いて今年の漢字の揮毫を見に行く予定にしていた。手には三嶋亭の肉、明治

屋の瓶類、そして数人分のおせちと味噌。先生にまで重いものを持たせて私はぶるぶる腕を震わせながら坂

道を上った。その年の漢字「命」を見てから宿に戻るとオーナーの八百屋さんから野菜のおせち重が届い

た。
 
 あとは私が博多がめ煮と吹き寄せ寒天を作るだけでお正月の準備が調う。

 夕食は昨日買った蒸し寿司を温めてごまだれうどんで年越しとなった。先生は洗い物をなさるときにお茶

の道具のようにお湯だけを使って洗剤は一切使用なさらなかった。「不潔と思うかもしれないけど」とおっ

しゃったが自分の主義を強く説明なさることはなく、海を汚さないためかと想像していた。

 元旦は先生と二人で一番近い錦天満宮に初詣に行った。息子の大学受験以来だ。

 雑煮とがめ煮とお屠蘇でまずは二人だけの朝食とし、昼前にやってきた弘子と息子たちが揃ってからゆっ

くりとおせちのお重を開いた。箸は老舗の市原箸店でもとめた栗箸、箸置きには昨日近くの熨斗水引の店で

買った金色の熨斗を使った。

 昼から息子たちは京都観光にでかけたので、弘子と三人で徒然草で山までは見ずと書かれている石清水八

幡宮に詣でることにした。ところが京阪電車で駅を降りるとものすごい人の数にたじろいだ。これは山への

ケーブルカーに乗る前である。私一人なら引き返したところだが、博多から、東京から来てくれた人を案内

した責任がある。こういうものだとあきらめてもらってケーブルに乗れるまで順番を待った。しかし上界は

さらに人の数がすさまじく、何も見えない。ギューギューと押されながら本堂の賽銭箱の前へ流され、かろ

うじて三人はぐれないようにして展望台へと逃れて、その後はどうやって駅まで下りたのかよく覚えていな

い。帰りの電車で先生と弘子がくすくすと笑っていた。

「何ですか。このあとどこでお茶するか考えてるのに」

「うん、そうだろうなと思って。険しい顔してた」
 
 元日に開いていて、わざわざ行く価値のある店となるとなかなかない。ツアーコンダクターの責任は重い

が四条のスターバックスしかなさそうだ。四条駅からタクシーでは中途半端に近過ぎるので五条で電車を下

りると鴨川の対岸のエフィッシュが開いているのが見えた。鴨川べりの喫茶店なら二人を案内しても満足し

てもらえるはずだ。三人でココアを注文してあたたまった。

 夜は三嶋亭の肉と先生が刻んで下さった九条ネギのすきやきを五人でつつき、食後は百人一首の札を使っ

て私が考案した遊び「蝉丸」に興じた。

 二日目の朝は先生と弘子に出汁でおじやを作り、私と息子たちはパンとコーヒーにした。息子たちは伊勢

に行くというので、昨日同様に先生と弘子の三人で迎えに来た伊野の車に乗った。今日は七福神を巡って色

紙にご朱印をもらう計画で、私はなるべくコンパクトに回ろうと市内にあるいくつかの候補のうち最短距離

で回れるところだけを選んでおいた。

 それなのに今となっては思い出せない、布袋・大福寺(二条麩屋町)、寿老人・革堂(寺町竹屋町)、福禄

寿・清荒神(荒神口)、毘沙門天・廬山寺(寺町広小路)、弁財天・妙音堂(出町)、大黒天・松ヶ崎大黒天、恵

比寿・恵比寿神社(祇園)だと思うのに円山公園南の長楽寺にも行った気がする。

 途中、円山公園内の平野家でいも棒の昼食をとった。ここは正月も開いている店だからという理由のほか

に、毎年正月は床にりっぱなヒカゲノカズラが吊るされるので、お茶をなさっている先生に見て頂きたかっ

たからだ。店の人の話ではそれを山に採りに行く人がちゃんといるのだそうだ。

 恵比寿神社で冬桜を見た後、祇園徳屋でぜんざいを食べて宿に戻った。私は殆どの荷物を送り、猫だけを

抱えて新幹線に乗った。

 後日典子先生からは、福岡に帰ってから京都の話ばかりするので義妹さんや姪御さんに呆れられているこ

とと、もうすぐ大阪から猫好きの友人が来るので自分の猫体験を語るのが楽しみだというお手紙を頂いた。

そして中に新聞の切り抜きが入っていて、寺田寅彦が猫を亡くした時の話や猫の魅力は言語を介してコミュ

ニケーションをとることがないところだと書いたコラムになっていた。

 先生がどのくらい猫を刺激的にとらえていらしたかがわかった。

もがり または 恩師 ⑬

2019-05-04 11:54:06 | 物語
ものがたりにモデルはありますが、事実通りではありません


 典子先生を京都にお誘いする旅に、次はどんな趣向をと考えるのは難しいことではない。京都にはご案内したいとこ

ろや場面がまだまだ沢山あり、同じ場所でも時節が違えばまた別の味わいになる。

 一度は大文字の送り火を見て頂きたいと思った夏、先生は連句のお仲間とアルプスの旅へ出かけられることになっ

た。大学の山岳部の部長であった謙三先生の散骨もあわせてチロルからアルプスを越えてヴェネチア、ヴェローナへ回

る一週間を予定なさっていた。連句のお仲間といっても、典子先生ご本人は望まれたご趣味ではなく、謙三先生の教え

子の方々が謙三先生のご遺志を承けて典子先生と親しくなさっていたといったらいいだろうか。

 その連句行をまとめた小冊子を典子先生は時々送って下さっていた。

 ある時お仲間の、“黒小鉢 鱧の縮れの 身の白き”という句を受けて、

典子先生は、“錦市場に 外国語(ことば) 飛び交い” という句をお造りになっていた。その解説を読むと、

“「鱧」ならやっぱり京都でしょう。京都なら「錦市場」でしょう。数年前京都旅行中に観た,

京都が外国人に占領されているという変だけどちょっと面白かった映画を思い出しました”

