京都のカフェ Rive Droite 1998~2001 2.

2011-01-15 00:42:29 | 物語
2.博多
「今は時期が悪い」。
 カフェ開店への出資をお願いした時、峰社長はそう言った。
 これまで何度も私の仕事に助け舟を出して下さった峰社長だ。一度飲食チェーン店を閉
じた経験があるためか、カフェを開く案には反対だった。
 バブルがはじけたと言われて久しい今、なかなか景気回復の兆しは見えない。といって
人の欲望は常に存在する。飲食業はその間隙に割り込める業種である。訴え方次第で個人
の欲求に、食欲と快適な空間の両方から攻めることが可能である。私が作るカフェなら、
それが出来ると思っていた。
 峰社長に断られて、次に頭に浮かんだのは母の妹の夫、叔父だった。九州で酒造会社と
酒店を営み、ほかに八十歳を過ぎてオリーヴ油の輸入も始めている。
 これまで親戚や身近な人間と、しょっちゅう裁判を起こしたり絶縁したりして、耐えて
きたのは叔母だけという叔父の性格。姪としても、なるべく顔を合わせないようにしてき
た。
 その叔父にしか頼めない状況になったのは、私の避けているものに向き合わせようとす
る神のご意思かもしれない。
 救いは、前の年に叔母が他界し、子供のいない叔父が弱気になっていることだった。そ
れでも叔父に金銭の話をすることは、地雷の上を歩くようなものだった。出資を願い出る
ために叔父の家を訪ねる前の晩はなかなか寝付けなかった。
 子供の頃のいくつかの場面が瞼によみがえる。
 叔父が社員を集めて、怒鳴り声で長々と説教をしている。普段は優秀といわれている社
員もうなだれていた。
 叔父と会食をすれば、まさに独壇場で、同席者は料理に箸をつける間もなくなり、うな
ずき疲れる。
 博多にある叔父の酒店で、叔父は手洗いを使わなかった。水を惜しんで、樋井川の対岸
にある百貨店まで行き、用を足していた。
 それを笑った従業員には、
「何がおかしいかっ」
と雷が落ちた。
 五百万円の応接セットを買ったと自慢をしていた叔父から、お披露目の誘いが来そうな
日、叔父の家から垣根をへだてた兄の家で、兄も私も寝たふりをして受話器をとらなかっ
た。
 盆や正月に親戚が集まると、相手構わず
「世の中を動かしているのは経済だ」
と一席打ち、場に残ったのが子供の私だけになってもその話は終わらず、私の将来就きた
い職業は何かと尋ねては次々と否定してかかった。
 私は、いや違う、個人の備える魅力も世の中を動かす、むしろお金の力に勝るほどだ、
お金は燃やされれば消え、盗まれれば明日にも他人のものになり、もらえば即座に長者に
もなれる。しかし魅力は一朝一夕には身につかず、他人が奪うこともできない、と心の中
で反論するのだが、声にはならなかった。
 個人の魅力がお金を引き出すなら、それも経済力と言い換えられようが、叔父の言って
いる経済は、学校で計算法を習える、お金の世界だけの話だ。
 M&Aの元祖と言われる横井英樹は、カネはそれで物を買えば同額の対価が来るが、人
間はカネに比べて不確定要素が多すぎ、そういうものを事業に取り入れるのはマイナスに
なる、と言ったそうだが、人間の心や魅力を数値に直せず、それらを買う通貨を持ってい
なかっただけなのだ。
 叔父は私が長じてからは、東京の大学に行ったのも、学生結婚をしたのも、離婚をした
のも、全部間違いだと言った。
 ましてや何の仕事もないのに、まず京都に移り住む発想など、叔父にとっては理解を超
えた愚行に等しい。
 その叔父にカフェへの出資を依頼するには、長い説教を覚悟しなければならなかった。
 だが同時に、ある成功哲学書の中にあった話も思い出した。
 農園をもつ男に、小作人の娘が五十セントくれというが、男は耳を貸さない。それでも
