昨日は「英語学習についての全く異なる見方」をご覧いただきました。第一のグループに属する人々は、「英文法不要論」を信じ、「英語は聞き流すだけでよい。楽しく聞いていれば、自然にヒヤリング能力が身につく」ということを自らも信じ、この思想をメディアを通じて広めようとしています。第二のグループは、「英文法は絶対に必要かつ有益」と信じ、「リーディングの力がなければ英語は絶対に身につかない」ということを、自分の著作でも語り、この考えを広めようとしています。この「リーディング能力不可欠論」については、昨日は述べる時間がなかったので、ここであらためてご紹介させていただきます。
さてこうした異なる論に加えてここ数十年日本を覆っているもう一つの「信仰」について触れなければなりません。それは「英語のネイティブスピーカーを盲信しすぎること」です。テレビなどに登場する人は、実に気軽にネイティブの英語を礼賛し、「生まれた時から英語に浸っていれば、わざわざ『勉強する』必要はない」としばしば語っています。さらにアメリカやオーストラリアなどに「自称」1年間も『留学』すれば、英語なんかペラペラになる」ということを友人たちに言いふらしています。この「現地優先主義」「ネイティブとの会話万能論」を唱える人たちは結構影響力が大きく、彼らに洗脳(せんのう)されて「海外留学」する者たちがあとを断ちません。裕福な親をその気にさせて、何百万円かを援助させ、あちらで英語の真似事をして遊んでいるのが常です。
あまり辛辣(しんらつ)でもなく、ごくごく穏やかな常識人である私の友人は、「大体日本で英語ができない者が、海外に行って英語ができるようになるわけがない」と言っています。これは彼の言葉の中では最も厳しいものですが、最もするどく真実を言い当てたものだと思います。英語の基礎は日本でちゃんと身につけ、海外へはそれを確認しにゆくくらいの心構えが必要だというのです。
私がこういうブログを書いているのは、論争をするためではなく、愚論を日本中に広める危険な人物たちをやっつけたいからでもありません。世界の平和をひたすら願い、地道にまじめに生きている方々が、穏やかに暮らしていっていただきたいからです。我々がいくら平和を望んでも、日本人をひたすら侮辱し、嘘で固めた日本人像を世界に広めようとしている国がいくつかあります。そういう人たちは、国を挙げて若者に英語を学ばせ、海外留学に力を入れています。ハーバードやエール、プリンストン、コロンビアなどの一流大学で学ぶこうした国々からの留学生の数は、日本からの学生の数十倍に達しています。彼らは論争(ディベイト)も得意で、修辞法(レトリック)にも秀でています。彼らの論争の場を実際に見た日本人は、日本の前途に対して、暗澹(あんたん)たる気分になると言います。日本の若い留学生たちが、彼らと論争すれば決定的な敗北を喫することは明らかだと見えるからです。
日本人の英語能力不足は、いまや日本の安全をゆるがし、日本の存立そのものを脅かしつつあるというのが、英語力の緊急な向上を唱える有識者たちの一致した願いなのです。
しかし現実はどうでしょうか?
