京都のカフェ Rive Droite 1998~2001 4.

2011-01-29 00:47:18 | 物語
4.河原町通
 スタッフが10人もいるのは多すぎるという人がいた。
 四十席のカフェで利益を上げていくのに必要な来客数と売り上げを計算すると、ギャル
ソンの数は仮定ではそのくらいが妥当だった。仮定では。

 新しく人と知り合うことに慎重な私は、従業員を募集するのにも警戒心が働いた。出来
ることなら、知り合いのつてで雇いたい。貼り紙をしたり求人紙に載せたりすると、どん
な人間が飛び込んでくるかわからない。面接では実直に見えても、いざ勤めが始まると問
題児に豹変するかもしれない。その時、解雇を言い渡す決断が私にできるだろうか。
 心配が堂々巡りして、調理者も製菓担当も給仕も全く決まらないまま、開店まで残り一
週間になってしまった。
「アルバイト求人誌に載せようよ」
という息子の言葉で決心して、自習発売のフロムエーに割り込ませてもらうことになった。
応募は十数人あった。東京のカフェで見たギャルソンほどアクはなく、頼りない感じでは
あるが、さわやかで端正な若者が多くやってきて、不安なまま殆どを採用した。
 ギャルソンの意味を知ってか知らずか、女子大生の応募もあった。カフェで働きたいと
いうので、女性も二人を採用し、製菓担当にあたってもらった。
 最後に遅れて応募してきたのは、私同様東京から京都に憧れて越してきたという三十代
の女性だった。栄養士の資格を持ち、銀座の有名店に勤務したこともあり、何より笑顔が
好印象で、賄いを主にして調理補助で来てもらうことに決めた。
 アルメニア人、中国人の応募もあったけれど、日本語が不自由で調理も出来ないのでは
採用は難しいというと、中国の女性は泣き出した。日本ではなかなか仕事にありつけなく
て困っているのだ。ジャム作りに手が足りないときは仕事が出せるかもしれないと言って
引き取ってもらうしかなかった。
 最終的に採用したのは、女子大生の千明ちゃんとレナちゃん、栄養士の資格を持つ遠藤
さん、大卒の金城と阿部、大学生の和田と江口、浪人の渡辺と木村、フランス人のボスコ、
それに大学院を出たばかりの息子のマルがマネージャーということで私と交代で店に出る
ことになった。
          
          
 ボスコはスペイン国境に近いバスク地方の出身で、日本語学校に在籍していた。だが日
本語の習得より、日本で暮らすことが目的のようだった。
 パリの若者と違って、少しからかっただけでポッと頬を染めるボスコは、私が初めて見
るタイプの、遠慮深いフランス人だった。
 それでも居酒屋のポスターのモデルに使われたり、映画「プライド」に端役出てたりし
て、ガールフレンドを作ったところは、紛れもなくフランス人だと思った。
 その年、1998年は日本におけるフランス年で、日仏交流の行事が多く行われ、マスコミ
も日仏関係の記事をよく特集していた。
 サッカーのワールドカップもフランスで開催され、いつもよりフランス文化に対する日
本人の注目は大きかった。
「大型テレビを置いてワールドカップ観戦の日をつくりたいけど、レンタルのテレビは高
いわよね」
と言うと、ギャルソンの江口は
「僕のを持ってきましょうか、ちょっと古いけど大型ですから」 
 江口は免許取立ての運転でBMWにテレビを載せて持ってきた。店の外からは画面が見
えない角度で部屋の隅に配置し、表に〝ご一緒にワールドカップを応援しましょう〟と書
いて貼り出した。
 成果は上々、問い合わせの電話や席の予約の電話が入った。当日の夜、初めてカフェの
満席を見た。二階の椅子を下におろして四十席近くを作った。
 テレビならどこの家にもあるだろうに、カフェで観戦したたいと思う人たちが集まり、
ちょっとヤクザで遊蕩好きな、パリのカフェに近い雰囲気が生まれて、私は満足だった。
 だからといって必ずしも売り上げが飛躍的に上った訳ではない。客は観戦中はテレビに
見入って飲み食いがおあずけとなり、休憩時間になると一斉に追加注文をする。その時だ
けギャルソンはてんてこ舞いすることになる。
 料理を作る側の私もだ。いつもは午後三時に帰るところを、当然最後まで居残った。
 日本チームがシュートする度に歓声が上る。ゴールが決まらないと落胆の声。店の外に
は、中に入れずガラスに顔を付けている人が大勢いた。中で声が上る度にどうなったかと
いうしぐさをする。中の客は手でバツを作って状況を知らせる。フランスでのデイゲーム
が日本では夜になり、ナイターは日本では早朝になる。カフェで日本チームの観戦を出来
たのはデイゲームの二回だけだった。
 ワールドカップの後も団体客が来たり、近所の催し物があったりしてカフェが満席にな
ることはあったが、ワールドカップのときほどRive Droite がカフェの理想の姿で活気づ
いた日はなかった。
 折角借りた大型テレビをもう少し活用することにした。
 普段は使っていない二階で、土曜の午後だけお茶付きのフランス映画ビデオ上映会を企
画した。ビデオはレンタル店から借りてきた。
 イヴ・モンタンが主演してパリのカフェを描いた「ギャルソン」、それに「デリカテッ
セン」や「バベットの晩餐会」など、食またはカフェに関連のあるものを選んだ。
 Rive Droiteでは、早番と遅番の事務引継ぎのために連絡ノートを置いて、スタッフが
書いたり見たりするようにしていた。ところが、

