つれづれなるままに

ひぐらしパソコンに向いて・・・・・・・

南イタリア紀行(第7日-2/2 最終章)

2011年05月18日 | Weblog
私の今回の旅行の最大の目的はポンペイへ行くことでした。

ポンペイは、映画「ポンペイ最後の日」などでよく知られているように、西暦79年8月24日に起きたヴェスビオ山の大噴火によって、火山灰や軽石・火砕流などに埋まった町です。
後ろに見える山が現在のヴェスビオ山で標高は1281mですが、大噴火の前は2000m級の富士山のような形をした山だったようです。その後の数回の爆発で山の上部が吹き飛び、今の形・高さになったのでしょう。


裁判や政治・経済・商取引の場として使われていたというバジリカ跡です。


火山灰に埋まった人間によってできた空洞に石膏を流し、犠牲者の姿を復元した石膏像です。下の像は腹が膨らんでいることから妊婦だと考えられているようです。二つの像とも、発掘された生活用品などと一緒に、倉庫のような所に置いてありました。横の鉢には何故か沢山のコインが入っています。


街の道路は石で舗装され、所々に横断歩道(飛び石)が設けられています。場所によっては、鉄の車輪でできたと思われる轍ができています。


道路の両脇には色々な店が並んでいたようです。下の写真はパンを焼く窯(左)と製粉所の石臼(右)です。


次の写真は酒屋(飲屋)のカウンターで、丸い穴の中には酒を入れた壺が入っていたそうです。カウンターの上面と前面は綺麗な大理石で装飾されています。


街の所々に水道の蛇口があり、現在も飲める水が出ていました。勿論、蛇口や配水管は現代の物だと思いますが、このように既に上水道が整備されていたということには驚きます。円内は道路脇に露出した古代の配水管の一部だそうです。


ポンペイでは「秘儀壮」が有名ですが、確かに“ポンペイの赤”を主とした美しいフレスコ画でした。描かれているのは、宗教儀式「ディオニュソスの秘儀」への入信の様子で、紀元前70~60年に描かれたものだそうです。


ポンペイの遺跡を見た後はナポリへ戻り、国立考古学博物館でポンペイから発掘された絵画や工芸品などを見ました。
私にはその方面の知識はありませんが、展示されているモザイク画やフレスコ画、工芸品などは現代でも立派に通用しそうなものばかりでした。


下の写真は「アレクサンドロ大王の戦い」と題された大作です。


中には少々怪しげな絵(右)もあります。


当時は既に医療技術が進んでいたらしく、現在使われているものと同じ形をした多くの医療器具が展示されていました。


ガラス工芸品や銀器などは現代でも立派に通用しそうです。



下はポンペイ遺跡の模型ですが、今回私が見たのはこの内のごく一部です。
全てを見るのは無理ですが、せめてもう一度ポンペイや、ポンペイと同時に埋もれたエルコラーノの遺跡を訪ねたいと願っています。(でも、多分その機会は無いでしょう)


私の南イタリア紀行はこれでおしまいです。
お付き合い下さった方、ありがとうございました。
コメント (8)
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南イタリア紀行(第7日-1/2)

2011年05月16日 | Weblog
ナポリは風景が美しいことに加え、街の中にも綺麗な建物や広場、街路などが沢山あります。
下の写真は有名な二つの城です。(左:卵城、卵城の右後方に見える島はカプリ島、右:ヌオーヴォ城)


朝の散歩に出た時には、ヴェスビオ山を背景にサンタルチア港の写真を撮りました。


卵城の前の海岸通りにはカフェやレストランが並び、大勢の客で賑わっていました。


以上はガイドブック的な写真ですが、ガイドブックには決して載らない光景をいくつか紹介します。
観光客が通る比較的広い通りにも、長年補修されていない古いアパートや、遺跡のように見える廃墟があったりします。


この日が日曜日だったからか、町の中心に近い道路上で、蚤の市(?)が開かれていました。
並んでいるものは靴や衣類が多いように見えましたが、中には使い古したように見える日用品などもありました。
この様子を見たイタリア人の現地ガイドが、「あの人たちはイタリア人ではありません。不法移民です。」と苦々しそうに言っていたのが印象的でした。
最近もニュースになっているように、イタリアは北アフリカなどからの不法移民・難民に手を焼いているようです。


ナポリと言えば、ごみ問題が有名になりましたが、新聞やテレビで見たほどではないにしても、今も街のあちらこちらでごみの山を見かけました。市の中心部に近く、観光客も多く通る道路でさえこの有様ですから、裏通りなどはもっと酷いのかもしれません。
未だにごみ問題が片付かないのは、ごみ処理に関わる裏社会の勢力(カモッラ)が最新式のごみ処理施設の建設に反対しているからだとか、更に裏社会と政治家が結託しているからだとか聞きました。


