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View of the World

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競走馬の名前に見る馬主の教養とセンス

2018-12-05 11:38:45 | 国民の成熟の度合い
 日本の有名人で「競馬」に最も熱心だった人といえば、まず思い浮かぶのは菊池寛でしょう。文藝春秋社を創立し、自由な社風で日本の出版文化に多大な貢献をしました。芥川賞、直木賞をスタートさせたのもこの人です。競馬をイギリスのように「ジェントルマンのスポーツ」として育てたいという願いから、自らも数頭の馬の持ち主になりました。彼の頭の中では、文学と紳士道(ジェントルマンシップ)と競馬が混然一体となっていたようです。
 
 この菊池寛が生きていたら、さぞかし大喜びをしたであろう「快挙(かいきょ)」が起きました。12月2日(日曜日)、中京競馬場、第11レースの「チャンピオンズカップ」においてです。いくつもの栄光ある重賞レースで優勝した実績を誇る15頭が、1800メートルのダートコース(砂のコース)で覇を競いました。一番人気は3歳の牡馬ルヴァンスレーヴで、単勝の予想配当は1.9倍という圧倒的人気でした。騎乗したのは日本に住んで3年目のイタリア人ミルコ・デムーロ騎手です。
 期待にたがわず、デムーロは絶妙の手綱さばきでこの馬を御し、2着馬に1馬身以上の差をつけて優勝、1着賞金1億円を獲得しました。

 さて私が「菊池寛が生きていたらさぞ大喜びしただろう」と申し上げたのは、騎手のレース全体を見通す能力や、駆け引きの巧みさを褒めたいからではありません。私の賞賛のポイントはただ一つ、愛馬にこの名前を付けた馬主のセンスと教養です。「ルヴァンスレーヴ」という長い名前を聞いて、直ちにこれが何を意味するかが分かる競馬ファンというのは、そうはいないでしょう。たとえ「意味」は分かっても、この言葉が辿ってきた苦難に満ちた20世紀の一時期を具体的に思い浮かべられる人となると、数はさらに激減します。その証拠に、このレースを生中継したフジテレビの解説陣も、だれ一人として「命名の由来」についてしゃべりませんでした。話すべき「知識」がなかったからだと思います。

 「ル・ヴァン・ス・レーヴ」という詩は、日本語では「風立ちぬ」と訳されています。作者はフランス人ポール・ヴァレリー。「20世紀最高の知性」と讃えられた人です。作家堀辰雄はこの詩に感銘を受け、「風立ちぬ」という小説を書きました。これで「競馬と文学」がつながったでしょうか?

イランのサメたちの運命 付け加えたい追加情報

2018-11-30 21:57:07 | 国民の成熟の度合い
シーア派とスンニ派の対立にもっと気を配るべきでした。 


 週間前にこのブログで、イランの最高権力者ハメネイ師が「聖断」を下し、「サメにもウロコがある」とする意見を容認したーー旨を書きました。その結果、今までペルシャ湾でのんびりと泳いでいればよかったサメたちの運命が激変し、食欲旺盛なイラン人たちに食べられる日々が訪れた。もはやかつてのように安閑(あんかん)としていられなくなったーーとお伝えしました。
 この記事はべつに誤っているわけではありません。しかし読者の皆様には、もう一つ重要な追加情報をお伝えすべきだったという思いが、日を追って募ってきました。

 私の記事だけをお読みになった方は、「そういうものか。これでイスラム教徒たちも堂々とサメ(フカ)の肉を食べてよいことになったのだな」と思われたのではないかーーという「懸念(けねん)」が、日増しにつよくなってきたのです。

 日本のマスコミも、イスラム教について書く(あるいは「話す」)場合には、イスラムには聖「シーア派」があって、この両派はことごとに対立しているーーといった解説を加えています。読者や視聴者の皆さんもこの両派の対立が、国際的な緊張を生み、きわめて危険なものだということはご存知だと思います。私の記事の問題点はそこです。

 「いくらハメネイ師がイランで影響力を誇っていると言っても、彼はシーア派の指導者に過ぎないのではないか。世界のイスラム教徒の90パーセントはスンニ派であり、シーア派は10パーセントだと聞いている。その少数派の実力者が、「サメにはウロコがある」と断じたからと言って、世界のスンニ派のイスラム教徒たちが、「サメにもウロコがあるらしい。俺たちもひとつ食ってみるか」という気になるものだろうか? サメたちの運命はまだまだ安泰ではないのか」といった疑問あるいは異論をお持ちの方もいらっしゃるのではないか。そこをはっきりと書くべきだったーーというのが、私の反省点です。

「パ」にあって「セ」にないもの

2018-11-27 11:25:19 | 国民の成熟の度合い
 この3日間の当ブログは、門外漢の野球談議でした。最近の日本シリーズでの劣勢から、なぜセントラル・リーグは負け続けるのかを探ってみたわけです。できるだけ「大きな」「あまり論じられていない」視点から、「素人の暴言」とのご批判を覚悟で、「パとセの違いはドーム球場の数による」という記事をまとめました。
 しかしドーム球場を一つ作るだけで、数十億円はかかるでしょう。それだけの負担に耐えられる球団がいくつあるかと考えると、この着眼が日の目を見るのはだいぶ先のことになってしまいます。
 
 「もっと簡単に、お金はほとんどかからずに、パとの差を縮める案はないか?」と考えてみました。ありました。大方の読者諸賢はとっくに気付いておられそうな案です。おそらくは「企業秀才や団体秀才」の多くも気付いており、自分が所属する「球団所有会社」のお偉方に提案したが、却下されてきたであろう案です。
 「パにあってセにはないもの」といえば、答えは簡単です。