〝お腹がいたくてたまりません
 今日はつかれた つかれた
 明日も みんな がんばりましょう 阿部〟

〝代理人募集
 そろそろ一日休みが欲しいので、代理をして下さる方を募ります。
 一日だけで結構です
 条件:朝七時に出勤できること、メニューの全品を出せること、
    電話の用件、名前、連絡先を記録できること、
    そのほかにカウンターまわりのいつもの仕事もお願いします
                            マダム〟

〝江口 何でもやります。精一杯やります。お願いします
 オムレツだってやれる。オムツだってかえられる〟

〝肉片はみつかりませんでした〟
〝ありました〟

〝夕方から黒猫が遊びに来ています。通行人も立ち止まって、頭をなでて行きます。看板
がわりにいいなあと思っているレナです〟

〝昨日お客さんに「前にこの店に可愛い猫がいたでしょ」と聞かれたので、堰を切ったよ
うに「そうなんです。バカな従業員が、うちの猫と違うと言ったので、お客さんが段ボー
ルに入れてタクシーに乗せて連れていきました。私の猫だったのに、だったのに。取り返
したい、ね、そうでしょう」と訴えてしまった。しかし時々、「あの猫でも連れて行きた
いと思う魅力があったんですか」という声も聞く〟

〝昨日お客さんに「お前この店に可愛い猫がいただろうが」と脅されたので、セキ込んで
「そうなんです。マルがマダムの猫ではないと言ったので、アバズレ女がマダムの真似し
てMKタクシーに乗せて帰りやがったんです。マダムの猫だったのに」。しかし時々「あ
んな猫のどこがいいの」と言われる 裏マダム〟

〝「ち」は地産マンション、「ぢ」はヒサヤ大黒堂、「チ」は?
 江口四回チ、渡辺三回チ、阿部二回チ、二階で朝ご飯食べていても遅刻です〟

〝今度マダムのファンらしき人が、会いに来るようです。雑誌に書いた文に共鳴し、感銘
 を受けたということを、関係のないボクに何度も説明して下さいました。
 心中お察し申し上げます。 金城〟
          