とあって先生が映画『地球のヘソ』を人に伝えるほど楽しんでおいでになったのだと分かって嬉しかった。


 先生のイタリアからの帰国予定日の数日後、由美子から電話があった。

「お宅にお電話したけどお出にならないの。何かあったんじゃないかしら」

 私は連句のお仲間の仕事場を調べて由美子に電話をかけてもらった。すると典子先生は旅の最後に帯状疱疹を発症さ7

れて今は福岡の病院に入院なさっているとのことだった。

 退院後、先生の痛みはおさまらず、神経ブロックや注射や投薬などを続けているとの電話を下さった。私も帯状疱疹

後神経痛について温泉や漢方まで色々な情報を集めたが、帯状疱疹は初動の治療が鍵で、時期を逃すと完治はかなり難

しく、癌や陣痛にならぶ激痛を伴うということを知った。今回の旅ではヨーロッパは初めてという謙三先生の妹さんも

ご一緒だったことから、典子先生は責任や緊張でいつも以上にお疲れになったのだと想像できた。

 その後の先生からのお便りは症状の辛さを訴えるものばかりになった。痛みを訴え続けたため鬱病の薬まで出されて

いるという。私は“帯状疱疹後神経痛 完治”というキイワードで検索を続けた。しかし完治を保証したクリニックはど

こにもなかった。患者からのレポートでは、完治はしないけれど痛みが和らいだという人がいた。、カラオケなど何か

に熱中しているときは痛みを忘れられるという。

 今の状態が続けばもう先生を京都にお誘いすることはできなくなるかもしれない。先生にも何か熱中して忘れていた

だけるようなものがあればよいのにと思った。それでも数か月すると時々は街中まで買い物に出たりお芝居を見に出た

りなさるようになった。

 もし先生が京都までおいでになる気力がおありになるなら、ずっとお相手をして気を紛らせて差し上げられる。決め

るのは先生だからと、春の日帰り京都を提案してみた。すると直前にキャンセルしても許されるならと返事があった。

旅の仲間には同級生のチエコを誘った。

 京都駅のMK貴賓室から伊野の車で出発して二人を細見美術館で下ろし、私は岡崎疎水でその年から始まった十石船の

予約をしにいった。予約は意外にすんなり取れたので、二人を美術館の出口で待った。チエコも典子先生の教え子であ

り、演劇部では主役でもあった。予定通りに午前の船で疎水から桜を眺めたが、満開にはまだ少し早く、肌寒い天気

だった。

 昼食は紫野和久傳に寄り、午後の花見に進んだ。何年も前から気になっていた菖蒲谷池の桜を見に行くのだ。それは

月刊京都というローカル誌に俳優の田村高弘が書いていた文で、彼は町中の桜よりもロケ先の花脊で常緑樹の間に点在

する桜の存在に生命感を覚えて好きだったこと、またよく散歩をした菖蒲谷には御所に仕えた女御が病で隠れ住んでい

たと聞いて山桜の風情と重なったとあったので、この目で同じ風景を見たいと思ったのだ。直指庵手前の茶店で一服し

た後、伊野には菖蒲谷に迎えに来てもらうことにして、着いたら電話をすると言い置いた。

 直指庵裏の山道にロープを越えて入ると、人の通らないようなほんの少しの草の分け目しか見えなくなった。少し進

めば道らしくなるかと思ったのに、逆に雨後の小川のような隙間があるだけ。さらに困ったことに大きな岩がはだか

り、それでも岩を超えるしか前には進めないところに来た。もう引き返せないほど歩いている。半分むず痒いようなお

かしさで笑いながらも困りながら岩をよじ登った。七十を過ぎた先生に同じことを強いるのも勇気が要ったけれどチエ

コと私で先生の前と後ろを守って登って頂いた。人はもちろんのこと建物など一切見えない笹薮と岩の山道。遠くには

赤松の低山が見えた。

 そうするうちにもいつからか道は下りになり、幅も出来て道らしくなった。杉林の道を我慢をして下り続けると下の

方から人の声や音楽が響いて来るようになった。道の先に開けた場所が見え、池らしいとわかった。林が切れたところ

に立札があったので読んでみると熊に注意と書いてある。完全に菖蒲谷側から入る人のためである。直指庵から山に入

る人は想定されていない。チエコはそれも逆手にとって立札の前でポーズをとって記念写真にしていた。

 菖蒲谷の桜は植えられて間もない山桜が数本あるだけでこぶしの白の方が目立った。

 食後の腹ごなしになったとはいえ、一時間近い山歩きは不安の方が勝って早く街中に戻りたい気分だった。後から月

刊京都を読んでわかったのだが、田村高弘は一言も直指庵から菖蒲谷に行ったとは書いてなく、雑誌の方で菖蒲谷へ

は直指庵から山道があると付け足していたのだった。地図では一キロもない山道に見えていたので大スターでも歩いて

行ける道だと思い込んでいた。

 すぐに伊野を呼ぼうと電話をすると圏外で繋がらない。まだまだ安堵することはできない。菖蒲谷の事務所に電話

を借りてやっと伊野に迎えに来てもらった。

「次は広沢池にお願いします」

 広沢池の前には木全体が真っ赤になるほど花の咲く椿があり、いつも車で通る時に見かけてはいたが下りて間近で見

たことはなかった。後から知ったのだがその木は谷崎潤一郎の細雪にも書かれているのだとか。椿の前の家がずっと保

護していたがその家も取り壊されて今は椿だけが残っている。

 椿はまさに見頃でチエコは喜んでカメラに収めていた。

 次は柊野の農家に五色散り椿と呼ばれる古木を見に行った。私は確かな住所を知らなかったが、伊野は場所を心得て

いるようで、「どうして」と聞くと「以前椿の専門家をご案内したことがあるので」と答えた。夕日に映える椿はどの

花も見上げる高さにあって下には花びらが割れて散り敷かれていた。上賀茂神社より北にはまだ農家が残っており、そ

の家は椿の季節だけは門から入る人を受け入れていた。

 夜はハイアットホテルに席を予約し、夜間にライトアップされる中庭の桜を眺めながら夕食をとって最終の新幹線で

帰る予定にしていた。先生は時々左胸を押さえるしぐさをなさっていたが、どうにか一日おつきあい頂くことが出来て

ほっとした。

「ここは私にご馳走させてね。チエコさんとは久しぶりだし、いいでしょ」

 この時のことをチエコは帰りの新幹線の中で不満そうに言った。

「本当はもう私たちが先生にご馳走をする番なのに」
 

もがり または 恩師 ⑫

2019-04-27 19:52:32 | 物語
ものがたりにモデルはありますが、事実通りではありません


 典子先生との京のお花見はもう、何回通ったか思い出せない。
 
 桜の時期に二日だけ無料開放される広沢池の救世教の庭、一時期だけ公開されていた何有荘、円山公園の兄弟桜

のある植藤さんの敷地、たまたま入れてもらった寂庵、対岸から山桜のグラデーションを見る嵐山、宇多野ユース

ホステル、枝垂れ桃と桜の混じる将軍塚大日堂、御衣黄の嘉楽中学と雨宝院、桜また桜のあふれる原谷苑。

 きっとまだ忘れているものが沢山ある。その中で先生のお気に入りは太田の小径と南禅寺別荘群の散歩道で、毎

年のように訪ねた。

 ある年は由美子が来られなくて先生と私だけのこともあったが、先生が風邪で直前にキャンセルの電話を下さっ

たこともあった。その時は一日目は京都市内の桜を見て、二日目は和紙作りの黒谷を通って丹後与謝野町の森の中

にある樹齢千二百年の黒椿や、発見されて間もない古代の青いガラスの腕輪を見に行く予定にしていた。私はあま

りの悔しさに誰にぶつけていいかわからない恨みはあきらめてしまいこむしかなかった。しかし私以上に当の先生

こそが残念でしかたなかったはずだ。

“急なことでご迷惑をかけてしまい本当にごめんなさい。

無理をして行ったらかえってご面倒をおかけすると判断しました。

こちらでは義妹に誘われて福岡城址の御濠端の桜を見たり、

お墓参りの帰りに秋月城址の桜並木を歩いたりしましたが、

やはり京のお花見にはかないませんね。

京都ではこの世の名残りのお花見をしているような気分でした。

桜の季節に京都にひと月いられたらと思うだけでも心がときめきます

あの世に行ったとしてもお花見の時にはあなたについてまわるだろうと思っています

お声をかけて下さいね

これは雪のかまくらに行った折にはし本でもとめた椿の便箋です

本当は字を書きたくないのですが…

お忙しくなられたと思います

どうぞご無理のないように老婆のこれからの夢をお支えください”


