箱館の歴史
幕末、安政6年6月2日(1859.7.1) 箱館開港。
それ以前、江戸後期(18世紀の最後半から19世紀前半)の箱館は、
高田屋嘉兵衛と高田屋を中心に回っていた。
高田屋屋敷跡
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/c8/65c2fde4f9825b618d1d013523f96b0a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/1d/b2788504017a3aedb2b1b4759924b161.jpg)
(案内板の内容)
高田屋屋敷跡
箱館の発展は、高田屋嘉兵衛によってその基礎が築かれたといっても過言ではない。
明和6(1769)年兵庫県淡路島に生まれた嘉兵衛は、寛政8(1796)年28歳のとき箱館に渡り、以来、文政元(1818)年郷里に帰るまで、箱館を拠点にして回漕業や漁場経営などで巨額の富を得た。
嘉兵衛は、国後および択捉両島の漁場を開拓し、北洋漁業の先駆者として歴史に名をとどめたばかりでなく、公共事業や慈善事業に大きな功績を残した。
高田屋の全盛は、寛政13(1801)年に嘉兵衛のあとを継いだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が、幕府の許可を得てこの地域5万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃である。その規模は、敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸宅には山を築き、池を作り、また高価な石が置かれていた。
市内にはほかに高田屋嘉兵衛の銅像(宝来町)や、大町の高田屋本店跡(標柱)があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や嘉兵衛顕彰碑がある。
函館市
高田屋嘉兵衛の像と日露友好の碑
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(案内板の内容)
高田屋嘉兵衛銅像
この銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33(1958)年に建てられた。制作者は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。
嘉兵衛は明《和6(1769)》年に淡路島で生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元(1818)年に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開拓し、函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。
さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。 この像は、文化10(1813)年、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。 右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。
函館市
〇高田屋嘉兵衛の略歴から始めて、業績を振り返りたいのだが、他で数えきれぬほど紹介されている。深みにはまって先へ行けなくなる予感なのでやめた。また改めて。
〇嘉兵衛の弟で後継者、高田屋金兵衛の「密貿易の疑い」「没収」「没落」の記述が、どこも一緒なのには、いささかうんざりしてしまう。嘉兵衛を支えた高田屋金兵衛の復権を願っている。
経緯の詳細については、HP 『函館市史』デジタル版 が参考になる。
「通説編第1巻 第3編 第4章 松前家の復領と箱館」に、窮乏・松前家のお家事情と松前御用商人。そして箱館・高田屋を没落へと追い込み、また追い込まれていく事情が記されている。
〇高田屋嘉兵衛(それと高田屋金兵衛も)と最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵、伊能忠敬等との接点、交流の有無については、とても気になる。
幕末、安政6年6月2日(1859.7.1) 箱館開港。
それ以前、江戸後期(18世紀の最後半から19世紀前半)の箱館は、
高田屋嘉兵衛と高田屋を中心に回っていた。
高田屋屋敷跡
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(案内板の内容)
高田屋屋敷跡
箱館の発展は、高田屋嘉兵衛によってその基礎が築かれたといっても過言ではない。
明和6(1769)年兵庫県淡路島に生まれた嘉兵衛は、寛政8(1796)年28歳のとき箱館に渡り、以来、文政元(1818)年郷里に帰るまで、箱館を拠点にして回漕業や漁場経営などで巨額の富を得た。
嘉兵衛は、国後および択捉両島の漁場を開拓し、北洋漁業の先駆者として歴史に名をとどめたばかりでなく、公共事業や慈善事業に大きな功績を残した。
高田屋の全盛は、寛政13(1801)年に嘉兵衛のあとを継いだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が、幕府の許可を得てこの地域5万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃である。その規模は、敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸宅には山を築き、池を作り、また高価な石が置かれていた。
市内にはほかに高田屋嘉兵衛の銅像(宝来町)や、大町の高田屋本店跡(標柱)があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や嘉兵衛顕彰碑がある。
函館市
高田屋嘉兵衛の像と日露友好の碑
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(案内板の内容)
高田屋嘉兵衛銅像
この銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33(1958)年に建てられた。制作者は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。
嘉兵衛は明《和6(1769)》年に淡路島で生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元(1818)年に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開拓し、函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。
さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。 この像は、文化10(1813)年、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。 右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。
函館市
〇高田屋嘉兵衛の略歴から始めて、業績を振り返りたいのだが、他で数えきれぬほど紹介されている。深みにはまって先へ行けなくなる予感なのでやめた。また改めて。
〇嘉兵衛の弟で後継者、高田屋金兵衛の「密貿易の疑い」「没収」「没落」の記述が、どこも一緒なのには、いささかうんざりしてしまう。嘉兵衛を支えた高田屋金兵衛の復権を願っている。
経緯の詳細については、HP 『函館市史』デジタル版 が参考になる。
「通説編第1巻 第3編 第4章 松前家の復領と箱館」に、窮乏・松前家のお家事情と松前御用商人。そして箱館・高田屋を没落へと追い込み、また追い込まれていく事情が記されている。
〇高田屋嘉兵衛(それと高田屋金兵衛も)と最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵、伊能忠敬等との接点、交流の有無については、とても気になる。