 言うまでもなくそれは「指名打者制度」です。なぜパはこれを思い切って導入し、セは導入しないのか? 推測ですがセントラル・リーグのお偉方の中に、「指名打者制度なんてものは邪道だ。我らはパの諸球団よりもはるかに老舗(しにせ)であり、名門なのだ。あの新興成金たちとは格が違うのだ」という先輩意識に凝り固まった実力者がいるからでは? と思えてきます。目をアメリカに転じれば、事の本質およびこの制度の有無による経営上のプラス・マイナスはもっとはっきりと見えてきます。大谷翔平選手は、氏名打者制度のないナショナル・リーグでは、とても新人王には選ばれなかったでしょう。注目の度合いもはるかに低かったことは、間違いありません。固定観念を捨てて、プロ野球全般の発展のために、関係者各位には、この案を慎重に検討してほしいものです。

セ・リーグ代表はなぜ負け続けるのか?

2018-11-24 18:29:08 | 国民の成熟の度合い
 日本シリーズが終わってだいぶ日が経ったいま、見出しのようなことを取り上げても皆さんの関心は薄いかも知れません。しかしシリーズ中の、元有名選手らによる解説が、あまりにも一投一打の巧拙にこだわりすぎて、「少しも面白くない」とお感じになったことはないですか? もっとマクロ的視点から、セの代表がなぜ負け続けるのかの、「本質的かつ構造的な分析」がなければ、今後もセは負け続ける可能性が高いと思います。
 こういうことは「玄人に論じさせては駄目!」なのです。政治部の記者上がりの人が、政局の節目節目にテレビで解説をしますが、彼らは「政局は語れても、政治は語れない」というのが定評になっています。それでもマスコミは、永田町の裏表に通じた(はずの)OBを起用したがります。かくて日本の政治も政治ジャーナリズムも、次第にマンネリ化し、活力を失っているのが現状ではないでしょうか?
 野球も政治も「素人による暴論」が必要な時代です。


 さて前置きはこのくらいにして、ずばり本論に入りましょう。見当外れは覚悟の上です。
 私の見るところ、セ・リーグの劣勢の最大の原因は、「ドーム球場の少なさ」です。セの球団でドームを本拠地とし、年中最適気温の中でプレーできるのは、巨人と中日だけです。片やパ・リーグは、ソフト・バンク、日本ハム、西武、オリックスと4球団あります。ドームがないのは楽天とロッテだけです。しかし彼らもビジターとして4つのドームでプレーできるのですから、「疲労度」という点から考えると、セの全球団の疲労度に比べて、パの各球団は相当に恵まれていることになります。この「ゆとり」を技術の向上や戦略的に野球を考えることに使えれば、セ・リーグ全体と比べて相当の「差」が生まれるのではないか?

 というのが、私の「素人による暴論」の骨子です。セは早急にドーム球場を建設することを勧めたいと思います。

2500年前の英雄の名が付いたチョコレート

2018-11-21 11:18:54 | 国民の成熟の度合い
歴史を単なる「過去」ではなく、今も継続する「実感」として捉える人々

 ペルシャ(現イラン)軍に攻め込まれた古代ギリシャのことを、何度かにわたりお伝えしました。中でも峻険(しゅんけん)テルモピレーで、味方の数百倍のペルシャ軍を迎え討ち、300人の兵士と、その指揮官(国王)の全員が死んだギリシャ同盟の一員スパルタのことを書きました。指揮官の名が「レオニダス」であることも、お伝えしました。
 読者の多くは、「そんな2500年近くも昔のことはどうでもよいではないか」「話は古すぎるし、スパルタは遠すぎるよ」と感じられたことでしょう。
 しかしこの英雄の名を親からもらった男の子は、今もヨーロッパには何人もいるのです。彼らにとって、歴史は学校で習って試験が過ぎれば忘れてもよい「過去」ではなく、今の生活と密接に結びついている「実感」なのです。


英雄の名を冠したチョコレート 
 
 そうした「手に触れうる歴史」との結びつきを感じさせるものの一つがお菓子、とりわけチョコレートです。「レオニダス」という名のチョコレートが、日本でも売られているのを私が初めて知ったのは10年ほど前でした。おしゃれなレストランや洋菓子の店が並ぶ、東横線の代官山駅のすぐ近くにその店はありました。ギリシャ風の兜(かぶと)をかぶった武人の像の下に「レオニダス」という文字がはっきりと読み取れました。小学校にあがる前に、西洋の英雄たちの物語に多少なじんでいた「元少年」にとっては、この武人の栄光と悲劇が即座に目に浮かんできました。店員さんたちに、念のために彼のことを聞いてみましたが、だれも「知らない」との答えでした。

店の先代は「レオニダス・ファン?」 

 数日が経って、少し調べてみると、レオニダスという店は東京だけで5軒ほどあることが分かりました。さらに調べて驚いたのは、チョコレートに付けた名前は、単に有名な英雄の名を拝借したというだけでなく、この店のオーナー経営者のファーストネームが「レオニダス」ということからの命名だということでした。なんとキリストが生まれるより480年も前の英雄の名を、息子に付ける父親が(こういう名前を母親はまず付けない)、現在のベルギーにいるのです。ということはこの店の先代だけではなく、他に何百人ものレオニダス・ファンの男たちがいて、息子に自分好みの名を付けている可能性があるのではないでしょうか? 

 「次から次へと想像力を働かせて、いろいろなことを考え出すのもいいけれど、ついて行く方はけっこう疲れるよ。今日はこの辺でお開きにしたらーー」という声がどこかから聞こえる気がします。すなおに言うことを聞きましょう。