京都のカフェ Rive Droite 1998~2001 3.

2011-01-22 00:08:48 | 物語
3. 御池通り

 有限会社を作る準備をしながら、カフェにする店舗物件も並行して探していた。
 カフェは間口が広くなければならない。しかし京都は鰻の寝床の物件ばかりで、間口の
広いところなど皆無である。その昔、間口の広さに応じて税がかけられたので、こうなっ
たという。
 場所はいいが狭すぎる、建物はいいが場所が寂しい、カフェにはお誂え向きだが所有者
が飲食業を許さないなど、帯に短したすきに長しの物件ばかりである。
 京都は日本一喫茶店の多い町と聞く。繁華街は言うに及ばず、裏道や山の中にも何年も
続いている店をみかける。競合店があるにもかかわらず、つぶれずにいるのは、店舗が賃
貸ではなく所有物件で、人も雇わず家族だけで営業しているかららしい。
 物件探しに行き詰まったとき、以前レストランを経営したことのある知人が、御池通り
に面白い物件があると言ってきた。そこは貸物件と出ているわけではなく、現役の倉庫と
して使われている。
「味のある物件ですよ」
          
 知人の言葉通り、倉庫は関西では少ない大谷石の組まれた立派な造りだった。
 荷物の出し入れのために開放されている正面から中をのぞくと、体育館のような鉄の梁
が高く渡っている。今時なかなか見ない倉庫である。
 同じ敷地内に、これまた懐かしい、昔の医院の窓口のような、ガラスの開閉する受付の
ある木造二階建ての事務所棟と、細かいタイルを嵌め込んだ別棟の手洗いがあった。
「石井さん、所有者に貸して下さいって言ってみなくちゃ。駄目でもともとですよ」
 店を経営してことのある人の助言は説得力があった。
 倉庫は造酢会社のものだった。図書館に行き、会社年鑑で経営者の名前を引いた。次い
で紳士録で社長の経歴を調べた。
 社長は阪神地区に本社のある年商100億の造酢会社のほかに、全国でベストスリーに入る
東京の食品問屋の社長も兼任していた。私は造酢会社宛てに手紙を書いた。
 そのことも忘れた三ヵ月後、東京の食品問屋から電話があった。一度お会いしましょう
と言ってきたのを、私は自分が東京に住んでいる気分で簡単に返事をしたが、京都から東
京に行く交通費は、会社を立ち上げる前で、痛い不意の出費だった。
 日本橋の年季の入ったビルで、社長は副社長の弟にも紹介してくれた。
「弟はアメリカでコンビニのシステムを勉強してきましてね」
 二人は似ていなかった。
 長身でにこやかな社長と比べて、副社長は小柄で険しい眉をしていた。
「よろしかったら、うちが六本木でやっている寿司屋にご案内します」
 お付きの運転手がいる車に乗り、夕食は三人で出かけた。
 倉庫は私の希望の家賃で借りられることになった。もう一歩踏み込んで、出来つつある
会社への出資も検討してもらえないかと頼んでみた。
 社長が席をはずしたとき、副社長は言った。
「折角お近づきになれたのに、もし資本でも協力していると、会社が駄目になったとき、
仲違いすることになりますよ。そういう例をいくらも知っていますから。まあ決めるのは
社長ですけど」
 次の面談は現地、京都の倉庫で行われた。
 午前の会合を終えて駆けつけた社長との短い会談で出資は決まった。
「この建物はね、僕が子供の頃、父親に手を引かれて京都に来たとき、父がここを買おう
と決めたんです。祇園祭の鉾が丁度この前で止まるので、二階の広間でお客様を招待して
見物してきました」
 事務所棟は一軒の日本家屋になっており、二階は畳敷き、一回には台所も付いていた。
 しかしそれから半年、他の出資者との交渉や店舗設計に時間を取られている間に情勢は
変わった。
 造酢会社からは、土地を貸せる状況ではなくなり、他の取締役から反対が出たと言って
きた。
 ほどなく倉庫は取り壊され、コインパーキングになり、その後東京の食品問屋は他の会
社と合併して社名も変わった。
 大谷石の倉庫でカフェを開く計画は霧のように消えてしまった。しかしあの日御池通り
の事務所で、京華堂利保の濤々を前に出資を承諾してくれた社長の好意への感謝と、初め
て父親に御池通りの倉庫の場所に連れて来られた少年の像は、私の頭から消えることはな
いだろう。
 こうなったら自分の理想とする店のイメージを固め、それに合うものがあったら、貸し
てもらえないかと一軒一軒ぶつかってみる発想に切り替えた方がいい。
 市役所の近くで目にとまった自転車屋は、場所も広さも向きも、カフェにするのに理想
的だった。
 オープンカフェの場合、店が南や西を向いていると日が当たり過ぎ、野外での着席は、
まぶしかったり暑かったりで、快適とはいえない。北か東を向いているのが理想である。
 その点、この自転車屋は、北東の側に店が開き、交差点の中心を向いている。
 繁華街過ぎず、さりとて寂しい郊外ではなく、交通の便も良く、京都以外の観光客の目
にも留まりそうな場所にある。
 とはいえ貸物件の札が出ているわけではないので、所有者の意向とは関わりのないとこ
ろで、私が勝手にここをカフェにしたいと思いついただけのことである。
 まず法務局に行って権利関係を調べた。所有者は、自転車屋と同じ名前の人物だが、税
金の滞納で差し押さえ物件となっていた。
 こんな状態で貸してもらいたいと交渉ができるのか、交渉するにはどう切り出せばいい
のか、相談相手として浮かぶのは、知り合いのタクシードライバー谷さんだった。
 これまでも世知に長けた判断の必要なときはこの人の知恵を借りてきた。特に京都とい
う土地柄を考慮に入れなければならないときは。
 いや、こちらが相談を持って行く前から、困りごとの解決に、向こうから見かねて手を
貸してくれた例は枚挙に暇がない。
          