と連絡ノートは文芸同人誌になってしまった。
 最年長のギャルソン金城は、岐阜のお寺の次男だった。大学卒業後に銀行に勤務してい
たが、長男が寺を継がないことになり、銀行を辞めて仏教の学校に入り直し、その後修行
先が決まるまでの間を祇園で働いたりしていた。髪はまだ祇園時代の茶髪のまま応募して
きたので、私はこわごわ接していた。
 カフェでは真鍮のテーブルの枠や来客用のコート掛けのフックを磨くのに、金属磨きを
使っていたところ、金城はネルで拭けばいいのだと教えてくれた。
「仏様の器も真鍮ですから、知っています」
 ボスコの母親がフランスからワールドカップ記念のTシャツを売るように送ってきた時、
金城はボスコの経済事情を思い遣って売れ残りを買ってやっていた。雇い主の私は、Tシ
ャツを買ってやりたいのは山々でも、必要のないものを買い上げられる状況にはなかった。
「マダム、税理士に頼む分は自分で帳簿つけたらどうですか。税務署も相談に乗ってくれ
ますし、僕もお手伝いしますよ」
 銀行出身の金城の助言だった。
 阿部は二級建築士の資格を持っていたけれど、それを生かす具体的な職場に巡り合えず、
Rive Droite に応募してきたのだった。長身なだけに食欲も一番で、まかないの食事も一
番多く食べた。また、職人でもあるせいか、カフェの料理にもまかないの料理にも興味を
持ち、私がここぞと思って手をかけたところに反応を示し、作り方も知りたがって家に帰
って再現し、それをカフェまで持参した。野菜のタルトや白インゲンのカッスーレなど、
私に批評してもらいに仕事以外の時間にやってきた。
「阿部君、建築より料理をやった方がいいんじゃない」
「いや、これは趣味ですから」
 阿部は呉服屋の三男坊だった。
 未成年の木村と渡辺は、いつの間にか外でも二人で遊ぶともたぢになっていた。渡辺が
受ける予定の美大を二人で下見に言ったり、揃って年長の和田からご馳走してもらったり
していた。二人がまだ顔合わせしていない時から、木村は江口に
「僕と同じ歳のギャルソンが居るそうですけど、どんな人ですか」
「お前と違ってかっわいい奴」
「えーっ」
木村は悔しがっていた。その木村が、四条河原町でRive Droite のショップカードを配っ
ていたと人づてに聞いた。木村も可愛い奴だった。
「この店はつぶれないと思いますよ。ちゃんとおいしい料理を作っているから。僕がアル
バイトしていたほかの店はみんなひどかったもん」
 木村はRive Droite を誇りに思っていた。前の年、父親の会社が倒産してから、保険の
外交をしているという母親をカフェに連れてきた。
「この子もフラフラしていましたが、こちらにご厄介になってから、落ち着いてくれたよ
うです」
 しかしある時から、木村はカフェに来なくなった。家に電話をしても出ない。江口に尋
ねると
「金城さんがお説教したんですよ。木村がみんなに金借りてるから」
 その後木村宛の電話が何本もかかってきた。取立ての電話のようだった。
「今日は来てませんけど」
そう言うしかなかった。店には来なくなった木村だったが、息子とは縁がつながっている
ようだった。高校を中退した木村に、大検の資格を取れるよう息子が指導していた。翌年
木村は大検に合格した。
 渡辺は父親をカフェに連れてきた。渡辺の実家は、京都府下の綾部で仏具屋を営み、渡
辺は三男で末っ子だった。美大を目指していたけれど、次の受験に失敗したら、もう進学
はさせないと親に言われていた。雨の日、車で綾部からカフェを訪ねてくれた父親に、誰
もほかに客のいない息子の勤め先はどう映っただろう。渡辺は黙々と仕事をした。料理も
掃除も丁寧だった。朝食のスクランブルドエッグはすぐに勘どころを?み、教えた私より
上手に作るようになった。
 江口もまた、鹿児島から来た母親をカフェに案内してきた。母親は京都出身ということ
で、江口は京都の大学に入ったのだった。常にブランドもののファッションで決めている
江口が連れてきた母親は、モデルのように美しい人だった。道の向こうで信号待ちをして
いるときから、カフェのガラス越しにも目を引いた。気象庁も記録的という暑さの日、ほ
かに客のいない息子の勤め先で、江口の母親は「黄桃ソースのかき氷にも引かれるけど」
と言いながら、ラタトゥイユを選んで注文した。
 金城が岐阜の母親を連れてきた日は、日曜日でもあり、ほかにも客がいた。兄嫁とまだ
生後数ヶ月のその赤ん坊も一緒だった。サービスの途中で姪を抱いてあやす金城、慎み深
い田舎のお寺のお嫁さんとその家族、いずれはその中に戻って袈裟を着る金城にとって、
ギャルソンの制服は仮の衣裳だった。
 従業員が十人は多過ぎるのを認めざるを得ない日が来た。
 開店から二ヶ月経ち、梅雨に入るとテラス席の特徴もなくガラス戸を閉じ、ギャルソン
が手持ち無沙汰になる日が続いた。梅雨が終れば忙しくなると希望をもちたいところだっ
たが、この状況では来月の給料支払いも苦しい。
「どうですか」
と心配した静岡の峰社長が、店の様子を電話で尋ねてきた。
「スタッフは皆うまく交流が出来ていて、人数を減らすことはできなくて」
 女にしか出来ない泣き言めいた現状報告で訴えた。
「心の通う交流は、店が落ち着いてからのことだし思いますよ」
 返す言葉もない当たり前のアドバイスで諭された。
 迷っても仕方がない。打ち解けた折角のまとまりでも。ここは利益追求の場なのだから。
人は減らさなければならない。
 Rive Droite のアルバイト料がなくなっても、困る度合いの少ないギャルソン、交通費
が一番多くかかるギャルソン、和田に宣告を許してもらった。
 それを言い渡すのが私への試練だった。
 和田は外交官を目指して枚方市の自宅から通学している。朝出勤してきた和田に店の状
況を説明して、今日までで勤務は終了と告げると、和田は顔色を変えずに
「わかりました」
と言って着替えに三階に上って行った。
 ほかのギャルソンには何も知らせていなかった。早番と遅番の交代時間まで、そのこと
は誰の口にも話題に上らず、和田は三時になるといつものように
「失礼します」
と店を退出していった。
 遅番の渡辺が制服に着替えてから紙切れを持ってきた。
「和田さんが帰るときに、マダムに渡してって」
 小さく折りたたまれた紙を開いた。

〝僕がいなくなると、
 女のお客さんが来なくなるのでは…、
 と心配してますが。
 ひとまずは、お疲れ様でした!
 また皆さんと一緒に働ける日をお待ちします。
 他のアルバイトの人たちにヨロシク〟

 私は一人として問題児に会わなかった。

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