 次の京都行きは秋まで待たねばならなかった。
 
 10月に「染模様恩愛御書」というボーイズラブを描く出しものを染五郎が復活させて大阪松竹座にかけるという

ニュースが興味をひき、京都行きに合わせて先生もお連れしたいと思った。同じ時期に信楽のMIHOミュージアムで

は「青山二郎の眼」という特別展が催されるのでこれもコースに入れた。

 集合の待ち合わせは京都駅ではなく新大阪駅で十時半にした。先生は博多から、由美子は宝塚の親戚の家からの

集合になった。私は昼食のお弁当を買う煩わしさを考えて、三人分を作って行こうと決めた。五時にでも起きれば

弁当を作って着物も来て行ける。少々重いが、着替えなど他の荷物は宿に送っておけば済むし、新大阪でそれぞれ

に弁当を渡せばそこで解放される。

 新大阪からは地下鉄御堂筋線で難波まで乗り換えなしで行ける。先生は松竹座は初めてではないということで万

一集合に遅れても駆けつけますと言われていた。その心配もなく三者無事に待ち合わせに間に合い、先生から私の

縫取りお召のことなど尋ねられながら劇場に着いた。染五郎の相手役の愛之助は初めて見る役者だが、関西では

すでにひいきにする人が多いらしく、ロビーには後援会の場所が広く取られていた。客の着物も江戸の趣味と違っ

て柄が大きくはっきりしたものが目立って面白いと由美子が喜んだ。

 芝居は客席がむせるほどスモークを焚いたり、主役の二人が思いを遂げる場面はシルエットになって脱いだ着物

を放るなどクスクスと笑いたくなる趣向が工夫されていた。途中テレビのお笑い番組で評判になっているセリフが

混ぜられたり、忠義の家臣が腹を搔き切って内臓と巻き物を入れ替えるシーンでは「これが肝臓、これが腎臓、こ

れが腸。三つ合わせてかん、じん、ちょう」などと言わせてリアルに赤い布で作られた内臓を見せたりしていた。

 弁当の包みは捨てられるように紙にしておいたので、帰りは身軽に戎橋を渡り、心斎橋から淀屋橋まで地下鉄に

乗って、淀屋橋から京阪で京都に向かった。

四条で下りて祇園の細い路地を入り、甘泉堂でおやつの菓子を調達。宿はいつもの錦の八百屋さんのゲストハウ

スなのでそこから歩いて行った。届いていた荷物を開けてさっと着替えを済ませると、八百屋の奥さんから紫野源

水のお菓子の差し入れが届いた。宿での菓子は買ってきたばかりだったので

「いっぱい買ってきたので物々交換しましょう」

と提案して、買った菓子の中からお好みのものを引き取ってもらった。

 そこからいつもの宿でのお茶の時間が始まる。私は茶碗とお茶と茶筅だけを持参し、茶杓はスプーンで代用す

る。三人銘々に好きな菓子を選んで、お茶は先生に立てて頂く。出来立ての主菓子が手に入る京都ならではの愉し

みだ。

 夜は錦の丸弥太で穴子寿司を頼み、グルニエドオルで銘々お土産用の菓子を購入してから宿に戻った。
 
 部屋はいつも先生がベッドのある洋間で、由美子と私が和室に布団を敷いて寝た。
 
 翌朝私はいつもの朝食を作らず、三人で御幸町通りの旅館近又に出かけた。商人宿として始まった近又だが、予

約すれば朝御飯だけ食べられるというので、たまには旅館の和食もいいだろうと予約をしておいた。今では近又は

割烹部分が独立しているようである。古い町家の風情のある建物の二階の部屋に案内され、豪勢ではあるが決して

朝ご飯の枠を超えない料理を堪能した。挨拶に出てきたご主人は、煮魚は北陸から届いたとれたてのノドグロだと

解説してくれた。近又を出ると急いで荷支度をした。九時半には伊野の車が迎えに来て、信楽のMIHOミュージアム

まで運んでくれる。

 MIHOまでの道筋を珍しく私と伊野の間で意見が違った。私は北周りを予想したのに伊野は南からを提案したが、

ここはプロに従った方がいいだろうと、伊野に任せることにした。

 MIHOに着くと秋の森林の香りのする風が吹いていた。それは九州にも関東にもない年月を経た森の風景と香りに

思えた。展示を見た後は売店でブルーベリーのペストリーを新幹線用のおやつに買った。ここの食べ物は会員信者

の手で作られており、誰に聞いてもどれもおいしいという。知人からここの納豆を貰った時は文字通り後を引いて

しばらくは手当たり次第にそのレベルのものを東京で探すことになった。

 昼は京都に戻って旧知のフランス料理店リンデンバームに寄った。その頃はまだ御所東の路地の奥にあって、よ

くこんな値段でコース料理が提供できるなあと感心していた。

 食事の後は吉田山に上った。紅葉にはまだ早いが、金戒光明寺にはシマモクセイの大樹がある。目論見どおり白

い木犀が満開で下にも散り敷き香りを放っていた。

 吉田山を下りたすぐのブルーパロットでは珍しく私が買い物をする予定があった。ブルーパロットは西洋古道具

の店で、輸入品ではなく日本の西洋骨董を置いているので私の趣味にぴったりだった。典子先生は日本の民芸品趣

味だが、私は大正ロマンや昭和レトロ趣味なのだ。来客用のやや深さのある皿を探していたら二つ候補がみつかっ

た。藍染の皿五枚とそれより小ぶりで赤や金の入った皿五枚をまよったので先生に意見をもとめた。

 先生は藍染をすすめられ、金や赤の入った方を指して「こういうのだったらうちにあるのをあげましょうか」と

おっしゃった。
 
 先生が下さるものなら趣味の悪いものがあるはずがない。遠慮しないでいると本当に金襴手の皿が十枚届いた。

これをあげましょうという先生の気持ちには、要らないからあげますというのではない色々なものが込められてい

る気がして大切に何度も使うことがそれに応えられるのだと思った。

 先生との古道具屋めぐりは別の機会にもあった。私が昭和的な木の食器棚をさがしていたとき、先生にも付き

合っていただいた。すでに一台もっている食器棚は以前ブルーパロットで買ったものだったので、その時もまずブ

ルーパロットに行ってみたがどうも大きさやイメージが合わなかった。それで北大路大橋のたもとの水屋を沢山置

いている店に行ったけれどここもガサゴソと引き戸が開けにくそうな大きな棚しかなかった。

 もう一軒、と千本五辻の素人のおじいさんが転業したようなリサイクルショップに行ってみると飾りガラスの両

開きの戸棚がほこりまみれで安く売っている。これだ、とすぐに決めた。

 それを先生は「それにしてもすごい勘ね」と褒めて下さったけれど、大量生産品と違って古道具とは野良猫との

出会いのように偶然が引き合わせてくれるものだと思っている。

 芝居見物と美術館の旅は終わり、いつものように旅の疲れをどっさりと土産にしてわれわれは西へ東へ京都駅か

ら分かれていった。

 はっきりと覚えていないので時期は前後するのかもしれないが、映画を見る旅もしたことがある。

 倍賞千恵子、老女役、料理を作る女、そのキイワードで興味を持った映画「ホノカアボーイ」を先生と見たいと

思い、京都での上映館を調べたら、二条駅のTOHOシネマズで上映されているとわかり、地下鉄で見に行った。

昔移住した日本人が住むハワイの田舎にフリーターの若者が迷い込み、料理上手の元気なおばあさんにちょくちょ

くごちそうになる。おばあさんの気持ちは若やいで青年の女ともだちにいじわるをしたりするのに青年は全く気付

いていない。ある日おばあさんは夜風にさらわれたように命を閉じる。青年はその島での経験を何だったのだろう

と今更ながらに感傷にふける。ハワイののんびりとして明るい風景、強気のおばあさん、昔の日本人たち、死の場

面を見せない、などなかなかに類の無い後味の良い映画だった。

 典子先生がどんなに映画を楽しまれてお気に召したかは、帰り道にあった本屋ジュンク堂で原作の本を購入な

さったことでわかる。

「あのおばあさん、原作では八十歳になっているわよ」

 私の独断でお付き合い願ったのに、よかったと思った。


 もう一本おつきあい願った映画がある。四条烏丸の京都シネマで上映された「地球のヘソ」は、京都の監督が低

予算で作った京都でしか見られない映画だった。
 
 京都を舞台にしたテレビドラマで時々見る俳優を、ある時から応援するようになり、その人が出るという理由で

見てみたいと思ったのだった。なぜ応援するようになったかというと時々出るので見知ってはいたが、ある時

ちょっと悪い不動産屋か何かの役で、それだけのためにいい年をして金髪にしていたので感動したのだ。それから

は前もって出演作品を調べて見るようになった。

 「地球のヘソ」は京都が外国人にどんどん侵略され、古いものや古い習慣も外国人の方がよく知っており、日本

人が案内される側になるという話だった。夏にバンコに掛けて浴衣姿で外国人二人が将棋を指し、何かというと四

文字熟語を発する、など。私の目当ての俳優は古い遺物のような日本人役で、橋から飛び降り自殺をする。

 先生は四文字熟語の場面が面白かったようでいつまでもおっしゃっていた。

 映画の感想を、その俳優のブログにコメントした。

“二枚目役なのに太り過ぎです”

“そろそろ親父の遺伝が出てきました”

 その俳優のブログには、先生とチエコさんの三人で直指庵裏の山道の岩をよじ登った話をコメントしたことも

ある。返信に

“よじ登るとはなんかそそられますね”

と書かれた。
 
 その話を先生に伝えると

“京都の俳優さんが想像なさったのはこういうことかしら”

