ZOZOとランチパックの件ですが、本人達含めていろんな人がSNSの炎上を
勘違いしているので書いておきます。
基本的にSNS上では炎上しても大した話ではないですし、
よっぽどのこと(犯罪的・反社会的)をしないかぎり炎上はなかなかしません。
炎上はSNSをマスメディアが報じることで大事(おおごと)になるのです。
今回のZOZOとランチパックも、元々は大した話ではなかったのに
インスタのロシア写真に数人がコメントしたことを、さも世の中の全員が
同じように思っているかのように大げさに「報道」して、マスコミが大炎上させたわけです。
マスコミは、その方が視聴率やクリックや部数が伸びるので、
文字通り「針小棒大」に「報道」という燃料を投下していくわけです。
彼らのロジックとしては、Instagramという本人発信の一次情報について
反応(コメント)している一般人の声を「報道」している、という考え方です。
ZOZOとランチパックは、SNSとの付き合い方を話し合ったと言ってましたが、
SNSが問題なのではなく、それを都合のよい方に解釈して「報道」する
マスメディアが問題なのです。
一時期の海老蔵一家の例を見ても明らかなように、こうなってしまったら、
マスメディアで全て報じられることを前提のSNSと考えなければなりません。
そうでなければ、炎上商売をしている有名人のみなさんを除いて、
SNSで炎上したくない有名人の皆さんは、最低限の炎上防止として
SNSはコメントできないように設定してから発信しましょう。
コメントが書き込めなければ、マスコミは「風」を読めず「報道」を控えます。
今回もコメントがなければ、オスカーに忖度して自分達では「風」を起こすことを
嫌がるでしょう。
しかし一般人のコメントや受け止めの書き込みがあると、マスコミ自分達発信
ではなく、「〜という声もありますが」「〜と言われていますが」と社会の声
としてオスカーに関係なく「報道」が出来るのです。
もし無理やり一般人の「風」をつくりたい場合は銀座とか新橋に行って、
インスタを見せて街ゆく人の反応を撮るということしなければならないので
よほどのネタが無い限りやりません。
つまり、有名人のSNS+一般人のコメントを見つける、というのはマスコミが
コストをかけずに記事を作れるもっとも楽な取材なのです。
これを前提にZOZOとランチパックは再度SNSとの付き合い方を話し合った方が
よろしいかと思います。老婆心ながら。
勘違いしているので書いておきます。
基本的にSNS上では炎上しても大した話ではないですし、
よっぽどのこと(犯罪的・反社会的)をしないかぎり炎上はなかなかしません。
炎上はSNSをマスメディアが報じることで大事(おおごと)になるのです。
今回のZOZOとランチパックも、元々は大した話ではなかったのに
インスタのロシア写真に数人がコメントしたことを、さも世の中の全員が
同じように思っているかのように大げさに「報道」して、マスコミが大炎上させたわけです。
マスコミは、その方が視聴率やクリックや部数が伸びるので、
文字通り「針小棒大」に「報道」という燃料を投下していくわけです。
彼らのロジックとしては、Instagramという本人発信の一次情報について
反応(コメント)している一般人の声を「報道」している、という考え方です。
ZOZOとランチパックは、SNSとの付き合い方を話し合ったと言ってましたが、
SNSが問題なのではなく、それを都合のよい方に解釈して「報道」する
マスメディアが問題なのです。
一時期の海老蔵一家の例を見ても明らかなように、こうなってしまったら、
マスメディアで全て報じられることを前提のSNSと考えなければなりません。
そうでなければ、炎上商売をしている有名人のみなさんを除いて、
SNSで炎上したくない有名人の皆さんは、最低限の炎上防止として
SNSはコメントできないように設定してから発信しましょう。
コメントが書き込めなければ、マスコミは「風」を読めず「報道」を控えます。
今回もコメントがなければ、オスカーに忖度して自分達では「風」を起こすことを
嫌がるでしょう。
しかし一般人のコメントや受け止めの書き込みがあると、マスコミ自分達発信
ではなく、「〜という声もありますが」「〜と言われていますが」と社会の声
としてオスカーに関係なく「報道」が出来るのです。
もし無理やり一般人の「風」をつくりたい場合は銀座とか新橋に行って、
インスタを見せて街ゆく人の反応を撮るということしなければならないので
よほどのネタが無い限りやりません。
つまり、有名人のSNS+一般人のコメントを見つける、というのはマスコミが
コストをかけずに記事を作れるもっとも楽な取材なのです。
これを前提にZOZOとランチパックは再度SNSとの付き合い方を話し合った方が
よろしいかと思います。老婆心ながら。