巻寿司

2010-08-31 08:30:42 | 美食
とうとう一枚になった今年の奈良漬。

昔は奈良漬に季節があることも知らなかった。
父も母も実家が酒屋だったので、我が家の倉庫には、一年中奈良漬の大樽が
あって、食卓には365日奈良漬が出てきた。
そんなもの子供が好きになるはずもない。

ところが故郷を離れ、両親の実家も廃業し、久しく奈良漬を食べないでいる
と、自然な成り行きで禁断症状が出始めた。

どこかあの味の奈良漬を作っているところはないか。
あの味というのは、酒屋の奈良漬は市販の奈良漬のように甘い味醂味ではな
く酒粕の味なのだ。
遠い親戚にあの味の奈良漬を作っているところがあると知り、送ってもらう
ことにした。

最初は勿論有料だったが、贈り物にしたいというあちらの希望で、進物とし
て受け取るようになった(そのかわりお礼に京都の西京漬の魚を毎年送る)。
電話では話したことがあるのに、一度も会ったことのない親戚。
酒屋に嫁いできた調理師の資格を持つお嫁さんが、伝統の味を絶やすまいと
作り続けている。

七月末の夏の盛りに、毎年届く出来立ての奈良漬の樽。
奈良漬がなくなりかける頃、白瓜を買ってきて酒粕に漬け足す。
そして最後の奈良漬で巻き寿司を作る。
厚焼き卵さえ作れば、到来物のツナ缶と湯通しした三つ葉と奈良漬で夏の終
わりの巻寿司ができる。

写真は下が本来の奈良漬、上が漬け足しの奈良漬。
                

ヤブミョウガ

2010-08-30 09:53:09 | 植物
 秋になれば、家の前の公園のヨウシュヤマゴボウや水引草など、一輪ざし
に使える草が色づくと楽しみにしていた夏のある朝、公園からもウイーンと
唸る機械音が響いてきた。

 区役所から派遣された業者による草木の伐採の音だ。
 これは毎年決まった時期というわけでもなく、夏の初めだったり秋の真っ
最中だったりする。植物の面白さなどという基準は、当然無視して行われる。

 しまった。もうすぐ咲きそうだったヤブミョウガを取っておけばよかった。
 刈り取り隊が消えてから駆けつけると、ヤブミョウガもヨウシュヤマゴボ
ウも水引草も一草残らず下草は刈られていた。
 しかし水引草だけは他に群生している場所がある。
 公園の裏手にある駐車場には、桜の老木と茂みがあって、毎年水引草が目
の醒めるな赤い穂を伸ばす。

 行ってみると水引草はまだ赤くはないが、秋の準備に入っていた。その隣
家にはいつも人気がないのに、エアコンの室外機が回って草をゆらしている。
ヤブミョウガだ。すでに白い花を頂き、一本だけ柵の外に顔を出している。

もう一本出ていれば、もらってきたんだが。

<ヤブミョウガ>
ツユクサ科。ミョウガの仲間ではない。秋には淡青から濃紺のグラデーショ
ンを見せて小さくて丸い実が付く。

六歳のスイス留学 1.

