だいぶ前に、テレビドラマ「大岡越前」の中で、越前の守の夫人のせりふに強い違和感を覚えたことと、その内容を次回にご報告したいと申し上げました。夫人は日夜奉行所の改革のことばかり考えて、他のことが手につかない夫に向かって言います。「近ごろのあなたはまるで馬車馬のようです。奉行所のことしか頭にないようで、これでは体をこわしてしまいます。もっとのんびり構えてください」(大意)。これを彼女はその後も繰り返し言うのです。
どこが「おかしい」と言うのですか? と思う方もいらっしゃるでしょうが、問題は「馬車馬」という言葉です。彼女はこの言葉を何回か繰り返します。「たとえ話をする時には、話す当人も聞くほうも、その「たとえ」の内容に「なじみ」がなければなりません。この場合は、夫妻ともに「馬車馬」という言葉になじみがあってこそ、奥方の忠告が生きてくるというものです。「馬車馬」の現物(?)あるいはそれを絵にしたもの、さらには日常会話の中で、誰もが使っている言葉として、具体的な馬車馬のイメージがなければいけません。
だが越前の守の時代の日本人は、はたして馬車馬なるものを見たことがあるのでしょうか?
馬車馬を見るためには、馬車そのものを見る必要があります。それが鎖国時代の日本で可能だったでしょうか? 私の答えは断固として「ノー」です。あんな馬鹿でかいものを、密輸をしてまで欧米から日本に送りこもうなどと考えるもの好きな人間はいないでしょう。越前の時代には、馬車は日本にはなかったのです。彼が亡くなったのは、1751年です。ペリーが黒船を従えて来日するのは、それから102年後の1853年です。この時代から少し経てば、欧米の金持ちの中には、横浜、長崎などで馬車を走らせていた可能性はありますが、越前の時代には、日本人は馬車を見たことも、馬車馬を見たことも「ない」と考えるべきです。それを最初の放映から数年あるいは十数年経っても、だれも「おかしい」という声を上げないまま、このドラマは続いてきたのです。私が観たのは、あまり有名ではないケーブル局の、再再々放送のものでした。ちゃんとしたチェック機能が働いていれば、この作品は「不良品」として「お蔵入り」したはずです。
いま、戦時中の日本について、「虚偽の証拠」を持ち出して非難を浴びせ続けている国があります。そういう告発に反論するためにも、時代劇に登場する「基本的事実」については、もっと厳密なチェックが必要だと思います。
どこが「おかしい」と言うのですか? と思う方もいらっしゃるでしょうが、問題は「馬車馬」という言葉です。彼女はこの言葉を何回か繰り返します。「たとえ話をする時には、話す当人も聞くほうも、その「たとえ」の内容に「なじみ」がなければなりません。この場合は、夫妻ともに「馬車馬」という言葉になじみがあってこそ、奥方の忠告が生きてくるというものです。「馬車馬」の現物(?)あるいはそれを絵にしたもの、さらには日常会話の中で、誰もが使っている言葉として、具体的な馬車馬のイメージがなければいけません。
だが越前の守の時代の日本人は、はたして馬車馬なるものを見たことがあるのでしょうか?
馬車馬を見るためには、馬車そのものを見る必要があります。それが鎖国時代の日本で可能だったでしょうか? 私の答えは断固として「ノー」です。あんな馬鹿でかいものを、密輸をしてまで欧米から日本に送りこもうなどと考えるもの好きな人間はいないでしょう。越前の時代には、馬車は日本にはなかったのです。彼が亡くなったのは、1751年です。ペリーが黒船を従えて来日するのは、それから102年後の1853年です。この時代から少し経てば、欧米の金持ちの中には、横浜、長崎などで馬車を走らせていた可能性はありますが、越前の時代には、日本人は馬車を見たことも、馬車馬を見たことも「ない」と考えるべきです。それを最初の放映から数年あるいは十数年経っても、だれも「おかしい」という声を上げないまま、このドラマは続いてきたのです。私が観たのは、あまり有名ではないケーブル局の、再再々放送のものでした。ちゃんとしたチェック機能が働いていれば、この作品は「不良品」として「お蔵入り」したはずです。
いま、戦時中の日本について、「虚偽の証拠」を持ち出して非難を浴びせ続けている国があります。そういう告発に反論するためにも、時代劇に登場する「基本的事実」については、もっと厳密なチェックが必要だと思います。