と、与勇輝の人形の絵葉書を送って下さった。それは少女の着物の裾から白い足の出ている人形だった。




もがり または 恩師 ⑪

2019-04-20 19:13:54 | 物語
ものがたりにモデルはありますが、事実どおりではありません



 典子先生のお便りは、いつも、ずっと、最初から、版画や漉込模様の和紙で、便箋と封筒がお揃いだったり、ど

こでこんなのをみつけられたのかと溜息の出るものばかりで、私が頂くのはもったいない気がした。

 そんな先生をご案内するならまずは「崇山堂はし本」や「鳩居堂」だろうと、錦のいつものゲストハウスマン

ションから、歩いてお連れした。先生は丁寧に時間をかけて便箋やぽち袋を選んでおいでになった。宮川町の裏具

や杉本家の背の竹笹堂にも行ったけれど御覧になるだけでお買いものはなさらなかった。一番時間をかけられたの

は聖護院踏水会横の「まつ九」だった。ここは徳力富吉郎の版元であり美術館にもなっている。京都の四季折々の

風景が版画の絵葉書になっている。徳力は花脊・別所に別荘を持っていたことから、工芸村の店には徳力の絵葉書

があった。

 意外だったのは麩屋町の「イシス」で、ジャワ更紗の店ではあるが、布は高価だからと絵葉書をおもとめになっ

た。もっと高価な店にも行った。cocon烏丸に出店している唐紙の老舗「唐長」では和紙の便箋や封筒の色が微妙

でこれで手紙をもらったら誰しも心を動かされそうだった。

「でも、もらった人はこんなに高いものとは思わないでしょうね」

「買っても使いたくなくなりそう」

結局ここは、毎回京都に来るたびにのぞきに行く店になった。


 花脊のかまくら行きは次の冬に実現した。冬の京都は楽しむものが少ないので、初日は宇治のヤドリギを見に行

くことにした。ヤドリギは夏でも寄生しているけれど、宿主が葉を落とした冬に一番よく見える。先生とは京都駅

の構内で由美子と二人で待ち合わせをして、JR奈良線に乗り換えて宇治に向かった。宇治駅でおりたとき、見知ら

ぬ女性に呼び止められて慌てた。向こうはさも私をよく知っているかのような笑顔と親しみで近づいてくる。昔の

カフェのお客さんだったろうか。

「パリの末村ゆき子の妹の光子です。車中で皆さんのお話が聞こえてきたから分かりました」

たしかにゆき子に似ていた。ゆき子がパリで急死してから連絡をとるようになっていた光子とは、翌日のかまくら

行きに誘っていて初めて会うことになっていた。光子は宇治の介護施設に父親を預けているので京都まで出てきた

のだった。

「あの鶴見和子さんのいらっしやるところですか」

「ええ、食堂で何度かお会いしたことがあります」

光子とは翌日合流することにして駅で別れた。

 宇治市ではヤドリギが寄生して宿主の木を傷めていると悪者扱いをして減らしているのに、駅ビルには宿木とい

う喫茶があって土地の自慢をしているようにもみえて皮肉なことだ。

「源氏物語の宇治十帖にも宿木があるのにね。あれはツタの異名だと言う説もあるけど少なくともヤドリギという

名前は宇治とゆかりの深いものでしょう」

 先生には以前京都から福岡までヤドリギの枝をお送りしたことがあったが、それが生えている姿がどんなものか

はお見せしたことがなかった。 

 駅からまず中村藤吉本店まで歩いてお茶を買いに行った。典子先生は表千家の教授の資格をお持ちなので宿では

毎回お茶をたてていただいていたが、今回はお茶は宇治で買ってみることにした。

「なぜか宇治の人は長話だから気を付けて下さい」

と言い置いたのに女主人が現れたので抵抗のしようがなかった。

それでもお蔭で茶選びに迷うことはなく、中庭で記念写真を撮って昼食の店に向かった。

 宇治川喜撰橋のたもとには観光船が何隻も繋留されている。それをまとめる店が川に張り出して古い木造の二階

建てのようになっている。ガラス張りの窓側が上座とは思ったが、先生に景色を見ていただこうと私が窓を背にし

た。ここでも愛想のいい仲居さんを恐れて、なるべく質問は投げかけず、話題が長引かないようにふむふむと合ず

ちを打つだけにした。それでも宇治の花火大会の自慢話にはそうそう無関心はよそおえなかった。

 食後塔之島に渡って桜に宿る手の届きそうなヤドリギを見上げながら川の東岸へ歩いた。以前は毎年ここにヤド

リギを採りに来たのに、かなり減っている。

 川沿いの道に民芸品の店が出来ていて三人で中に入った。ひととおり目を通して外に出ようとしたら、先生と由

美子がもう店の主人にとっつかまっている。しかたがないので私は前の通りを行ったり来たり何度も往復して二人

を待った。ようやく出てきた二人は結局何も買っていなかった。

 道を北上して宇治端のたもとの通圓茶屋でいっぷく。ここは吉川英治の宮本武蔵にお通が寄ったばしょとして書

かれているらしい。そのことから私は長いことこの店をお通が始めた店でお通は実在の女性なのだと誤解してい

た。実際にはもっと古くからある店でどちらにも漢字の通が入っていることから間違ったのだった。この店では誰

も客と話し込む人はいなかった。

 帰りは京阪宇治線に乗ることにした。駅前の桜にもヤドリギがなくなって寂びしい枯れ木が並んでいた。

「以前は春にヤドリギのこんもりとした緑と桜の花の薄紅色のコントラストが面白かったのに」

 錦市場の宿に行く前に、鞍馬口の生風庵に予約していた雪餅を引き取りに行き、宿で先生のお点前でお茶を頂い

た。東京からは宿に茶碗と茶筅と黒文字だけ送ってけばおいしいお茶の時間がもてる。私はお茶は頂くばかりで

習ったこともなければお点前など一切知らない。それでも先生はうるさいことなど一切おっしゃらない。

 典子先生がお茶をなさっていることは京都遊びにお誘いするまで知らなかった。ましてや教授でいらっしゃるこ

となど。いつの時代にお稽古を始められて通っていらっしゃったのか。それを知った後、先生が姪御さんと京都の

御家元のところにおいでになるときに、どこか良いお店を教えてちょうだいと言われたので御家元の近くの「ゆり

の木」と錦市場の「八百屋の二階」をお教えした。もう一軒、夷川通の家具屋街にある漆器屋もお教えした。ここ

は以前前を通るときにいつも“漆器のお直しいたします”と張り紙がしてあるのを見ていた。先生が昔から親しんで

きた漆器を一揃い直したいとおっしゃっていたので参考になればとお知らせしたのだった。すると先生はその旅で

「ゆりの木」で帯締めの気にいったのがあったとお買い求めになり、漆器やにも寄って女主人に詳しく話をして今

度まとめて送ることになったと成果をつたえて下さった。「八百屋の二かい」での京野菜の昼食は姪御さんもとて

も喜ばれたとおっしゃった。




 宿でお茶の時間を整える時、先生は淡い雪模様のある懐紙を出して下さった。

「ちゃんとしたところではは模様のある懐紙は使えないのだけど、これを使ってみたかったの」と。

そして雪餅を召し上がったあとしみじみと感想をもらされた。

「ああ、おいしい。今までに食べたお菓子の名かで一番おいしい」

