前回は漢の皇帝劉邦(りゅうほう、死後おくり名されて「高祖」)に対し、命がけのゴマをすった韓信のことを書きました。このゴマスリは、一応の効果がありましたが、大方の常識人から見れば、「少しやりすぎ」「嫌み」と映ったことでしょう。そこまでせずに、ごく普通に皇帝に仕えていればよかったのです。これは劉邦も感じていたことだと思います。しかし韓信としては、自分の将来の保証のためになんとしても皇帝の機嫌を取っておきたかった。もともと頭の切れる男ですから、思いついたのが前回ご紹介した超ゴマスリでした。
しかし劉邦にしてみれば「なにもそこまでやる必要のないことをする男だ。なにかやましいことを心に抱えているにちがいない」という疑惑を抱かずにはいられなかった。彼はもともと陰険なところがなく、どちらかといえば陽性で大ざっぱな人でした。今どきの言葉でいえば「アバウトな」ところのある人物で、それが多くの人を惹きつける魅力になっていました。緻密な計算による戦(いくさ)などは大の苦手で、負けそうになるとひたすら逃げてばかりいたそうです。「三十六計逃げるにしかず」という名言の信奉者だったと思います。司馬遼太郎さんは、小説『『項羽と劉邦』の中で、こうした劉邦の人柄を愛と共感を込めて描いています。普通の人には、彼の偉さは理解できないところがあったといえましょう。
こうした人物に対し、韓信は自分の物差しで「よし」と思うゴマをすったのです。
さあこれが裏目に出ました。普段はアバウトな劉邦も、ここぞという局面では物事を正確に見抜く鋭い眼力と判断力を持っていました。当たり前のことです。そうでなければ、麻の如く乱れた中国で天下の覇権を取るなんてことはできるわけがありません。
韓信への不信と疑惑が芽生え始めていた彼の許へ、ある日極秘情報が届きました。「韓信が謀反(むほん)を企んでいる」というものです。当時も現在も、讒言(ざんげん)や中傷によって政敵の失脚を狙うというのは世の常です。しかし劉邦は、根も葉もない密告に乗せられるような人物ではありませんでした。情報の確度を精査したところ、この情報は「信頼するに値する」との結論に達しました。
韓信に賜ったのは「死」以外にありませんでした。「切腹」という文化のない中国では、死は即「処刑」でした。自分の命がまさに絶えようという直前に、彼はまたしても歴史に残る言葉を吐きました。
「狡兎(こうと)死して走狗(そうく)煮らる」
頭のよく回る(ずる賢い)ウサギ(狡兎)が死ぬと、これを追いかけていた猟犬(走狗)は不要になり、殺され煮られて人に食われてしまう。楚(そ)という狡兎が滅び、項羽も死んだいま、これを滅ぼすのに大功のあった猟犬(走狗)たる自分も、疎んじられ、煮られて食われてしまうのだ。という嘆きとぼやきです。
私が安倍総理の謝罪に批判的なのも、忍耐して屈辱に耐えるのもほどほどにして、時には」理不尽な要求を跳ね返すくらいの勇気を持っていただきたいと願うからです。いま世論が求めているのは、穏便に事を運ぶリーダーではなく、「時には逆風を怖れず筋を通す強さを持ったリーダー」だと思うのです。
しかし劉邦にしてみれば「なにもそこまでやる必要のないことをする男だ。なにかやましいことを心に抱えているにちがいない」という疑惑を抱かずにはいられなかった。彼はもともと陰険なところがなく、どちらかといえば陽性で大ざっぱな人でした。今どきの言葉でいえば「アバウトな」ところのある人物で、それが多くの人を惹きつける魅力になっていました。緻密な計算による戦(いくさ)などは大の苦手で、負けそうになるとひたすら逃げてばかりいたそうです。「三十六計逃げるにしかず」という名言の信奉者だったと思います。司馬遼太郎さんは、小説『『項羽と劉邦』の中で、こうした劉邦の人柄を愛と共感を込めて描いています。普通の人には、彼の偉さは理解できないところがあったといえましょう。
こうした人物に対し、韓信は自分の物差しで「よし」と思うゴマをすったのです。
さあこれが裏目に出ました。普段はアバウトな劉邦も、ここぞという局面では物事を正確に見抜く鋭い眼力と判断力を持っていました。当たり前のことです。そうでなければ、麻の如く乱れた中国で天下の覇権を取るなんてことはできるわけがありません。
韓信への不信と疑惑が芽生え始めていた彼の許へ、ある日極秘情報が届きました。「韓信が謀反(むほん)を企んでいる」というものです。当時も現在も、讒言(ざんげん)や中傷によって政敵の失脚を狙うというのは世の常です。しかし劉邦は、根も葉もない密告に乗せられるような人物ではありませんでした。情報の確度を精査したところ、この情報は「信頼するに値する」との結論に達しました。
韓信に賜ったのは「死」以外にありませんでした。「切腹」という文化のない中国では、死は即「処刑」でした。自分の命がまさに絶えようという直前に、彼はまたしても歴史に残る言葉を吐きました。
「狡兎(こうと)死して走狗(そうく)煮らる」
頭のよく回る(ずる賢い)ウサギ(狡兎)が死ぬと、これを追いかけていた猟犬(走狗)は不要になり、殺され煮られて人に食われてしまう。楚(そ)という狡兎が滅び、項羽も死んだいま、これを滅ぼすのに大功のあった猟犬(走狗)たる自分も、疎んじられ、煮られて食われてしまうのだ。という嘆きとぼやきです。
私が安倍総理の謝罪に批判的なのも、忍耐して屈辱に耐えるのもほどほどにして、時には」理不尽な要求を跳ね返すくらいの勇気を持っていただきたいと願うからです。いま世論が求めているのは、穏便に事を運ぶリーダーではなく、「時には逆風を怖れず筋を通す強さを持ったリーダー」だと思うのです。