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籠池氏が映し出す愚民政策

2017年03月26日 01時47分09秒 | 考え事
籠池氏の証人喚問をテレビのワイドショーなどでやっているのを見ながら
思ったのは、国会がここまで国民をバカにしているとは、ということだった。
なぜこうなってしまったのかを考えてみたが、
この責任は政治とテレビの共犯関係にありそうだ。

テレビは「政治は難しい」「わかりやすい政治」を
ずっと訴えかけてきた。
政治記者(もしくは政治評論家という謎の職業)が自分の仕事を作るための
ポジショントークにまんまと乗ってきたのかもしれない。

政治がわかりにくいのは、政治家のレベルが低く、
その政治家は更にレベルの低い国民からしか生まれない
ということに原因があることは明白である。
さらにバカな政治家を監視するバカなマスコミもバカな国民からしか生まれない。
この悪循環の無限ループ。

そもそも、政治というのは国家100年の計を念頭にどういう国家を
つくっていくのかを語るところから始まる。
現在の政権には謎の「美しい国」という三流キャッチコピーしかないが
本来はきちんとした方向性(コンセプト)が示されなければならない。

そしてコンセプトを実現していくその先には、国民一人一人が金銭的に儲かるように
新たな産業や、既存の産業で儲けが出るということの実現が必要である。
この国民一人一人がお金持ちになることを国益といい、
この国益こそが国という体制が維持される理由である。

戦争に勝つことや、防衛力を高めることが国益ではない。
それは、お金持ちになるという国益を達成するための手段として戦争や防衛力が
必要ならばそれを手段として行う、という打ち手の話である。
アメリカはプラグマティズムの国なので国益に人一倍敏感で、トランプを含む
歴代大統領はまさに国益の為に政治を行ってきたが、
トランプはあまりに国益を直接的に達成しようとしているので騒ぎが起きている。

オバマまでの歴代政権は、仕事を選んで自分のプライドと良識に沿った仕事を行い
対価を金融機関に振り込んでもらっているイメージだが、
トランプはどんな仕事でもやって現ナマを素手で受け取って帰るみたいな
イメージだ。

話を戻すと、「難しい」「わかりにくい」と言われた日本の政治は
マスメディアと一体し、見世物(サーカス)となってしまった。
戦後、高度成長期を経て裕福になっていき、パンを自由に買えるようになった国民に
提供する必要があったのはサーカスである。
それが大相撲でありプロ野球であり、映画・テレビ番組であった。

中でも強烈だったのは、1世帯に1台以上普及したテレビである。
テレビという装置は、全てをサーカス化した。
ニュース、スポーツ、ドラマやバラエティから始まったテレビは
いつの間にか芸能人のゴシップや社会問題も取り込み、陰鬱な事件
さえもサーカス化した。

その行き着いた先が政治のサーカス化だ。
本来は、為政者が国民をコントロールするために、パンとサーカスを与えるわけだが、
日本では為政者が自身と自身らの活動をサーカス化するという究極を行った。
行き着く所まで行き着いたのだ。

この究極の愚民政治は、政治自体をサーカス化し国民の娯楽の対象とすることで
国民が政治を見ているようで見ていない、
国民が政治を聞いているようで聞いてない
国民が政治に関わりを持っているようで関わりを持っていない状態にしたのだ。

「愚民主主義政治」とも言うべき新たな政治形態は、「単純」で「わかりやすい」ことが
第一に求められる。テレビでフリップで説明しやすいようにし、コメンテーターが
コメントしやすく、番組として成立するものが求められる。
だから、個人名を出して悪いが、山本太郎議員などはマスコミに嫌われるのだ。
なぜなら、テレビのコンテクストから平気でハミ出し、番組にしにくいから。
一方、橋下徹氏は、過激なことを言うようで、絶対にテレビの枠から逸脱しない。
だから深夜とは言えキー局で自分の番組を持てる。

マスコミもさすがにウソは流さないが、政治については視聴率アップがありそうな
ものを取り上げ、そうでないものは取り上げない。重要さは関係ない。
今回、籠池氏に関連する一連の出来事は、どうでも良いことを沢山の時間とりあげ
テレビで流している。それに政治側も乗っかり動いている。

一方、「共謀罪」と言われていた法律は何の反対もなく閣議決定までいっている。
自衛隊のシビリアンコントロール無視についても全く音沙汰なし。
(自衛隊に関しては、省のトップが3流なのでしょうがない側面もある)

このサーカス化した政治は、どこに行くのか。
しばらく「テレビの中の出来事」という浮遊感のまま、進んでいくだろう。
そして有権者というより視聴者である我々は、ある日突然、テレビの外で
身体的に起こる現実に気がつく日がくるのだ。
視聴者ではなく、日本国民として、我々は何をしてきたのだろうかと。


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