 先生は生風庵の雪餅をとても喜んで下さった。京都遊びでいつどこに行ったかを思い出すのは難しい。季節館の

あるものはいくらか覚えているのだが。お菓子はほかに亀谷則克、塩芳軒、嘯月、とまや、末富、聚洸などに行っ

たが、どんなコースだったかは思い出せない。お茶は聖護院の竹村玉翠園や二条の栁桜園など。

 夜は私の京都のカフェで製菓を担当していたマキちゃんも一緒に夕食をとることにしていた。それなのに私とし

たことが、どこで夕食をとるかまだ決めていなかった。

 待ち合わせ場所のホテルフジタのロビーが近くなったとき、そうだと思いついて電話をかけたのは、鴨川べり銅

駝高校横の「古都梅」、ここならホテルフジタから歩いて行ける。電話をかけると本店の梅むらではどうかと勧め

られたのだが、あの一軒家に先生をお連れしたかったので古都梅がいいと言い張った。店の人はそれなら30分待っ

てくれというのでホテルのロビーで先生と由美子、マキ、私の四人で時間をつぶしてから歩いて古都梅に行った。

 古都梅は私が鴨川べりに住んでいた時に開店した店だが、もとは仏文学者・生島遼一の住まいだったところで、

鴨川岸にも出入り口があって、前を通るたびにこの空き家はどうなるのだろうと気になっていた。それを木屋町の

料亭「梅むら」が支店として使うようになっていた。

 店に着くとライトバンが停まって荷台から盤重で荷物を運びこんでいるところだった。つまりその夜はほかに客

はなく、私たちのためだけに梅むらからスタッフと料理が運び込まれたのだとわかった。

 その後古都梅は八坂神社の横に移転してもとの店舗は取り壊された。京都ではこうした文化人の古家が一時期だ

け店舗として維持されるのだが、最終的に壊される例がある。紫明通りにあった作家の岡部伊都子の住まいも一時

期料亭卯庵が支店にしていたがもうない。

 翌日は伊野の車で出発し、烏丸丸太町のホテルハ―ヴェストで光子を拾って周山まわりで花脊に向かった。雪の季

節は花脊峠を越えるのが危険なことがる。周山経由なら上りの傾斜とカーブが緩やかなのだ。

 昼は「すし米」に猪鍋を予約しておいた。登喜和のすき焼きとの二択で考えたのだが、すき焼きは冬でなくても

食べられるけれど、猪鍋は冬が一番似合いそうだと判断した。味噌味の鍋は肉の臭みを感じさせずに体が温まっ

た。目指す蕗窯のかまくらを見る前に、中学校の木造体育館を見学させてもらった。

以前通ったときに木造の美しさに中を見たいと思ったので今回見せてもらえるように連絡をしておいた。

 林業の町なのだから鉄筋を使わずに木の梁をつないで広い体育館の構造にしようと設計されていて、中から見て

も美しかった。

 外はもう一面雪に覆われている。そこから東に向けてすすみ、大布施でバス道路に入って北上した。

蕗窯では快活なご主人と夫人が囲炉裏にお茶を用意して待っていて下さった。前回お邪魔した帰り道に、昔は演劇

青年だったという蕗窯の主人を典子先生は「いい男だったわね」とおっしゃったので、私が

「えっ、そうですか。わからなあい」と言うと

「あ、そんな」と一所懸命否定なさりそうになった。

家の裏庭に作られたかまくらは想像以上に大きくて、屋上からソリで滑り降りるコースがつくられていた。それを

一度滑らないことには鎌倉の中へは案内されないようだったので私も意を決して急カーブのコースに身を投じた。

次にやっとかまくらに招きいれられたが、入口は手づくりの引き戸があってご主人が「これは唐長です」と言いな

がら中から開けてくれた。

 真ん中には火鉢があるが当然寒い。壁面のくぼみには神棚がもうけてあって天神様と思しき人形が置かれてい

た。照明はクリーニングの金属ハンガーで作られた燭台のろうそく。われわれ四人のほか、ドライバーの伊野も中

に来るようにとご主人が言うので皆コートのまま座ったけれど、伊野だけは勧められた甘酒に手をつけなかった。

天神様のせいでもないけれど、なぜか神妙な儀式の雰囲気もあるのに、ふと大の大人たちがこの雪の中一体何を

やっているのだと思うと、この取り合わせのおかしさにこらえきれずに私はげらげら笑いだしてとまらなくなっ

た。

ご主人は人脈が広いというより、人に可愛がられる人格なのだろう。錦の有次さんや桜守の植藤さんがここに来ら

れるという。その縁で蕗窯の桜釉の大皿が京都迎賓館の庭に置かれている。

 町への帰り道を伊野は会社に電話で尋ねていた。

「花脊峠の道は大丈夫ということなので鞍馬まわりで帰ります」

伊野には烏丸丸太町まで送ってもらった。十二段家で早めの夕食をとる前に、その並びの御州浜司植村義次に寄っ

て州浜の買い物をした。跡を継ぐ人がなく今はもうこの店もないが、ここで学んだ女性が今は近くで州浜を作って

いると聞く。

 十二段家では煮物付きのお茶漬けコースを選ぶと、先生は「同じものを」と言われた。

ここでいつものがまぐちを開く。京都の旅では最初に参加者からまとまった金額を徴収してがまぐちに入れ、私が

会計係になってそのがまぐちから支払いをしていく。そして旅の終わりに残金を一円単位まで人数割して返す。

先生は大抵細かい小銭は要らないとおっしゃるのだが。

もがり または 恩師 ⑩

2019-04-13 14:01:47 | 物語
物語にモデルはありますが、事実通りではありません


 二回目のお誘いは典子先生の古希祝をご一緒にという名目で二泊三日の秋の京都にした。由美子さんと西下する

新幹線の中で私の心ははち切れそうにふくらんでいた。子供の頃母に連れられて映画を見に行くバスで味わった幸

福感を思い出した。あの頃私は子供ながらに、これは完璧な幸せだと自分に語りかけていた。それを今また味わっ

ている。何かの最中よりもそれが始まるまでの時間が本当は楽しいのだ。

 待ち合わせは前回覚えていただいた京都駅南側のMKタクシーの乗り場にしていた。そして黒塗りの貸し切りハイ

ヤーで出発するというパターンは、それ以後の旅でもずっと続いた。

 昼食の前に壬生の骨董店「幾一里」に寄ることをドライバーに告げると、その年に放送されていた大河ドラマ

「新撰組」に所縁の場所などもどうかとすすめられた。

「あ、結構です」と私が言った後からは、それまで右や左の案内をしていたドライバーが一切説明を付けなくな

り、おすすめの場所を提案することもなくなった。このことを先生と由美子はいつまでも笑い話にして私をから

かった。

「あなたがあまりにもピシャリと言うものだから」

 自分ではピシャリと言ったつもりはなかった。

「でもあのドライバー賢いからすぐに学習した」

 それで次からもそのドライバー伊野さんを指名して毎回来てもらうようになった。伊野さんは使ってもらうお礼

にと俵屋旅館の石鹸をおみやげにくれた。私はその石鹸のあまりの使い心地のよさに、俵屋のグッズを売る「ギャ

ラリー游形」でその後買い足すようになった。つまり私が“ピシャリと”言ったことがギャラリー游形での買い物の

愉しみに発展した。

 賀茂川べりの新しいギャラリーカフェでパスタの昼食をとり、上賀茂神社に寄った後、貴船神社で水占いなどし

