いまCOVID-19の騒ぎの中で起きているのは、知性vs反知性の戦いです。
学校一斉休校を根拠なく決める安倍総理。
それを無条件に支持して「一億総火の玉」と従う人々。
明らかに最高学府での教育が失敗している証左と言えます。
簡単に言うと、エビデンスをベースにした論理的・理性的判断というものを
最高学府で習うのですが、それすら会得せずに卒業し(卒業させてしまい)
バチュラーを名乗る人が非常に多い、という事です。
Fラン大学がどうこうじゃないです。
日本の最高学府全体がおかしなことになっているというか、
元々、そんなもんだったのかも知れませんが、とにかくマズい。
エビデンスをベースにした論理展開と理性的な判断というのは、
抽象化すると、「反証可能性」という概念で言い表すことが出来ます。
オーストリアのカール・ポパーが掲げた有名な考え方です。
彼は誰でも知っている有名な(科学)哲学者ですが、教え子には何と
オマハの賢人ジョージ・ソロスもいます(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)。
さて、この「反証可能性」とは何かと言うと、反論出来ない理論はサイエンスではない、
という事です。
何かを主張します。その主著に対して反証/反論出来ないというのは、
その主張自体がサイエンスではなく、オカルトである、ということなのです。
安心の為にマスクをする。
心配だから検査したい。
COVID-19が恐ろしい。
安倍総理が言ったから。
全てがオカルトです。
反証が出来ません。
そう言われてしまったら、
「そうだよねー」
「うっせー、バーカ」
「いや、あり得ないでしょ」
くらいしか返す言葉は存在しません。
これが反知性です。
キチンとしたエビデンスがあって、そのエビデンスを元に論理展開をして
過去の事例に照らし合わせて、最後は責任を持って理性的判断を下す。
これが知性です。
「反証可能性」のあるサイエンスです。
これの何が良いかと言うと、この枠組で物事が進んでいる限り、事後に検証が
可能になります。そして検証する時は、その判断を下した人間を槍玉に上がるのではなく、
その唱えた説や判断そのものについての検証が出来るのです。
結局、反証可能性がないと、結果が悪かった場合「安倍が悪い」「アベ政治を許すな」
というこれまた反証可能性がない主張が上がってくることになり、非生産的な
罵り合いになってグズグズになるのです。
逆に結果が良かった場合「安倍総理だから出来た英断」と言われて、これも
「反証可能性」がないまま、「安倍総理だから出来た」ということになって神格化され
傍若無人なリーダーが生まれ、権力が腐敗するのです。
この反知性というものの問題は、積み重ならない、鍛えられないというところにあります。
その人が唱えた理論について、いろいろな人の目が入り、ツッコミを受けることで
ロジックがどんどんと鍛えられ、強化されて行きますし、その言い出しっぺや
ツッコミを入れている人達も、鍛えられ、結果として、それに関わる人と理論、
全体のレベルが上がっていくのです。
このような知的な営みが出来ないというのは、最高学府の教育の失敗であり
(自身も教育者ではありますが)小幡績が喝破した「日本オワタ」という話につながるのです。
そしてこの反知性というのは、いつか来た道。
先の大戦で日本が負けた本質的な原因なのです。
(このあたりは「失敗の本質」を読んでみて下さい)
いまCOVID-19騒動で起きていることは、知性と反知性の戦いです。
未知なもの、目に見えないものに対する不安や恐怖など、わかります。
だからこそ、我々は知性を持ち、自分で考え、医療者や科学者などの
専門家の話を聞き、更に考えた上で、エビデンスに基づいた理性的な判断と行動を
していかなければなりません。
決して「反証可能性」のない反知性に負けてはいけません。
世界は見ています。
学校一斉休校を根拠なく決める安倍総理。
それを無条件に支持して「一億総火の玉」と従う人々。
明らかに最高学府での教育が失敗している証左と言えます。
簡単に言うと、エビデンスをベースにした論理的・理性的判断というものを
最高学府で習うのですが、それすら会得せずに卒業し(卒業させてしまい)
バチュラーを名乗る人が非常に多い、という事です。
Fラン大学がどうこうじゃないです。
日本の最高学府全体がおかしなことになっているというか、
元々、そんなもんだったのかも知れませんが、とにかくマズい。
エビデンスをベースにした論理展開と理性的な判断というのは、
抽象化すると、「反証可能性」という概念で言い表すことが出来ます。
オーストリアのカール・ポパーが掲げた有名な考え方です。
彼は誰でも知っている有名な(科学)哲学者ですが、教え子には何と
オマハの賢人ジョージ・ソロスもいます(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)。
さて、この「反証可能性」とは何かと言うと、反論出来ない理論はサイエンスではない、
という事です。
何かを主張します。その主著に対して反証/反論出来ないというのは、
その主張自体がサイエンスではなく、オカルトである、ということなのです。
安心の為にマスクをする。
心配だから検査したい。
COVID-19が恐ろしい。
安倍総理が言ったから。
全てがオカルトです。
反証が出来ません。
そう言われてしまったら、
「そうだよねー」
「うっせー、バーカ」
「いや、あり得ないでしょ」
くらいしか返す言葉は存在しません。
これが反知性です。
キチンとしたエビデンスがあって、そのエビデンスを元に論理展開をして
過去の事例に照らし合わせて、最後は責任を持って理性的判断を下す。
これが知性です。
「反証可能性」のあるサイエンスです。
これの何が良いかと言うと、この枠組で物事が進んでいる限り、事後に検証が
可能になります。そして検証する時は、その判断を下した人間を槍玉に上がるのではなく、
その唱えた説や判断そのものについての検証が出来るのです。
結局、反証可能性がないと、結果が悪かった場合「安倍が悪い」「アベ政治を許すな」
というこれまた反証可能性がない主張が上がってくることになり、非生産的な
罵り合いになってグズグズになるのです。
逆に結果が良かった場合「安倍総理だから出来た英断」と言われて、これも
「反証可能性」がないまま、「安倍総理だから出来た」ということになって神格化され
傍若無人なリーダーが生まれ、権力が腐敗するのです。
この反知性というものの問題は、積み重ならない、鍛えられないというところにあります。
その人が唱えた理論について、いろいろな人の目が入り、ツッコミを受けることで
ロジックがどんどんと鍛えられ、強化されて行きますし、その言い出しっぺや
ツッコミを入れている人達も、鍛えられ、結果として、それに関わる人と理論、
全体のレベルが上がっていくのです。
このような知的な営みが出来ないというのは、最高学府の教育の失敗であり
(自身も教育者ではありますが)小幡績が喝破した「日本オワタ」という話につながるのです。
そしてこの反知性というのは、いつか来た道。
先の大戦で日本が負けた本質的な原因なのです。
(このあたりは「失敗の本質」を読んでみて下さい)
いまCOVID-19騒動で起きていることは、知性と反知性の戦いです。
未知なもの、目に見えないものに対する不安や恐怖など、わかります。
だからこそ、我々は知性を持ち、自分で考え、医療者や科学者などの
専門家の話を聞き、更に考えた上で、エビデンスに基づいた理性的な判断と行動を
していかなければなりません。
決して「反証可能性」のない反知性に負けてはいけません。
世界は見ています。