12. 祗園
カフェのテイクアウトの商品は、ケーキ類、ジャムのほかに知り合いの食品会社の缶詰
やスパイス、私が翻訳した料理書などを置いていた。
時々はサンドウィッチを持ち帰りたいという人もいて、そんなときはあり合わせの箱に
詰めることもあった。
そこへ、店で出しているコーヒーの粉を売ってほしいという人が現われた。Rive Droite
のコーヒーは、京都のいくつかのコーヒー専門店で、豆と焙煎の具合を試作してもらって
ヨーロッパの味に近いものを採用したという経緯がある。つまり焙煎の度合いに関しては
Rive Droite だけのオリジナルになる。それを気に入って、指名して購入したいという人
が現われたのは私にとって快挙だった。注文を受けた息子は、
「後で取りに来るから、粉に挽いておいてといわれた。200gを二袋」
と言った。
現われたのは、私と同年代の、花を手にしたシックな着こなしの女性だった。ビュッフ
ェの描く女性のような個性的な顔立ちで長身の婦人は、その後も何度も買いに来るように
なった。言葉のイントネーションは関西のものではなく、ふだんお客に探りを入れること
のない私が、つい踏み込んで尋ねた。
「京都の方でいらっしゃいますか」
大学時代、福岡から東京に出てきてすぐ、九州のイントネーションが耳に入ると、懐か
しくて話しかけたことがある。京都では関東の言葉が耳に入ると、町中ですれ違った人で
も、付いて行きたくなっていた。
「東京です」
神谷さんとのつきあいは、それから始まった。
「お宅のカフェは、東京に行っている娘が帰省してきた時にみつけて、ママの好きそうな
味だと教えてくれたんです」
神谷さんは東京の大学を卒業した後、結婚して京都に住むことになったと言った。夫君
を癌でなくし、今は一人でコンピュータのソフト会社を経営していると話してくれた。
神谷さんにもう一歩近づく機会が訪れた。京都新聞から、お店紹介欄にRive Droite を
載せたいが、推薦者が必要なので、誰か候補を挙げてくれという依頼があり、神谷さんを
一番に思い浮かべた。
きさくな神谷さんなら、すぐに引き受けてもらえると思っていたところ、自分は学生運
動をしていたときにつかまったことがあるから、自分の会社の専務の女性ではどうかとい
う返事が来た。それを押して私は神谷さんにお願いした。
神谷さんの推薦メニューはレモンパイと決まり、神谷さんの写真も京都新聞に載った。
反応は学生運動とは無関係の、意外なところからあった。興奮気味の女性が店に電話をか
けてきた。
「あの新聞に載っていた神谷さんと連絡を取りたいんですが、連絡先を教えてもらえませ
んか」
私は用心をして
「時々うちにいらっしゃるだけなので、こちらは連絡先がわかりません。お宅様のご連絡
先を伺っておいて、神谷さんがいらした時にお渡しするのでもよろしいでしょうか」
と答えた。
「構いません。私は昔神谷さんご夫婦に本当にお世話になった者なので、どうしてもお礼
が言いたいんです。ふだんは午前中しか家におりませんので、よろしくお願い致します」
女性は神谷さんの夫君がなくなっていることは知らないようだ。
神谷さんに伝えた。
「あの人は、私と夫が新聞社に勤務していた時、戸籍の問題で仕事ももらえないでいたの
を、保証人になって世話したことがあったの」
その後神谷さんと電話の主は連絡がとれたとのことだった。
さらに神谷さんと親しくなる機会が訪れた。
由布院温泉から、友人の深見親子が京都に来ることになったとき、折角の会食なら京都
の知人を何人か紹介したいと思い、財団の福井さん、大学の田辺先生、それと神谷さんを
誘った。最初神谷さんは迷っていたが、また私の押しに負けて参加を承知してくれた。
深見さんは由布院一ともいわれる旅館の主で。田辺先生の奥様が編集する雑誌では何度
も掲載している。
「私は以前ちょっと贅沢をして泊まったことがあるわ」
神谷さんが言った。
京都に新しく出来た上海料理の店で食事をしたあと、六人で祗園の御茶屋へ繰り出した。
常から女医の友人の千恵先生がひいきにしているところで、私も何回かお供をしていたの
で、覚えてもらっていた。
深見さんの息子が御茶屋の御姐さんたちの標的になったが、旅館の跡取りらしく上手に
かわして相手をしている。
帰りのタクシーは福井さんと神谷さんと私が一緒に乗った。
「石井さん、またああいうところへ行くには、どうしたらいいでしょう」
福井さんが聞いてきた。
「福井さんは名刺を置いてらしたでしょう。お茶屋は名前を忘れませんから、次回からは
ご自分のお名前で予約なさって大丈夫ですよ」
福井さんは所属する団体が主催するイベントの切符を下さったが、私は店があって出ら
れないので、神谷さんに譲った。
神谷さんは私が京都で得た初めての友人になりつつあった。私が今時パソコンも持たな
いのを驚いたか哀れんだか、神谷さんは会社で不要になったノートパソコンを寄付してく
れ、基本の使い方を教えてくれた。これがあれば私の副業の料理書の図書館業務も目録が
作れる。カフェにお客がいにない時、といっても大抵いないのだが、私はパソコンに向か
ってリストを作り始めた。
日曜だけ手伝ってくれているギャルソンの藤原が、就職試験のために、にわか仕立てで
構わないのでパソコンの勉強をしたいと言ったとき、神谷さんに相談すると、会社に来れ
ば誰かいるので基礎くらい教えられると言ってくれた。私もまだ尋ねたことのない神谷さ
んの会社に藤原を出向かせ、基礎の勉強をさせてもらった。
神谷さんの会社もバブル後なかなか大変のようで、逆に外部の人どころではないので、
藤原が来るのは大したことではないという具合だった。
神谷さんの会社に数回通ったあと、藤原はめでたく希望の会社に試用採用された。
私自身は神谷さんの会社に行ったことはなかったが、一度会社から出てきた神谷さんと
専務の女性が、私の乗ったバスに乗り合わせたことがあった。私は嵐山にパンを買いに行
くところだった。
「嵐山って、このバスで行くんですか?」
「そうですよ。終点まで乗ってれば、嵐山に着くんです」
神谷さんは、そんなところへは行ったことがないという不思議そうな顔をしていた。そ
んな世界とは無縁の、生き馬の目を抜くビジネスに生きる経営者の顔だった。
私も嵐山にしかないクロワッサンを買って、カフェの味を作ろうとしているビジネスだ
と言いたいけれど、どこかテンポが違う。
神谷さんたちが千本丸太町で降りたあとも、バスはまっすぐ西へと向かう。太秦から嵯
峨あたりに来ると、日は西山に入る頃だ。夕焼けに向かって進むバスを降りてみたい気持ちになる。
いつかこの辺りの宿に泊まって、嵯峨野に残る田圃から空きの夕日が沈むのをゆっくりと眺めてみたい。