一瞬ごみの山に見えたのですが、その上で人が動いている場所がありました。写真をよく見ると女性が横たわっているのが分かります。ごみの山に見えましたが、テントのように見える部分もありますから、ここが彼女の生活の拠点なのかも知れません。


ナポリの名誉のために付記すれば、かつての南イタリア特にナポリは治安が悪く、ツアー客は旅行社から厳重に注意されたようですが、最近は随分改善されたとのことです。

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南イタリア紀行(第6日)

2011年05月12日 | Weblog
朝、カプリ島のホテルの近くを散歩した時に、物を運ぶ小さな電気自動車(運搬車)を何度も見ました。環境保護のためか、単に道が狭いためかは分かりません。


この日は、天気は良かったのですが海は波があるとかで、青の洞窟には入れませんでした。代わりに、カプリ島で一番高いというソラーロ山(589m)へリフトで登りました。リフトから見えるのは、アナカプリの白い街と、青い海、そしてその向こうにヴェスビオ山なのですが、残念なことに少し霞んでいました。


山頂から見る風景も、霞が無ければもっと素晴らしい風景だったと思います。


山を下りた後、カプリ島から船で本土のソレントへ渡りましたが、カプリの港で待つ間に、埠頭を走り回る電気運搬車の側面に「がんばれ、日本。がんばれ、東北。」と書いてあるのを見ました。


ソレントからバスでアマルフィ海岸をドライブし、アマルフィの町へ向かったのですが、途中の展望台からはポジターノの町と海の素晴らしい眺望が得られました。


アマルフィは、2009年に公開された日本映画「アマルフィ 女神の報酬」で特に有名になったらしいのですが、町自体は人口5000人あまりの小さな町でした。


町には有名ブランド店が立ち並ぶ一角もあり、高級リゾート地の雰囲気でした。
果物屋さんの店頭にはサングラスをかけた大きなレモンがありました。


この辺りは平地がほとんど無いため、町は断崖に張り付いています。中には、どうやって出入りするのかよく分からない建物もありました。
外敵の侵入を防ぐには好都合だったとしても、住み易いとは言い難く、特に老人には厳しい環境だと思いました。


郊外の僅かな平地、または明らかに人工的に造りだした階段状の畑にはオリーブや野菜などが植えられていました。


夕方ナポリへ戻り、ナポリ湾を望むレストランの窓から夕暮れのヴェスビオ山が見えました。
この日は、山麓から山頂に向かって、下から順に夕日で帯状に赤く染まって行く面白い風景を見ることができました。下の写真は上の写真の6分後に撮ったものです。


食後に近くの丘へ行き、世界三大夜景の一つだというナポリの夜景を見、写真も撮りましたが、三脚無しでISO感度を上げて撮ったため満足な写真にはなりませんでした。
それにしても、昼間この丘へ行かなかったのは、ツアー設定上の問題だと思いました。
「ナポリを見て死ね」の風景が見られたかも知れないのですから。
コメント (6)
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南イタリア紀行(第5日)

2011年05月06日 | Weblog
出発前にホテルの庭を散歩したところ、隣の畑にサクランボの花が咲いていました。車窓からもサクランボ畑が沢山見えましたが、この付近はサクランボの産地とのことでした。


マテーラへ向かう途中、道路脇に自生するサボテンを見つけました。旅行中、各地でサボテンを見ましたが、南イタリアではこの実を食用にするそうです。


アルベロベッロから約1.5時間でマテーラに着きました。ここには“サッシ”と呼ばれる洞窟住宅が密集している地域があります。


洞窟住宅と言っても、その多くはトルコのカッパドキアで見たような洞窟とは違い、山の斜面に張り付いた石造り住宅のように見えました。
この辺りは、かつては「イタリアの恥部」とまで言われた貧しい地区だったようですが、世界遺産に指定されてからは観光地として脚光を浴びているようです。
下は観光客向けに公開されているサッシの内部の写真です。


比較的綺麗な一角と、半ば崩れかけた場所が混じり合っていますが、よく見ると修復中の家もありますし、明らかに自然の岩石をくりぬいたような所もあります。


場所によっては文字通り洞窟住宅に近いように見える一帯もありますが、人影は見えず、現在も住人がいるのかどうか分かりませんでした。何れにしても貧しい地域であることは間違いないと思います。


昼食後にレストランを出たら、怪しい雲行きの下でマテーラの写真を撮ることができました。(幸い、雨は降りませんでした)


その後バスで3.5時間かけてナポリへ向かい、夕方ナポリへ着きましたが、途中には意外に広々とした風景が広がる一帯もあり、菜の花が咲いていました。同行者の多くが、富良野のようだと言っていました。


ナポリの郊外では、ヴェスビオ山がよく見えました。
現在の標高は1,281mですが、その昔は2,000mとも3,000mとも言われる富士山のような山だったそうです。それが、西暦79年の大噴火やその後の噴火で今の形になったと言われています。1944年には付近の村が埋まった噴火が起きていますから、今も危険な山のようです。実際、フニクリ・フニクラで有名な登山電車は、1990年に再開しましたが、現在は閉鎖されています。


