工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

ティレル020の終わらない戦い

2020年10月25日 | 自動車、モータースポーツ
 ティレル020は1991年のF1シーズンのためのマシンでしたが、翌年も、さらに次の年も使われることになりました。1992(平成4)年シーズンにはホンダのエンジンからイルモアV10エンジンにスイッチ、タイヤもピレリの撤退でグッドイヤーのワンメイクとなり、ティレルもグッドイヤーを履くことになります。
 ドライバーも一新されました。「壊し屋」の異名を取ったA.デ・チェザリスがジョーダンから移籍したほか、オゼッラ、AGSといった予選通過もままならないチームで苦闘していたO.グルイヤールが加入しました。
 ティレル020Bとなった92年のマシンは紺色と白色の塗装で、スポンサーもだいぶ少なくなりました。イルモアエンジンがホンダよりも軽量だったこと、またグッドイヤータイヤのパフォーマンスが安定していたこともあり、意外な好走を見せました。入賞できたのはデ・チェザリスだけでしたが、日本GPの4位入賞を筆頭に4度の入賞を果たしました。92年日本GPは表彰台をトップ3チームのセカンドドライバー(パトレーゼ、ベルガー、ブランドル)が占めるという意外な結末でした。私は各ドライバーの鈴鹿との相性などから、この結果もあるかも、とちょっと思っていましたし、4位のデ・チェザリスというのも予選の段階で可能性としてはあるのではと予想していましたので、テレビ観戦だけでそこまで予想できるようになったことは、自分もファンとしてちょっとは成長できたかな、と勝手に思ったものです。このレースに関してはいずれ機会をあらためて書きたいと思います。
 なお、前年までティレルのマシンを駆ったモデナはジョーダンに移籍します。この年のジョーダンは前年の快進撃を支えたフォードV8から、ヤマハのV12エンジンにスイッチしました。しかし、マシンは前年の正常進化型で、そこに大きくて重いエンジンを載せたら、というどこかで聞いた話が繰り返され、モデナは入賞1回でシーズンを終え、F1から去っていきます。
 余談になりますが、この年からフットワーク・無限のマシンを駆っていた鈴木亜久里は中団グループでティレルのマシンと戦っていました。グルイヤールやデ・チェザリスと絡んでリタイヤ、という残念なレースもあって「グルイヤールがさぁ・・・」、「チェザリスがさあ・・・」とピットレポーターの川井一仁氏によくぼやいていました。ただ、中団グループのマシンと言うのは前に出ようとどうしても必死になりますから、こういったアクシデントも起こりがちで、そこから抜け出すことが大事なんだ、とも亜久里さんは言っており、このあたりは今も変わらないように思います。その亜久里さんは一昨年の日本GPのトークショーの場ではデ・チェザリスを「ベストオブ変な奴」と称しておりました。もっともこれはコース上の、という意味で、マシンを下りるととてもいいやつ、とも評しています。デ・チェザリスはマシンを壊す、アクシデントを起こす、とトラブルメーカーのように言われていましたが、キャリアの最後の数年になるとそういった「粗さ」も少なくなり、評価されるレースもありました。
 そして1993年、ティレルはヤマハのV10エンジンとジョイントします。グルイヤールの代わりに、日本たばこのスポンサーとともに片山右京が加入します。マシンについては序盤戦のみ020を使う、ということだったらしいのですが、資金不足などもあり、結局前半戦を3年目のマシンが020Cとして戦うことになりました。1970年代の名車、マクラーレンM23やロータス72、ティレル007などは改良を受けながら複数のシーズンを戦いましたが、この時代に3シーズンにまたがって使われたマシンは無かったと思います。93年には多くのチームがセミオートマチックギアを投入しただけでなく、車高を一定に保つ「アクティブサスペンション」も装備していました。残念ながらティレル020Cはそういった装備とも無縁でした。カウルを開けたら「中嶋悟」とサインがしてある、なんていうジョークが私の周りでも話されていました。後半からニューマシンの投入があったものの、この年は一度の入賞もありませんでした。この年のティレル(と片山右京)の苦闘ぶりはテレビで見ていてもよく分かるものがあり、GPCarStory誌上のインタビューでも右京さんは「戻りたくないシーズン」と言っていることからも、やはり辛いシーズンだったということでしょう。ただ、ヤマハのエンジンに関しては1993年のシーズンを通して進歩を続けており、翌1994年にティレル・ヤマハが躍進できたのも、そういった下地ができていたからだったようです。
 
 さて、話を1991年に戻しましょう。F1ブームのピークだったあの頃の個人的な思い出をひとつ。鈴鹿ラストランでリタイヤした中嶋選手に声を詰まらせてインタビューする川井一仁リポーターと、それに淡々と答える中嶋選手という物真似なども仲間内で受けたものです。私が「中嶋さん」の真似をして、友達が「川井ちゃん」に扮するのですが、男女問わず受けていたのであの場面をテレビで見ていた人が多かった証拠でしょう。
 また、以前ご紹介した短編小説集「紺碧海岸」(松本隆著)も、1991年のシーズンのエピソードがその半数以上を占めています。秋の夜長に、ページを繰りながらあのシーズンを思い返すというのもいいかもしれないですね。もしかしたら、このブログの読者の方々の中には「歌手」中嶋悟の「悲しき水中翼船」のCDを引っ張り出している方もいらっしゃるのでは、と思います。
 三回に分けてひとつのマシンとその周辺の話を書いてまいりました。そろそろチェッカーフラッグといたしましょう。
 今日(10月25日)は1992年に日本GPの決勝が行われた日ですが、現在のF1ではポルトガルGPの決勝が行われ、ルイス・ハミルトン選手がM.シューマッハの持つ通算勝利記録を塗り替えました。おめでとうございます。現在と過去を行きつ戻りつ、ファンはレースを楽しんでおります。
 

1992年日本GPのプログラムの表紙(上)とティレルチームを紹介するページ

ティレル020Cは1995年パシフィックグランプリで展示されていました。この時点で2年前のマシンが無造作に展示されていて、少々拍子抜けしたものです。フィルムカメラで撮ったものをデジカメで撮り直していますので、ご容赦ください。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ティレル020と1991年... | トップ | 青い森を行こう »
最新の画像もっと見る