2010-08-28 10:20:57 | 物語
1. ローザンヌ
 本棚から一冊の地図が落ちてきた。スイスで買ったローザンヌの市街図だ。
 ローザンヌは、スイスではジュネーヴに次ぐ、フランス語圏の都市である。レマン湖に
面し、自然の美しさと都会の猥雑さの両方を備え、中世の面影も残す坂の街と聞いて、旅
の行き先に加えた。
 '70年代、私は息子と毎年のようにヨーロッパに旅をしていた。デンマークを皮切り
に、イギリス、フランス、ベルギー、オーストリア、そしてスイスへと。
 フランス語なら大学の第二外国語で選択し、卒業後も語学学校で勉強を続けて、少しは
言葉のやりとりが出来た。
 ローザンヌは名前のとおり、純真な優しい娘を連想させる、穏やかで小さな街だった。
パリから空路でジュネーヴに入り、空港バスに乗ると三十分で着く。
 私は五歳の息子の手を引いて、古い大学や教会を見て回り、カフェでサンドウィッチを
食べ、余ったパンを手にしてレマン湖で白鳥と遊んだ。
 夫とは別居をしていたが、まだ離婚はしていなかった。旅はいつも子供と二人だった。
 自分を産んでくれた国に背を向け、外国を旅することで自分の美意識の世界に逃げ続け
ていた。
 ヨーロッパの人がどんな絆で結ばれているのか、映画や小説やシャンソンから感じとる
だけで、実際に身近な手本は知らなかったが、少なくとも日本のホームドラマの親子、演
歌の女男、そして私が関わってきた世間とは違う筈だと思った。
 悪い男と知りながら引きずられていく女と、女を不幸にしたという自責の裏側に勲章を
貼って歩く男の演歌というセンチメンタリスムには、馴染めなかった。
 ジャック・ブレルのシャンソンでは、僕を捨てないで、僕は君の犬となろう、という言
葉をみつけた。シャルル・アズナヴールのシャンソンでは、女の心変わりの前でみじめに
なっている自分をそのままさらけ出す、男の描写を聞いた。
 そこには女というジェンダーを賛美する視点と、賛美することを照れない柔らかな愛が
ある、と共鳴した。
 それでも私はヨーロッパの男に恋をする気質ではなかった。
 日本では人の顔を見ると不快になっていたのに、異国に身を置くと、道行く人の顔は私
とは関わりのない珍しい動物のように思えて気が楽だった。
 そんな街角のそこかしこで、息子は「あ、お父様だ」と見知らぬ人を指して私をからか
った。たしかにどこか面差しは似ているが、異国の人である。子供の言葉には、お父様に
そばに居て欲しいという希望が隠されていた。お母様が信じなくても、僕はお父様を見つ
けたんだ、と得意げに装う、あるいはすねた態度が含まれていた。
 旅先で、日暮れに私がホテルに戻ろうか、もっと先まで行ってみようかと迷っていると、
息子は必ず「見る」と一歩前へ進んで、私の手を引っ張った。
 人垣の間へ、花畑の向こうへ、教会の中へ。お母様、あっちには面白いものがきっとあ
るよ、ここまで来たんだから、先へ進まなかったら後悔するよ、と言いたげに。
 ローザンヌの後、私と息子はグリンデルワルト、インターラーケン、ルツェルン、ツェ
ルマット、チューリッヒ、サンモリッツ、とスイスの山と街を旅した。
 パリの洗練された無関心よりも、スイスの人気のない山が私の性に合った。子供に原風
景を与えるなら、ローザンヌのような小都市がいいと思い始めていた。パリでは暮らせな
くても、スイスなら暮らせるかもしれない。
 私と子供は地図を買って何度かローザンヌを訪れた。

 そんな旅の思い出にふけりながら、本棚から落ちてきた地図を開くと、ところどころに
鉛筆で黒く囲んだ印がある。それが何の印か、すぐにはわからなかった。囲みの中の小さ
なフランス語の活字を読んで、それらに共通しているのは小学校の場所だとわかった。
 あの時からもう三十年以上もも経ったのだ。
 そう思える日が来ることを、あの時どうして想像できただろう。あの頃は目の前に立ち
はだかる険しい峠があった。それを遠く過ぎてきた、なだらかな丘のように懐かしむ日が
来るなど信じられなかった。

 あの頃私は峠の前で逡巡していた。
 '70年代の半ば、私はローザンヌで子供を入学させる小学校を探していた。何の手掛り
もなく、半分は自分が本気なのか確かめるかのように。
 子供をスイスの学校に入れたら自分に何が起こるのか、いや子供の将来に何が起こるの
か、全く想像がつかなかった。それどころか、日本人がスイスの学校に入学できるのかさ
え知らなかった。
 私と息子は、ローザンヌの坂の途中のすみれ色の日除けのあるホテルのバルコニーで、
まだ浅い春の日向ぼっこをしていた。五歳の子供は絵を描きながら、独り言を言っていた。
私はタンジェリンの汁の染みた新聞を広げて、不動産欄に見入っていた。見入ってはいた
が、どうすればスイスで部屋が借りられるのか、具体的な手立ては知らなかった。
 三月の日差しに温まりながら、私は決して幸せではなかった。思い出しても心が凍るほ
どの重苦しい不安に囲まれていた。
 バルコニーの下を登校するスイスの小学生の一団が通っていく。息子もあの中の一人に
なる日が来るのだろうか。それとも日本の社会で通知とともに自動的に日本の小学生にな
り、ランドセルを背負うのだろうか。その時私は自動的に日本のPTAになり、日本のペ
アレンツとティーチャーズの常識にがっちりと包囲されてしまう。
 いやだ。そんなことはできない。
 私は帰国するとすぐにスイス大使館に手紙を書いた。