娘があきらめずに「どうしてもお金が要る」と言い続けると、一度はノーと言った男が、
五十セントをポケットから出す。
 難攻不落の牙城も、人の意志が伝われば崩れるという話だった。ここでは長く粘ること
の意味よりも、人は言葉を投げかけられれば、どんな冷徹な心でも、言葉の意味を無視し
たり、感応したりせずにはいられないことを教えていた。
「人って言うことを聞くものでしょ」
 以前友人の南さんがぽつりともらした、一見理屈なっていないようで、その中になるほ
どと納得させられるものを含んだ真理とも符号する。
 人の話を耳に入れると、頼まれごとを聞くと、いささかの痛みも感じずに断れる人はい
ない。だからこそ断るときに力んだり怒ったり、ことさら無関心を装ったり恐縮したりと
心に摩擦を生じながら拒むのだ。
 どんな人も、拒むとき断るときにはエネルギーを必要とする。
 人に頼みごとをするという卑しい立場、自尊心の強い私だからこそ、神様はへりくだっ
て腰を低くするのを望まれている。そこを越えなければ前へ進めない。
 明日結果はどうであれ、叔父の前できちんと自分の希望を言葉に出せるよう、叔母に見
守ってもらいたいと手を合わせた。
 叔父には前もって面会の要旨を手紙で伝えてあった。
 六十にしてやっと問屋街の倉庫の二階から、海の見える高台の住宅街に新築した叔父の
家は、まだ死んだ叔母の荷物が整理しきれていなかった。
「なしてわざわざ水商売やらするとね」
「これまで料理の勉強をしてきましたし、レストランでも実地の修業をしましたから、今
私に出来る仕事はこれしかありません」
「ヤクザが来たらどげんするね」
「来るときはどこに居ても来ますよ。カフェは酒場とは違います」
「失敗して借金作ったら困るやろうもん」
「時間をかけて返していきます」
「女性の方が度胸があるねえ。あんたの言う額全部は出せんけん、あちこち頭下げて、少
しずつ出資してもろうて会社作ったらどうね」
 一人に頼むのでもこれだけ思い悩んだのに、これから更に多数の人に頭を下げるなど。
 叔父は桐下駄を突っかけると、京都へ帰る私をぎりぎりローカル線の改札口まで見送り
に付いて来た。これまでの叔父なら、考えられないことだ。
 別れる前、私は叔父の手を握って言った。
「体に気をつけて。いつか京都に遊びに来て下さい」
 八十を過ぎて初めて一人暮らしを始めた叔父に、私からは何をしてあげましょうという
申し出はせず、これをして下さいという願い出だけを伝えて帰ってきた。
 世の中で事業を起こした人たちは、出資の依頼などビジネスのほんの序の口と、玄関の
敷居のように跨いで行くのだろうか。私にはこの先いくつもの高いハードルが控えている
ように見える。
 私がほかに出資を頼めそうなのは、皮肉なことにこれまで仕事でお世話になってきた、
いわばすでに借りのあるところしか思い浮かばない。
 社員に料理を教える仕事を下さった会社、新商品の試作を指導する仕事を下さった会社。
 借りは増える一方だ。
 それでもどの会社も、株主になることを承諾して下さった。その時点で叔父に報告し、
再度峰社長にお願いに行った。
「カフェを作るのに賛成した訳ではありませんよ。もうほとほと石井さんには根負けしま
した」
 峰社長を筆頭株主に、四人の出資者から六百万円を集め、叔母の形見の宝飾品を売って
私もやっと株主に加わり、六百二十万円という半端な資本金の有限会社を作った。
          
「これから京都に遊びに行きやすくなります」
秦社長は喜んで下さった。
「京都に親戚が出来た感じですよ」
小田切社長は言葉をかけて下さった。
 初めて峰社長にカフェの提案に行ってから、二年半が過ぎていた。