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工作台の休日

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レパントの海戦に参加したサムライの話 その2

2024年04月01日 | 日記
(前回から続く)
日本から長い時間をかけてヴェネツィアに辿り着き、蛭子十郎太から「アゴスティーノ・イルコ」と名乗るようになった青年は、ヴェネツィア人として生きていた。肌の色の違う彼を、ときに地元の人々は好奇の目で見ていたが、ヴェネツィアの言葉も、ラテン語やギリシャ語の一部、中東で話される言葉もカタコトなら解していたので、単に使用人以上の存在とみなされるようになっていった。彼もまた、活版印刷が盛んなヴェネツィアで書物を手にすることが増え、さまざまな「情報」に触れていた。ただ、イルコ自身は出自や肌の色が違う人たちに親近感があったようで、ゴンドラを漕ぐ黒人奴隷や、やはり異国からやってきた船乗り、商人たちとも言葉をよく交わしており、その行動はヴェネツィアの情報機関「十人委員会」からも監視の対象にはなっていたが、好ましからざる人物ではなかった、と当時の報告書に記載がある。
やがて、ヴェネツィアとオスマントルコの間が風雲急を告げるようになった。オスマントルコがヴェネツィア領だったキプロスを攻略、激しい攻防戦の末に陥落せしめたのだった。オスマントルコの勢力は欧州にも影を落とすどころか、16世紀にはウィーンの近くに迫ったこともあった。ここで紆余曲折はあったものの、対トルコの同盟を欧州諸国が結び、連合艦隊が組まれることとなった。そうは言っても艦船の多くは当時第一の海運・海軍国だったヴェネツィア共和国が提供した。

(海軍史博物館のレパントの海戦の部屋に展示されているガレー船の模型)
 こうして1571年10月に起きたのが、キリスト教国の艦隊とオスマントルコの艦隊が激突した「レパントの海戦」だった。アゴスティーノ・バルバリーゴも指揮官の一人としてガレー船に乗り込んでいた。そして傍らにはアゴスティーノ・イルコもいた。当初、バルバリーゴはキリスト教国の連合艦隊に異教徒のイルコを入れることには積極的ではなく、本国に置いていこうとしたが、イルコは「仕えた家に忠義を尽くすのが武士である」と譲らず、緋色の船体のガレー船に乗り込んでいた。その姿はどこか日本の武士のようにも見えたが、違うのは彼が上半身に西洋式の甲冑を身につけていたことで、銀色に鈍く光っていた。兜は一見日本のそれのように見えるが、やはり金属製で、前にはバルバリーゴ家の紋章が入っていた。両腕は鎖帷子のような装甲の上にさらに追加された装甲で覆われ、足はわらじではなく、さすがに革でできた靴だったようである。
 当時の海戦は大砲、鉄砲、弓矢といった飛び道具だけでなく、船から相手の船に乗り込んでの白兵戦もしばし行われた。バルバリーゴ率いる艦隊の左翼とて同じでトルコの有力な海賊の一人シロッコ率いる艦隊と激しい交戦となった。そんな中、バルバリーゴを一発の銃弾が襲った。それを見たイルコは、シロッコの船に飛び乗り「狙うはシロッコが首のみ」と叫び、刀を抜いて敵の中に飛び込んでいったという。シロッコはこの時の戦闘が元で、数日後に亡くなった。トルコの軍船の中には彼と同じような肌の色をした青年がいて、捕虜となったという。

(ガレアッツアと呼ばれる大砲を装備した大型のガレー軍船の模型。海軍史博物館にて)

 その後、イルコがどこに消えたのか、その行方は杳として知れない。イルコは戦闘を生き延びたと言われているが、主人のバルバリーゴが戦死したことで居づらくなったと感じたのか、ヴェネツィアの街で彼を見たものは居なかったという。彼を慕うダルマツィア出身の船乗りや、捕虜となっていた後にイルコの手引きで「解放」されたイルコと同じ肌の色の男とともに、細身のガレー船を駆り、アドリア海で交易と海賊のようなことをしていたという説もあれば、このあと10数年後に起きたアルマダの海戦でイギリス側にいた、という説もある。
 そんな話、噂やウソに決まっているではないか、とおっしゃる方もいるだろうが、ちょっと待ってほしい。ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレ(元首官邸)にある「国会議事堂」に相当する大評議会の間には、レパントの海戦を描いた大きな絵画が飾られている。その中に武士のような恰好をした兵士が描かれているのを見ることができる。また、同じ建物に16世紀頃の武具などを展示した部屋があるが、そこには日本の火縄銃(短筒)のような銃器が展示されているのである。

(右手前・ピンクの建物が元首官邸)

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