森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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「いのちの危機管理体制」はなぜできないか
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/9a/93e8564b5389d8c896813a747f81d4fc.jpg)
BSC問題、JR尼崎大惨事、エレベーター死亡事故――人々のいのちを奪う事件・事故に対して、政治家と官僚たちの当事者意識はあまりに薄い。国家として最優先すべきは行政改革ではなく、国民の「いのちの安全保障」なのである。
だが、こう主張する氏の考えとは裏腹に、政府与党は「行政改革」に血道をあげてきた。著者はこれを俯瞰して、のべている。
この国の政策課題として、行政改革が叫ばれて久しい。1990年代末の橋本内閣は、行政改革を自らの重要課題にして、大規模な省庁の統合と分割をはかった。2000年代の小泉内閣の改革とは、郵政と道路公団の分割民営化だったと、これら一連の改革の中には、旧大蔵省の財務省と金融庁への分割など、行政と金融業界の癒着を切断する有効な改革もあったが、全体としては要するに行政組織の合理化と公務員数の削減だった。
だが、行政における形式主義や国民のいのちを第一優先にしない体質を百八十度変えることをねらいにした、行政官の意識と行政組織の改革は発想すらされなかった。この国に生きる者の立場から見るなら、そういう改革こそ求めているものなのに。
この「形式主義」や「体質」は、いったいどこからくるのか。さかのぼれば中曽根内閣にもいきつく。新自由主義は「小さな政府」を主張した。この立場に立てば、氏のあげる「テロや侵略や戦争や外国における邦人の重大な危機などにたいする危機管理体制」は当然、重きを置かれる。行き着く先は「夜警国家」だと他のエントリーで私はのべた。防衛・治安はもっとも重視される分野なのだ。一方で「国民の生命・財産の尊重を憲法で謳っているのに、政府がそのために必要な制度を作っていない」という現実がある。
つまり、「いのちの安全保障」を優先課題にする立場をいまの政府は現にとっていないし軽視される。人もカネもそこに厚くあてられることはない。
その結果は、氏がのべているとおりだ。
日常の中で国民のいのちを奪う事故、災害、特異な労働災害、公害、薬害、食品中毒、新型感染症などにたいする危機管理は、省庁ごとに態勢がバラバラになっていて、政府が高い理念に沿って統一的に取り組む体制はできていない。
柳田氏に教えられるのは、40年間の事故の取材・分析をとおして、日本の事故調査のあり方に疑問を呈するだけではなく、その代替案を提起しているということだ。しかも具体的に。
事故調査というものは、指導・監督行政から独立した常設の機関が産業界との利害関係を断ったところで取り組まない限り、信頼感を得られない。本当の再発防止の勧告や提言もできない。また、犯罪捜査における捜査刑事や捜査検事のように、事故に関する特別の知識と経験と眼を持った専任の事故調査官をかかえなければ、事故原因の解明はできない、と著者はいう。この立場、要するに第三者機関の設置は今日、あらゆる事故の事実の解明と再発防止をすすめる際のいわば共通認識となっているといってよいだろう。
氏はさらに、捜査と事故調査の違いについて強調する。ようやく今日、再発防止のために事実解明を重視することが定着しつつあるように思うが、それでもまだ、ややもすれば犯人さがしに汲々する例も後を絶たない。たとえば期限切れ原料使用問題における、不二家の初期の対応をみよ。事故調査は、責任問題をとりあえず横におき、事故が起きる構造的問題や要因などをすべて洗い出し、事故の未然防止を不可能にした原因に迫り再発防止の対策をたてる目的をもっている。いのちの安全保障のためには、起きてしまった事故から得られる教訓を普遍化して生かす必要がある。
柳田氏は、「2.5人称の視点」を提案している。氏によれば、それは、被害者(一人称)や家族(二人称)の立場に立って考える、つまり自分が被害者あるいは家族だったらどうだろうか、そんな冷酷な線引き主義で対応されたらたまらないだろうと考える意識の持ち方であり、具体的な行政対応の義務のことだ。
与党と財界は格差をさらに広げようとさえしている。社会保障を例にとると、たとえば疾病さえも自己の責任であるかのように宣伝し、改悪してきた。しかし、この立場は氏の主張する「いのちの安全保障」とは相容れない。なぜなら、自己の責任に一切を帰してしまうのは、起きてしまった事故から得られる教訓を普遍化する立場と逆立ちしたものだから。
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