六歳のスイス留学 19.

2011-01-01 00:32:00 | 物語
19.京都

 京都の山で、息子が三針縫う怪我を負わされたとき、抜糸は自宅で女医のチエさんが引
き受けてくれた。息子はそれを、漫画の題材にするほど感服していた。
 小学館の『人体の図鑑』への息子の興味と吸収力を、チエさんは「医師の国家試験に通
るかもしれない」と冗談半分で驚いていた。
 そして私や私の友人が大人の悩みをつぶやくとき、大人が思いつかないような新鮮な目
で答えを出してくれることが多かった。それでいて息子は相手に乗り移られるることなく、
自分は自分でいる。
 そんなことがあったので、息子は医師になるのに向いていると思っていた。私や私の親
しい女子校の友人たちで、自分の職業をもってちゃんと大人の生活をしているのは、早い
時期から親が方向を示した友だった。逆になかなか一歩踏み出さずに時間ばかりかけてい
るのは、親が何も言わなかった友たちだった。私自身、人は働かないと生きて行けないと
は教えられなかった。むしろ働かなくても生きて行けると教えられたようなところがあっ
た。大学の友人たちが会社員としての就職が決まったのを喜んでいるときも、なぜ嬉しい
のかまったくピンときていなかったのだ。そうして三十を過ぎても離婚をしても、まだど
こかに属することのできないでいる自分に、息子には早くから方向をリードしてやらねば
と思っていた。
 こんな話も聞いたことがある。子供の頃から船乗りになりたがっていた男子が、親もそ
れを許して船員になる大学に行かせたところ、本人は船員になることがこんなことだった
のかと期待とは違っていたことに失望し、親は大人なのだからなぜちゃんと指導してくれ
なかったと恨んだという。
 息子にはかなり早い時期から、医大を受けるのだと言い聞かせていた。
 京都の大学に通わせたいというのは、息子が中学の頃から考えていた。京都の大学に行
けなくても、いや行けないなら尚更、一度は京都で暮らさせたかった。これまでずっと日
本を避けてきたのだから、日本にある美しいものに触れさせたかった。
 京都府立医大の受験を終えた日、息子は緊張が解けた心地よさで、
「大学受験って楽しいね」
と言った。
 初めて競争相手と肩を並べて、やっと士気に目覚めたというところだった。一回目の受
験の終わりが、息子にとって受験生としてのスタートになった。
 京都府立医大の不合格の結果を受けて、私はすぐに駿台予備校の京都校と、その付属の
寮に入る申込み手続きをした。
 これで来年息子が京都で大学生活を送ることになれば、もう一生息子と生活することは
ないだろう。まだ心の準備が出来ていない自分に気付いた。
 駿台予備校の寮では、夏休みの三日間以外は帰省してはいけないことになっていた。七
月の初め、私は大阪の調理師学校でフランス菓子の特別講義をする予定があった。それを
終えて京都に寄ると、三ヶ月ぶりに会う息子の口は重かった。
「僕、府立医大は無理だよ。二浪はしたくないし」
自分がリクエストした夕食の寿司をつつきながら、十九歳の息子は不満そうにした。
「京都は、修学旅行の田舎者と外人だけが喜ぶ町だよ。何か無理やり風流を楽しまされるみ
たいでいやだ」
 私は息子の予想外の愚痴に、返す言葉がみつからなかった。予備校から父兄に送られて
くる模擬試験の成績では、確かにまだ府立医大の合格可能性は低い。
 楽しみにしてきた京都が、私をもてなす色を見せてくれない。これまで私が指示した道
を、息子は何の不平も言わずに歩いてきたのに、前へ進みたくないというのだ。
 息子にはいわゆる反抗期というものがなかった。スイスから帰国してすぐ、急に貧しい
生活を強いられたときは、少しの間ぐずぐず言ったが、私の道理が正しいとわかると、改
めて従ってきた。
 高校に入って背丈が伸び、以前のように私のひざに乗らなくなった時でも、それだから
といって言葉や態度まで親を見下すようにはならなかった。
 私の好きな京都を、息子も好きになると思っていたのに。私の考えは間違っていたのだ
ろうか。それとも浪人という身分が、心を卑屈にさせているのだろうか。
 フランスの教育を受け、東京という大都会で育った子供には、古都の情緒の入り込む余
地はないのだろうか。
 好みは強制できない。だが二浪したくないという弱音だけは見逃せない。私は帰京して
から息子に手紙を書いた。覚悟が足りない、心が狭いと。
 八月の終わりに二泊三日の帰省を許されて帰ってきた息子は、リセの友達とどこかへ出
かけるでもなく、1DKの狭いアパートの我が家を、こよなく心地よい場所のように動か
ず、寛いでいた。
「この間、大文字の送り火を見たけど、素晴らしかった。寮の友達が財布を拾って届けた
ら、落とし主のおばあさんが、送り火を見られるマンションに住んでて、友達と一緒に見
においでというので僕まで招待されて夕食をご馳走になったんだ」
「夕食は何が出たの」
「カレー」
「送り火見ながらカレーねえ」
 京都や浪人生活への不満はもう出てこなかった。
 秋にまた仕事で大阪に行くことになった時、息子は紹介したい友達がいると言ってきた。
「おかあさんが雑誌に載ったのを見たらしく、会ってみたいんだって。夕食はフランス料
理がいい」
「どんな人なの」
「奈良出身で、寮で一緒の友達」
 私の仕事は、料理書の図書館を作ったことで多方面に広がり、メディアに取り上げられ
ることも度々あった。丁度バブルとグルメブームの絶頂期に当たっていた。
 息子の年頃なら、友達の母親など煙たいだけで、会って話したいなど思うだろうか。し
かもフランス料理がいいという若者は一体どんな人物なのだろう。私も一浪をして予備校
に通ったけれど、その時の友達とは二十年以上のつきあいをしている。息子もそんな友達
をみつけたのだろうか。
 現われたのは、人見知りをしない好青年だった。何の屈託もなく、息子の冗談に応戦し
ている。
「マルくんは予備校の帰り、舞妓さんに会えるかもしれないから、祇園を回って寮に帰ろ
うって誘うもんね」