カフェテーブル

2010-08-27 08:32:16 | お宝
12年前、京都でカフェを開いたときに買ったテーブル8台。
買ったと言っても、パリの店頭で買ってきた訳ではない。
パリのカフェテーブルには定番があり、それは専門の店でしか扱っていない。

パリには親友の佳子が住んでいた。佳子に問い合わせると、
佳子は住まいに一番近い(窓から見える!)カフェ・ドゥーマゴに行き、
テーブルを扱っている専門店の名を聞いてきてくれた。
次に佳子自身がその店に行ってサイズと値段を調べてイラストで私に知らせてくれた。

12年前は丁度、日本でも世界のあちこちでも、カフェがブームになり始めていた。
在庫は少なく、注文してから何ヶ月か待つことになりそうだった。
私の希望は12台だったが、現在ある8台をとりあえず買うことにした。

佳子にそれを伝え、佳子が店に買いに行き、
フランスから日本に荷物を送って支払いの代行をする商事会社に委託してくれた。
商事会社と何度か電話で連絡を取ってから、ようやくテーブルは京都に届いた。

ピカピカの真鍮の枠に大理石模様のアクリル台に鉄の三つ足。
頭に描いていたパリのカフェと同じテーブルが私のカフェに揃った。
今はもうカフェという名の形態は、文化混淆の素人的イージーさがふつうになっているが、
12年前私のカフェはパリの再現であることにこだわった。
それでも三年しか続けられなかったフレンチカフェ。
今は玄関や台所や部屋のコーナーでひっそりと個性を殺して次の出番を待っているテーブル。
次の出番?さあ、それは、…。

私のカフェの経営が苦しくなった時、佳子は“いい加減やめれば”と手紙に書いてきた。
私はそれに返事をしなかった。佳子は夫の遺産の相続が片付いてにわかに自信がついたのだと。
二ヶ月後、機嫌を直して経営を立て直す話など書き送った私に、佳子の急死が知らされた。
私の手紙は間に合わなかった。それから一年後、私はカフェを閉じた。

テーブルを日本に送るまでパリの街を駆け回ってくれた友、
毎日真鍮を磨いてくれたアルバイトのギャルソンたち、
日々入れ替わり深煎りコーヒーを飲んでくれた京都の自由人たち。
彼らのの息を刻んだテーブルは誰かに譲ったり、また買い戻したりすることはできない。

ご飯もの

2010-08-26 19:09:10 | ままごと
ままごとは、日本が世界に誇れる文化!

高温多湿で植物の種類が豊富なこと、
四季の変化に富み料理が繊細なこと。
それゆえ食器も多様。

日本ほど、ままごと道具ままごと料理が高度な国はありません。
こんな楽しい遊びを、なんとか次代にも伝えてなくては。

昔作ったままごと料理を思い出し、再現して参ります。



ご飯もの3種
・お赤飯     あかまんま(イヌタデ)
・鶏そぼろ飯   八重山吹、チチコグサモドキ
・豆ごはん    ヒイラギモチの実、公園の砂

夏の終わりの一時期は、ままごと野菜が一斉に姿を消す。
まだ赤くならないヒイラギモチはグリンピース。
辛うじて咲き残っている八重山吹の花をしごくと煎り卵。
台のご飯は公園の砂。
オシロイバナは紅生姜です。

グリンピースには、青い時期のネズミモチの実も代用できます。