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View of the World

世界と日本をつなぎあなたと世界を近づける

文学作品が商品名・会社名になる場合

2018-07-14 21:51:28 | ジェントルマンシップ
 日韓関係は、どうひいき目に見てもうまく行っているようには見えません。残念なことです。こういう時は、まったくガラリと視点を変えて、両国が歩んできた道夫を振り返ることも有益だろうと思います。

 この会社の創業者は日本名では重光武雄と言います。日本で創業して成功を納めました。主六商品は、チョコレートやガムでした。やがて彼は韓国で、ホテル、百貨店などを起業し、いずれも大成功し、韓国の有力財閥の一つに数えられるまでになりました。日本では、プロ野球球団のオーナーにもなりました。まさに日韓を股にかけて成功したビジネスマンの代表といえるでしょう。彼の会社の名前はもうお分かりでしょう。
 そうです。ロッテです。

 ここで書きたいことは、日韓のおだやかだった日々を、なつかしさを込めて回想することではありません。重光氏を褒めたたえる気もありません。ましてやロッテの宣伝をするなどは、考えたこともありません。
 ここで言いたいことはただひとつです。
 「文学作品は時に巨大財閥を生む原動力にもなりうる」ということです。

 重光氏は、かつてヨーロッパの青年男女の間で、熱狂的なブームを生み、日本語にも翻訳されて、明治・大正・昭和の若者を感動させた青春小説に登場する美少女ロッテ(シャ-ロッテ)に憧れて、彼女の名を社名にしたそうです。彼はもちろん日本語の翻訳でこれを読みました。世界一といわれる日本の翻訳文化がなければ、ロッテという会社は生まれませんでした。文学を軽視する教養なき、文部科学省の官僚たちにも、よくよく考えてもらいたいヒントを含んだ話だと思います。

 では、重光氏が熱読した青春小説とはなんでしょうか? 答えは明日書かせていただきます。 廣淵升彦

 Masuhiko Hirobuchi
About a novel that enchanted European and Japanese young generations.
The founder of Lotte company was fascinated by the heroine and named his company
after her.

ジョーンズの偉業と人柄・教養

2018-07-13 12:22:40 | ジェントルマンシップ
 ジョーンズが1925年の全米オープンで成し遂げた偉業は、名ゴルファーとか卓越した技術といった枠をはるかに越えたものでした。あの緊張した場面で、だれも気付いていないボールのかすかなかすかな動きを、1打として申告し、ためにだれもが欲してやまない大トーナメントの優勝を逃すなどというのは、だれにでもできることではありません。彼はまさにジェントルマン(紳士)の中の真のジェントルマンでした。
 
 彼が成し遂げたことは、彼自身の名声に寄与しただけではありません。祖国アメリカの世界における地位・信用を飛躍的に向上させました。これは今日(こんにち)の基準では、計り知れないほどの貢献でした。ヨーロッパ諸国から見れば、アメリカは腕っぷしは強くてもまだまだ粗野で未開の国でした。自分たちが誇りにしてきた騎士道精神や、ジェントルマンシップ(紳士道)といったものが、大西洋の彼方のあの新興国にはたしてあるのか、という疑いの念をヨーロッパ人はたえず抱いていました。ジョーンズの行動は、そうした疑念を完全に吹き飛ばしました。「すごい選手が出てきた」という衝撃と賛嘆(さんたん)の念は、アメリカ合衆国への評価・懸念を一変させたと、いくつかの文献が伝えています。彼に対する過大な評価は差し控えるべきですが、ジョーンズが世界の人々の「対米観」を大きく変えさせたということだけは、すなおに認めたいと思います。

 ジョーンズの貢献はそれだけではありませんでした。第一次世界大戦(1914-18)で、多くの人々は疲れ切っていました。中には、ドイツなどに対する戦勝国となり、領土を割譲(かつじょう)され、戦後の復興景気の恩恵を受けた日本のような例外もありましたが、大方のムードとしては疲れと、荒廃した国土がもたらす暗い気分の時代でした。そういう人々の気分を一新させたのが、ジョーンズの快挙でした。「人間も世界もまだまだ捨てたものではない。こういう立派な選手もいるのだ。なんだか人間の本性に対する希望が湧いてきた」と感じる人々が増えたそうです。