 予備校から送られてくる模擬試験の結果は、どんどん上昇していった。だがまだ府立医
大の合格可能性は低く、ほかに東京の大学も試験を受けることにしていた。
 国際基督教大学の願書には、今まででもっとも感動した本を三冊挙げて、理由を英語で
書けという指示があった。
 息子は、三島由紀夫の『金閣寺』と、ニーチェの『この人を見よ』と、ジイドの『田園
交響楽』を書いていた。
 私も国際基督教大学を受験したことがある。その時の願書には、人生に大きく影響を受
けた三つのことを英語で書けという指示があったので、私は中原淳一主宰の『ジュニアそ
れいゆ』によるファッションやフランス文化、幼稚園、中学、高校で受けたカトリックの
教育、母の他人と同じでないことを恐れない姿勢、の三つを書いた。
 もし四つ書いてよかったなら、子供時代を過ごした森に囲まれた家を挙げていた。息子
には、森に囲まれた家を与えられなかった分、シャントメルルで過ごさせたことになる。
 文部省の新テストの直前に、息子が京都大学を受けると言ってきたのは、寝耳に水だっ
た。国立大学を受けるということは、試験日が同じの府立医大は受けないということであ
る。
「どうせどっちも受からないんだから、僕が決めていいでしょ」
「でも受けてみなければわからないじゃない。府立医大を受けるだけ受けてみなさい」
「だから僕の希望通りでいいでしょ」
 私は提案は出せても、強制はできない。息子の人生は息子が負っていくことだから。も
うその年齢になったのだ。
 息子の、国立大学への翻意は予備校の寮長の影響が大きいと想像できた。寮では、駿台
予備校出身の大学生を、寮長の待遇で住まわせていた。寮長は浪人生にとっては理想の先
輩に違いなかった。父親のいない子供は、身近な男性に父性を映す。幼い頃は母親の庇護
のもとで外の世界を眺めるけれど、母親の傘から出ると、一番近くにいる男性をあるべき
大人の姿として目指すようになる。
 二月に東京のほかの大学も受けるために帰京してきた息子の口からは、京都びいきの私
が嫉妬するほど、京都の自慢が出てきた。あそこに行った、あれを見たと、私と息子は互
いの踏破領域を比べあった。
「どうして今まで東京が一番いいなんて思ってたんだろうね」
 この半年で息子は変わった。
 再び京都に戻って行った息子には、それが最後の京都暮らしになると思われた。当たり
前のことながら、京都大学の合格者の中に息子の名前はなかった。東京の国際基督教大学
の発表の日、
「合格したときだけ知らせて頂戴。落ちてたら知らせなくていい」
と言っておいた。悪い知らせは聞く必要もないと思った。しかしかえってそれはよくなか
った。電話がかかって来ないと、いつまでも期待して待ち続けることになる。
 息子はその日、夜九時を過ぎてから電話をかけてきた。
「通ったみたい」
「みたいってどういうこと」
「だってニセ電報かもしれないじゃない」
 そのくらい息子も不安で、合格をもっと確かめたいと思っているのがわかる。
 私は、一人旅の子供を見送った日から今日までの、年数分の嬉しさをかみしめた。
 もう足跡のない藪に分け入って、遠くの光に向かって手探りで息子を案内するような不
確かな行脚はしなくていい。これからは、たとえ保護者が学校嫌いのマイノリティでも、
息子の大学生活には影響しない。息子の大学生活が私のマイノリティ生活を脅かすことも
ない。息子は日本のマジョリティと私の橋渡しをしてくれるだろう。
 ざまあみろ。
 誰にあてたというでもない言葉が私の口から出た。

(終わり)