「安心とは車の後ろの座席で眠ることさ!」「きみは何にも心配しなくていい。お母さんとお父さんは前の座席にいる、そして心配ごとはぜんぶ引きうけてくれる。何もかも面倒みてくれる」と少年は言います。
少女はうっとりとした表情で「ほんとにすてきね!」と返します。前回はここまでお話ししました。
不安に駆られあれこれと心配している少女に対して、こういう目に見えるような形で「安心」のイメージを語れるというのは大したものです。だが少年チャーリー・ブラウンの人生に対する見方はもっと鋭く、現実的です。うっとりしている少女ペパーミント パティに向かって彼は言います。
「でもこれはいつまでもつづかないよ! 突然きみは大人になる、そしてもう二度とこういう具合にはいかなくなるのさ!」
「突然それは終りになる、きみは二度と後ろの座席で眠れなくなる! もうけっして眠れないのさ!」
「もうできないの!」
「絶対にできないよ!」
急に不安にかられたペパーミント パティはいいます。
「私の手をしっかりにぎって!」
両親が自分の不安や悩みをぜんぶ吸収し、引き受けてくれた夢のような日々は長くはつづかない。人間は大人になる。そして前の座席に行かなければならない。悩みや心配ごとを引き受ける側に回らねばならない。これは避けることのできない運命(さだめ)であり、後ろの座席で眠ることは「もう絶対にできない!」と少年は言うのです。
老年にとっての「安心」とは
これはチャーリー・ブラウンやスヌーピーが活躍するマンガ『ピーナッツ』の中でも最高傑作の一つとされている長編です。日本でいつまでもスヌーピーたちが、「可愛い」だけのキャラクターとしか見られていないこと、これではアメリカ人および世界の知的な人々とのコミュニケーションは不可能だと思った私は、1993年に『スヌーピーたちのアメリカ』(新潮社)を書きました。幸い多くの人々の支持を得て、9年間に15刷りを数えました。その中の一つに、この「安心について」が入っています。当然のことですが、私の本では、『ピーナッツ』の紹介だけではなく、自分の実体験や意見も加えてあります。
「安心について」というからには、安心を最も欲している、老年の安心についても触れねばなりません。私の母は、88歳で永眠しましたが、晩年はいろいろなことを心配していました。母にとっての安心とは、たまにお風呂に入れてもらい、あたたかいバスタオルにくるまれて、寝床まで運んでもらうことであり、近所の犬の鳴き声でした。さらに母にとっての安心は、息子(私)が朝仕事に出かける靴の音であり、夕食後にテレビを見ながら笑っている私の笑い声でした。「よう笑うね」と私の妻に話しかけていました。人格円満といえない息子が、喧嘩をして会社を辞めてしまうのではないか、とまでは考えなかったと思いますが、老いたる母にとっての安心は、「今日も昨日と変わらない生活」だったようです。それを悟るのに、どれだけ長い時間がかかったことか。なんと感性のにぶい息子だったことか、と悔やんでいます。
このとおりではありませんが、おおむねこのようなことを私は自分の本に書き加えました。
この文章が高校の国語教科書に載っています
2003年になって、教科書を製作する最大手の出版社東京書籍が、この「安心について」を高校の国語教科書『新編現代文』に掲載したいので、著者の許諾を得たいと申し出てきました。大変名誉なことであり、私は快く「使用許可」とさせていただきました。こういう作品に触れて育つ若者は、デリケートな神経を養い、人を思いやる心をはぐくむことだろうとの期待を込めてでした。翌2004年から今日まで、「安心について」は14年間同社の教科書の中で、錚々(そうそう)たる大家の文章の末席を汚させていただいています。
このことは若干の気恥ずかしさもあって、親しい友人や編集者にも語ったことはありません。これが初めてです。錚々たる大家とは、ご参考までに申し上げますと、次の方々です。
夏目漱石(こころ) 森鴎外(最後の一句) 太宰治(富岳百景) 安部公房(公然の秘密) 宮澤賢治(永訣の朝) 萩原朔太郎(竹) 井伏鱒二(山椒魚) 吉本ばなな(みどりのゆび) 中原中也(サーカス) 俵 万智(さくらさくらさくら)