 快挙の根底にある教養

 ジョーンズはアトランタの裕福な家庭に育ちました。h-バード大学で文学、エモリ-大学で法律を学びアトランタ工科大学では機械工学の学位を取得しました。文章家としても一流で、実に美しい文章を書いたそうです。彼は28歳できっぱりとゴルフ大会への参戦をやめました。彼の業績で、もうひとつ特記すべきは、「マスターズ・トーナメント」を創設たことです。毎年4月、世界の強豪たちが集うこの世界一のトーナメントは、ジョージア州オーガスタの「オーガスタ・ナショナルゴルフクラブ」で開かれますが、このコースの設計はジョーンズみずからが行ったものです。
  廣淵升彦 Masuhiko Hirobuchi

Bobby Jones(2)



世界を感動させたジョーンズのフェアプレイ

2018-07-12 16:35:13 | ジェントルマンシップ
 時は1925年。所はマサチューセッツ州ウスター・カントリークラブ。全米オープン大会の最終日。23歳の天才ゴルファー、ボビー・ジョーンズは、ウイリー・マクファーレンと抜きつ抜かれつの死闘を展開していました。11番ホール(パー4)で、ジョーンズの第2打はグリーン脇の深い芝の上に落ちました。彼は難なく第3打をグリーンに乗せ、ワンパットでこれを沈めました。
 
 だれが見ても。スコアは「4」でした。しかし彼は大会の役員に「5」だったと申告しました。役員は「あれは『4』だった」とアドバイスしました。しかしジョーンズは、「いや、『5』です」ときっぱり答えました。なおもいぶかしそうな目を向ける役員に、ジョーンズは言いました。「私が3打目を打とうとして、クラブを振り上げた時、ボールがかすかに動いたように見えたのです」。
 たしかにゴルフのルールでは、ボールを打とうとして、クラブをテイクバックして身構えた時、風などにより少しでもボールが動いた場罰打として1を加える」と決められています。しかし問題の場面では、近くにいただれの目にも、ボールは動いたようには見えませんでした。
 テレビ放送はまだ始まっていない時代ですが、たとえテレビ中継があったとしても、その動きはあまりにもかすかで、だれの目にも「動いた」とは映らなかったでしょう。ジョーンズの申告がなければ、大会運営の役員も、ギャラリーもだれ一人として、「スコアは4だ」として疑いもしませんでした。
 しかしジョーンズは淡々として「5」と申告しました。

 その結果、彼とマクファーレンのスコアは全くのタイとなり、翌日18ホールのプレーオフが行われました。しかしスコアはまたしても全く同じでした。翌々日、さらに18ホールのプレーオフが行われました。両者はまったくのタイでプレーを続けました。運命の18番ホールで、ジョーンズは第2打をバンカーに落とし、この大トーナメントの優勝を逃しました。  
 
 さてこの戦いの一部始終が、APやロイターなどの国際的大通信社、新聞、ラジオなどのメディアによって世界中に伝えられました。絶賛の嵐が巻き起こりました。「これぞまさにフェアプレイ精神の輝ける見本だ」「なんという高貴な精神!」「ジョーンズこそはジェントルマンの中のジェントルマンだ」といった手紙や電報・電話が、アメリカのメディアに殺到しました。中には「彼は正直すぎた。黙って「4」と申告しておけば、優勝できたのに」といった反応もありました。もちろんこうした声は少数でした。自分を褒めたたえるメディアから意見を求められた彼は語りました。
 「私が銀行強盗をしなかったからといって、だれも私を褒めたりはしないでしょう。私がしたことはこれと同じです。私はごく当たり前のことをしただけです」

 これだけの記事ではたぶん「物足りない」とお感じの方もおられるでしょう。も一度だけ「自分の意見」を書かせていただくかも知れません。