ぽち袋

2010-12-31 00:39:23 | お宝
私にはぽち袋友達が二人いる。

ぼち袋を買うと、同じものが数個入っているから、
違うのを色々揃えるために交換しあう。

たとえば京都では、
同じ運転手さんの車に乗るので
毎回同じ袋は使いたくない。

ぽち袋友達の一人は日舞をし、
もう一人はお茶をする。
ぽち袋をいい加減にしない人たち。

その一人から一セットのぽち袋が届いた。
とてもじゃないが使えない。

あたり構わずご披露し、
額に納めて飾らねば。

松村翠風作とあるけれど、
この名はてっさい堂の貴道裕子さんの著書には出てくるそうな。

御伽噺をテーマにしたデザイン
桃太郎、文福茶釜、舌切雀、兎と亀、金太郎、花咲爺、牛若丸、
猿蟹合戦、カチカチ山、浦島太郎、一寸法師、狐の嫁入

ご希望があれば実物お見せします。

蕎麦饅頭ときんとん

2010-12-30 00:49:19 | ままごと
蕎麦を食べるとセメントを食べているような気分になって
頭痛がしてくる。
冷たいとろろ蕎麦だけは例外だが。

したがって年越し蕎麦は食べない。
食後、夜中にものを食べるのがいやなこともあって、
年越し蕎麦は食べない。

蕎麦アレルギーというわけではないから、
蕎麦饅頭は食べる。
京都では、蕎麦饅頭は焼き菓子のことがあるが、
蒸し菓子の方が好みだ。

九州で白い土を調達してくるはずが、
この頃はむき出しの土はなかなかなく、
公園の植え込みもよそから運んだ土で
茶色をしていた。

九州の高速道路から見た山肌が削られているところでは
白い土が見えたけど。

というわけで、九州の蕎麦粉を使って
大晦日は蕎麦饅頭。

蕎麦饅頭(蕎麦粉=九州の土、餡=東京の土)
きんとん(松の枯葉)

今度また高速を走って
九州の小麦粉を調達してくるかな。

東京大衆歌謡楽団 3.

2010-12-29 00:33:44 | 日記
〝旅の燕 寂しかないか
 俺もさみしいサーカス暮らし〟

サーカスの唄はもう
彼らのオープニングテーマ曲になっている。

シンガーの高島孝太郎はこれを〝つばくろ〟ではなく
〝つばくら〟と発音するので、
自分らしさを表現するためのひねりだと思った

しかしオリジナルの松平晃のレコードでも
〝つばくら〟と聞こえるので、
丸々真似をしているのだと思った

でも待てよ、と調べてみた。

つばめのことを〝つばくろ〟というのは聞いたことがある。
〝つばくらめ〟もある。
竹取物語の中で石上麻呂足が
かぐや姫に命じられるのが〝つばくらめの子安貝〟である。

〝つばくら〟なんてあるのだろうか。
ありやした、広辞苑に。
この唄以外では聞いたことがない言葉だ。

昔の唄は大切にしなきゃね。

で、また日本橋行ってきました。
今度は客が半分で、席も前の方になったので、
写真も舞台が前回より近いでしょ。
最後は「誰か故郷を思わざる」を
客も一緒に合唱。

もっと若い層にもアピールしたいねえ。

〝とんぼ返りで今年も暮れて
 知らぬ他国の花を見た〟

甘酒

2010-12-28 00:08:16 | 美食
母は甘酒を作るときはもち米を使っていた。

鋼の大釜で粥状に米を炊き、
麹を混ぜてから新聞紙で蓋をして
木の蓋を載せてから
炭火の掘り炬燵に置く。

羽釜の底は丸いので、
誰かの足がぶつかると
揺れてこぼれる。

出来上がりを楽しみにしていた兄と私。
なのに、甘くて好きにはなれなかった。
今度こそはと試してみるのだが。

大人になって、ふつうに飲める甘酒。
掘り炬燵はないから、
息子が置いていった蓋のない電気炊飯器で湯煎にする。

これまでに忘れられない甘酒は、
嵯峨野「平野屋」で元日に飲んだのと、
花背の陶芸家・小松華功さんの雪のかまくらの中で飲んだの。

どちらも羊歯の茎がマドラー代わりに付いていた。

ビワ(枇杷)

2010-12-27 00:49:41 | 植物
仕事帰りの夜道にいい香りがする
早朝のゴミ出しに優しい香りがする
時々寝ている部屋にも届く香り

家の前の公舎と、家の横の公園に
それぞれ枇杷の木があって
花を咲かせている。

花の少ないこの時期に
地味な咲き方で枇杷は満開になる。

よく見ると桜の花にも似ているが、
近づき過ぎると下町風の臭いに濃縮される

これが六月、雨の季節に
これまた実の少ない時期の貴重なフルーツになる。

六歳のスイス留学 18.

