1990年5月8日。パリは興奮に包まれていました。毎年この日は第二次世界大戦でのドイツ以下の「枢軸国」側に勝利したことを祝う日でしたが、この年の祝典の興奮ぶりは格別でした。半年前に、かの「ベルリンの壁」が打ち壊されたことを祝う気分が、「自由」を掲げる国々に満ちている中で、シャンゼリゼ大通り大行進が行われたからです。
世界の有名なテレビ局は、それぞれエース級のコメンテーターをパリに送り込みました。その中で、異色というか場違いというべきか分かりませんが、日本についての事情通の目を引いたのが、テレビ朝日がゲストコメンテーターに迎えた土井たか子氏でした。彼女はベルリンの壁が崩壊したことに興奮し、「これで冷戦が終わった」と考える人でした。「平和が訪れる」という自分の見方が正しいと信じていました。しかし「壁」崩壊の裏側にあったきわめて冷厳な東西の対立、当事者であるソ連のゴルバチョフ大統領の複雑な胸の内等については、想像力がまったく及んでいないようでした。壁の崩壊は、彼女たち社会主義礼賛者にとって、大きな敗北であり、挫折であったはずです。そのことが全く分かっていなかった証拠には、彼女らはその後「冷戦が終わって」という言葉を、じつにさらりと使っていました。ソ連側が負けたことに対する口惜しさとか、絶望感といったものを全く感じていない様子でした。
祝典が進行するに連れて、彼女の興奮のボルテージは上がってゆきました。そしてついに彼女は「ドイツに行って憧れのウィリー・ブラントさんに会ってきました」と言ったのです。それまでの見当はずれと思える彼女のコメントを我慢して聞いていた私ですが、「このコメントは聞き逃すわけにはゆかない」と思いました。東西両陣営の情報戦のすさまじさというものを全く理解していないコメントだと思ったからです。ブラント元西独首相は、人徳もあり、民衆から愛される面も備えた政治家でした。首相に就任後も「ナッハ・オステン!」(東へ!)政策を掲げ、東独をはじめ東側陣営との外交関係を改善する努力を続けました。あるいはこれが土井氏の「ブラント好き」の大きな一因となっていたのかも知れません。
しかし彼は取り返しのつかない大失策を犯しました。東に甘いことと大きく関連したのかも知れませんが、西独宰相府に巧みに入り込んでいた東ドイツのスパイに気付かなかったのです。彼の名はギュンター・ギヨームと言います。まさに体制が死ぬか生きるかの攻防の中で、西ドイツも盟友のアメリカ、フランス、イギリス、カナダなどの諸国も、東に対して腕利きのスパイを送り込んでいました。彼らの名前、コードネーム、住所、電話、NATO(北大西洋条約機構)の決定事項などは秘中の秘でした。それらを、ブラントの側近になりすましたギヨームは盗み出したのです。西側が東に埋め込んでいたスパイの多くが処刑されました。西側にとっては取り返しのつかない大打撃でした。機密情報がどこから漏れたのか探ってゆくと、「ブラントのオフィスからに間違いない」ということが判明しました。かくてブラントは「うかつ者」「思慮の足りない男」「自由な民主主義体制への大加害者」との烙印を押され、屈辱と悔恨の内に政界を去らねばならなかったのです。西側の政治のリーダーたちなら、等しく知っている重要情報であり、必須の知識でした。こうした過去についての知識があれば、間違っても「憧れのブラントさん」という言葉は出てこなかったはずです。彼女はこの一言で、「国際政治の何たるかが全く分かっていない人物」という評価を得てしまいました。
彼女だけではありません。彼女の所属する政党も、知的レベルでは似たり寄ったりの他の政治集団の皆さんももっと真剣に世界のことを学び直してほしいものだと思いつつ、30年近くが経ちました。いま、この願いは一段と強くなっていますが、議員諸公の知的レベルには一向に改善の兆しが見られません。日本の前途についての憂いは深まるばかりです。
世界の有名なテレビ局は、それぞれエース級のコメンテーターをパリに送り込みました。その中で、異色というか場違いというべきか分かりませんが、日本についての事情通の目を引いたのが、テレビ朝日がゲストコメンテーターに迎えた土井たか子氏でした。彼女はベルリンの壁が崩壊したことに興奮し、「これで冷戦が終わった」と考える人でした。「平和が訪れる」という自分の見方が正しいと信じていました。しかし「壁」崩壊の裏側にあったきわめて冷厳な東西の対立、当事者であるソ連のゴルバチョフ大統領の複雑な胸の内等については、想像力がまったく及んでいないようでした。壁の崩壊は、彼女たち社会主義礼賛者にとって、大きな敗北であり、挫折であったはずです。そのことが全く分かっていなかった証拠には、彼女らはその後「冷戦が終わって」という言葉を、じつにさらりと使っていました。ソ連側が負けたことに対する口惜しさとか、絶望感といったものを全く感じていない様子でした。
祝典が進行するに連れて、彼女の興奮のボルテージは上がってゆきました。そしてついに彼女は「ドイツに行って憧れのウィリー・ブラントさんに会ってきました」と言ったのです。それまでの見当はずれと思える彼女のコメントを我慢して聞いていた私ですが、「このコメントは聞き逃すわけにはゆかない」と思いました。東西両陣営の情報戦のすさまじさというものを全く理解していないコメントだと思ったからです。ブラント元西独首相は、人徳もあり、民衆から愛される面も備えた政治家でした。首相に就任後も「ナッハ・オステン!」(東へ!)政策を掲げ、東独をはじめ東側陣営との外交関係を改善する努力を続けました。あるいはこれが土井氏の「ブラント好き」の大きな一因となっていたのかも知れません。
しかし彼は取り返しのつかない大失策を犯しました。東に甘いことと大きく関連したのかも知れませんが、西独宰相府に巧みに入り込んでいた東ドイツのスパイに気付かなかったのです。彼の名はギュンター・ギヨームと言います。まさに体制が死ぬか生きるかの攻防の中で、西ドイツも盟友のアメリカ、フランス、イギリス、カナダなどの諸国も、東に対して腕利きのスパイを送り込んでいました。彼らの名前、コードネーム、住所、電話、NATO(北大西洋条約機構)の決定事項などは秘中の秘でした。それらを、ブラントの側近になりすましたギヨームは盗み出したのです。西側が東に埋め込んでいたスパイの多くが処刑されました。西側にとっては取り返しのつかない大打撃でした。機密情報がどこから漏れたのか探ってゆくと、「ブラントのオフィスからに間違いない」ということが判明しました。かくてブラントは「うかつ者」「思慮の足りない男」「自由な民主主義体制への大加害者」との烙印を押され、屈辱と悔恨の内に政界を去らねばならなかったのです。西側の政治のリーダーたちなら、等しく知っている重要情報であり、必須の知識でした。こうした過去についての知識があれば、間違っても「憧れのブラントさん」という言葉は出てこなかったはずです。彼女はこの一言で、「国際政治の何たるかが全く分かっていない人物」という評価を得てしまいました。
彼女だけではありません。彼女の所属する政党も、知的レベルでは似たり寄ったりの他の政治集団の皆さんももっと真剣に世界のことを学び直してほしいものだと思いつつ、30年近くが経ちました。いま、この願いは一段と強くなっていますが、議員諸公の知的レベルには一向に改善の兆しが見られません。日本の前途についての憂いは深まるばかりです。