工作台の休日

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誰が乗っても勝てたマシン、だったのか  ウィリアムズFW15C

2023年09月21日 | 自動車、モータースポーツ
 いよいよF1の日本GPがやってきます。東京・歌舞伎町で20日にはドライバー、関係者が出席するイベントも開催されたとかで、東京の繁華街でこうしたイベントも珍しいですね。場所が東急の歌舞伎町タワーの一帯らしいですが、私も何度か足を運んだ映画館のミラノ座とか、私はさすがに行ったことはありませんでしたが、終電を逃したサラリーマン諸兄の救世主であり、夜の商売の方々のオアシス、グリーンプラザ新宿とかがあった跡にできた施設のことらしいですね。あの近くの病院で生を受けた者としましては、勝手に高層ビル建てるんじゃ・・・なくて街の移り変わりに深い感慨を抱くのであります。せっかくだからF1ドライバー、関係者の方々におかれましては、オスローバッティングセンターで汗をかいて、サブナードの「バンビ」でステーキやハンバーグを食べるとか、新宿らしい過ごし方をしていただきたいものです。
 それはともかく、今日は30年前のF1マシンの話になります。三栄の「GP Car Story」が夏にウィリアムズFW15Cを特集していました。アラン・プロストが四度目のタイトルを決めて引退したマシンでもあります。もともとは1992年用に開発を進めていたものの、1992年は前年型マシンの改良型という位置づけだったFW14B(と特にドライバーのマンセル)が圧倒的に強く、初めからハイテクマシンとして設計されたFW15Cの投入が翌年に後ろ倒しにされたといういきさつがあります。