2010-12-25 00:01:37 | 物語
18.通信教育

 息子が日本でいう中学三年になった年、リセの同級生の日本人女子三人を誘って、我が
家で日本の教科書を使う日本塾を始めた。
 リセには日本人の男子は殆どいなかった。女の子ならば、フランス語が出来るというだ
けで、将来なんらかの職に就けそうだが、男の子の場合、日本の大学に入れることを考え
るせいか、帰国子女でもリセに入れる親は少ないようだった。
 NHK教育テレビがリセを取材に来たことがあった。日本人の男の子がリセでは何を考
え、どういう立場にいるかをインタビューするのに、息子に白羽の矢が当たった。
 リセから帰ってきた息子からこの話を聞いて、私は慌てて、すぐにリセに電話をかけた。
親に断らずに子供の取材を受けてもらうのは困ると。取材映像は放映してもらいたくない
と伝えた。誰が見るかわからない。
 私たちは静かに暮らしているのに、夫や夫の親族が見たら何が起こるか。
 息子は幼児の頃とは顔も姿も変わってはいるけれど、名前や雰囲気でわかる可能性はあ
る。リセからは今後気をつけると謝罪があり、NHKにはその旨伝えると言われた。
 翌日、番組を担当するディレクターから、うちに電話がかかってきた。画面に出るのは
数分のことであり、名前は出さないからいいではないかと、居丈高に押し通された。
 結局、テレビのない我が家では、この放送は見なかったので、どんな画面になっていた
のかは、知らずじまいになった。
 日曜塾では、国語、数学、社会、理科の四科目を教えた。検定教科書を神田の三省堂に
買いに行くと、何種類もあって迷った。フランスの教科書は一種類で、日本のようにしょ
っちゅう改訂改訂を繰り返したりしないので、前年度のものを譲り受けることができる。
とくに我が家のように貧しい家では、新品を定価で買わなくても済むのは助かった。改訂
を繰り返し、何種類もあるのは、役人が教科書の会社から賄賂をもらっているからと疑い
たくもなる。
 年度末、リセの校庭では生徒間で古い教科書を売買する、フリーマーケットのような光
景が見られる。それぞれの加減で値段交渉を子供たちがし合っている。
 お古を下級生に売り、上級生から次の年度の教科書を買った息子は、差し引き利益が出
たと喜んでいた。
 私は息子を日本の大学に入れるつもりだった。リセは日本では学校として認められてお
らず、リセを卒業しても日本の大学を受けることは出来ないので、大検(大学入学資格検
定試験)を受けさせる方法を考えていた。
 日曜塾の時間割は、子供たちが朝から我が家を訪れ、午前中の勉強が済むと私の作った
給食を食べ、昼休みのあと夕方まで勉強という内容にしていた。
 どの子も、自己主張は美徳であるとつゆ疑わない活発さ。息子は皆の中で真面目くさっ
た顔で冗談を連発していた。
 作文は息子が一番筋が通ってうまかったが、数学は妙な仮説を立てて、先生の私と対立
した、
「あのね、教科書に載ってる数学の問題は、必ず正解があるものとして出してあるんだか
ら、変なこと考えなくていいの」
 私はいらだって、息子に数学を教えるのがいやになった。
 ほかの子供たちは親にすすめられて通ってはいるものの、塾には行き慣れていないので、
なぜ日曜も勉強しなければならないのかという面持ちで、長続きは難しそうだった。
 息子には、リセは卒業までは通わせるけれど、日本の大学に行かせるためには、大検を
受けさせようと考えていたところ、その計画にはぬかりがあることを知らされた。
 大検の受検資格の一つである、「外国の学校に十二年間学んだ者」には、日本国内の外
国人学校の卒業者は除外されるという但し書きが付いていたのだ。国外に居て外国人の学
校に学ぶのは仕方がないが、日本にいながら日本の教育を受けないのはけしからんという
ことのようだ。
 私は、大検の別の受検資格である「高等学校の通信制の課程に在学している者」につい
ての方法を検討し始めた。
 都立上野高校には、通信教育のコースがある。ここに入れば大検も受けられる。だがそ
の通信制に入学するには、中学卒業という条件が要る。
