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View of the World

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策士韓信の思いがけない最期

2020-03-06 13:11:47 | 世界の歴史が教えてくれること
 前回は漢の皇帝劉邦(りゅうほう、死後おくり名されて「高祖」)に対し、命がけのゴマをすった韓信のことを書きました。このゴマスリは、一応の効果がありましたが、大方の常識人から見れば、「少しやりすぎ」「嫌み」と映ったことでしょう。そこまでせずに、ごく普通に皇帝に仕えていればよかったのです。これは劉邦も感じていたことだと思います。しかし韓信としては、自分の将来の保証のためになんとしても皇帝の機嫌を取っておきたかった。もともと頭の切れる男ですから、思いついたのが前回ご紹介した超ゴマスリでした。

 しかし劉邦にしてみれば「なにもそこまでやる必要のないことをする男だ。なにかやましいことを心に抱えているにちがいない」という疑惑を抱かずにはいられなかった。彼はもともと陰険なところがなく、どちらかといえば陽性で大ざっぱな人でした。今どきの言葉でいえば「アバウトな」ところのある人物で、それが多くの人を惹きつける魅力になっていました。緻密な計算による戦(いくさ)などは大の苦手で、負けそうになるとひたすら逃げてばかりいたそうです。「三十六計逃げるにしかず」という名言の信奉者だったと思います。司馬遼太郎さんは、小説『『項羽と劉邦』の中で、こうした劉邦の人柄を愛と共感を込めて描いています。普通の人には、彼の偉さは理解できないところがあったといえましょう。
 こうした人物に対し、韓信は自分の物差しで「よし」と思うゴマをすったのです。

 さあこれが裏目に出ました。普段はアバウトな劉邦も、ここぞという局面では物事を正確に見抜く鋭い眼力と判断力を持っていました。当たり前のことです。そうでなければ、麻の如く乱れた中国で天下の覇権を取るなんてことはできるわけがありません。
 韓信への不信と疑惑が芽生え始めていた彼の許へ、ある日極秘情報が届きました。「韓信が謀反(むほん)を企んでいる」というものです。当時も現在も、讒言(ざんげん)や中傷によって政敵の失脚を狙うというのは世の常です。しかし劉邦は、根も葉もない密告に乗せられるような人物ではありませんでした。情報の確度を精査したところ、この情報は「信頼するに値する」との結論に達しました。
 韓信に賜ったのは「死」以外にありませんでした。「切腹」という文化のない中国では、死は即「処刑」でした。自分の命がまさに絶えようという直前に、彼はまたしても歴史に残る言葉を吐きました。
 
 「狡兎(こうと)死して走狗(そうく)煮らる」
 頭のよく回る(ずる賢い)ウサギ(狡兎)が死ぬと、これを追いかけていた猟犬(走狗)は不要になり、殺され煮られて人に食われてしまう。楚(そ)という狡兎が滅び、項羽も死んだいま、これを滅ぼすのに大功のあった猟犬(走狗)たる自分も、疎んじられ、煮られて食われてしまうのだ。という嘆きとぼやきです。

 私が安倍総理の謝罪に批判的なのも、忍耐して屈辱に耐えるのもほどほどにして、時には」理不尽な要求を跳ね返すくらいの勇気を持っていただきたいと願うからです。いま世論が求めているのは、穏便に事を運ぶリーダーではなく、「時には逆風を怖れず筋を通す強さを持ったリーダー」だと思うのです。

ならず者の要求に屈した男への評価 プラスとマイナスに二分

2020-02-26 11:40:04 | 世界の歴史が教えてくれること
ならず者から「俺の股(また)下をくぐれ」と要求された男

 いまから2100年以上前の中国での話です。多くの国々が天下の覇権を狙ってせめぎ合っていました。そうした中で、自分の才能に自信を持ち、「いつかは大舞台で活躍したい」という野心と希望を抱いた男が、自分を用いてくれる主(あるじ)を求めていました。ある日、男は街中でならず者たちの一群に呼び止められました。首領格の無頼漢が言いました。
 「やい、ここは俺たちの領分だ。通すわけにはいかない。どうしても通りたければ、俺の股の下をくぐれ」
当時も今も、他人の股下をくぐるなんてことは、男子にとって耐えられない侮辱であり最大の屈辱です。男はしばし戸惑いました。頭の中を様々な思いが忙しくよぎりました。しかし彼は意を決して、この要求に従うことにしました。「自分は前途に大望を抱く身だ。ここで奴らと争って命を落したり、大けがをするわけにはいかない。一時の恥をしのんで、隠忍自重するしかない」。
 かくて彼は、衆人環視(しゅうじんかんし)の中で、ならず者の股の下をくぐったのです。

 こういう噂というのは、マスコミも、交通網も、通信手段も発達していなかった当時としても、かなりのスピードで広く伝わるものです。噂を耳にした人々の評価は、真っ二つに分かれました。
 「えらい! これぞまことの勇者だ。よく隠忍自重(いんにんじちょう)した。一時の恥をしのんで他日を期すなんてことは、並みの男にできることではない」と讃える声と
 「彼は臆病者にすぎない。男としての原則を曲げて状況に従ったまでだ。日和見(ひよりも)主義者と」言ってよい。こういう男は、もっと重要な局面でも、自分の身の安全のために節を曲げるだろう。彼は生涯拭えない汚点を残した。こういう男は信用できない」と厳しく批判する見方です。

 この二つの相反する評価は、その後の中国でも日本をはじめとする漢字文化圏でもずっと続いてきました。私の接した範囲では、「評価する」意見の方が強かったようです。『史記」を書いた司馬遷がどう評価しているかは憶えていません。なにしろ旧制中学生でしたから。近く再読したいと思っています。
 この話はA(1.范蠡(はんれい) 2.韓信」(かんしん) 3.荊軻(けいか))の股くぐり として有名です。
 Aはのちに漢王国の王劉邦の臣下となり、大抜擢されて漢の軍隊の中でも最重要のポストに就任、劉邦の宿命のライバル楚の国王項羽の軍隊をさんざんに打ち破りました。仇敵が消えた漢は帝国となり、劉邦は漢帝国の初代の皇帝となります。その大功績者Aも恵まれた老後を送れたとお思いでしょうが、そうはゆきませんでした。若き日の「股くぐり事件」が尾を引いていたのではないかと私は思います。それを裏付けるエピソードもあります。次回はそれを書くつもりです。

 ここまで書いても「こんな話と安倍総理の謝罪がどう結びつくのか?」と思う方もいらっしゃるでしょう。安倍さんの謝罪とAの股くぐりとは似ていると思いませんか? 彼に」言いがかりをつけた与太者と某議員たちが似ていると思うのは私だけでしょうか?