何のために英語を学ぶのか分からず、「英語ができたらカッコイイから」とか「女の子にもてるだろうからなあ」といった、きわめて稚(おさな)い考えから、英語に手を染めている人々が大半です。しかも「努力はしたくない」ので、ひたすら「楽をしながら英語ペラペラになりたい」と願う人々と、彼らの「楽したい願望」につけこんで、「英文法は必要ない」とか、「ネイティブに習えば短時間で上達する」といった、洗脳キャンペーンがはびこっているのが実情です。
野党の皆さんは、日本がそんな危機におちいっているといった認識は全く持っていず、政府に対策を促す国会質問など聞いたことがありません。
理想論を唱えることは控えたいと思いますが、もう少し「世界平和と日本の安全のために不可欠な英語を学ぶのだ」といった、「志(こころざし)を抱いて」英語を学ぶ人がふえてほしいものです。私のブログは、世界がいかに脆弱(ぜいじゃく)な基盤の上に立っているかを、もっと認識してほしいとの願いを込めて書いています。しかし読者の方々に「苦痛」と感じさせるものではいけない。楽しいことも希望もまだまだあるという基盤に立って書いています。今後ともよろしくお願いします。
さてこうした異なる論に加えてここ数十年日本を覆っているもう一つの「信仰」について触れなければなりません。それは「英語のネイティブスピーカーを盲信しすぎること」です。テレビなどに登場する人は、実に気軽にネイティブの英語を礼賛し、「生まれた時から英語に浸っていれば、わざわざ『勉強する』必要はない」としばしば語っています。さらにアメリカやオーストラリアなどに「自称」1年間も『留学』すれば、英語なんかペラペラになる」ということを友人たちに言いふらしています。この「現地優先主義」「ネイティブとの会話万能論」を唱える人たちは結構影響力が大きく、彼らに洗脳(せんのう)されて「海外留学」する者たちがあとを断ちません。裕福な親をその気にさせて、何百万円かを援助させ、あちらで英語の真似事をして遊んでいるのが常です。
あまり辛辣(しんらつ)でもなく、ごくごく穏やかな常識人である私の友人は、「大体日本で英語ができない者が、海外に行って英語ができるようになるわけがない」と言っています。これは彼の言葉の中では最も厳しいものですが、最もするどく真実を言い当てたものだと思います。英語の基礎は日本でちゃんと身につけ、海外へはそれを確認しにゆくくらいの心構えが必要だというのです。
私がこういうブログを書いているのは、論争をするためではなく、愚論を日本中に広める危険な人物たちをやっつけたいからでもありません。世界の平和をひたすら願い、地道にまじめに生きている方々が、穏やかに暮らしていっていただきたいからです。我々がいくら平和を望んでも、日本人をひたすら侮辱し、嘘で固めた日本人像を世界に広めようとしている国がいくつかあります。そういう人たちは、国を挙げて若者に英語を学ばせ、海外留学に力を入れています。ハーバードやエール、プリンストン、コロンビアなどの一流大学で学ぶこうした国々からの留学生の数は、日本からの学生の数十倍に達しています。彼らは論争(ディベイト)も得意で、修辞法(レトリック)にも秀でています。彼らの論争の場を実際に見た日本人は、日本の前途に対して、暗澹(あんたん)たる気分になると言います。日本の若い留学生たちが、彼らと論争すれば決定的な敗北を喫することは明らかだと見えるからです。
日本人の英語能力不足は、いまや日本の安全をゆるがし、日本の存立そのものを脅かしつつあるというのが、英語力の緊急な向上を唱える有識者たちの一致した願いなのです。
しかし現実はどうでしょうか?
何のために英語を学ぶのか分からず、「英語ができたらカッコイイから」とか「女の子にもてるだろうからなあ」といった、きわめて稚(おさな)い考えから、英語に手を染めている人々が大半です。しかも「努力はしたくない」ので、ひたすら「楽をしながら英語ペラペラになりたい」と願う人々と、彼らの「楽したい願望」につけこんで、「英文法は必要ない」とか、「ネイティブに習えば短時間で上達する」といった、洗脳キャンペーンがはびこっているのが実情です。
野党の皆さんは、日本がそんな危機におちいっているといった認識は全く持っていず、政府に対策を促す国会質問など聞いたことがありません。
理想論を唱えることは控えたいと思いますが、もう少し「世界平和と日本の安全のために不可欠な英語を学ぶのだ」といった、「志(こころざし)を抱いて」英語を学ぶ人がふえてほしいものです。私のブログは、世界がいかに脆弱(ぜいじゃく)な基盤の上に立っているかを、もっと認識してほしいとの願いを込めて書いています。しかし読者の方々に「苦痛」と感じさせるものではいけない。楽しいことも希望もまだまだあるという基盤に立って書いています。今後ともよろしくお願いします。