 上野高校の校長に手紙を書くことにした。息子には日本の中学を卒業したのと同じ学力
があるので、通信制への入学を考慮してもらいたいと。
 学校側の一番の懸念は、息子に日本語の能力があるかという点だった。息子はスイスか
ら帰国してすぐに漢字辞典を欲しがり、好んで漢字を使っていた。「所謂」や「何処」な
ど、今時漢字では書かない言葉も、あえて漢字を使って親しんでいたので、読み書きには
殆ど問題がなかった。本人も読書はフランス語より日本語の方が早く理解できると言って
いた。
 上野高校には、私の高校時代にもご縁があった。教育テレビで数学を教えていらしたI
先生は、夏や冬の休暇の予備校の講習会のために福岡にいらっしゃることがあって、全く
受験に熱心ではない女子高に通っていた私は、受験校で有名な上野高校の模擬試験の用紙
を、分けていただけないかとI先生に願い出た。I先生は、用紙を送ってくださるだけでは
なく、解答の採点と順位と、志望校への可能性まで知らせると約束して下さった。その後
私が大学生になるまで何やかやとお世話になり、大学への合格の知らせも一番にみつけて
下さった。
 I先生はすでに退職なさってはいたけれど、久々にお電話をして、校長への口添えをお
願いした。
 リセは日本の学校として認められていないのだから、上野高校とかけもちをしてもよか
った。時間的にも通信制なので、重ならない。日曜のスクーリング出席も、リセの休みの
日なので支障がない。
 息子は上野高校に入学した。動物園と博物館に通った上野公園で、今度は高校が息子を
待っていた。
 予想していたことではあったけれど、息子はすぐに上野高校を自分の当然の居場所とい
う顔をするようになり、スクーリングに通った。知らない間にクラス委員にも立候補して
当選していた。
 スクーリングのない土曜日は、一日中有栖川公園の中央図書館で、三島由紀夫や谷崎潤
一郎の本を読みあさっていた。
 それに加えてか、日本史の教科書がわりに買い与えた「まんが日本の歴史」の影響で、
息子は急に天皇や皇室への興味を膨らませた。
 五月のある朝、目を覚ますと子供はもう出かけていた。いつものゴミ出しをやってくれ
ているのかと待っていると、日の丸の小旗を手にして帰ってきた。
「国民のみんなも健やかに、だって」
 皇居まで天皇誕生日の参賀に行ってきたのだ。しかし息子の場合、思想や主義というよ
り趣味に近く、リセにいることで日本人という意識が強く出てきたに違いない。
 大検は、高校で単位の取れる課目は受験しなくてもよかったので、実際には数課目だけ
を受験した。大検に関しては、高校二年ですべての課目をパスできた形になったので、そ
れ以後は上野高校には通わなくてよくなった。あとは大検が発効になる十八歳を待つだけ
になった。
 リセの卒業は六月で、息子は同年齢の日本の高校生より、半年早い卒業になる。その半
年を使って、息子に足りない日本の大学の受験勉強をさせる予定でいた。
 フランスでは、個々の大学を受験するのではなく、バカロレア(大学入学資格の国家試
験)をリセの最終学年で受けてから希望の大学に進む。それも日本のように猫も杓子も大
学に行くという選択はしない。社会が進んでいるからというより、むしろ古くからの分類
が生きていて、身の程を蹴散らしてまでよその世界に入り込もうとしない、というのが私
の印象だ。
 リセの最終学年で、息子はバカロレアに落ちた。数学が不合格だった。日本の大学に進
むのだから、バカロレアは必要ないのだが、普段から勉強ができると思っていただけに、
大抵の生徒は合格するバカロレアに落ちたことは、息子にとって打撃だったはずだ。初め
ての敗北は、それだけで経験という収穫はあったかもしれない。
「十年間授業料をつぎ込んできたのに」
私はうらみがましく言った。
 これでフランスの大学に行く道は断たれたので、背水の陣で日本の受験に臨むことにな
った。しかしまだ、息子には日本の受験戦争がどれだけ厳しいものかわかっていない。私
が口でどんなに説明してもわからなくて当然だろう。
 半年のラジオ講座と自宅学習だけで受験した息子は、志望の京都府立医科大学に落ちた。