て今夜の宿、花脊の「美山荘」に向かった。

 鞍馬を過ぎ、花脊峠を越えたところの集落別所にはいくつか店がある。住民のための店ではなく、街中から避暑

やスキーにやってくる客を相手にする店である。そのうちの土産物店に入った。花脊には工芸家の集団が住んでお

り、その作品が売られている。由美子と私は先生から離れて鶏のかたちの醤油さしをこっそりお祝い品に買った。

 その夜の宿「美山荘」は花脊の奥大悲山峰山寺の前にある深山の宿坊として始まった。摘草料理の名前通り、街

中の懐石とは趣を異にする料理旅館である。先代の頃は文字通りの鄙びた摘草の料理が出たが、当代は金沢の料亭

やフランスの老舗レストランで修業をした分、料理には都会性が混じっていた。それでも採れたてのあけびが甘味

の皿に載っていて秋の一興になっていた。

 夕食は部屋ではなく母屋に新設されたカウンターの食堂で出され、

「私この頃左耳が遠くなっているからこっちに座ります」と典子先生は左端を選ばれた。

 十五年後に自分が聞こえづらくなってやっとわかることがある。その時はあの典子先生にそんな日が来るなんて

とオロオロし、何でもないことですねと殊更先生に伝えようとしていた。先生にとっては少しずつ進んでいった自

然な成り行きだったのだ。

 宿では二部屋を取っておいてくれたのでおしゃべりの後、十時前には床に就いた。

「先生残さず召し上がっていたからよかったわね」

 翌朝典子先生は宿の土産に大女将の生け花の本を購入なさった。廊下や床の間に飾られた野の花のしつらいは、


四十年前に私が母と泊った頃から大女将の手になるものだった。あまり人を褒めない母にして「あの女将さんはな

んと言う…」感嘆せしめた。宮崎から嫁いできた女将にはまだ子供がなく、先代の女将が健在の頃だった。

 今回は大女将は姿を見せず、金沢から嫁いできた若女将が挨拶に来た。

「大女将は膝を痛めてご挨拶に伺えませんが」ということだったが、伊野さんの車が迎えに来ると宿の人たちに混

じって大女将も見送りに出てきたので、挨拶を省略されたのだと思った。

 それが今自分が膝痛になってやっとわかる。膝が悪いとしゃがんで挨拶をすることが出来ないのだと。

 伊野には車を街とは反対の花背の奥に進めてもらった。駆け落ち以来花背に住み着いた陶芸家の「蕗窯」に寄る

ためだった。駆け落ちの相手はもうなくなり、陶芸家は再婚をしていた。私には旧知の陶芸家でも、典子先生は初

見のマナーとしてか自宅用にと大振りの湯飲みを五つもとめられた。陶芸家は冬に雪のかまくらを作るからまた遊

びに来るようにと言ってくれた。

 昼はそこから山里を西へ抜けて、美山町のオーベルジュ中沢に予約をしていた食事をとった。私のカフェ開店時

にはヴーヴクリコのマグナムボトルをお祝いにくれたシェフの店である。京の街中で仕事をしていたシェフには、

この山里で泊まれるレストランを開くのが長年の夢だったという。白い木の格子のあるガラスのドアから入る自然

光と風はベルギーのブルージュで見た小さなレストランを思わせた。

 周山周りで外界に下り、二日目の宿になる錦市場に着く前に、由美子が土産を買えるように紫竹の菓舗「御倉

屋」に寄ってもらった。ここは四十年前に百人一首の会をした折、典子先生をご案内した店でもある。以前は古び

た数寄屋門を開けて入るふつうの住宅のような店構えだったが、今は場所を玄以通りに移して鉄筋の店に変わって

いる。私だけ買い物には付き合わずに車で待っていると典子先生が笑いながら戻ってきた。

「由美子さんが何だかお店の人にタジタジとなっていたから応援に入ったのよ」

 四十年前、先生は御倉屋の名物菓子の旅奴をたびがらすとおっしやった。私は笑ってはいけないのだと胸にしま

いこんだ。黒砂糖味の粉菓子を和紙で包んだ侘びた土産をやくざな股旅ものにするなど、先生には似つかわしくな

いミスだと思ったからだ。

 二日目の宿は知り合いの八百屋さんのマンションの一室をゲストハウスにしたところで、2DKの中に家具も食器

もすべて揃っていた。

 私は翌朝のコーヒーとパンだけ宅急便で送っていたのでミルクと卵を錦市場で調達し、夜は予約していた丸太町

御幸町の吉田屋料理店に出かけた。暗く細い路地を入った古い家を若い女性が隠れ家食堂にしていて、部屋の仕切

りを取った広い空間になっていた。献立は煮物や生姜ご飯など素人料理のアラカルトだが、ここで三回目の先生の

誕生祝の食事をとった。この店も今はなく、店主は九条山に民宿を作ると聞いている。

 三日目の朝は私が朝食担当で、トーストにコーヒー、自家製のジャム、マーマレード、明治屋の缶詰ソーセー

ジ、スクランブルドエッグを用意した。由美子が片付けは自分がすると言ってくれたので、洗い物は任せた。

 九時半に迎えに来た伊野の車で御所東の梨木神社で萩を見に行き、すでに桔梗は去った廬山寺の庭を見て御所西

のとらや菓寮で白小豆のおしるこを食べた。先生は「あなたと同じものを」とおっしゃることがよくあった。あな

たの注文だから間違いのないおすすめ品でしょうと言われているような気がした。

 嵐山法輪寺にのぼって遠い大文字を望んだ後、昼食のために広東料理の下鴨「蕪庵」向かう車の中で、いつの間

にか由美子のコートの裾にアメリカヌスビトハギの実が沢山ついているのに気付いた。蕪庵では伊野に「ここは時

間がかかるから二時間後くらいに迎えに来て」と言ったのだが、やはり三時間近く引き止められた。広い敷地に数

寄屋造りの離れが点在している。しばらくこない間に座敷は畳の上に和室用の円卓と低い椅子が置かれていた。食

べきれなかった鯉のあんかけなどを包んでもらった。

 帰りの新幹線までの時間に吉田山に上った。山の東側には石段しかなくて車の入れない一帯があり、昭和の初め

に京大の先生たちのために建てたという住宅群が並んでいる。バブルの頃にはここが一棟ずつ高値で売られたとい

い、今は人の住んでいない建物もあるようで、ところどころに改修の跡もある。

 石段を上りながら振り返ると眼前に大文字が迫り、送り火の夜はここに腰かけて眺める人がいると想像された。

 最後は錦市場のに予約をしていた松茸ご飯を引き取りに行った。



 “楽しい京の旅をありがとうございました。
 
 まだうっとりと余韻に浸っています。

 誕生祝はこの歳になるとちょっとつらいところもあるのですが、

 かわいいお醤油さしは早速花脊の思い出とともに使っています。
 
 あなたとつながる美しい世界の方たちと過ごせた時間を嬉しくかみしめています。
 
 送っていただいた写真を見ると普段の自分よりもなんだかゆったりとして心地よさそうに見えます。
 
 蕗窯やオーベルジュの爽やかな風が吹いてくるようです。

 あのような人生の過ごし方があるのもやはり大変なことだったろうと思います。
 
 もう思いは雪のかまくらにとんでいます。
 
 年寄りが待っているなどと気になさらず、機会に恵まれたらお誘い頂けると嬉しく思います。
 
 帰りの新幹線では、広島で隣の席が空いたので鯉をおかずに松茸ご飯を頂きました”



 


