日本語の「乱れ」を正す意見は、ずいぶん前からマスコミに登場しています。しかし一向に改善しません。それどころか年々悪化しています。思えば「そんな小さなことにこだわらないのが日本的「鷹揚(おうよう)さというものだ。ま、いいではないか」と思っている人が多いからでしょう。しかし今の国語の乱れは、「現実が我が物顔にのさばって、原則がだんだん崩れてゆく」段階に来ていると思いますが、どうでしょうか? 具体例を挙げます。
メディアに登場する人間の「死」についての表現です。「天国に行く」とか、「天に召される」という言い方が、年々ふえていると思いませんか? 組織を使って調査したわけではなく、あくまで体験的見方ですが、あらためてテレビや新聞をご覧になってください。有名人の死去を扱う「記事そのもの」はまだそれほど「天国」に侵食されていませんが、記事の隣にある「親しい人」のコメントには、かなり「天国」が登場しています。反対に昔から日本人になじんだ「極楽」の影は年々薄くなっています。ほとんど消滅しかかっていると言ってもいいくらいです。
こういう意見を発表すると、「そう向きにならなくてもいんじゃないですか? 小さなことですし」といった「わけ知り顔の調停者」がかならず現れるものですが、これはけっして「小さなこと」ではありません。日本の文化、日本人のアイデンティティに関わる重大問題です。もともと「天国」という言葉は、戦国時代に日本にやってきてキリスト教を広めようとした宣教師たちが使った言葉だと聞いています。原語は「はらえそ」と言い、英語の「パラダイス」に当るものだと言います。天国の入り口には聖ペテロがいて、天国の鍵をキリストから預かり、入居(?)希望者の適不適をきびしく選別しているそうです。鍵を持っているということは、それを使う大きく冷たい鉄の城門があるということです。大体ペテロの性格もよく知らない日本人が、「父は天国に行きました」などという言葉を、お通夜や告別式で使っていいものでしょうか?
そこへ行くと極楽はもっと温かみがあるような気がします。蓮の花の浮かぶ池があり、人々は穏やかな笑顔で挨拶しあっているイメージです。あんまり極楽をほめると、「仏教の宣伝マン」と思われかねませんが、物事をよく考えないで「天国」を濫用する人々への警鐘の一部と思っていただければ幸いです。
メディアに登場する人間の「死」についての表現です。「天国に行く」とか、「天に召される」という言い方が、年々ふえていると思いませんか? 組織を使って調査したわけではなく、あくまで体験的見方ですが、あらためてテレビや新聞をご覧になってください。有名人の死去を扱う「記事そのもの」はまだそれほど「天国」に侵食されていませんが、記事の隣にある「親しい人」のコメントには、かなり「天国」が登場しています。反対に昔から日本人になじんだ「極楽」の影は年々薄くなっています。ほとんど消滅しかかっていると言ってもいいくらいです。
こういう意見を発表すると、「そう向きにならなくてもいんじゃないですか? 小さなことですし」といった「わけ知り顔の調停者」がかならず現れるものですが、これはけっして「小さなこと」ではありません。日本の文化、日本人のアイデンティティに関わる重大問題です。もともと「天国」という言葉は、戦国時代に日本にやってきてキリスト教を広めようとした宣教師たちが使った言葉だと聞いています。原語は「はらえそ」と言い、英語の「パラダイス」に当るものだと言います。天国の入り口には聖ペテロがいて、天国の鍵をキリストから預かり、入居(?)希望者の適不適をきびしく選別しているそうです。鍵を持っているということは、それを使う大きく冷たい鉄の城門があるということです。大体ペテロの性格もよく知らない日本人が、「父は天国に行きました」などという言葉を、お通夜や告別式で使っていいものでしょうか?
そこへ行くと極楽はもっと温かみがあるような気がします。蓮の花の浮かぶ池があり、人々は穏やかな笑顔で挨拶しあっているイメージです。あんまり極楽をほめると、「仏教の宣伝マン」と思われかねませんが、物事をよく考えないで「天国」を濫用する人々への警鐘の一部と思っていただければ幸いです。