オールドノリタケ 2

2010-12-24 00:31:32 | お宝
子供の頃のクリスマスは、
父の教え子が何十人も来て、ダンスパーティー。

レコードは何枚もあった。
ただし蓄音機は電蓄になる前の手動式。
古くなったレコード針は
どんぐりに刺して駒の代わりになる。

デパートからは、まるでウェディングのような
段重ねのケーキも届いていた。

母はいそいそと料理を用意。

物心ついたときに家にあった洋食器。
もう三枚だけになったけど、
スープ皿も砂糖壷もティーカップも
目の中に残っている。

BACK MARK裏印のRCは、
ROYAL CROCKERY高級陶磁器の略で、
ノリタケでは1940年代に使われていた。

クリスマスケーキ

2010-12-23 00:18:45 | ままごと
東京の土は黒いから、ケーキも作れない。

あ、違う。

黒いから作れるものがあった。

チョコレートケーキ、ばっちり。

チョコレートのスポンジ台 (公園の土)
ヒイラギ (ヒイラギモチの若葉)
ろうそく (ドウダンツツジの芽)
イチゴ (イペリクムの実)

イペリクムなんて和名のない植物は、あたしゃ植えも買いもしませんよ。

近頃はこんなものばっかり花屋に売っていて。

写真のは、あるお人が捨てておいでになったのを見て、
あ、イチゴだと拾ったんざんす。

クリスマス・ヴァージョン

2010-12-22 00:52:38 | 日記
また藤山直美さん、
いやチンドン芸能社の美香さんにお会いしました。

今回もカメラに向けてポーズ。

でも吹奏の連中が冴えず、曲にはなっていませんでした。

こうしたメンバーはいわゆる日雇いなので、
いつも決まった人が演奏するわけではありません。

広告主が払うギャラの例として、
時給5000円×人数とか
一人日給45000円とかネットに出ていました。

チンドン屋さんの人数は減る一方だったのが、
近頃は若者の参加も増えてきたとか。
とくに福岡ではその傾向が目立つらしく、
ふむふむ、なんかわかる。

彼らはミュージシャンを目指して兼業だそうだが、
屋内の舞台や屋外の大道でのライブと、
路上の行進に何の違いがあろうか、
兼業といわず本業と自覚してもらいたい。

折角クリスマスの格好を見せてもらったのに、
うまい演奏が聞きたかったよー。

ミロトン

2010-12-21 00:28:14 | 美食
1980年発行、料理研究家の上野万梨子著『シンプルフランス料理』は
日本でのフランス家庭料理と、料理研究家の世界を一新した。

その中の気になる料理は全て作ってみたが、
ミロトンだけは、なかなか手をつけられなかった。
ポトフが残ったときに作る料理と書いてあったから。

一人暮らしではポトフは作りにくい。
来客があるときに作っても、残してくれるとは限らない。

機会が来たのはカフェでポトフを作ったときだった。
これならば残るほど作っても、
またミロトンも食べる人が続く。

でもミロトンを作ったのは
私ではない。

ホテルで修業した料理人が、
パートでいいから使ってくれと来たので、
試しに作ってもらった。
ミロトンは知らないけど、
レシピさえわかれば作ります、と言った。

一口食べて、「こんなおいしいもの、残り物とはいえない」。
要するに、グジャグジャになったポトフの上に
トマト味の玉葱ソースをかけたグラタン。

フランス暮らしの長いMAYUMI TOZUKA-PITTEさんの住まいを訪ねたとき、
クリスマスにはポトフを作る予定だと言った。
ロビュションやサンドランスの厨房に入れる腕をもつMAYUMIさんが
ポトフのような簡単な料理をと思ったが、
暮らしのエッセイを沢山書いているMAYUMIさんの知恵だと知った。

ホステスが席を立たずに出しやすい料理だから。

ノエルにはポトフを作って、
アプレノエルにはミロトンを作る。

ミロトンを一緒に食べられる相手は
きっと気心の知れた相手。

これから〝ミロトンを食べる仲〟という言い方が出来るかも。