もがり または 恩師 ⑨

2019-04-07 17:48:54 | 物語
ものがたりにモデルはありますが、事実どおりではありません


 二十一世紀になった。典子先生からは日々を旅にしたいというメッセージを受け取ったのだから、すぐにもまた

京都にお誘いしたいところだったが、実現できない事情があった。

 私はカフェを2001年の3月に閉じることになり、東京に引き上げてまた新たな仕事を始めなければならならな

かったからだ。

 とはいうものの2003年の春にはもう先生を京都のお花見にお誘いしている。そこからは怒涛の京都遊びが始ま

る。今はそれを書きたいのに、あまりにも多くの場所に行ったため、いつどこに行ったのかが分からない。おそら

く京都の地図に行った場所の印をつけたら印だらけになりそうだ。それでも思い出せるだけ書き留めておきたい。

自分のために。

 由美子さんを誘って東京から出発し、九州からの先生とは京都駅で待ち合わせをした。どちらからも約二時間半

の新幹線の旅だ。

 駅前のMKタクシー乗り場から貸切ハイヤーに乗り、一番に向かったのは三条大橋東詰の「辻留」。予約しておい

たお花見の弁当を引き取りに車を降りると、先生も店を見てみたいと言われて、三人で中へ入って受け取った。

 弁当を開くのは御所の同志社側御苑。何本もの濃淡の枝垂れ桜が御簾のように垂れて顔に触れる。

 なんという贅沢だろう。京都の人たちは、あるいは京都に居れば、こんな優雅な場所での花見を自由に無料で享

受できる。目の前で桜の揺れる中、私たちは敷物を敷いて昼餉の宴を始めた。

 よかった。先生も喜んで下さっているに違いない。私とても京都に住んだ八年の間にこんな思いはしたことがな

い。なぜだろうか。それは京都を共に味わう連れがなかったからだ。いや連れというだけでは正確ではない。私が

編む京都ツアーに先生から良いお点をつけてもらいたかったのだ。昔かぐや姫の話の感想文を書いて良い点を下

さったように。

 昼食の後は年に数日だけ公開される門跡尼寺の霊鑑寺に椿を見に行った。手入れの行き届いた庭では、天然記念

物の日光椿をはじめ、舞鶴椿、白牡丹、など100種以上の椿が見られる。

 その庭と寺の建物の隙間に紫色の十字花草が繁茂していたのを、私がオオアラセイトウと答える前に由美子さん

が諸葛菜という別名を披露してくれた。中国原産のこの外来種は、諸葛孔明が広めたのでこの名があるという。

 宿は東山の桜を遠望できる鴨川べりのホテルフジタにとった。典子先生には鴨川に面したお一人の部屋を、私と

由美子さんも鴨川に面した二人用の和室を頼んでおいた。

 夕食は私が京都でお世話になったフランス人シェフの店に行き、その後由美子さんを頼りにしてお酒の飲めない

先生と私の三人で姉小路のバー栁野に寄った。

 翌朝はロビーに集合して朝日のまぶしい食堂でそれぞれ好みの朝食をとった。

「10時に昨日の車が迎えに来ますから、ロビーにその15分前に集合しましょう」

 コンダクターの私は部屋に戻って荷支度をしてから早めにロビーにおりた。すると典子先生はなぜか外の通りか

ら入って来られた。とても嬉しそうな笑顔で。

「昨日通った京都ホテルの横のお店、開いてたから入ってみたら素敵な布を売っていたからベッドカバーにと買っ

てきたの」

 その店は京都ホテルの並びのビルの一階でインドネシアなどの高級家具やインテリア雑貨を売る店で、昨夜は前

を通っただけだった。先生にとってその布は福岡には決して売っていない布ではないはずだ。今回三人で京都遊び

をして、その楽しい気分の中で買い物をせずにはいられなかったしるしなのだ。あの時、ホテルフジタのロビーか

らガラス越しに見た先生の、いたずらをみつかってしまった子供のような笑顔はずっと忘れられない。

 二日目の花見は光悦寺、源光庵、常照寺、など鷹峯の桜を見てからきぬかけの道を通ってから嵐山よしむらでガ

ラス張りの二階から山桜をながめながらお蕎麦の昼食をとった。

 午後の花見は龍安寺の桜苑。ここも枝垂れ桜を掻き分けねば進めないほど桜に充ちていてどの花からともなく桜

の香りが漂っていた。

 そこから鳴滝の住宅街に入り、百年桜のあるというお宅の前まで来ると、丁度その家の主がドアを開け、

「どうぞ見て行って下さい」と招き入れてくれた。近所でも評判の桜は、その家の庭の真ん中に植えられて庭全体

を覆い、家の二階を越す高さになっていた。

「私の祖母が子どもの頃に植えられたと言います。よかったら二階から見て下さい」

 古い洋館建ての広い階段を上がると窓の真ん前に桜の枝が来ていた。見ず知らずの者を二階まで上げて下さった

親切に感謝をして辞した。

 翌年の秋、また三人で近所を訪ねる機会があった。この辺だったろうかと歩いてみたがみつからない。家探しは

得意なはずなのにどうしたことかと焦っていた時、宅急便のドライバーが来たので大きな桜の或る家を尋ねた。

すると「ああ、それはあそこですよ」と更地になって売り出されている場所を指した。

 まさか二年足らずでなくなるとは、そんな気配はみじんもなかったのに。

 私は二年前に案内をしてくれたご主人の名前を表札から覚えていたので、その名前宛てに大体の住所を書いて郵

便を出してみた。返事は意外にも湘南から来た。

 御主人が亡くなり、家を売るときに不動産屋に桜を残してくれと頼んだが叶わなかったことが書いてあった。

 あの時先生と見た桜は見た者の心の記憶だけになった。
 

 
 