 この年のマシンはいわゆる「ハイテクマシン」の最後のシーズンでもあり、アクティブサスペンション、セミオートマチック、トラクションコントロール、パワーアシストブレーキ・・・と当時の技術で行きつくところまで行きついた感がありました。マクラーレンがセナの奮闘もあってシーズンを盛り上げた話はMP4/8の号を紹介した際に書きましたが、ウィリアムズ・ルノーが速くて強いのは当たり前で、エースのプロストや実質デビューイヤーだったヒルの好走より、特に日本では劣勢のセナが健闘した方が注目を集めていました。
 本書はいつもどおり、ドライバー、チーム関係者のインタビュー等を中心に構成されていますが、アラン・プロストはマシンに関するインタビューを断ったそうで、マシンの印象については過去の記事の再構成となっていました。慣れないハイテクマシンを手なずけるのはやはり容易ではなかったのか、タイトルは獲れたけど簡単な道のりでなかっただけに、それを思い出し、自身の中で評価するのは辛い行為と思ったのでしょうか。実質デビューのヒル、と書きましたが、前年はウィリアムズの実走テストを繰り返していたので、ウイリアムズのアクティブカーを知り尽くしていました。ドライバーとして結果的にブラバムチームの最後を見届けたのですが、予選通過もままならない状況で、往年の名ドライバーの息子という名前が重荷になっているようにも見えました。ウィリアムズでレースを戦えるようになったのも、マンセルが突如引退を発表、92年にマンセルのチームメイトだったパトレーゼは既にベネトンと契約し・・・ということでチームにとっても背に腹は代えられない決断だったようです。日本のジャーナリストの中には当時、ヒルの起用に懐疑的な見方をする人もいましたが、私は実走テストをたくさん積んでいるドライバーなのだから、一番マシンに詳しいだろうし、パトレーゼほどの経験はないけど、プロスト、セナの後ろくらいは走れるだろう、と思って見ていました。実際、3勝を挙げてドライバーズランキングで3位に入っています。
 92、93年のウィリアムズというとアクティブカーというイメージが先行しますが、アクティブサスペンションそのものはAP社の技術を引き継いだものだそうですし、それ以外にもボタン一つで車のリア側の車高を下げるデバイスなど、速く走るためのギミックがいくつもついていたようです。無段変速機についてもテストされていたと聞きます。やはり93年にテストを担当したD.クルサードもこういったさまざまなデバイスをテストするのが楽しかったと語っていて、男の子がたくさんボタンとギミックのついたラジコンか何かで遊んでいるような印象を受けました。
 また、チームの技術分野のトップで、オーナーのフランク・ウィリアムズの右腕だったパトリック・ヘッドはこのマシンについて「デザイナーのエイドリアン・ニューウエイだけでなく、技術分野のスタッフの勝利でもある」と言いたげです。FW14以降のマシンはどうしてもニューウェイの空力を重視したマシンデザインの功績が語られがちですが、今よりも限られた数のスタッフが一人何役も働きながらマシンを作り上げた様子が語られています。さまざまなものがセンサやコンピュータで管理されたマシンのはしりではありますが、それでも今よりはるかに容量の少ないコンピュータで処理されていたわけで、それであれだけ速く、安定したマシンが作れるというのはチームの総合力の高さがなせる業なのでしょう。30年前と言えば私の職場でもPCが使われ始め、エクセルの1シート分の仕事を5インチFDやようやく導入された3.5インチFDで処理していた頃なので、当時のエンジニアたちの語るハイテクの現場を何か懐かしい思いで読みました。当時のエンジニアたちもその後他のチームでも活躍し、F1界ではよく名前を聞く人たちばかりとなっており、ここでの成功が、後々まで生きているのだなと思います。
 ルノーのエンジンとのマッチングについてもルノー側のリーダー、ベルナール・デュドが「もはや一つのチームのよう」、「トラブルがあったときだけ話題になる」ということで、その少し前に同じような関係を築いたマクラーレンとホンダの関係を思わせました。
そして、このマシンというとドニントンで開催されたヨーロッパGPでセナに惨敗したレースがどうしても取り上げられるわけですが、この敗因についても意外なところにあり、読んでのお楽しみというか、実はとてもシンプルな理由ではあるのですが、これは私も知りませんでした。
 この年はこうしたハイテクマシンが活躍する一方で「持たざる者」との格差も開いていました。また、人間のミスではなく、機械の側の不調でスタートできないとか、下手をするとサスペンションがグリッド上で勝手に動き出すといったトラブルを起こしたチームもありました。技術の進歩そのものは悪いことではありませんが、1993年シーズンでこれらのハイテクは禁止、となってしまいました。規制が加えられた当初は、技術の進歩が行きつくところまで行きついてもいいことはない、というスタンスからか、歓迎する見方もあったように覚えています。1994年用のマシンもハイテク存続のつもりで設計が進んでいた中での規制だったため、苦労を強いられたようですが・・・。技術の進歩とそれに対する規制はF1では常に起きることで、今日に至るまでこうしたことは何度も経験していますが、あの時代の方がまだ、規制の内容が目で見て分かるもの、だったように感じるのは、私の感性が若かったからなのでしょうか。
 そんなわけでハイテク最強マシンの本について触れてきましたが、やはり王座につくマシンというのは、優れた技術とバランスのとれた設計、信頼性があってこそで、それができていた上にパワーもあったということで、そのマシンの力を引き出すことができたプロストとヒルもやはり立派であった、と言うべきでしょう。つまらないくらいに強いマシンで、どんな話が聞けるかな、と思いましたが、なかなか興味深い話ばかりで、収穫の多い一冊でした。本書では昔を振り返っての話が多くなるわけですが、当時のインタビューについては今はなくなってしまった雑誌「F1倶楽部」の第3号「ハイテク」でパトリック・ヘッド、エイドリアン・ニューウエイらのインタビューを読むことができます。F1倶楽部では「前口上」にもFW15Cが登場し、往年の名車たちとバトルを繰りひろげるはずが・・・という一節があります。

(1993年シーズン、フジテレビの中継ではプロストが勝つとT-SQUAREの「明日への扉」(アルバム「HUMAN」より)が、ヒルが勝つと是方博邦さんの「HEART OF EARTH」(アルバム「KOREKATA}より)が流れていました。ちなみにヒルはレースの道に本格的に進む前にギタリストをしていた時期もありました。

 さて、このブログも6年目に入っております。あれが書きたい、これも書きたいとは思いつつも、本業もありますし、模型の製作そのものもございます。こんな文章ばかりのブログをお読みいただけるというのも感謝の念に堪えません。これからもどうぞよろしくお願いします。


 



 
 
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