少女はうっとりとした表情で「ほんとにすてきね!」と返します。前回はここまでお話ししました。
不安に駆られあれこれと心配している少女に対して、こういう目に見えるような形で「安心」のイメージを語れるというのは大したものです。だが少年チャーリー・ブラウンの人生に対する見方はもっと鋭く、現実的です。うっとりしている少女ペパーミント パティに向かって彼は言います。
「でもこれはいつまでもつづかないよ! 突然きみは大人になる、そしてもう二度とこういう具合にはいかなくなるのさ!」
「突然それは終りになる、きみは二度と後ろの座席で眠れなくなる! もうけっして眠れないのさ!」
「もうできないの!」
「絶対にできないよ!」
急に不安にかられたペパーミント パティはいいます。
「私の手をしっかりにぎって!」
両親が自分の不安や悩みをぜんぶ吸収し、引き受けてくれた夢のような日々は長くはつづかない。人間は大人になる。そして前の座席に行かなければならない。悩みや心配ごとを引き受ける側に回らねばならない。これは避けることのできない運命(さだめ)であり、後ろの座席で眠ることは「もう絶対にできない!」と少年は言うのです。
老年にとっての「安心」とは
これはチャーリー・ブラウンやスヌーピーが活躍するマンガ『ピーナッツ』の中でも最高傑作の一つとされている長編です。日本でいつまでもスヌーピーたちが、「可愛い」だけのキャラクターとしか見られていないこと、これではアメリカ人および世界の知的な人々とのコミュニケーションは不可能だと思った私は、1993年に『スヌーピーたちのアメリカ』(新潮社)を書きました。幸い多くの人々の支持を得て、9年間に15刷りを数えました。その中の一つに、この「安心について」が入っています。当然のことですが、私の本では、『ピーナッツ』の紹介だけではなく、自分の実体験や意見も加えてあります。
「安心について」というからには、安心を最も欲している、老年の安心についても触れねばなりません。私の母は、88歳で永眠しましたが、晩年はいろいろなことを心配していました。母にとっての安心とは、たまにお風呂に入れてもらい、あたたかいバスタオルにくるまれて、寝床まで運んでもらうことであり、近所の犬の鳴き声でした。さらに母にとっての安心は、息子(私)が朝仕事に出かける靴の音であり、夕食後にテレビを見ながら笑っている私の笑い声でした。「よう笑うね」と私の妻に話しかけていました。人格円満といえない息子が、喧嘩をして会社を辞めてしまうのではないか、とまでは考えなかったと思いますが、老いたる母にとっての安心は、「今日も昨日と変わらない生活」だったようです。それを悟るのに、どれだけ長い時間がかかったことか。なんと感性のにぶい息子だったことか、と悔やんでいます。
このとおりではありませんが、おおむねこのようなことを私は自分の本に書き加えました。
この文章が高校の国語教科書に載っています
2003年になって、教科書を製作する最大手の出版社東京書籍が、この「安心について」を高校の国語教科書『新編現代文』に掲載したいので、著者の許諾を得たいと申し出てきました。大変名誉なことであり、私は快く「使用許可」とさせていただきました。こういう作品に触れて育つ若者は、デリケートな神経を養い、人を思いやる心をはぐくむことだろうとの期待を込めてでした。翌2004年から今日まで、「安心について」は14年間同社の教科書の中で、錚々(そうそう)たる大家の文章の末席を汚させていただいています。
このことは若干の気恥ずかしさもあって、親しい友人や編集者にも語ったことはありません。これが初めてです。錚々たる大家とは、ご参考までに申し上げますと、次の方々です。
夏目漱石(こころ) 森鴎外(最後の一句) 太宰治(富岳百景) 安部公房(公然の秘密) 宮澤賢治(永訣の朝) 萩原朔太郎(竹) 井伏鱒二(山椒魚) 吉本ばなな(みどりのゆび) 中原中也(サーカス) 俵 万智(さくらさくらさくら)