もがり または 恩師⑧

2019-03-30 20:06:12 | 物語
ものがたりにモデルはありますが、事実どおりではありません


 典子先生が福岡に落ち着かれ、私が東京に戻ってからその後二十年間、先生にはほとんどお目にかかってい

ない。それでも距離が遠くなっていたという感覚はない。
 
 今は先生をクローズアップして書いているから特別に近い存在のように思われるかもしれないが、カトリッ

クの女子校に居た時も典子先生を先生方の一人としかとらえていなかったし、卒業後もよく便りを書く相手は

典子先生のほかに何人もいた。

 一つには典子先生が春霞のような人で、近づいても近づいても、会っても会っても、遊んでも遊んでも、

いつも同じ淡い濃度のままだったからといえる。

 この時期の先生からの手紙には、福岡がつまらないこと、体調がはっきりしないこと、老いを実感すること

ばかりが綴られている。その間に先生は四十から五十に、五十から六十になられた。

 一度福岡のビストロ゛ご馳走になったとき先生は

「そう、あなたが四十にねえ」と哀しそうにため息をつかれた。

 その二十年の間に謙三先生と典子先生連名の年賀状には芭蕉の同じ句が二回引用された。

“戌と申 世の中よかれ 酉の歳”

 謙三先生は酉、典子先生は戌年だった。

 典子先生は自身の不調に加えて身内に病人を抱えることになり、私の出番はますますなくなった。時々貸本

と称して面白そうだと思える本をお送りしたり、疑問に思うことを教えていたくお尋ねの便りを出したりした。

 “かれいひほとびにけりというのは何に出てくる文だったでしょうか”

 “伊勢物語の九段、東下りのところでかきつばたを句の頭にすえた<唐衣きつつなれにしつましあればはるば

るきぬる旅をしぞ思ふ>のすぐあと、<…とよめりければ、みな人かれいひの上に涙おとしてほとびにけり>とあ

ります”

 “雑誌記者が<彷彿させる>と書いてきましたが、彷彿は形容動詞彷彿たりの語幹だから<彷彿とさせる>が正

しいのではありませんか”

 “私も主人も、彷彿とさせる派です”
 
 先生が六十代に入られてからご家族が次々に亡くなられた。

 謙三先生も肝臓を悪くされて長い入院生活のあとに亡くなられた。

 私は東京で十五年過ごした後、京都の生活を始めてカフェを開いていた。

“十一月の末に実家の母がみまかりました。九十五歳でした。

もう三年ほど入院しておりました。秋口からは殆ど食が入らなくなっていましたので心の準備はしておりまし

た。主人が亡くなってから一年余りはそれでも見舞ってやれたのだからと思っています。

この一年、あたたかいお心遣いありがとうございました。

どうぞくれぐれもお体お大切に。私もこれで何か身軽になったような、ふっきれた思いです。

少し落ち着いたら、あなたのカフェでお目にかかりましょう”

 次の年の春、私は先生を遅めの花見と大文字登山で京都にお誘いした。体を動かして心を沈めないようにと

の思いからだった。メンバーには東京の友人二人と大阪のマリに加わってもらった。

 集合は私のカフェにしてみんなで鹿ケ谷山荘の昼食に向かった。のれそれ、菜の花、筍など春の味覚が華

やいだ趣向で出された。東山の斜面に建つ料亭からは京の町が望めたので、下りは坂を歩き霊鑑寺の前で待っ

ていた車に乗り予約していた松屋常盤のきんとんを引き取って、西賀茂のしょうざんの庭で椅子とテーブルを

借りて茶席とした。帰りに太田神社裏で山桜と竹のトンネルを抜けて花見をし、夜は寺町の上海料理の店で夕

食にした。

 翌日はメンバーには丸太町橋東の八起庵で昼食をとってもらい、私は仕事をギャルソンにまかせてから合流

することにした。銀閣寺のそばに住んでいたマリは大文字に登ったことがあるというので道案内をしてもらっ

た。銀閣寺道から左に入り、朝鮮学校の脇を進んだ登山道入り口には杖が用意してあった。先生にそれを進め

るためにも私も杖を使うことにした。上り30分足らず、さしたる難所もなくネコノメソウなど春の山草の咲

く道を進むと、送り火を燃やす火台の組まれた斜面に出た。テレビドラマ「京ふたり」で見たあの場所だ。

 謙三先生は大学の山岳部で部長をなさっていたので、典子先生も低山には何度か登っていらした。杖は不

要だったかもしれない。

 鹿ケ谷山荘で見たよりもさらに高所からの京の町の遠望が開けていた。

「先生、あそこが昨日の太田神社の桜です」

「あの桜が続いているところね」

大文字の斜面は急で、われわれは大の字の横棒のところを左右に行き来しただけだった。

 帰りは先生と私は来たのと同じコースを下ったが、ほかの三人は森の中の近道を滑るように駆けて後で合流した。

 最後はみながお土産を買えるように鞍馬口の生風庵に寄った。


“いろいろとお世話になりました何年ぶりかでまわりのことを何も考えずにその時の愉しみを味わうことができ

ました。お店が大変な時にお心遣いをさせてごめんなさい

一番の心残りは朝食をあなたのカフェでとらなかったこと、この次の楽しみにしましょう

大文字にのぼり詰めて京都を見晴るかしたときの解き放たれたような思い、太田神社の桜樹の林

たくさんのいいものをありがとうございました

もう日々旅にして旅を栖とするような生活をしてもいいのだと帰りの新幹線に揺られていました

いつかふらっとでかけて あなたのカフェの朝食を摂りにあらわれたいなどと思っています”