 バブルの頃、知り合いの食品会社が伏見の酒屋を買い取りたいと言ってきたとき、彼は
売ってくれそうな酒造会社をみつけ、タクシーが非番の日にスーツを着て交渉に行ってく
れた。
 東山の眺めのいい場所で、友人たちと野点をしたいと言うと、土地を所有する寺院との
交渉は勿論のこと、頼みもしないのに緋毛氈の調達まで手配してくれた。
 乗用車を持つことになった私が、駐車場に困っていると、彼は自分が持っている駐車場
の一つを無料提供してくれた。
「あの自転車屋、カフェに貸してくれないかしら」
「センセ、ほんまに話に行ってよろしのやね」
 今回はいつになく固くなっていた。タクシーの中で待つ時間も長かった。
 谷さんが店の中に入って一時間近く経ち、ようやく戻ってきた。
「センセ、今は貸さんと言うてますけど、少し待ったら落ちまっせ」
 自転車屋の奥さんは病気で入院しているからというのが根拠だった。いつか落ちるとい
っても、いつまで待てばよいのか。
 こんなところをカフェに出来たらと思う物件はほかにもあった。
 高瀬川船泊まり奥の元お茶屋街の日本家屋と、今出川橋西詰めの銀行跡。
 しかしどちらも人の気配がなく、ひっそりと門を閉めており、交渉するにもとっかかり
がわからない。ましてや、まだ会社も立ち上げてない時期に、いくら払えるかわからない
女が、飛び込みで交渉するのでは、意気込みも足りず、見込みがない。
 これら二つの物件は、その後それぞれ今も盛業の、お座敷中華料理店とカフェになった。
 場所か広さか家賃か、どれかに無理をしないと、京都にカフェの開ける物件はないよう
に思えたとき、バスの中からみつけた木造三階建ての物件が、少し高い家賃だが、間口も
なんとか妥協できた。
 これなら峰社長の言う四十席以上という条件もクリアできる。市役所に近く、二つのバ
ス停の中間ではあるが、河原町通りに面してもいる。以前政治家の選挙事務所になってい
た記憶がある。
 物件は不動産会社の社長の所有のため、仲介手数料は取られないとのことだった。不動
産屋には、有限会社を作ろうとしていることを説明して、手付金無しでしばらく保留にし
てもらった。
 開店資金は会社の資本金だけではたりない。公庫なり女性支援金なりからの融資の交渉
も始めなければならない。だが銀行も公庫も起業支援機関も、保証人なしでは資金は貸し
てくれない。これは一番高いハードルだった。
 目当ての店舗物件の不動産屋は、若い青年が担当していた。保留にしてもらってから半
年、有限会社は作ったが融資は見通しがなく、カフェ計画は行き詰まった。
「一歩一歩石井さんの希望の方向に進んでいるじゃありませんか」
 青年は五十の私を励ますことのできる言葉を持っていた。
 そんなとき四十年ぶりに会った小学校の同級生、ゆみこさんが私のカフェの話を聞いて
ほかに誰もいないなら、自分が公庫の保証人になってやろうと自分から申し出てくれた。
こちらが頼みもしないのに。
 ふつうは頼まれても、たとえ親兄弟でも保証人にだけはなるなという。私が逆の立場で
も、引き受けることは考えられなかった。
「だってちゃんとした案があるのに、そのことだけで夢が叶わないのは残念じゃない」
 ゆみこさんは一時期飲食店を経営していた。その大変さも面白さも知っての上で保証人
になってくれた。
 公庫から一千万円の融資がおりた。会社の資本金と合わせて一千六百二十万円の資金は
四十席の店には心細い額ではあった。
 全てが揃った三ヵ月後に開店にこぎつけた。
 開業日は、桜の花がもう少しで開くという1998年弥生晦日の大安にした。