ナポリから18時過ぎの船でカプリ島へ渡り、ホテルへ向かいました。

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南イタリア紀行(第4日 追補)

2011年05月03日 | Weblog
トゥルッリについてコメントをいただきましたが、コメント欄では十分にお答えできませんので、記事で補足します。

この図はツアーの添乗員に貰った資料から抜粋したものです。

石をリング状に積み上げていき、上部は教会などのドームと同様の構造になっているものと思われます。積み上げた石の外側を小石交じりの土で固め、更にその外側に石を積み上げ、屋根部分には瓦に相当する薄い石を積み重ねた構造になっているようです。外から見えるトンガリ屋根はこの瓦の部分ですね。

初期には内側だけに漆喰を塗ったようですが、後には外側にも漆喰を塗り、白さを競ったとか。
資料によれば、3層になった壁の厚さは1~2mにも及び、年間を通して室温の変化は小さいとのことです。

別の資料によれば、この地を統治していた王が家の数に応じた税を地元の支配者に課すので、その支配者は税を減らすため住民には本格的な住居の建築を認めなかった。そこで住民は、王の役人が家の調査に来る前に一晩で屋根を取り払い、屋根が無いから住居ではないと主張できる構造にしたのがトゥルッリの起源だとのことです。

イタリアもかなりの地震国のようですが、トゥルッリの耐震性に関する資料は持ち合わせません。

或る記事によれば、イタリアの地震対策は日本人から見れば相当に遅れていて、1974年に初めてイタリア南部に対して地震対策法が制定されたのだそうです。全国を対象に耐震建築が義務付けられたのは2003年とのことですが、新築でも耐震設計されていない建物が多いという記述も見ました。
イタリアの建物が基本的に地震に強いのかと言えばそんなことはなく、2009年には100人を超える死者と5万人以上が家を失ったというM6.3の地震が起きています。その直後には、政府の無策を責め、「日本を見習え」という論調も見られたそうですが、今はどうでしょう。

添乗員の話では、イタリア人は今を楽しみたい楽天家が多く、いつ来るか分からない災害に備える意識は希薄だというのですが、真偽は分かりません。

その一方で、地震に耐えてローマ時代の遺跡が沢山残っている点はどう考えればよいのか。所謂プレート境界型の巨大地震は無いのかも知れませんが、その点もよく解りません。

コメント (5)
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南イタリア紀行(第4日)

2011年05月02日 | Weblog
この日は基本的に移動日でした。
タオルミーナから港町メッシーナまでバスで1時間。バスごとフェリーに乗って本土へ渡り、更にバスで6時間かかってアルベロベッロへ着きました。

メッシーナはシチリアの玄関口です。一時期、サッカーの柳沢や小笠原がこの地のチームに所属していましたので、名前だけは記憶にありましたが、イタリアとしては田舎町だと思います。
対岸との距離は一番狭いところでは3kmしかなく、橋を架ける計画もあるようですが、別の日に会ったシチリア人のガイドは、橋は要らないと言っていました。



途中の町で、アグリツーリズモと呼ばれる農園民宿に立ち寄り昼食を採りました。
基本的には自家製の食材による郷土料理ということで、写真で見るように、盛り付けはイマイチですが、味は中々のものでした。写真の他にサラダとデザートが付き、写真の肉は羊ですが、お替りはスペアリブでした。また、青い瓶は自家製のワイン(紅白)ですが、無料で飲み放題でした。
経営者が肉やワインのお替りを熱心に奨め、頼むと嬉しそうに持ってきてくれるのがとても印象的でした。



アルベロベッロに着いたのは夕方ですが、近づくにつれ車窓からトゥルッリと呼ばれる円錐形の屋根を持つ家が沢山見られました。
この辺りは、敷地の境界も積み上げた石でできているように、加工し易い石が豊富に取れるのだそうです。こうした風景から、トゥルッリが保存観光資源ではなく、今も実際に使われている建築様式であることが窺えました。



街の中心部にはトゥルッリが集中している地域がありますが、観光資源として保護・保存しているのではないかと思います。
近代的な建物の上に、トゥルッリの屋根を載せたような建物も多く見られました。


今はどうか知りませんが、昔は住民が自分で石を採り、加工したものを積み上げて自分の家を造ったのだそうです。本来の造り方によれば、石を積み上げるだけで、下から支えるものは何も無いそうです。


教会の屋根もトゥルッリになっていました。


下の写真は翌朝撮ったものですが、宿泊したホテルにある、“離れ”といった感じのトゥルッリです。
ガイドブックによれば、トゥルッリは冬暖かく夏は涼しいと書いてありますが、ツアーのオプションプランでこの部屋に泊まった仲間の話によりますと、ストーブを焚いても寒かったそうです。(当日の夜は特に寒くはなかったのですが・・・)
コメント (5)
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